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第1話 「余命半年」と嘘をついて辞職願を出したのですが、なぜか氷の閣下が泣き崩れて結婚を迫ってきます

「……限界だ」


喉の奥から絞り出した声は、数日間水を吸っていないスポンジのように乾いて、無惨にかすれていた。


深夜二時。

王宮の最下層に位置する「第三聖女執務室」は、湿った墓場のように静まり返っている。

ここにあるのは、天井まで積み上げられた羊皮紙の塔と、換気されていない淀んだ空気。そして、古紙特有のカビ臭さと、安物のインクが酸化したような、鼻の奥をツンと刺激する酸っぱい臭いだけだ。


私の視界は、狭く、そして霞んでいる。

眼球の裏側を、真っ赤に熱した針でチクチクと絶え間なく刺されるような偏頭痛。

まばたきをするたびに、乾燥しきった角膜と瞼が擦れて、ジャリジャリと砂を噛むような嫌な音が頭蓋骨に響く気がした。


(もう、無理。これ以上働いたら、本当に死ぬ)


ブラック企業の社畜ならぬ、ブラック王宮の社畜聖女、エルナ・トワイライト(二二歳)。

それが私の肩書きだ。


本来、聖女とは「祈りと癒し」を司る高貴な職のはずだ。

だが、この国において下級聖女の扱いは、魔力電池であり、万能空気清浄機であり、そして――都合のいい雑用係だった。


『聖女エルナ。先日の遠征報告書はまだか。誤字が一箇所あったぞ、書き直せ』

『第三騎士団の鎧、血の匂いが落ちていない。やり直しだ』

『明朝までに結界石への魔力充填を。三〇〇個だ、手早く頼む』


幻聴まで聞こえてきた気がする。

あの男――「氷の閣下」こと、騎士団長リュカ・ヴォルフィード公爵の、絶対零度の低音ボイスが。


彼は美形だ。それは認めよう。悔しいけれど。

月の光を吸い込んだような銀髪、鋭利な刃物を思わせる鼻筋、そして何者も寄せ付けないアメジストの瞳。

その立ち姿は、神が造りたもうた芸術品のように美しい。


だが、その中身は永久凍土だ。

彼に近づけば、物理的に体感温度が二度は下がる。

私のことなど「便利な自動回復装置」くらいにしか思っていない。その証拠に、私が過労でふらついても、彼は眉一つ動かさず「体調管理も仕事のうちだ」と切り捨てるのだから。


普通の辞職願では、絶対に受理されない。

「人手不足だ」「責任感がないのか」と、あの凍てつく声で論破され、倍の仕事を積まれるのがオチだ。


もっと、こう……彼ですら何も言えなくなるような、不可抗力の理由。

法も、義務も、雇用契約すらも無効化する、絶対的な「免罪符」が必要だ。


ふと、手元の羽ペンが止まる。

机の端に置かれた、昨日の健康診断の結果通知書が目に入った。

もちろん結果は『異常なし』。

社畜生活で培ったゴキブリ並みの頑丈さだけが、私の唯一の才能だ。


けれど。

もし、ここに書かれている文字が違っていたら?


(……そうだ。いっそ、死ぬことにしよう)


魔が差した、とはまさにこのことだ。

思考よりも先に、指先が動いた。

私は震える手で診断書を引き寄せると、生活魔法の応用である「文字改竄」の術式を展開する。


罪悪感で、胃の腑にドロリとした熱い鉛を流し込まれたような重苦しさが広がる。

心臓が、肋骨を内側から激しく叩き始めた。

ドクン、ドクン、と耳障りなドラムのような音が脳内に響く。


(バレたら、投獄? それとも国外追放?)


いや、このまま過労死するよりはマシだ。

私は覚悟を決め、魔力を込めた指先で、その文字列を書き換えた。


--------------------------------------------------

【王立医療院 診断結果報告書】

氏名:エルナ・トワイライト

所属:第三聖女隊


診断:魔力欠乏性・魂素崩壊症候群

特記:**余命半年(推定)**


医師所見:

