第14話 「余命半年」の嘘がバレて溺愛ライフを満喫中ですが、なぜか隣国の武闘派皇女が「決闘しろ」と喧嘩を売ってきます
ヴォルフィード公爵邸の朝は、甘美な地獄と共に幕を開ける。
天蓋付きのキングサイズベッド。最高級の羽毛布団。そして、カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光。
本来なら、小鳥のさえずりと共に優雅に目覚める時間だろう。
だが、私の朝は少し違う。
重い。
物理的に、何かが私の上に圧し掛かっている。
目を開けると、そこには銀色の絹糸のような髪と、彫刻のように整った美貌があった。
リュカ・ヴォルフィード公爵。
この国の騎士団長であり、私の夫となった男が、私の腹部に顔を埋めるようにして眠っているのだ。
彼の太い腕は私の腰をガッチリとホールドし、足は私の太ももに絡みついている。
これは抱擁ではない。拘束だ。
私が呼吸をするたびに、彼のアメジストのような瞳がうっすらと開き、安堵したように再び閉じられる。
生きているか確認しているのだ。三十秒おきに。
私は天井を見上げ、小さく息を吐いた。
幸せだ。間違いなく幸せなのだが、私の膀胱は限界を訴えているし、何よりこのままでは朝の日課がこなせない。
リュカ様、起きてください。
声をかけようとして、私は口をつぐんだ。
彼の目の下には、薄っすらとだが疲労の色が見える。
昨晩も、彼は遅くまで執務をしていた。私が「余命半年」という嘘を告白し、健康体であることがバレてから一ヶ月。彼は私の体調を過剰に心配するあまり、逆に仕事を詰め込み、少しでも私と一緒にいる時間を捻出しようとしているのだ。
愛が重い。
物理的にも、精神的にも、地球の重力が三倍になったかのような愛の重圧。
だが、私は元・社畜聖女だ。この程度の重荷、耐えてみせる。
私はそっと、本当にそっと、彼の手を解こうと試みた。
長年の肉体労働で培った指先の筋力を総動員し、ミリ単位で彼の腕をずらしていく。
カチリ。
不意に、私の左手薬指にはめられた指輪が、サイドテーブルの魔道具に触れて微かな音を立てた。
瞬間。
バチッ!
リュカ様の目がカッ開かれた。
「エルナッ!?」
彼は弾かれたように上体を起こし、周囲を見回した。
その反応速度は、寝起きの人間のそれではない。完全に戦場の騎士だ。
「どうした!? 発作か!? 呼吸は!? いや、水か!」
「おはようございます、リュカ様。ただの起床です。発作ではありません」
私が冷静に告げると、彼はハッとして私を見た。
そして、ふにゃりと雪解けのような笑顔を浮かべ、再び私に抱きついた。
「ああ、おはよう……エルナ。今日も君が生きていてくれて、本当によかった」
「毎日言ってますね、それ」
「毎秒言いたいくらいだ。……顔色はいいな。肌の艶もいい」
彼の手が、私の頬から首筋、そして二の腕へと這う。
その指先が、私の二の腕の裏側にある「上腕三頭筋」の張りを確認するように動き、ピタリと止まった。
「……また、硬くなったか?」
ドキリとする。
バレたか。
「そ、そんなことありません。マシュマロのように柔らかいつもりです」
「いや、以前よりも弾力が増している。まるで……鍛え上げられた鋼を、極上のシルクで包んだような手触りだ」
彼はうっとりと目を細めた。
まずい。非常にまずい。
最近、屋敷の食事が美味しすぎて、つい食べ過ぎてしまうのだ。
消費カロリーを稼ぐために、私は彼が執務に行っている間、こっそりと部屋で「空気椅子スクワット」や「無音バーピージャンプ」を繰り返している。
その成果が、着実に筋肉として還元されてしまっている。
世間では、私はまだ「奇跡的に一命を取り留めたものの、余命幾ばくもない薄幸の公爵夫人」ということになっている。
もし、ドレスの下がバキバキのシックスパックだと知られたら、リュカ様の顔に泥を塗ることになる。
