第18話 脳筋皇女が「弟子入り」してきましたが、私の優雅なティータイムを「極意の修行」だと勘違いしています
決闘から一夜明けた朝。
私は全身を襲う、心地よいとは言い難い激痛と共に目を覚ました。
痛い。
背中、腰、そして二の腕。
昨晩の「巴投げ」の代償は大きかった。
相手は巨岩を持ち上げるほどの筋肉量を誇る皇女だ。彼女の突進エネルギーを一身に受け止め、回転させ、投げ飛ばす。
物理演算としては成功したが、生身の肉体にかかる負担は尋常ではなかったらしい。
特に広背筋が悲鳴を上げている。湿布を貼りたい。サロンパスの匂いに包まれて眠りたい。
「……うぅ」
私が小さく呻くと、隣で眠っていたリュカ様がバチリと目を開けた。
「エルナ!? どうした、痛むのか!?」
彼は飛び起きるなり、私の体を検分し始めた。
その顔色は蒼白で、まるでこの世の終わりを見たかのようだ。
「やはり、昨日の無理が祟ったのだ! あんな野蛮な決闘に巻き込まれて……! 精神的なショックが、時間差で肉体を蝕んでいるに違いない!」
違います、リュカ様。
これは純粋な筋肉痛です。
乳酸が溜まっているだけです。
「大丈夫です……少し、体が強張っているだけで……」
「それが発作の前兆かもしれない! 今日は一日、ベッドから動くな。食事も私が口移しで運ぶ!」
「それはお断りします」
私は即答し、ギシギシと鳴る体を無理やり起こした。
筋肉痛ごときで寝込んでいられない。
なぜなら今日は、筋肉の修復に最も重要な「ゴールデンタイム」なのだから。
高タンパクな食事を摂取し、適度なストレッチを行わなければ、せっかく鍛えた繊維が萎んでしまう。
◇
朝食(ステーキ三〇〇グラム増量)を完食し、私は庭園のガゼボでティータイムを楽しんでいた。
リュカ様は王宮からの緊急呼び出しがあり、後ろ髪を引かれながら出勤していった。
「十分おきに安否確認の魔法鳩を飛ばす」と言い残して。
一人の時間は貴重だ。
私はドレスの裾を整え、優雅に紅茶を啜る。
一見すると、日向ぼっこを楽しむ深窓の令嬢。
だが、そのテーブルの下では、熾烈なトレーニングが行われていた。
空気椅子である。
椅子に座っているように見えて、実はお尻を数センチ浮かせている。
大腿四頭筋とハムストリングスに常に負荷をかけ続け、体幹を鍛え上げる。
長いテーブルクロスのおかげで、外からは全く見えない。
表情筋を総動員して「涼しい顔」をキープするのも、精神修行の一環だ。
その時だった。
ズシン、ズシン、と地面を揺らす足音が近づいてきたのは。
「ここか。師匠」
野太い……いや、凛々しい声。
顔を上げると、そこにはヒルデガルド皇女が立っていた。
昨日の決闘での傷はすでに癒えているのか、彼女の肌はツヤツヤと輝いている。
ただ、その服装が異様だった。
いつもの軍服ではなく、なぜか我が国の侍女服――しかもサイズが合わずパツパツのやつ――を着ているのだ。
「……ヒルデガルド様? その格好は?」
「修行着だ」
彼女は真顔で答えた。
「昨晩考えたのだ。お前の強さの秘密を。あの細い体で、私の剣を受け流し、空を飛ばす技術。それは単純な筋力増強だけでは到達できない境地だ」
彼女はガゼボに入り込み、私の向かいの席に座った。
椅子がミシリと悲鳴を上げる。
「結論として、私は『生活』そのものを見直すことにした。お前のような『儚さ』の中にこそ、最強の極意が隠されているのではないかとな」
鋭い。
いや、方向性は間違っているが、着眼点は悪くない。
日常生活をトレーニングに変えることこそ、社畜聖女の生存戦略だったのだから。
「それで、私に弟子入りを?」
「ああ。頼む。お前の技を盗ませてくれ」
帝国の皇女が、深々と頭を下げる。
その真摯な態度に、私は断る言葉を失った。
それに、彼女を味方につけておけば、今後また変な敵が現れた時に盾……もとい、協力者になってくれるかもしれない。
「分かりましたわ。ただし、私の修行は厳しいですよ?」
「望むところだ!」
ヒルデガルド様は目を輝かせた。
「では、まずはお茶をいただきましょう」
私はポットを持ち上げた。
通常なら何気ない動作だが、今の私は筋肉痛だ。
指先が震えそうになるのを、気合でねじ伏せる。
ゆっくりと、重力を感じさせないように、音もなくカップに注ぐ。
プルプルと二の腕が痙攣するが、それを「揺らぎ」として処理する。
「……ッ!!」
ヒルデガルド様が息を呑んだ。
「見えたぞ……! 今、ポットを持ち上げる瞬間、お前は全身の筋肉を一瞬だけ硬直させ、瞬時に脱力した! 重さを感じさせない『ゼロの動き』……!」
違います。
ただ痛いのを我慢しているだけです。
「そして、この注ぎ方。水流の乱れが一切ない。まるで時が止まったかのようだ。……呼吸だ。呼吸で空間を支配しているのか」
深読みが過ぎる。
彼女は感動に打ち震えながら、自らもポットを手に取った。
ガシッ。
力が入りすぎて、ポットの取っ手にヒビが入る。
「くっ……! ダメだ、殺気が漏れてしまう! お前のように、気配を消して物体と同化することができない!」
「力を抜きなさい、ヒルデガルド様。敵を倒すのではなく、お茶を慈しむのです」
「慈しむ……! そうか、破壊の衝動を愛に変換するのか! 高度すぎる!」
彼女は脂汗を流しながら、必死に紅茶を注ごうと格闘し始めた。
その姿は、爆弾処理班のように真剣だ。
私はその様子を眺めながら、テーブルの下で空気椅子の角度を深くした。
きつい。
太ももが熱い。
だが、この痛みが生きている証だ。
「師匠。一つ質問がある」
ヒルデガルド様が、震える手でカップを持ちながら尋ねてきた。
「お前は、なぜ椅子に背中を預けないのだ? 先ほどから、背もたれに一度も触れていない」
ギクリとした。
バレたか?
