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第15話 決闘に向けて「秘密の特訓(筋トレ)」を開始したら、夫が「命を削るな!」と泣きつき、皇女はドン引きしています


 嵐のような皇女が去った後のダイニングルームには、重苦しい沈黙と、破壊されたリンゴの甘酸っぱい香りが漂っていた。


 リュカ様は、大理石の床に散らばったリンゴの残骸を無表情で見下ろしていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、アメジストの輝きを失い、深淵のような漆黒に染まっている。


「……暗殺しよう」


 この国の騎士団長が、決して口にしてはならない単語を呟いた。

 冗談ではない。本気だ。

 彼の手元にあるシルバーのフォークが、指の圧力で飴細工のようにぐにゃりと曲がっているのがその証拠だ。


「リュカ様、落ち着いてください。一国の皇女を暗殺などしたら、全面戦争になります」


「構わん。私の妻を腰抜け呼ばわりし、あまつさえ決闘などという野蛮な儀式に引きずり込もうとする輩だ。国家の存亡よりも、君の指先のささくれ一つの方が重大事だ」


 ブレない。

 この人の優先順位は、いつだって狂っている。

 私は溜息を飲み込み、そっと彼の手を包み込んだ。

 冷え切った彼の指先に、私の体温を伝える。


「大丈夫です。私、負けるつもりはありませんから」


「勝敗の問題ではない! 君が怪我をするかもしれない、その可能性だけで私は気が狂いそうだ! あんな筋肉の塊のような女と対峙して、風圧だけで骨が折れたらどうする!」


 過保護にも程がある。

 風圧で骨折するのは、もはやカルシウム不足を通り越して別の生き物だ。

 けれど、彼がそれほどまでに私を案じてくれている事実は、胸を温かくする。

 だからこそ、私は証明しなければならない。

 私が、彼の隣に立つに相応しい「強さ」を持った妻であることを。


     ◇


 決闘までの猶予は三日間。

 私は即座に作戦行動を開始した。

 名付けて、「病弱設定を維持したまま、物理で殴り勝つためのリハビリ計画」だ。


 まずは現状の把握である。

 屋敷の三階にある、私専用の部屋。

 リュカ様は「療養のための部屋」として与えてくれたが、実態は私の「秘密のジム」と化している。

 私はドアに鍵をかけ、防音の魔術結界を展開した。

 そして、重厚なドレスを脱ぎ捨て、動きやすいキャミソールと短パン姿になる。


 姿見に映るのは、一見すると白く華奢な体躯。

 だが、力を込めれば話は別だ。

 フンッ、と下腹部に気合を入れる。

 瞬間、腹直筋が美しい陰影を描いて隆起し、大腿四頭筋が鋼のように浮き上がる。

 よし、鈍っていない。

 毎日の高カロリー摂取と、こっそり続けていた空気椅子のおかげで、筋肉の密度は現役時代――社畜聖女時代よりも向上しているかもしれない。


 問題は、戦い方だ。

 真正面から殴り合えば、間違いなく勝てる。

 だが、それでは私の「儚い公爵夫人」という立場が崩壊する。

 衆人環視の中で行われる決闘において、私が求められるのは「圧倒的な勝利」ではなく、「奇跡的な辛勝」あるいは「相手の自滅」だ。


 コン、コン。


 不意にノックの音がした。

 私は反射的に筋肉の力を抜き、ベッドに飛び込んで布団を被った。

 魔術結界を解除する。


「……はい」


 弱々しい声を出す。

 入ってきたのは、使用人頭のマーサだった。

 彼女は銀のトレイに、湯気の立つプロテイン……ではなく、栄養満点の特製スープを乗せている。


「奥様、おやつの時間でございます。本日は仔牛のスネ肉を三日間煮込んだコンソメスープです」


「まぁ、ありがとうマーサ」


 私はベッドから上半身を起こした。

 マーサは私の汗ばんだ肌と、乱れた呼吸を見て、一瞬だけ目を細めた。

 鋭い。

 このベテランメイドは、私の「健康」に気づいている節がある。

 だが、彼女は何も言わず、ただ優しく微笑んだ。


「決闘をお受けになったとか。……無理はなさらないでくださいね。旦那様がまた、神殿を焼き払う勢いで心配されておりますから」


「ええ、分かっているわ。ただ……少しだけ、運動をしていたの。体力をつけないと、リュカ様の隣には立てないから」


 これは半分本音だ。

 マーサは深く頷き、スープをサイドテーブルに置いた。


「左様でございますか。では、少し多めにお肉を入れておきました。……筋肉は、裏切りませんからね」


 彼女はウインクをして去っていった。

 やはりバレている。

 この屋敷の人間は、どいつもこいつも油断がならない。


     ◇


 翌日。

 事件は、屋敷の庭園で起きた。


 気分転換に散歩をしていた私は、バラのアーチの向こうに、真っ赤な人影を見つけた。

 ヒルデガルド皇女だ。

 昨日の今日で、またしてもアポなしで侵入してきたらしい。

 彼女は腕組みをして、庭師が手入れをしている巨大な岩――景観用の飾り岩を見下ろしていた。


「おい、硝子細工」


 私に気づいた彼女が、獰猛な笑みを向ける。

 その呼び方、定着させる気なのだろうか。


「ごきげんよう、ヒルデガルド様。今日はどのようなご用件で?」


「偵察だ。敵の戦力を知るのも将軍の務めだからな」


 彼女は私の周りをぐるりと歩き回り、値踏みするように鼻を鳴らした。


