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12/21

Side Story 氷の城が溶ける日、メイド長は見た

ヴォルフィード公爵邸は、別名「氷の城」と呼ばれていた。


使用人頭である私、マーサ(五八歳)は、その呼び名があながち間違っていないことを知っている。

この屋敷は、美しく、清潔で、そして致命的に冷たかったからだ。


主であるリュカ・ヴォルフィード公爵閣下は、完璧な主君だ。

理不尽な癇癪を起こすこともなければ、使用人に無理難題を押し付けることもない。

ただ、彼は「無」だった。

食事は栄養補給の作業。

睡眠は肉体維持のメンテナンス。

屋敷に戻っても、執務室に籠もり、深夜まで書類の山と向き合うだけ。

その瞳に感情の色が灯ることはなく、屋敷全体が、主人の心を映したように静まり返っていた。


私たちは、そんな主人を敬愛しつつも、どこか諦めていた。

この屋敷に「春」が来ることは、永遠にないのだろうと。


あの日、深夜二時に正面玄関が蹴破られるまでは。


     ◇


「おい! 誰かいないか! 医者を呼べ! いや、湯だ! 毛布だ!」


屋敷中に響き渡ったのは、聞いたこともない主人の絶叫だった。

私は飛び起きた。

強盗か? それとも戦争が始まったのか?

慌ててエントランスへ駆けつけると、そこには信じられない光景が広がっていた。


いつもは服のシワ一つ許さない閣下が、髪を振り乱し、一人の女性を抱きかかえていたのだ。

女性は聖女の法衣を着ており、顔面は蒼白。

そして閣下の顔は、今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。


「マーサ! ここにいたか! 一番いい部屋を用意しろ! 加湿器だ! 最高級のやつを持ってこい!」


「か、閣下? そちらの女性は……」


「俺の婚約者だ! 質問は後だ! 彼女は今、死にかけているんだ!」


死にかけている。

その言葉に、使用人たちに戦慄が走った。

運び込まれた女性――エルナ様は、確かに弱々しく見えた。

私たちは戦場のような勢いで準備を整え、彼女を貴賓室のベッドへと安置した。


それからの数日間、この屋敷は天地がひっくり返ったような騒ぎになった。


「スープが熱すぎる! 彼女の猫舌を知らないのか!」

「廊下を歩く音を消せ! 彼女の安眠を妨げる者は解雇だ!」

「アロマの調合を変えろ! もっと精神を安定させる香りに!」


閣下は変わってしまった。

いや、壊れてしまったのかと思った。

執務を放り出し、一日中エルナ様のベッドサイドに張り付き、甲斐甲斐しく世話を焼く姿は、まるで初めて恋をした少年のようであり、あるいは狂信的な信者のようでもあった。


だが。

長年、人を見る仕事をしてきた私の目は、ある「違和感」を捉えていた。


それは、最初の朝食の時だった。

閣下が自らスプーンを持ち、エルナ様にスープを飲ませていた時のことだ。


「……おい、しい……」


エルナ様は、涙目でそう呟いた。

閣下は「ああ、可哀想に。生きる力が湧いてきたんだな」と感激して涙ぐんでいた。


しかし、私は見てしまった。

彼女がスープを飲み込む時の、喉の動きを。

ゴクリ、ゴクリ、と力強い嚥下音。

そして、スプーンを見る目の輝き。

それは「衰弱した病人」の目ではない。

「三日三晩、何も食べていない腹ペコの野生児」の目だった。


(……おや?)


