Side Story 氷の仮面の下で、溶岩は煮えたぎっていた
深夜一時。
王宮の騎士団長執務室には、針が落ちる音さえ聞こえそうな静寂が張り詰めている。
私はデスクに広げられた羊皮紙の山と向き合いながら、こめかみを指で強く押し込んだ。
偏頭痛ではない。
ここ数ヶ月、私の心臓を蝕んでいるのは、焦燥感という名の毒だ。
「……遅い」
無意識に呟く。
視線は、手元の書類ではなく、壁に掛けられた古時計へと向かっていた。
エルナ・トワイライト。
第三聖女隊に所属する、私の部下であり――そして、私がこの世界で唯一、心を許している女性。
彼女がまだ、地下の資料室で仕事をしていることを私は知っていた。
帰れと言いたい。
温かいスープでも飲んで、ふかふかのベッドで眠ってほしいと、喉が裂けるほど叫びたい。
だが、できない。
私が彼女に甘い顔を見せればどうなるか。
神殿の古狸どもは、すぐに彼女を「公爵に媚びを売る女」と陰口を叩き、今以上の嫌がらせを始めるだろう。
彼女を守るためには、私が誰よりも厳しく、公平な上官として振る舞うしかない。
それが、不器用な私にできる精一杯の「守り方」だった。
(だが、限界だ)
先日、廊下ですれ違った彼女は、幽鬼のように痩せていた。
透き通るような白い肌は、病的なまでに青白く、目の下には薄っすらと隈が浮いていた。
その姿を見た瞬間、私の胸の奥で何かがきしむ音がした。
『第三騎士団の鎧、血の匂いが落ちていない。やり直しだ』
昨夜、私は彼女にそう告げた。
心の中では、自分を殴り飛ばしていた。
違う。そうじゃない。
「君の魔力は美しいから、君以外に任せたくない」と言いたかったのだ。
「完璧主義の俺が認めるのは君だけだ」と伝えたかったのだ。
けれど、私の口から出たのは、氷のように冷たい叱責だけだった。
彼女は「申し訳ありません」と震えながら頭を下げた。
その小さな肩が怯えているのを見て、私は自分の舌を噛み切りたい衝動に駆られた。
コン、コン。
不意に、扉が叩かれた。
心臓が肋骨を蹴り上げる。
このリズム、この控えめな強さ。
足音で分かっていた。彼女だ。
(落ち着け。リュカ・ヴォルフィード。お前は「氷の閣下」だ)
私は深呼吸をして、表情筋を凍結させた。
鏡を見なくても分かる。今の私は、誰も寄せ付けない鉄仮面だ。
「入れ」
声を低く落とす。
扉が開き、冷たい廊下の空気と共に、エルナが入ってきた。
鼻腔をかすめる、古紙とインクの匂い。
そして、その奥にある、彼女特有の清廉な気配。
私は椅子を回転させ、彼女に向き直った。
瞬間、息が止まりそうになった。
酷い顔色だ。
死人のように蒼白で、立っているのがやっとに見える。
今すぐ駆け寄って抱きとめたい衝動を、デスクの下で拳を握りしめて耐える。
「こんな時間に何の用だ、エルナ」
私の声は、想定以上に低く、威圧的に響いた。
彼女の肩がビクリと跳ねる。
ああ、またやってしまった。
怖がらせたいわけじゃない。ただ、心配でたまらないだけなのに。
「か、閣下に……ご報告がありまして」
彼女の声が震えている。
恐怖か、それとも疲労か。
早く用件を聞いて、帰らせなければ。
「手短に頼む。明日の討伐会議の資料に目を通さねばならん」
嘘だ。
資料なんてどうでもいい。
ただ、彼女の憔悴した顔を直視するのが辛かった。
自分が追い詰めたのだという罪悪感が、胃酸のように逆流してくる。
彼女は震える手で、二枚の紙を取り出した。
「……辞めさせて、いただきたいのです」
時が、止まった。
辞職。
その言葉が意味することを理解するのに、数秒かかった。
彼女がいなくなる?
私の視界から、私の世界から?
