第20話 舞踏会で宰相が私の「腹筋」を触診しようとしましたが、「体がダイヤモンド化する奇病です」と大嘘をついたら伝説になりました
王宮の大広間は、数千のシャンデリアの光と、むせ返るような香水の香りに満ちていた。
今夜は、ガレリア帝国との親善を記念した大舞踏会。
極彩色のドレスを纏った貴婦人たちや、勲章を胸に飾った紳士たちが、優雅な音楽に合わせて談笑している。
だが、その華やかな喧騒も、私たちが足を踏み入れた瞬間に水を打ったように静まり返った。
私はリュカ様の腕に手を添え、ふわりと会場へ進み出た。
今夜のドレスは、マダム・ヴェルニエの最高傑作。
「深海の涙」と名付けられたそのドレスは、幾重にも重ねられた薄いオーガンジーが、動くたびに波のように揺れる。
上半身は大胆に背中が開いたデザインだが、そこには特殊な肌色の極薄布――マダム曰く「筋肉隠蔽スーツ」――が張られており、私の隆起した広背筋を滑らかなラインに見せかけている。
「……美しい」
リュカ様が、私にだけ聞こえる声で囁いた。
彼の瞳には、周囲の視線など映っていない。ただ私だけを、宝物のように見つめている。
「君を誰にも見せたくない。このままマントで包んで、屋敷に連れて帰りたいくらいだ」
「我慢してくださいませ、リュカ様。今日は外交の大一番ですわ」
私は微笑み返しながら、腹圧を高めた。
コルセットの下では、私の腹直筋が臨戦態勢に入っている。
今夜の敵は、ドレスの裾を踏んでくるご婦人ではない。
あの執拗な宰相、ラインハルト・フォン・エグゼだ。
◇
最初のダンスは、慣例通りリュカ様と踊った。
彼のリードは完璧で、まるで雲の上を歩いているかのような浮遊感がある。
私は彼に身を任せ、ただ微笑んでいるだけでよかった。
周囲からは「病弱な体を、公爵様が魔法のように支えている」と見えているだろう。
実際は、私の体幹がブレないおかげで、リュカ様も非常に踊りやすそうにしているのだが。
一曲目が終わり、私たちがホールの中央で礼をした、その時だった。
スッ、と音もなく影が差した。
「素晴らしい舞踏でした。……次は、私にお相手願えますか? ヴォルフィード公爵夫人」
銀縁眼鏡の奥で、冷たい瞳が光る。
宰相ラインハルトだ。
彼は帝国の正装である白い軍服に身を包み、非の打ち所がない礼儀作法で手を差し出している。
だが、その指先からは、隠しきれない探究心と殺気が滲み出ていた。
リュカ様の空気が一瞬で凍りつく。
「……ラインハルト。妻は疲れている。辞退させてもらおう」
「おや? 先日の『マッサージ』のおかげで、体調は万全のはずでは? それとも、帝国の宰相とのダンスは不服だと?」
外交カードを切ってきた。
ここで断れば、リュカ様の顔に泥を塗るだけでなく、両国の関係にヒビが入る。
卑怯な男だ。
リュカ様の拳が震える。
彼が魔法で会場ごと凍らせる前に、私は一歩前に出た。
「お受けいたしますわ、宰相閣下」
「エルナ!?」
「大丈夫です、リュカ様。……私、ダンスには少し自信がありますの」
私はラインハルトに向き直り、その冷たい手を取った。
瞬間、ゾクリとした悪寒が走る。
彼の手は乾燥しており、まるで爬虫類のようだ。
「光栄です。……では、検証を始めましょうか」
音楽が変わる。
ゆったりとしたワルツから、テンポの速いマズルカへ。
ラインハルトが私の腰に手を回す。
その瞬間、彼の手のひらに魔力が集中するのが分かった。
来る。
タン、タン、タンッ!