回復の見込みなし。直ちに全業務を停止し、安らかな余生を推奨する。

--------------------------------------------------


ありもしない病名。

けれど、「余命半年」の文字だけは、残酷なほど鮮明に、黒々とした太字で強調しておいた。

これでいい。

これを突きつければ、いかなる鬼上司といえど、引き止めることはできないはずだ。


私は完成した「最強の切り札」を懐にねじ込み、ガタつく椅子を蹴るようにして立ち上がった。

足元がふらつく。

これは演技ではない。三日徹夜した今の私は、誰がどう見ても「死にかけの病人」そのものだった。


     ◇


騎士団長室へと続く長い廊下は、石造りの冷気が漂っていた。

一歩進むごとに、ブーツの音がコツ、コツ、と高く響き、静寂を切り裂いていく。


胃液が逆流しそうなほどの吐き気。

喉が張り付き、舌がざらつく。

水を飲みたいが、緊張で唾液腺が麻痺して、唾液すら湧いてこない。


目の前に、分厚い樫の扉が立ちはだかった。

この向こうに、あの男がいる。

想像するだけで、指先から血の気が引いていき、末端が冷たくなっていくのが分かった。


(落ち着け。私は病人だ。薄幸の、可哀想な、もうすぐ死ぬ聖女を演じるんだ)


深呼吸を三回。

肺いっぱいに廊下の冷たい空気を吸い込み、肺胞の隅々まで行き渡らせる。

震える拳を握りしめ、私はノックをした。


コン、コン。


「入れ」


間髪入れずに返ってきたのは、短く、硬質な声だった。

感情の起伏など一切ない、金属的な響き。


重い扉を押し開ける。

途端に、肌を刺すような冷気が吹き抜けた。


執務室の中は、極限まで整理整頓されていた。

塵一つない床、書類が直角に揃えられたデスク。

そして、窓際に立つ銀髪の背中。


リュカ・ヴォルフィード公爵が、ゆっくりと振り返る。

そのアメジストの瞳が私を射抜いた瞬間、背筋に冷たい電流が走った。


「こんな時間に何の用だ、エルナ」


「か、閣下に……ご報告がありまして」


私の声は情けないほど震えていた。

演技をする必要などない。純粋な恐怖だ。

彼は眉間の皺を深くし、不機嫌を隠そうともせずに私を見下ろす。

その視線は、まるで汚れた雑巾でも見るかのように冷淡だ。


「手短に頼む。明日の討伐会議の資料に目を通さねばならん。それに、貴様の昨日の浄化作業だが――」


ああ、やっぱり。

開口一番、仕事の話だ。

この人は仕事人間だ。私の顔色なんて見ていない。私が今にも倒れそうなことにも、気づいてすらいない。


(……いいもん。どうせ辞めるし)


むしろ好都合だ。

「もう使えません」と言えば、壊れた道具としてあっさり捨ててくれるだろう。


私はポケットから、先ほど偽造した診断書と、震える手で書いた辞職願を取り出した。

指先が冷え切って、感覚がない。

紙を持つ手が小刻みに震えるのを、必死に抑え込む。


「……辞めさせて、いただきたいのです」


「却下だ」


即答だった。

彼は書類を見ようともせず、冷徹に切り捨てる。


「今の時期に聖女が抜けるなどあり得ない。魔物の活性期が近いことは知っているだろう? 待遇への不満なら後で聞く。下がれ」


取り付く島もない。

私の言葉など、羽虫の羽音ほどにも届いていない。

予想通りだ。だからこそ、このカードが生きる。


私は一歩踏み出し、乾いた唇を震わせた。

喉の奥の渇きが、恐怖と共にせり上がってくる。


「待遇の問題ではありません……! わ、私には……もう、時間がないんです」


「……何?」


「これを、ご覧ください」


私は診断書を彼のデスクの上に滑らせた。

羊皮紙が滑る、カサリという乾いた摩擦音が、やけに大きく響く。


リュカ公爵の視線が、紙の上を走る。

一秒。二秒。三秒。


部屋の中の空気が、ピタリと止まった気がした。

壁に掛けられた古時計の針の音だけが、チク、タク、チク、タクと、私の心臓のリズムを刻んでいる。


(……怒られるかな。嘘だとバレたら、公文書偽造罪で処刑かもしれない)


脂汗がこめかみを伝い、頬へと流れ落ちる。

沈黙が長い。長すぎる。

やはり無理があったか。今すぐ土下座して、「冗談です」と言って泣きつこうか。


そう思い始めた、その時だった。


ガタッ!!


激しい音と共に、重厚な執務椅子が背後へ倒れた。

驚いて顔を上げると、あり得ない速度でリュカ公爵が机を回り込んでいた。


「……っ!?」


逃げる間もなかった。

冷徹と言われた彼の手が、私の両肩を鷲掴みにする。


痛い。骨が軋むほど強い力だ。

そして何より――熱い。

氷のようだと思っていた彼の手のひらが、火傷しそうなほどの熱量を持って、薄いローブ越しに私を焼き尽くそうとしている。


「閣、下……?」


恐る恐る見上げた私は、息を呑んだ。


いつも無表情な、鉄仮面のような彼の顔が、くしゃくしゃに歪んでいた。

美しかったアメジストの瞳が激しく揺れ、そこから信じられないものが溢れ出している。


涙だ。

あの「氷の閣下」が、泣いている?


