Side Story 氷の城が溶ける日、メイド長は見た
ヴォルフィード公爵邸は、別名「氷の城」と呼ばれていた。
使用人頭である私、マーサ(五八歳)は、その呼び名があながち間違っていないことを知っている。
この屋敷は、美しく、清潔で、そして致命的に冷たかったからだ。
主であるリュカ・ヴォルフィード公爵閣下は、完璧な主君だ。
理不尽な癇癪を起こすこともなければ、使用人に無理難題を押し付けることもない。
ただ、彼は「無」だった。
食事は栄養補給の作業。
睡眠は肉体維持のメンテナンス。
屋敷に戻っても、執務室に籠もり、深夜まで書類の山と向き合うだけ。
その瞳に感情の色が灯ることはなく、屋敷全体が、主人の心を映したように静まり返っていた。
私たちは、そんな主人を敬愛しつつも、どこか諦めていた。
この屋敷に「春」が来ることは、永遠にないのだろうと。
あの日、深夜二時に正面玄関が蹴破られるまでは。
◇
「おい! 誰かいないか! 医者を呼べ! いや、湯だ! 毛布だ!」
屋敷中に響き渡ったのは、聞いたこともない主人の絶叫だった。
私は飛び起きた。
強盗か? それとも戦争が始まったのか?
慌ててエントランスへ駆けつけると、そこには信じられない光景が広がっていた。
いつもは服のシワ一つ許さない閣下が、髪を振り乱し、一人の女性を抱きかかえていたのだ。
女性は聖女の法衣を着ており、顔面は蒼白。
そして閣下の顔は、今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。
「マーサ! ここにいたか! 一番いい部屋を用意しろ! 加湿器だ! 最高級のやつを持ってこい!」
「か、閣下? そちらの女性は……」
「俺の婚約者だ! 質問は後だ! 彼女は今、死にかけているんだ!」
死にかけている。
その言葉に、使用人たちに戦慄が走った。
運び込まれた女性――エルナ様は、確かに弱々しく見えた。
私たちは戦場のような勢いで準備を整え、彼女を貴賓室のベッドへと安置した。
それからの数日間、この屋敷は天地がひっくり返ったような騒ぎになった。
「スープが熱すぎる! 彼女の猫舌を知らないのか!」
「廊下を歩く音を消せ! 彼女の安眠を妨げる者は解雇だ!」
「アロマの調合を変えろ! もっと精神を安定させる香りに!」
閣下は変わってしまった。
いや、壊れてしまったのかと思った。
執務を放り出し、一日中エルナ様のベッドサイドに張り付き、甲斐甲斐しく世話を焼く姿は、まるで初めて恋をした少年のようであり、あるいは狂信的な信者のようでもあった。
だが。
長年、人を見る仕事をしてきた私の目は、ある「違和感」を捉えていた。
それは、最初の朝食の時だった。
閣下が自らスプーンを持ち、エルナ様にスープを飲ませていた時のことだ。
「……おい、しい……」
エルナ様は、涙目でそう呟いた。
閣下は「ああ、可哀想に。生きる力が湧いてきたんだな」と感激して涙ぐんでいた。
しかし、私は見てしまった。
彼女がスープを飲み込む時の、喉の動きを。
ゴクリ、ゴクリ、と力強い嚥下音。
そして、スプーンを見る目の輝き。
それは「衰弱した病人」の目ではない。
「三日三晩、何も食べていない腹ペコの野生児」の目だった。
(……おや?)