なにより、「守ってあげたい儚い妻」という彼の理想を壊したくない。
「気のせいですわ、あなた。さあ、朝食にしましょう」
私は甘えた声を出して、彼の意識を筋肉から逸らした。
彼は「そうだな」と微笑み、当然のように私をお姫様抱っこしてベッドから降りた。
床に足をつくことすら許されない。
これが、ヴォルフィード公爵家の朝の光景だ。
◇
ダイニングルームには、今日もフルコースのような朝食が並んでいた。
厚切りのベーコン、ふわふわのオムレツ、焼きたてのパン、そして新鮮なサラダ。
どれもが絶品で、私の胃袋を誘惑してくる。
だが、問題は量だ。
どう見ても、成人男性三人分はある。
「さあ、エルナ。たくさん食べて体力をつけてくれ。肉を食え、肉を」
リュカ様が、私の皿に山盛りのステーキを切り分けて乗せてくる。
朝からステーキ。
普通の貴族令嬢なら卒倒するメニューだが、悲しいことに私の胃袋は歓喜の声を上げていた。
社畜時代、保存食の乾パンと水だけで三日間結界を維持した反動だろうか。美味しいものを前にすると、満腹中枢が仕事放棄するのだ。
「いただきます」
私はフォークを手に取り、ステーキを口に運んだ。
肉汁が溢れ出し、濃厚な旨味が脳髄を直撃する。
美味しい。死ぬほど美味しい。
また筋肉になる音がする。
その時だった。
執事長が、銀のトレイを持って静かに入室してきた。
その表情は、いつになく硬い。
「旦那様。……急報でございます」
「食事中だと言っただろう。後にしろ」
リュカ様は私にパンをあーんする手を止めずに、冷たく言い放った。
私に向けるデレデレの顔とは対照的な、絶対零度の「氷の閣下」の顔だ。
「それが……隣国のガレリア帝国より、使者が到着しております」
「ガレリアだと?」
リュカ様の眉がピクリと動いた。
ガレリア帝国。
我が国の西に位置する、軍事大国だ。
年中どこかの国と戦争をしており、国民全員が何かしらの武術を嗜むという、脳筋……いや、尚武の国である。
「使者は誰だ。文官か?」
「いえ、それが……」
執事長が言い淀んだ、その瞬間。
ドォォォォォォンッ!!!
屋敷の玄関ホールの方角から、爆発音のような轟音が響き渡った。
シャンデリアが揺れ、私の手からフォークが落ちそうになる。
「な、何事ですか!?」
私が叫ぶと、リュカ様が瞬時に立ち上がり、私を背後に庇った。
「敵襲か!? マーサ! エルナを守れ!」
しかし、続く音は、爆発音ではなかった。
カツ、カツ、カツ、カツ。
重厚な軍靴の音が、廊下を近づいてくる。
その足音には、隠す気など微塵もない覇気と、圧倒的な自信が込められていた。
バンッ!!
ダイニングの扉が、乱暴に開け放たれた。
そこ立っていたのは、一人の女性だった。
燃えるような真紅の髪。
鋭い眼光を放つ黄金の瞳。
そして、ドレスではなく、竜の革で作られた真紅の軍服に身を包んでいる。
その腰には、身の丈ほどもある巨大な長剣が佩かれていた。
彼女は部屋の中を見渡し、私を背に隠すリュカ様の姿を認めると、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、リュカ! 相変わらず貧弱な朝飯を食っているのか?」
その声はよく通り、腹の底に響くような力強さがあった。
リュカ様が、心底嫌そうに顔をしかめる。
「……ヒルデガルドか」
「ヒルデガルド?」
私がリュカ様の背中からそっと顔を出すと、赤い髪の女性と目が合った。
彼女は私を見た瞬間、鼻で笑った。
「ふん。これが噂の『硝子細工の嫁』か? 風が吹けば飛びそうな、頼りない女だな」
失礼な人だ。
体重なら、多分貴女といい勝負だと思いますけど。
「何の用だ、ヒルデガルド。ここは私の私邸だ。アポイントメントなしに土足で踏み込んでいい場所ではない」
