Side Story 1 真紅の皇女は「見えない椅子」に座り、遥かなる師の背中を追い続ける
ガレリア帝国の風は、いつだって鉄と砂の匂いがする。
帝都の中央に位置する第一練兵場。
乾いた大地の上で、私は愛剣である鉄刀木の大剣を振り下ろした。
ブンッ、という重い風切り音が響き、仮想敵として立てられた岩の柱が粉々に砕け散る。
完璧な一撃だ。
腕の筋肉は唸りを上げ、踏み込みは大地を揺らした。
周囲で見ていた兵士たちが、どよめきと共に畏敬の眼差しを向けてくる。
だが、私の心は満たされなかった。
軽い。
あまりにも、手応えが軽すぎる。
私は剣を下ろし、荒い息を吐きながら、遥か東の空を見上げた。
そこには、あの青く澄んだ空の下で微笑む、一人の女性の姿が焼き付いている。
エルナ・ヴォルフィード。
かつて私が「硝子細工」と侮蔑し、今は我が「師」と崇める、最強の公爵夫人。
彼女との出会いは、私の武人としての誇りを粉々に打ち砕き、そして新たな地平を見せてくれた。
あれから数日経った今でも、あの夜の庭園での出来事は、鮮烈な悪夢――いや、啓示として私の脳裏に蘇る。
◇
あの日、私は本気だった。
ヴォルフィード公爵邸の庭園で対峙した彼女は、月光を浴びて儚げに立っていた。
細い腕。折れそうな腰。
どこからどう見ても、ただの貴族の飾り物だ。
だが、私の本能は警鐘を鳴らしていた。
彼女が時折見せる、重心の安定感。そして、私の殺気を受けても微動だにしない――いや、気づいてすらいないような――鈍感とも取れる胆力。
私は全力の突きを放った。
岩をも穿つ、必殺の一撃。
しかし、彼女は消えた。
いや、消えたのではない。
彼女は自ら、重力に身を任せて倒れ込んだのだ。
それは武術の回避行動ではない。もっと根源的な、生物としての「脱力」だった。
私の剣圧が空を切る。
勢いが止まらない。
その瞬間、私の手首と胸倉に、柔らかくも強靭な「何か」が触れた。
指ではない。万力だ。
鋼鉄のフックで固定されたかのような、絶対的な拘束感。
視界が反転した。
空が見えた。星が見えた。
そして、スローモーションの中で、彼女の顔が見えた。
彼女は微笑んでいた。
慈愛に満ちた聖母のように、あるいはすべてを見通す女神のように。
その瞳は語っていた。
「力に頼る者は、力に溺れる」と。
気づけば私は、地面に叩きつけられていた。
呼吸が止まるほどの衝撃。
彼女は私の力を利用し、最小限の動きで、私という巨大な質量を空へと放り投げたのだ。
完敗だった。
筋力でも、速度でもない。
「理」において、私は赤子のようにあしらわれたのだ。
◇
だが、本当の衝撃は、その翌日に待っていた。
弟子入りを志願した私を、彼女は快く受け入れてくれた。
庭園のガゼボで行われた、最初の修行。
彼女は言った。「お茶をいただきましょう」と。
私は拍子抜けした。
素振りでも、組み手でもない。ただの茶会。
だが、その実態は、地獄のような精神修練だった。
彼女は椅子に座っていたが、その背筋は定規で引いたように伸びていた。
背もたれには一切触れていない。
まるで、見えない柱が彼女の体を支えているかのような安定感。
私は模倣しようとした。
椅子から腰を浮かせ、中腰の姿勢を維持する。
いわゆる「騎馬立ち」に近い姿勢だ。
きつい。
ものの数分で、大腿四頭筋が悲鳴を上げ、膝が笑い出す。
汗が滝のように流れ落ち、呼吸が乱れる。
だが、師匠はどうだ。
彼女は涼しい顔で、紅茶のカップを傾けていた。
その指先は微かに震えていた。
最初は、筋力不足による震えかと思った。
だが、違う。
ラインハルトが放った重力魔法――推定七倍の加重――の中でさえ、彼女はその震えのリズムを変えなかった。
あれは「共振」だ。
大気中の魔力、あるいは重力の波動と、自らの肉体を共振させているのだ。
あえて肉体を小刻みに振動させることで、外部からの圧力を分散し、受け流している。
高レベルの振動制御。