「……嘘だと言ってくれ」


その声は、いつもの威圧的な低音ではなかった。

喉の奥で何かが千切れたような、祈るような、すがるような、弱々しい響き。


「な、なぜ……どうして黙っていた……! 俺が、俺がこき使ったせいで……!」


「え、あ、いえ、あの」


予想外の反応に、思考回路がショートする。

え、どういうこと?

なんでそんなに絶望しているの?

私はただの部下で、貴方は冷血上司で……替えのきくパーツの一つだったはずじゃ……?


彼は私の肩に額を押し付け、獣のような唸り声を上げて慟哭した。


「死なせない……絶対に死なせはしない……!」


熱い吐息が首筋にかかり、ゾクリとした感覚が背骨を駆け上がる。

震える彼の身体から、体温が直接伝わってくる。

その熱さは、私の知っている冷酷な彼とは、あまりにもかけ離れていた。


彼は顔を上げると、涙に濡れた瞳で私を真っ直ぐに見つめた。

その瞳孔は開ききり、狂気的なまでの光を宿している。


「エルナ。結婚しよう」


「…………は?」


私は間の抜けた声を漏らした。

幻聴だろうか? それとも、私もついに過労で頭がおかしくなったのか?


「俺の全財産と権力を使って、世界中の名医と薬を集める。君の命は俺が繋ぐ。だから……俺のそばにいてくれ」


彼の大きな手が、私の頬を包み込む。

その指先は微かに震えていて、私を壊れ物のように、あるいは世界で一番大切な宝物のように扱っていた。


至近距離で見せつけられる美貌と、見たこともない切実な表情。

そして、鼻腔をくすぐる香り。

いつもの冷たい空気ではない。微かに漂う高級な煙草と、甘い整髪料の残り香、そして男の人特有の体臭が混ざり合い、私の思考を麻痺させる。


(……待って。待って待って)