私はワゴンを下げる際、さりげなく彼女の二の腕に触れた。
パジャマ越しだが、分かる。
程よい脂肪の下に、しっかりとした筋肉がついている。
肌の張りもいい。
どう見ても、死にかけている人間ではない。
その後も、違和感は続いた。
トイレに行こうとして閣下に抱き上げられた時、彼女は「重いです!」と抵抗した。
閣下は「羽のように軽い」と否定したが、実際に彼女を抱えた私がシーツを交換する際、ベッドの沈み込み具合を見て確信した。
彼女は、標準体重よりもしっかりと中身が詰まっている。
骨密度が高いのか、筋肉量が凄まじいのか。
少なくとも「硝子細工」ではない。どちらかと言えば「硬質ゴム」のような弾力と生命力を感じる。
私は控え室に戻り、業務日誌にペンを走らせた。
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【ヴォルフィード家・業務日誌】
担当:マーサ
本日の観察事項:
エルナ様の食欲は、若手騎士並みである。
マダム・ヴェルニエの採寸時、腹筋を凹ませるために呼吸を止めていたのを視認。
ガリウス医師の診断時、冷や汗をかいていたのは、痛みのせいではなく「焦り」のせいだと推測される。
結論:
エルナ様は、極めて健康である可能性が高い。
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そこまで書いて、私はペンを止めた。
報告すべきだろうか?
「閣下、あの女性は仮病です。騙されています」と。
それが忠義というものかもしれない。
もし彼女が悪女で、閣下の財産を狙っている詐欺師だとしたら、屋敷の一大事だ。
私はコーヒーを淹れ直し、再び貴賓室へと向かった。
扉の隙間から、中の様子を窺う。
「……エルナ。この果物も食べるか?」
「はい、いただきます。……あの、リュカ様。甘やかしてくれて、ありがとうございます」
「礼などいらない。君が笑ってくれるなら、俺はなんだってする」
そこには、今まで見たこともない閣下の姿があった。
いつも凍りついていたアメジストの瞳が、春の陽だまりのように優しく細められている。
その表情は、とても幸せそうだった。
そして、ベッドの上のエルナ様もまた、申し訳なさそうにしながらも、閣下を見る目には温かい光が宿っていた。
詐欺師の目ではない。
あれは、不器用な二人が、懸命にお互いを思い合っている目だ。
たとえ、その入り口が「嘘」であったとしても。
私は、扉をそっと閉めた。
そして、先ほどの業務日誌のページを破り捨て、暖炉の火に放り込んだ。
(……まあ、よろしいではありませんか)
この屋敷はずっと寒すぎた。
少しばかり騒がしくて、食費がかさんで、おかしな勘違いが横行していたとしても。
閣下が「人間らしい顔」で笑えるようになったのなら、それが正解なのだ。
数日後。
神殿長が怒鳴り込んできた時、閣下は激昂して彼らを吹き飛ばした。
その時、私は確信した。
エルナ様は、この屋敷に必要な「太陽」なのだと。
そして結婚式の夜。
初夜を迎えた翌朝、私はシーツの交換に入った。
そこにあった痕跡(激しい戦闘の跡)を見て、私は思わず口元を緩めてしまった。
「……あらあら」
枕元には、無残に引きちぎられたレースの切れ端。
そして、ベッドの枠には、誰かが強く握りしめた指の跡がくっきりと残っていた。
これほどの握力。
やはり、エルナ様は「ゴリラ……いえ、活発な方」で間違いないようだ。
テラスでは、閣下とエルナ様が仲睦まじく朝食をとっている。
エルナ様は「全身が痛い」と嘆いているが、その声には張りがあった。
「マーサ、コーヒーのお代わりを」
閣下が私を呼ぶ。
その声は、もう「氷の閣下」のものではなかった。
「畏まりました、旦那様。……それと、奥様には栄養たっぷりの『特盛りステーキ』をご用意いたしましょうか?」
私が悪戯っぽく尋ねると、エルナ様は顔を真っ赤にし、閣下は「ああ、頼む!」と満面の笑みで答えた。
ヴォルフィード公爵邸の冬は終わった。
これからは、甘くて騒がしい、常夏の季節が始まるようだ。
私は使用人頭として、この「健康すぎる奥様」と「過保護な旦那様」を、墓場まで見守り続けることを誓った。
たとえ、食費が倍になったとしても。
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【マーサの脳内メモ】
・今夜の夕食は、カロリー高めで。
・ベッドの補強工事を発注すること。
・この幸せな嘘を、墓場まで持っていくこと。
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