リュカ様の声が低くなり、部屋の温度が下がる。
しかし、ヒルデガルドと呼ばれた女性は、全く動じる様子がない。
彼女はズカズカと部屋に入り込むと、テーブルの上のリンゴを素手で掴み、握りつぶした。
グシャッ。
果汁が飛び散る。
「挨拶に来てやったんだよ。我がガレリア帝国と貴国との、友好親善大使としてな」
「親善大使?」
「ああ。ついでに……確認しに来たんだ」
彼女は一歩、踏み出した。
その瞬間、彼女から放たれるプレッシャーが膨れ上がった。
殺気ではない。
純粋な闘争心。強者が弱者を見定める時の、圧倒的な「圧」だ。
「リュカ。お前ほどの男が、なぜこんな死に損ないの女を選んだのか。私の剣技にも、私の美貌にも見向きもしなかったお前が、なぜこんな……指先一つで折れそうな女に溺れているのかをな」
彼女の視線が、私を射抜く。
そこにあるのは、侮蔑と、そして隠しきれない嫉妬の色だった。
「私の名はヒルデガルド・フォン・ガレリア。帝国の第一皇女であり、征魔将軍だ」
皇女兼将軍。
なるほど、通りでこの迫力なわけだ。
彼女は私の目の前まで来ると、挑発的に顎をしゃくった。
「おい、硝子細工。お前がリュカの妻に相応しいかどうか、私がテストしてやる」
「……テスト、ですか?」
「そうだ。三日後の夜会。そこで私と『決闘』しろ」
決闘。
その単語が出た瞬間、リュカ様が殺気を爆発させた。
「ふざけるな!! エルナは体が弱いんだ! 貴様のようなゴリラ女と戦えるはずがないだろう!」
「ゴ、ゴリラ……っ!?」
ヒルデガルド様の顔が怒りで赤くなる。
リュカ様、それは言い過ぎです。いや、的確かもしれないけれど。
「逃げるのか? リュカの妻ともあろう者が、敵前逃亡か?」
ヒルデガルド様は私を睨みつけた。
「もし逃げるなら、帝国の名において公表してやる。『ヴォルフィード公爵夫人は、皇女の挨拶すら受けられない腰抜けだ』とな!」
これは、外交問題に発展しかねない挑発だ。
断ればリュカ様の顔に泥を塗る。
受ければ、私の「病弱設定」が崩壊するリスクがある。
リュカ様が魔法を発動させようと手を上げた。
本気で皇女を氷漬けにする気だ。
私は慌てて彼の手を掴んだ。
温かい。そして、震えている。
怒りで震えているのではない。私が傷つけられることを恐れて震えているのだ。
私の胸の奥で、カチリとスイッチが入る音がした。
この人は、私を守ろうとしてくれている。
かつて私に生きる場所をくれた、大切な人。
その彼を、私の「弱さ」を理由に侮辱されるのは、我慢ならない。
(……いいでしょう)
私はそっとリュカ様の前に出た。
そして、できるだけ儚げに、風に揺れる花のように微笑んでみせた。
「……分かりましたわ、ヒルデガルド様」
「エルナ!?」
「その『決闘』、お受けいたします」
ヒルデガルド様が目を見開く。
まさか受けるとは思っていなかったのだろう。
「ほう……? 死ぬ気か?」
「いいえ。ただ……」
私は彼女の黄金の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、ドレスの裾の下で、毎日の空気椅子で鍛え上げた太ももの筋肉に、ギュッと力を込めた。
「夫を腰抜け扱いされたままでは、妻の名が廃りますので」
一瞬、空気が凍りついた。
ヒルデガルド様の顔が引きつる。
「言ったな……! 後悔させてやる!」
彼女はマントを翻し、嵐のように去っていった。
残されたのは、粉々になったリンゴと、呆然とするリュカ様。
そして、武者震いが止まらない私だった。
ああ、どうしよう。
売り言葉に買い言葉で受けてしまった。
病弱設定を守りつつ、帝国の将軍に勝つ?
そんな無理ゲー、どうやって攻略すればいいの?
私は自分の二の腕をさすった。
そこにある硬質な筋肉だけが、今の私の唯一の頼みの綱だった。




