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Side Story 転落した神殿長と、落ちないヘドロ

「オェッ……!!」


胃の底から酸っぱい液が込み上げ、私は汚れた水路に向かって嘔吐した。

何も出ない。

昨晩から、カビの生えたパン一切れしか食べていないのだ。

出るのは胃液と、絶望の溜息だけだ。


ここは王都の地下最深部。

かつて私が「ドブ」と呼び、エルナごときに押し付けていた、王宮結界の排魔パイプラインだ。


「おい、手を止めるな! 新人! ノルマが終わらなければ今日の飯は抜きだぞ!」


背後から、監督官の怒鳴り声が響く。

ビクリと肩が跳ねる。

かつて私に頭を下げていた下級役人が、今は鞭を片手に私を見下ろしている。

屈辱で奥歯が砕けそうだが、言い返す気力もない。


「は、はい……ただいま……」


私は震える手でデッキブラシを握り直し、目の前のパイプを擦った。

黒く粘りつくヘドロ。

魔物の瘴気が凝固したそれは、タールのように強固で、ブラシで何度擦っても落ちない。


「くそっ……! なんだこれは! なぜ落ちん!」


爪が割れ、指先から血が滲む。

冷たい汚水が靴の中に浸透し、ふやけた皮膚を刺すように冷やす。

腰が悲鳴を上げている。

まるで熱した鉄棒を背骨に埋め込まれたような激痛。

まだ作業を開始して三時間しか経っていないのに、私の体は限界を迎えていた。


(あり得ない……)


私は荒い息を吐きながら、暗い天井を見上げた。

エルナは、これをやっていたのか?

毎日? 一人で?


『神殿長様、今日のノルマ完了しました』


記憶の中の彼女は、涼しい顔でそう報告に来ていた。

私はそれを「当たり前だ」と鼻で笑い、追加の書類整理を命じていた。

彼女は魔法を使っていたから楽だったのだろう、と思っていた。


だが、現実は違った。

私も腐っても元高位神官だ。浄化魔法くらいは使える。

しかし、このヘドロは魔法を弾くのだ。

魔力を込めても、表面が少し弾けるだけで、芯にある汚れは物理的に削り落とすしかない。


「……化け物か、あいつは」


この広大な地下迷宮を、あの細い腕で維持していたというのか。

鋼の筋肉と、無尽蔵の体力、そして狂気的な根気がなければ不可能な作業だ。

それを私は「無能」と呼び、給料も払わず、休みも与えずに酷使していた。


「あーあ。戻ってきてくんねぇかなぁ、エルナちゃん」


隣で作業をしていた、元・会計係の神官がぼやいた。

彼もまた、豪華な法衣を剥ぎ取られ、ボロ布を纏った哀れな姿になっている。


「あの子がいれば、こんな作業、昼寝してる間に終わったのになぁ。俺たち、とんでもない『金の卵』を捨てちまったんじゃないか?」


「黙れ!!」


私は思わず叫んでいた。

認めたくなかった。

私が無能だったのではない。彼女が異常だっただけだ。


「さっさと手を動かせ! 終わらなければ、明日もこの臭いの中で寝ることになるんだぞ!」


そう叫びながら、私は涙が溢れるのを止められなかった。

臭い。

とにかく臭いのだ。

腐った卵と、排水と、カビが混ざり合った地獄の悪臭が、服の繊維はおろか、皮膚の毛穴にまで染み付いている。

かつて香水を振りまき、最高級のワインを飲んでいた私の鼻腔は、今や腐臭で麻痺しきっている。


ガリッ、ガリッ、ガリッ。


ブラシを動かす音だけが、虚しく響く。

一センチ四方を綺麗にするのに、十分かかる。

見渡す限りのパイプライン。

果てしない。

これを終わらせるには、私の残りの寿命すべてを使っても足りないかもしれない。


ふと、地上の方角を見上げた。

分厚い岩盤の向こうには、青い空があるはずだ。

そしてそこには、ヴォルフィード公爵の屋敷がある。


今頃、エルナはどうしているだろうか。

フカフカのベッドで目覚め、湯気の立つ温かいスープを飲み、清潔な服を着て、あの冷徹な公爵に溺愛されているのだろうか。


「……う、ううっ……」


惨めさが、こみ上げてくる。

失ったものの大きさに、今更ながら気づいた。

富も、名誉も、そして「最強の部下」も。

すべて、私の傲慢さが招いた結果だ。


「おい、そこのハゲ! 手が止まってるぞ!」


監督官の鞭が、ピシッと床を叩く。

私は「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、再び泥水の中に手を突っ込んだ。

冷たい。汚い。痛い。

この感覚こそが、これからの私の「人生」なのだ。


かつて私がエルナに与えていた地獄。

それを今、私は何倍にも濃縮して味わっている。


「……戻りたい」


小さく呟いた言葉は、誰にも届くことなく、下水道の闇に吸い込まれていった。


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【現在の神殿長ステータス】


職業:下水道清掃員(見習い)

状態:全身筋肉痛、悪臭(永続デバフ)、空腹

所持金:0

スキル:後悔(Lv.MAX)、ブラシ掛け(Lv.1)


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新しい小説も書き始めてますので、もしよければ合わせてお読みくださいませ。


『「余命半年」と嘘をついて辞職願を出したのですが、なぜか氷の閣下が泣き崩れて結婚を迫ってきます』 〜今さら「超・健康体です」とは死んでも言えない〜

https://ncode.syosetu.com/n7184lq/

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