それを、優雅なティータイムの所作の中に隠している。
極め付けは、彼女の言葉だった。
『女のウエストは、締め上げるためだけにあるのではありませんのよ』
その言葉と共に放たれた、扇子による一撃。
あれは「寸勁」などという生易しいものではない。
コルセットで極限まで圧縮された腹圧を一気に解放し、その爆発的エネルギーを一点に集中させる。
彼女はドレスという拘束具すらも、武器に変えていたのだ。
私は戦慄した。
彼女は、生活の全てを修行の場としている。
重いドレスは加重トレーニング。
窮屈なコルセットは丹田の強化。
そして、あの過保護な夫リュカ・ヴォルフィードの「重い愛」すらも、精神的なプレッシャー耐性の訓練として利用しているのだ。
化け物だ。
いや、求道者だ。
病弱という仮面を被り、世間を欺きながら、たった一人で強さの頂を目指す孤独な戦士。
それが、エルナ・ヴォルフィードの正体だった。
◇
「殿下、休憩の時間です」
副官の声で、私は我に返った。
タオルで汗を拭い、ベンチに腰を下ろす。
そこには、先日師匠に贈ったものと同じ、木箱が置かれていた。
私は箱を開けた。
中には、愛らしい熊のぬいぐるみが鎮座している。
だが、その中身には高密度の鉛が詰め込まれ、総重量は五十キロに達する。
私はそれを片手で掴み上げた。
ズシリ、と重さが腕に食い込む。
「……まだまだだな」
師匠は、これを受け取った時、顔色一つ変えなかった。
「毎晩抱いて寝ますわ」と微笑み、あろうことか小脇に抱えて持ち帰ったのだ。
あの細い腕のどこに、そんな力が潜んでいるのか。
やはり、彼女の肉体はすでに生物の枠を超え、ダイヤモンドのような魔力結晶体に変貌しつつあるのかもしれない。
ラインハルトが言っていた。
『彼女は、死の運命と戦いながら、それでも愛する夫のために強さを求めている』と。
体が石になる激痛。
それに耐えながら、彼女は今日も笑っているのだろうか。
「……負けていられないな」
私はぬいぐるみを空高く放り投げ、落ちてくるところを首根っこでキャッチした。
衝撃を、膝のクッションと背骨の動きで殺す。
師匠の動きをイメージして。
帝国に戻ってから、私は変わった。
力任せの剣技を捨て、相手の力を利用する柔の剣を模索し始めた。
兵士たちは「皇女殿下の剣が、円熟味を増した」と噂している。
だが、まだ足りない。
あの夜、空を飛んだ時の感覚には程遠い。
私は懐から、一枚の便箋を取り出した。
今朝、書き上げたばかりの師匠への手紙だ。
『拝啓、師匠。
帝国の空気は乾燥しており、肌が荒れるのが悩みですが、筋肉の調子はすこぶる良好です。
先日教わった「空気椅子」は、近衛兵団の正式な懲罰……いや、基礎訓練として採用しました。
今では毎朝、千人の兵士が中腰でプルプルと震えながら朝食を摂る光景が、帝国の新たな名物となりつつあります。
ラインハルトもまた、貴女の影響を受けて変わりました。
「数値に現れない強さがある」と言って、最近は魔導計算機を捨て、自らの筋肉で岩を砕く修行を始めたようです。
貴女が蒔いた種は、この武の国で確実に芽吹いています。
いつかまた、手合わせをお願いしたい。
その時までには、私も貴女の背中に少しでも近づけるよう、精進します。
追伸:プロテインの新しいフレーバー(激辛唐辛子味)を見つけたので、同封しておきます。』
私は手紙を封筒に入れ、封蝋をした。
ヴォルフィード家の紋章である狼ではなく、師匠をイメージしたダイヤモンドの印章を押す。
「よし、行こうか」
私は再び大剣を担ぎ上げた。
重い。
だが、この重さこそが生きている証だ。
師匠が背負っている「運命」の重さに比べれば、こんな鉄の塊など、羽根のようなものだ。
私は大地を踏みしめた。
いつか、あの人を越えるために。
そして、彼女が守り抜こうとしている「か弱き公爵夫人」という嘘を、帝国最強の武力をもって支えるために。
遠くの空で、鷹が鳴いた。
私の新たな修行の日々は、まだ始まったばかりだ。