(駄目だ)
本能が拒絶した。
彼女のいない執務室。彼女の淹れたコーヒーのない朝。彼女の報告書のない日常。
それは私にとって、色のない灰色の世界だ。
「却下だ」
私は即答した。
焦りすぎて、声が裏返りそうになるのを必死で抑え込む。
「今の時期に聖女が抜けるなどあり得ない。魔物の活性期が近いことは知っているだろう?」
もっともらしい理屈を並べた。
だが、本音は違う。
行かないでくれ。俺を見捨てないでくれ。
君がいなくなったら、俺は誰をよすがに息をすればいい。
彼女は一歩踏み出した。
その瞳には、今まで見たこともない、悲壮な決意が宿っていた。
「待遇の問題ではありません……! わ、私には……もう、時間がないんです」
「……何?」
「これを、ご覧ください」
一枚の羊皮紙が、デスクの上に滑ってくる。
私はそれを拾い上げた。
指先が震えそうになるのを、必死に止める。
視線が、文字の上を走る。
そして、一点で凍りついた。
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【王立医療院 診断結果報告書】
氏名:エルナ・トワイライト
診断:魔力欠乏性・魂素崩壊症候群
特記:**余命半年(推定)**
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世界が、反転した。
音が消えた。
時計の音も、風の音も、自分の鼓動さえも聞こえない。
視界が急激に狭まり、その文字列だけが、毒々しい黒さで網膜に焼き付いた。
余命、半年。
「……あ、あ……」
喉の奥から、乾いた音が漏れた。
嘘だ。
嘘だと言ってくれ。
彼女は強い。いつだって、誰よりも早く出勤し、誰よりも遅くまで働いていた。
私の無理難題を、文句ひとつ言わずに完璧にこなしていた。
頑丈さが取り柄じゃなかったのか?
いつまでも、私の後ろをついてきてくれるんじゃなかったのか?
(……俺の、せいか?)
血の気が引いていく。
全身の血液が氷水に入れ替わったような悪寒。
私が、彼女に無理をさせたから。
私が、彼女を守ろうとして、逆に仕事を押し付けたから。
彼女の魂は、すり減り、崩壊し……あと半年で、消えてしまう?
『魂素崩壊』。
魔力を持つ者が、過度のストレスと枯渇によって陥る、不治の病。
治療法はない。
ただ、静かに死を待つのみ。
ガタッ!!
私は椅子を蹴り倒し、立ち上がっていた。
理性が弾け飛んだ。
上官としての立場も、周囲の目も、神殿への配慮も、全てがどうでもよくなった。
目の前に、エルナがいる。
今にも消えてしまいそうな、儚い存在。
彼女を失う恐怖が、津波となって私を飲み込んだ。
「……っ!?」
私はデスクを回り込み、彼女の細い肩を鷲掴みにした。
折れそうだ。
こんなに細い体で、彼女はずっと耐えていたのか。
私の歪んだ期待と、冷酷な命令に。
「閣、下……?」
彼女が私を見上げる。
その瞳に、私の顔が映っている。
酷い顔だ。
今の私は、きっと「氷の閣下」ではない。
ただの、大切なものを壊してしまった愚かな男の顔をしているだろう。
視界が滲む。
熱いものが頬を伝う。
涙?
私が泣いているのか?