これ、今さら「超・健康体です」なんて言ったら。


私、この人に殺されるんじゃなかろうか。


「け、結婚……?」


私の脳内処理装置は、完全にフリーズしていた。

目の前には、泣き濡れた美貌の公爵様。

状況は、完全に詰んでいた。


「そうだ、結婚だ。法的な手続きはすぐに済ませる。君の身柄は、今この瞬間からヴォルフィード家が保護する」


「ちょ、ちょっと待ってください閣下! 話が飛躍しすぎて――」


「飛躍などしていない!」


リュカ公爵が叫んだ。

その悲痛な響きに、私はビクリと肩を震わせる。


「余命半年だぞ!? 一分一秒も無駄にできない。こんな埃っぽい執務室に君を置いておくなど、自殺行為に等しい!」


彼は私を睨みつけた。

いや、それは怒りではない。純度一〇〇パーセントの焦燥と、ドロドロに煮詰まった慈愛だった。


「行くぞ、エルナ」


「え? ど、どこへ……あうっ!?」


視界が、ふわりと浮いた。

重力を無視した浮遊感に、三半規管が揺さぶられる。


気づけば、私は彼の腕の中にいた。

いわゆる「お姫様抱っこ」というやつだ。

固い胸板の感触と、規則正しく打つ力強い心臓の音が、私の右耳に直接響いてくる。

ドクン、ドクン、と、それは私の心臓よりもずっと強く、速いリズムを刻んでいた。


「か、かかか、閣下!? 降ろしてください! 私、歩けます! というより重いです!」


「羽のように軽い。ちゃんと食べているのか? ……くそッ、俺がもっと早く気づいていれば……!」


彼は苦悶の表情で奥歯を噛み締めると、私を抱え上げたまま、大股で歩き出した。


     ◇


王宮の廊下は、静まり返っていた。

深夜二時過ぎとはいえ、夜警の騎士や、残業中の文官たちがちらほらと行き交っている。


「「「…………は?」」」


すれ違う全員が、彫像のように固まった。


無理もない。

「氷の閣下」が、血相を変えて、部下の聖女を大事そうに抱えて疾走しているのだ。

しかも、その聖女(私)は顔面蒼白で、今にも死にそうな顔をしている(※嘘がバレる恐怖で)。


「お、おい見ろ……閣下が……」

「まさか、あの聖女……閣下の愛人だったのか?」

「いや、あんな必死な顔、初めて見たぞ……」


ざわめきが波紋のように広がる。

好奇の視線が、針のように突き刺さる。

恥ずかしい。

顔から火が出そうだ。いっそこのまま気絶してしまいたいが、残念なことに健康体そのものの私は、意識がはっきりとしすぎている。


「閣下、お願いです……みんな見てます……!」


私の懇願など聞こえない様子で、リュカ公爵は正面玄関を蹴破る勢いで突破した。


冷たい夜気が、熱った頬を撫でる。

そこには、王族が使うような豪奢な馬車が待機していた。

黒塗りの車体にはヴォルフィード家の紋章が刻まれ、繋がれた二頭の黒馬が、白い息を吐いている。


彼は御者に短く告げる。


「屋敷へ戻る。全速力だ。ただし、絶対に揺らすな」


「は、はいっ!?」


「一回揺れるたびに、貴様の給金を減らすと思え」


理不尽なパワハラだ。

けれど、御者は主人のただならぬ気配を察知し、青ざめた顔で鞭を振るった。


     ◇


馬車の中は、異様なほどの沈黙に包まれていた。

最高級のクッションが私の背中を受け止め、路面の凹凸を極限まで吸収している。

車輪が回るゴロゴロという低い音が、遠くで響くだけだ。


リュカ公爵は向かいの席ではなく、私の隣に座った。

そして、私の右手を両手で握りしめ、祈るように額を押し付けている。


「……すまない」


かすれた声だった。


「君がここまで痩せ細るまで、俺は……仕事のことばかり……」


「あの、閣下。それは誤解で……」


「無理をして喋らなくていい! 肺に負担がかかる!」


違うんです。

痩せているのは元からだし、顔色が悪いのは貴方のプレッシャーのせいです。

そして何より、私は死にません。


喉元まで出かかった真実を告げようとした、その時だった。


緊張のあまり、唾液が気管に入った。


「ごほっ、ごほっ……!」


「エルナッ!?」


リュカ公爵が弾かれたように顔を上げる。

その顔色は、私よりも白かった。


「血か!? 吐血したのか!? おい、水だ! ポーションはないか!?」


「ち、違っ……むせ……けほっ!」


「ああ、なんてことだ……。発作が始まったのか……俺のせいだ、俺が連れ回したせいで……!」


彼は半狂乱になりながら、私の背中を優しく、けれど必死にさする。

その手つきがあまりに切実で、私は「ただむせただけです」とは口が裂けても言えなかった。


(どうしよう……。これ、後戻りできないやつだ)


胃の中で、罪悪感がドロドロと黒い渦を巻く。

冷や汗が背中を伝う感触が、やけに生々しく、気持ちが悪い。


そうこうしているうちに、馬車はヴォルフィード公爵邸に到着した。


     ◇


「お帰りなさいませ、旦那様」


ズラリと並んだ使用人たちの視線を浴びながら、私は再びお姫様抱っこで運ばれた。

通されたのは、客間ではない。

この屋敷で最も日当たりが良く、最も広い――主人の寝室の隣にある、貴賓室だった。


天蓋付きの巨大なベッド。

最高級のシルクのシーツ。

部屋の隅には、加湿用の魔道具から柔らかな蒸気が立ち上り、柑橘系のアロマが微かに香っている。


ベッドにそっと下ろされると、リュカ公爵は真剣な眼差しで私を見下ろした。

そして、恐ろしい「判決」を言い渡す。


「いいか、エルナ。今日からここが君の世界だ」


彼は懐から手帳を取り出すと、サラサラと何かを書き記し、私の目の前に突きつけた。


--------------------------------------------------

【エルナ・トワイライト療養規則】


1.ベッドからの移動禁止(トイレは抱っこで移動)

2.業務・魔法行使の禁止

3.食事は「あーん」のみ許可とする

--------------------------------------------------


「……あの、閣下? これは?」


「君の命を守るための絶対のルールだ」


彼は一切ふざけていなかった。

アメジストの瞳は、狂気的なまでの愛と決意に満ちている。


「君は指一本動かさなくていい。呼吸をする以外、全てのことは俺と使用人がやる。……絶対に、死なせはしないから」


重い。

愛が、重い。

そしてベッドのふかふか具合が、私をダメ人間に引きずり込もうとしている。


こうして。

私の「余命半年(大嘘)」による、地獄のような――いや、天国のような監禁生活が幕を開けた。


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