私はワゴンを下げる際、さりげなく彼女の二の腕に触れた。

パジャマ越しだが、分かる。

程よい脂肪の下に、しっかりとした筋肉がついている。

肌の張りもいい。

どう見ても、死にかけている人間ではない。


その後も、違和感は続いた。


トイレに行こうとして閣下に抱き上げられた時、彼女は「重いです!」と抵抗した。

閣下は「羽のように軽い」と否定したが、実際に彼女を抱えた私がシーツを交換する際、ベッドの沈み込み具合を見て確信した。

彼女は、標準体重よりもしっかりと中身が詰まっている。

骨密度が高いのか、筋肉量が凄まじいのか。

少なくとも「硝子細工」ではない。どちらかと言えば「硬質ゴム」のような弾力と生命力を感じる。


私は控え室に戻り、業務日誌にペンを走らせた。


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【ヴォルフィード家・業務日誌】

担当:マーサ


本日の観察事項:

エルナ様の食欲は、若手騎士並みである。

マダム・ヴェルニエの採寸時、腹筋を凹ませるために呼吸を止めていたのを視認。

ガリウス医師の診断時、冷や汗をかいていたのは、痛みのせいではなく「焦り」のせいだと推測される。


結論:

エルナ様は、極めて健康である可能性が高い。

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そこまで書いて、私はペンを止めた。


報告すべきだろうか?

「閣下、あの女性は仮病です。騙されています」と。

それが忠義というものかもしれない。

もし彼女が悪女で、閣下の財産を狙っている詐欺師だとしたら、屋敷の一大事だ。


私はコーヒーを淹れ直し、再び貴賓室へと向かった。

扉の隙間から、中の様子を窺う。


「……エルナ。この果物も食べるか?」


「はい、いただきます。……あの、リュカ様。甘やかしてくれて、ありがとうございます」


「礼などいらない。君が笑ってくれるなら、俺はなんだってする」


そこには、今まで見たこともない閣下の姿があった。

いつも凍りついていたアメジストの瞳が、春の陽だまりのように優しく細められている。

その表情は、とても幸せそうだった。

そして、ベッドの上のエルナ様もまた、申し訳なさそうにしながらも、閣下を見る目には温かい光が宿っていた。


詐欺師の目ではない。

あれは、不器用な二人が、懸命にお互いを思い合っている目だ。

たとえ、その入り口が「嘘」であったとしても。


私は、扉をそっと閉めた。

そして、先ほどの業務日誌のページを破り捨て、暖炉の火に放り込んだ。


(……まあ、よろしいではありませんか)


この屋敷はずっと寒すぎた。

少しばかり騒がしくて、食費がかさんで、おかしな勘違いが横行していたとしても。

閣下が「人間らしい顔」で笑えるようになったのなら、それが正解なのだ。


数日後。

神殿長が怒鳴り込んできた時、閣下は激昂して彼らを吹き飛ばした。

その時、私は確信した。

エルナ様は、この屋敷に必要な「太陽」なのだと。


そして結婚式の夜。

初夜を迎えた翌朝、私はシーツの交換に入った。

そこにあった痕跡(激しい戦闘の跡)を見て、私は思わず口元を緩めてしまった。


「……あらあら」


枕元には、無残に引きちぎられたレースの切れ端。

そして、ベッドの枠には、誰かが強く握りしめた指の跡がくっきりと残っていた。

これほどの握力。

やはり、エルナ様は「ゴリラ……いえ、活発な方」で間違いないようだ。


テラスでは、閣下とエルナ様が仲睦まじく朝食をとっている。

エルナ様は「全身が痛い」と嘆いているが、その声には張りがあった。


「マーサ、コーヒーのお代わりを」


閣下が私を呼ぶ。

その声は、もう「氷の閣下」のものではなかった。


「畏まりました、旦那様。……それと、奥様には栄養たっぷりの『特盛りステーキ』をご用意いたしましょうか?」


私が悪戯っぽく尋ねると、エルナ様は顔を真っ赤にし、閣下は「ああ、頼む!」と満面の笑みで答えた。


ヴォルフィード公爵邸の冬は終わった。

これからは、甘くて騒がしい、常夏の季節が始まるようだ。

私は使用人頭として、この「健康すぎる奥様」と「過保護な旦那様」を、墓場まで見守り続けることを誓った。


たとえ、食費が倍になったとしても。


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【マーサの脳内メモ】

・今夜の夕食は、カロリー高めで。

・ベッドの補強工事を発注すること。

・この幸せな嘘を、墓場まで持っていくこと。

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マーサ、ステキ☺️
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