幼い頃、剣の稽古で骨を折っても、戦場で腹を刺されても泣かなかった私が。
「……嘘だと言ってくれ」
声が出ない。
喉が痙攣して、みっともない掠れ声しか出ない。
「な、なぜ……どうして黙っていた……! 俺が、俺がこき使ったせいで……!」
後悔が、刃となって心臓を切り刻む。
もっと早く気づけばよかった。
「顔色が悪いぞ」と声をかければよかった。
「休んでいい」と、仕事を奪えばよかった。
愛していると、伝えればよかった。
半年。
あと半年しかない。
いや、診断書の日付は昨日だ。今日かもしれない。明日かもしれない。
彼女の心臓は、今この瞬間にも止まってしまうかもしれないのだ。
(死なせない)
心の奥底から、ドロドロとした熱い感情が噴き出した。
それは執着であり、独占欲であり、そして狂気にも似た愛だった。
神になど渡さない。
運命になど奪わせない。
この国の全ての権力を使っても、私の全財産を投じても、彼女をこの世に繋ぎ止める。
「死なせない……絶対に死なせはしない……!」
私は彼女の肩に額を押し付け、獣のように呻いた。
体温を感じる。
まだ、温かい。生きている。
この温もりを守るためなら、私は悪魔に魂を売ってもいい。
顔を上げる。
彼女の瞳を見る。
怯えている? 当然だ。上司がいきなり泣き出したのだから。
だが、もう遠慮はしない。
「上司と部下」という関係は、今ここで終わりだ。
「エルナ。結婚しよう」
「…………は?」
彼女が間の抜けた声を出す。
可愛い。
この声を、一生聞いていたい。
「俺の全財産と権力を使って、世界中の名医と薬を集める。君の命は俺が繋ぐ。だから……俺のそばにいてくれ」
プロポーズというには、あまりにも切実で、なりふり構わない言葉だった。
だが、これが私の魂からの叫びだった。
私の屋敷に閉じ込めよう。
最高級のベッドを与えよう。
指一本動かさせず、ただ呼吸をするだけの存在になってもいい。
私が一生、彼女の面倒を見る。
私の手が、彼女の頬を包み込む。
ああ、柔らかい。
壊れ物のように、そっと触れる。
今まで、触れることすら躊躇っていたその肌に、今は貪るように触れている。
鼻腔をくすぐる彼女の香り。
煤とインクの匂いに混じって、甘い花のような香りがする。
理性が揺らぐ。
今すぐ抱きしめて、どこにも行けないように身体ごと融合してしまいたい。
だが、駄目だ。
彼女は病人だ。骨が折れてしまうかもしれない。
私は残った僅かな理性で、衝動を「保護欲」へと変換した。
「け、結婚……?」
「そうだ、結婚だ。法的な手続きはすぐに済ませる」
私は宣言した。
これは決定事項だ。拒否権はない。
彼女が死ぬ運命にあるのなら、その運命ごと私が抱え込む。
「行くぞ、エルナ」
私は彼女を抱き上げた。
軽い。
羽毛のように軽い。
この軽さが、私の胸を再び締め付ける。
これからは、毎日最高級の食事を与えよう。
肉をつけさせ、血色を良くし、この腕の中に確かな重みを感じられるまで、徹底的に甘やかすのだ。
「か、かかか、閣下!? 降ろしてください! 私、歩けます!」
彼女が暴れる。
その抵抗すら愛おしい。
だが、歩かせるわけにはいかない。
歩くカロリーすら惜しい。一歩歩くごとに、彼女の寿命が縮む気がしてならないのだ。
「羽のように軽い。ちゃんと食べているのか? ……くそッ、俺がもっと早く気づいていれば……!」
私は彼女を抱えたまま、廊下を大股で歩き出した。
すれ違う部下たちが、ぎょっとして立ち止まる。
「氷の閣下」が乱心したと思ったかもしれない。
構うものか。
氷は溶けたのではない。砕け散ったのだ。
これから始まるのは、時間との戦いだ。
神殿? 世間体? 王宮の仕事?
そんなものは、彼女の命の前では塵に等しい。
もし邪魔する者がいれば、氷魔法で串刺しにするだけだ。
馬車に乗り込み、彼女を隣に座らせる。
その手を握りしめる。
華奢な指。冷たい指先。
私は誓った。
この手が温かくなるまで、私は二度とこの手を離さないと。
(愛している、エルナ)
言葉には出さなかった。
今はまだ、その言葉の重みに彼女が耐えられないかもしれないから。
行動で示そう。
過保護だと言われても、狂っていると罵られてもいい。
私の瞳に映るのは、困惑し、赤面し、そして儚げに震える彼女の姿だけ。
この瞬間、私の人生の全ては、彼女のために捧げられた。
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【リュカ・ヴォルフィードの内面ステータス】
表面:冷徹、無表情、絶対零度
内面:狂愛、パニック、独占欲の塊
現在の優先順位:
1.エルナの呼吸
2.エルナの食事
3.エルナの睡眠
〜(越えられない壁)〜
99.国家の存亡
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