「見るからに弱そうだ。筋肉のキの字も感じられない。……おい、リュカは夜の生活でもお前を抱くのに苦労しているんじゃないか? 骨が折れそうで」


 下世話な挑発だ。

 実際には、リュカ様の方が「君の肌の弾力は素晴らしい」と毎晩絶賛しているのだが、そんなことは口が裂けても言えない。


「リュカ様はとてもお優しい方ですから」


「ふん。優しさだけで国は守れない。……見ろ、あの岩を」


 彼女が顎でしゃくったのは、先ほどの飾り岩だ。

 大人の男性三人掛かりでも動かせないような、重量級の巨石である。


「ガレリアの女ならば、あんな小石、片手で持ち上げて庭に放るぞ。お前には指一本で押すことすら不可能だろうがな」


 彼女は巨石に近づくと、これ見よがしに片手をかけた。

 上腕の筋肉が隆起し、革の軍服がミチリと音を立てる。

 ズズズ……。

 地面が削れる音と共に、巨石が僅かに浮き上がった。

 すごい馬鹿力だ。純粋な筋力だけで持ち上げている。


「どうだ。これが『力』だ。お前のような飾りの人形とは格が違う」


 彼女は勝ち誇った顔で岩を下ろした。

 ドスン、と地響きがする。


 私は扇子で口元を隠し、感嘆の声を上げた。


「まぁ、素晴らしいですわ。まるでサーカスの芸人さんのようです」


「……何だと?」


 ヒルデガルド様のこめかみに青筋が浮かぶ。

 おっと、煽りすぎただろうか。


「だが、残念ですわね。その岩、底にナメクジがびっしりついていましたよ」


「は?」


 彼女が顔をしかめた、その一瞬の隙だった。

 私はつまずいたふりをして、よろめいた。

 その勢いを利用し、肩で巨石にタックルをかます。

 角度、速度、重心移動。

 全てが完璧に計算された、渾身の体当たり。

 社畜時代、開かない水門を体当たりでこじ開けていた経験が生きる。


 ゴロンッ!!!!


 凄まじい音と共に、巨石が回転し、裏返しになった。


「なっ……!?」


 ヒルデガルド様が絶句し、目玉が飛び出んばかりに驚愕している。

 私が突き飛ばしたのではない。

 あくまで「よろめいてぶつかった」結果、岩が転がったのだ。

 物理法則としてはおかしいが、目撃者は彼女だけだ。


「きゃあっ! 申し訳ありません、足元がおぼつかなくて……!」


 私は地面に座り込み、か弱い乙女のポーズをとった。

 ヒルデガルド様は、転がった巨石と、私を交互に見比べている。

 その顔には、混乱と恐怖の色が混ざり合っていた。


「き、貴様……今、岩を……突き飛ばしたのか……?」


「いえ? ただぶつかってしまっただけですわ。この岩、案外軽石のように軽いのではなくて?」


 私は首を傾げてみせた。

 そんなわけがない。

 彼女自身が持ち上げて重さを確認した後だ。

 だからこそ、彼女の脳内はパニックを起こしているはずだ。

 「あんな細い女が岩を動かせるはずがない」という常識と、「目の前で岩が吹っ飛んだ」という現実の狭間で。


「ば、馬鹿な……。偶然だ。テコの原理か何かが働いたに違いない……」


 彼女はブツブツと呟きながら、後ずさった。

 その額には、冷や汗が滲んでいる。


「……面白い。夜会での決闘、楽しみにしているぞ。化けの皮を剥いでやる」


 捨て台詞を吐いて、彼女は逃げるように去っていった。

 その背中が、来た時よりも一回り小さく見えたのは気のせいだろうか。


 私は立ち上がり、ドレスの埃を払った。

 右肩が少し痛む。

 やはり、生身でのタックルはドレスに悪い。

 本番では、もっとスマートに勝たなければ。


     ◇


 その夜。

 リュカ様による、日課のマッサージタイムが始まった。


「エルナ、今日は右肩が張っているな」


 ベッドの上で、リュカ様が私の肩を揉みほぐす。

 彼の手は魔法のように器用で、凝り固まった筋肉を的確に捉える。

 ドキリとした。

 昼間のタックルの影響だ。


「……少し、庭で転んでしまって」


「何だと!? 怪我はないか!? 医者を呼ぶか!?」


 彼の手が止まり、血相を変えて私の顔を覗き込む。

 その必死な瞳に、胸が痛む。

 嘘をつくのは心苦しい。

 けれど、彼に「皇女をビビらせるために岩にタックルしました」なんて言えば、卒倒してしまうだろう。


「大丈夫です。リュカ様の手があれば、どんな薬よりも効きますから」


 私が彼の頬に手を添えると、彼は安堵したように息を吐き、私の手のひらに頬ずりをした。


「……無茶はしないでくれ。君が傷つくなら、私は世界を敵に回してでも、その元凶を排除する」


 その言葉に、嘘はなかった。

 彼の愛は、相変わらず重く、深く、そして温かい。

 この温もりを守るためなら、私は岩だろうが山だろうが動かしてみせる。


「リュカ様」


「ん?」


「私、絶対に負けません。貴方の妻として、恥じない姿をお見せします」


 彼は少し驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。


「ああ。君は強い人だ。……心が」


 違うんです、リュカ様。

 物理的にです。

 でも、その誤解はまだ解かないでおこう。

 決闘当日、彼が腰を抜かす姿を見るのも、また一興かもしれない。


 私は彼に身を預け、明日の決戦に向けて英気を養うことにした。

 私の腹筋は、準備万端だ。


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