空気椅子が見破られたか?
「……それは」
私は優雅に微笑み、適当な理屈をひねり出した。
「背もたれに頼れば、心の芯が折れてしまいますから。常に己の力で立つ。それが公爵夫人の嗜みですわ」
名言風に言ってみたが、ただの筋トレの言い訳だ。
しかし、ヒルデガルド様には雷に打たれたような衝撃だったらしい。
「己の力で……立つ……!」
彼女はガタッと椅子を蹴って立ち上がった。
いや、立ち上がったのではない。
彼女もまた、中腰の姿勢で固まったのだ。
「分かったぞ、師匠! これだ! 常に下半身に負荷をかけ、いついかなる時も地面を蹴れる態勢を維持する! これこそが、お前の瞬発力の源泉か!」
正解だ。
まさか一発で見抜いて実践してくるとは。
彼女もまた、脳筋の才能がある。
「素晴らしいですわ、ヒルデガルド様。さあ、その姿勢のまま、スコーンをいただきましょう」
「応ッ!!」
こうして、端から見れば優雅なティータイム、実態は「二人揃って空気椅子で我慢比べ大会」という地獄の絵図が完成した。
通りかかったマーサが、遠くから生温かい目で見守ってくれているのが救いだ。
◇
三十分後。
私たちは汗だくになりながらも、奇妙な連帯感で結ばれていた。
ヒルデガルド様は、生まれたての小鹿のように足をプルプルさせながらも、達成感に満ちた顔をしている。
「……効く。これは効くぞ。戦場での長時間の待ち伏せより辛い」
「ふふ、毎日続ければ、鋼の美脚が手に入りますわよ」
私たちが筋肉談義に花を咲かせようとした、その時だった。
庭園の入り口から、新たな人物が現れた。
リュカ様ではない。
使用人でもない。
細身の長身に、神経質そうな銀縁眼鏡。
片手には分厚い書物を抱え、仕立ての良い――しかし帝国風の――法衣を纏った男。
その男は、汗だくのヒルデガルド様と、涼しい顔(空気椅子中)の私を見て、冷ややかに眉をひそめた。
「……何をしているのですか、皇女殿下」
氷のような声。
リュカ様の冷たさとは違う、湿度を帯びた陰湿な冷気だ。
ヒルデガルド様が、ビクリと肩を震わせた。
あの豪胆な皇女が、明らかに動揺している。
「ラ、ラインハルト……!」
「ラインハルト?」
私が首を傾げると、ヒルデガルド様は小声で、しかし切迫した様子で教えてくれた。
「帝国の宰相、ラインハルト・フォン・エグゼだ。……私の幼馴染であり、帝国一の『頭脳』を持つ男だ」
宰相。
軍事国家の頭脳。
つまり、筋肉で解決できないタイプの敵だ。
ラインハルトと呼ばれた男は、芝生の上を音もなく歩み寄り、ガゼボの前で立ち止まった。
彼は眼鏡の位置を直し、値踏みするような視線で私を見下ろした。
「初めまして、ヴォルフィード公爵夫人。……噂はかねがね」
「ごきげんよう。宰相閣下」
私は空気椅子を解除し(足が限界だった)、優雅に立ち上がってカーテシーをした。
彼は私の挨拶には目もくれず、淡々と告げた。
「昨夜の決闘の報告書を読みました。『偶然の転倒』による勝利……とのことですが」
彼の瞳が、眼鏡の奥で怪しく光る。
「物理的、力学的、そして魔術的観点から再計算しましたが……あの軌道で人間が『偶然』投げ飛ばされる確率は、数億分の一です」
心臓が跳ねる。
計算してきやがった。
この男、数字で殴ってくるタイプだ。
「皇女殿下は純粋な方ゆえ、貴女の『詐術』に騙されているようですが……私の目は誤魔化せませんよ」
彼は一歩、私に近づいた。
その手には、魔法の発動体と思われる万年筆が握られている。
「貴女は、何者です? 病弱な聖女の皮を被った……帝国の敵となりうる『特異点』か?」
空気が凍りつく。
ヒルデガルド様が剣に手を伸ばそうとするが、それより早く、ラインハルトの視線が彼女を制した。
まずい。
リュカ様がいない今、この知能犯を相手にするのは分が悪い。
私は扇子を握りしめ、冷や汗を隠して微笑んだ。
「買いかぶりすぎですわ。私はただの……少し足腰が丈夫なだけの、主婦ですもの」
「足腰、ですか。……では、その丈夫さを検証させていただきましょうか」
宰相の唇が、冷酷な弧を描いた。
新たな、そして今までで最も厄介な「試験」が始まろうとしていた。