ステップが始まる。
ラインハルトのリードは、優雅に見えて暴力的だった。
急激なターン。予測不能な体重移動。
遠心力を使って私を振り回し、体勢を崩させようとしているのだ。
普通の女性なら、三回転目で足がもつれて転倒しているだろう。
だが、甘い。
私は表情一つ変えず、彼のステップに追従した。
私の足は、ドレスの下で石畳を的確に捉えている。
空気椅子で鍛え上げた大腿四頭筋と、バランスボール並みの平衡感覚を持つ体幹。
どんなに振り回されようと、私の頭の位置はミリ単位でブレない。
「……ほう」
ラインハルトが感嘆の声を漏らす。
「この速度についてくるとは。……やはり、ただの病人ではない」
「必死なだけですわ。貴方様の足を踏んでしまっては、国際問題になりますもの」
「口が減らないですね。……では、これはどうです?」
彼は曲の盛り上がりに合わせて、私の腰を引き寄せた。
密着。
そして、腰に回した手の指を、グイッと私の脇腹に食い込ませてきた。
触診だ。
ドレスとコルセット越しに、中身の「肉」の硬さを確かめようとしている。
柔らかい脂肪か、それとも鍛え上げられた筋肉か。
私は瞬時に反応した。
腹式呼吸を止め、腹腔内圧を限界まで高める。
腹直筋、腹斜筋、腹横筋を一斉に硬直させる。
アイソメトリック・マッスル・ガード。
防御力は鉄板並みだ。
ラインハルトの指が、私の脇腹に触れる。
彼の予想では、柔らかく沈み込むか、あるいは弾力のある筋肉の感触があるはずだっただろう。
だが、彼が触れたのは「壁」だった。
ガチンッ。
指先から、硬質な感触が返ってくる。
人間の肉体とは到底思えない、岩盤のような硬度。
「……なっ!?」
ラインハルトの目が大きく見開かれた。
ステップが一瞬乱れる。
「なんだ、これは……!? 硬い……! あまりにも硬すぎる!」
彼は信じられないという顔で、さらに指に力を込める。
しかし、私の腹筋は微動だにしない。
マダム・ヴェルニエの強化コルセットと、私の鋼の腹筋が融合し、絶対防御圏を形成しているのだ。
「鉄板を仕込んでいるのか? いや、それにしては体温がある……。まさか、これは生身なのか……?」
彼の顔色が青ざめていく。
論理的な彼の頭脳は、「人間の腹部がこれほど硬いはずがない」という常識と、「現に指が折れそうなほど硬い」という現実の狭間でパニックを起こしていた。
「……不思議そうですわね、宰相閣下」
私は踊り続けながら、悲しげに瞳を伏せた。
ここだ。
ここで、彼を完全に煙に巻く「設定」を投下する。
「お気づきになられましたか。……恥ずかしいですわ。これが、私の病の正体なのです」
「病……だと?」
「ええ。……『魔力結晶化症候群』。私の体は、過剰な魔力負荷に耐えきれず、内側から少しずつ……ダイヤモンドのように硬化しているのです」
大嘘である。
そんな病気は医学書にも載っていない。
だが、このファンタジー世界なら「ありそう」なラインを攻めた。
先日、ヒルデガルド様が私を「ダイヤモンド」と評したことが、絶妙な伏線となっている。
「ダ、ダイヤモンド化……!?」
ラインハルトが絶句した。
「そんな……馬鹿な。人間が生きたまま宝石になるなど……」
「嘘ではありませんわ。触れてみて分かったでしょう? この硬さは、人の肉体のものではありません」
私は彼の手を、さらに強く自分の腹部に押し付けた。
もちろん、腹筋には全力で力を込めている。
カチカチだ。岩石よりも硬い。
「……あ、あぁ……」
ラインハルトの手が震え出した。
彼は理解してしまったのだ。
私が涼しい顔で重力魔法に耐えられた理由を。
物理攻撃が通じない理由を。
それは私が強靭な戦士だからではない。
私の体が、すでに「生物」としての限界を超え、無機物へと変わりつつあるという、あまりにも悲劇的な運命のせいだと。
「貴女は……このまま全身が石になって、死ぬというのですか……?」
「それが私の運命なら、受け入れます。……愛する夫の腕の中で、永遠に変わらぬ宝石になれるのなら、それもまた幸せかもしれません」
私は遠くを見る目をした。
完璧だ。
悲劇のヒロイン、ここに極まれり。
ラインハルトの目から、敵意が消えた。
代わりに浮かんだのは、畏怖と、そして深い同情だった。
彼は踊るのをやめ、その場に立ち尽くした。
「……私の負けだ」
彼は掠れた声で呟いた。
「私は……貴女を『化け物』だと疑った。だが、貴女は……死の恐怖と戦いながら、気丈に振る舞う聖女だったとは」
彼はゆっくりと私から手を離し、深く、深く頭を下げた。
「無礼をお許しください。ヴォルフィード公爵夫人。……貴女のその高潔な魂に、最大限の敬意を表します」
勝った。
知能犯を、筋肉とハッタリでねじ伏せた。
その時、音楽が終わった。
会場に拍手が響く中、リュカ様が風のように駆け寄ってきた。
「エルナ! 大丈夫か!? 奴に何をされた!?」
リュカ様はラインハルトを突き飛ばし、私を抱きしめた。
「何もされていませんわ。ただ……私の病のことを、少しお話ししただけです」
「病のこと?」
リュカ様が不思議そうな顔をする。
ラインハルトは、沈痛な面持ちでリュカ様に告げた。
「公爵。……貴殿の愛の深さを、私は侮っていたようだ。彼女のような、ガラスよりも脆く、ダイヤモンドよりも硬い運命を背負った女性を支えられるのは……貴殿しかいない」
ラインハルトは踵を返し、人混みの中へと消えていった。
その背中は、どこか寂しげで、そして敗北感に満ちていた。
リュカ様はポカンとしていたが、すぐに私に向き直り、潤んだ瞳で見つめてきた。
「よく分からないが……また君の魅力が、国境を越えて伝わってしまったようだな」
「そうかもしれませんわね」
私は苦笑いをした。
伝わったのは魅力ではなく、「筋肉の硬度」ですが。
こうして、舞踏会での攻防は幕を閉じた。
帝国の皇女と宰相、その両名を「勘違い」させた私の名声は、今夜で不動のものとなっただろう。
「体がダイヤモンドになる聖女」。
そんな新しい二つ名が聞こえてきて、私はそっと耳を塞いだ。
リュカ様が私の腰に手を回す。
彼の温かい手は、私の硬い腹筋の上からでも、優しく熱を伝えてくれた。
よかった。
彼には、この硬さが「愛おしさ」に変換されて伝わっているようだ。
私は彼に身を預け、安堵のため息をついた。
だが、平和は長くは続かない。
帝国の脅威が去った後には、もっと身近な、そして逃れられない「戦い」が待っていることを、私はまだ知らなかった。




