第6話 謝罪の機会
「ハウダート伯爵夫人か、確かに噂は聞いたことがある……アルペリオは、その者に入れ込んで婚約を破棄したという訳か」
ラムコフ侯爵家に戻ってきた私は、お父様にこれまでのいきさつを話していた。
それを聞いて、お父様は怒っている。それは恐らく、アルペリオ兄様の行動に対する怒りであるだろう。
女性にうつつを抜かして、家同士が決めた婚約を破棄した。その事実を聞いてその反応をするのは当然である。ただ私は、少し気になっていることがあった。
「……ハウダート伯爵夫人は、非常に多くの殿方と関係を持っているようです。その、お父様のことは信じていますが、まさか関係を持ったりしていませんよね?」
「レミアナ……」
お父様がハウダート伯爵夫人の名前を聞いた時の反応的に、関係を持っている疑いはなさそうである。
ただ、その質問を本人にぶつけられずにはいられなかった。信頼していたアルペリオ兄様に裏切られたことによって、私は少し人を信じられなくなっているのかもしれない。
「……このようなことをお前達の前で言うのは恥ずかしいことではあるが、私は亡くなった妻一筋だ」
「……母上、ですか?」
「彼女が亡くなってから独り身を貫いているのも、ロンダーを後継ぎとして引き取ったのも、私が妻を愛しているからだ。彼女以外と関係を持ったことなどない。幼い時に婚約した時からずっと、私は妻に夢中だった……」
「お父様……」
そんな私に、お父様は自分の心を包み隠さず話してくれた。
厳格なお父様の顔は、赤く染まっている。妻への愛を赤裸々に語るのは、やはり恥ずかしいのだろう。
しかしその真っ直ぐな言葉によって、私はお父様を心から信じられた。だからこそ、お父様も恥を忍んで話してくれたのだろう。
「……しかしそのハウダート伯爵夫人というのは、かなり厄介な存在であるようだな。浮き名を流しているということは聞いていたが、そこまでとは」
「ええ、第一王子であるギルトア殿下は関わるべきではない人とさえ言っていました」
「触らぬ神に祟りなしといった所か。まあ、我々にとって重要なのは夫人ではない。エスカー侯爵家の方だ。オルドーンから謝罪の手紙はあったが、腹の虫は収まらん。それは当人からは何の説明も謝罪もないからだ」
お父様の怒りは、アルペリオ兄様に向いているようだ。息子同然に目をかけていた彼の身勝手な振る舞いが、余程許せないのだろう。
これは当人から直接謝罪がなければ、お父様の腹の虫が収まることはなさそうだ。だが兄様がそれをするかは、微妙な所である。
◇◇◇
アルペリオ兄様がお父様に直接謝罪する。そんな機会は訪れないと思っていた。
はっきりと言って、兄様がそんなことをする意味はないからだ。あの婚約破棄は、私達との決別を表している。二度と関わらないと決めていなければ、あんな提案はできないだろう。
しかしながら、アルペリオ兄様がそうであってもそうでない人がいた。その人物とは、彼の父親のオルドーン・エスカー侯爵である。
「オルドーン……」
「ラングル……」
二人の侯爵は、向き合ってゆっくりとお互いの名前を口にした。
侯爵に対してもかなり怒っていたはずのお父様は、微妙な顔をしている。
当然のことながら、心の底ではかつての親友を憎み切れていないのだろう。今回の件は、彼の息子の暴走である。それはお父様だって、わかっているのだ。
「……いや、ラムコフ侯爵。今回の寛大な措置には感謝したい。こうして謝罪の機会を与えていただけたのは、ありがたく思っている」
「……エスカー侯爵、はっきりと言っておこう。今回の婚約破棄に、私は怒りを覚えている。しかしながら、それでもそちらの言い分も一応聞いておく必要があると思って、この場を設けた。ただそれだけのことだ」
だが、二人の雰囲気は一気に変わってしまった。
友ではなく、侯爵としてお互いに振る舞うつもりであるらしい。
それはなんというか、悲しいことである。何もなければ、二人はずっと友達でいられたはずなのに。
「アルペリオ、何を言うべきかわかっているか?」
「……はい、父上」
その原因であるアルペリオ兄様は、苦虫を噛み潰したような顔でその場に立っていた。
当たり前のことではあるが、この場にいるのはとても気まずいだろう。だがそれでも、エスカー侯爵は私達の前に彼を連れてきたのだ。
「ラムコフ侯爵、この度の無礼な振る舞いを謝罪します。誠に申し訳ありませんでした」
「……」
アルペリオ兄様の謝罪に、お父様は目を細めていた。
親友の息子であるため、お父様は兄様のことを買っていた。そんな彼に裏切られて、謝罪されて、何を思っているのだろうか。
「もちろん、謝罪は謝罪として受け止めるとしよう。しかしだアルペリオ、お前は貴族として許されない振る舞いをした。それは覚えておけ。私とお前の父親の間に義理があるからこそ、今回はことがそれ程大きくならず済んでいるのだ。本来であれば、こうはならなかった」
「……」
「この場を設けてくれた父親に感謝しろ。お前は今回の件を反省して、心を入れ替えなければならないのだ。いいか、この失敗を活かす以外にお前に生きる道はない。これは父親に免じて、寛大な措置で済んでいると理解しろ」
お父様は、アルペリオ兄様に淡々と言葉を発していた。
そこには、当然怒りの感情がある。だが大人であるお父様は、激昂して怒りをぶつけたりはしないようだ。
きっとこれは、お父様がアルペリオ兄様にかける最後の言葉であるだろう。それが彼の心に届いてくれていればいいのだが。
◇◇◇
お父様は、エスカー侯爵と二人きりで話をするようだ。侯爵同士として、色々と話し合わなければならないことがあるのだろう。
二人が行ってしまったため、私とロンダー、そしてアルペリオ兄様の三人は、初めに招いた客室に取り残されていた。
その中で、アルペリオ兄様は神妙な顔をしてこちらを見ている。私に対して、なんと声をかけるべきか考えているのだろうか。
「……姉上、行きましょう」
「……ええ、そうね」
そこで私は、ロンダーの言葉に頷いた。
別に私達は、いつまでもこの部屋にいる意味がある訳ではない。この部屋はあくまで、アルペリオ兄様が待機する場所だ。
「レミアナ、待ってくれ」
「……」
そんな私に、アルペリオ兄様は引き止めてきた。
その声に、私はゆっくりと振り返る。本来ならこのまま立ち去りたい所だが、一応最低限の礼儀として話を聞くとしよう。
「……アルペリオさん、何の用ですか?」
「む……」
そう思っていた私の前に、ロンダーが現れた。
彼は私のことを庇うように立っている。それにアルペリオ兄様は、少し面食らっているようだ。
「ロンダーか。僕は、レミアナに話があるんだが……」
「今更、あなたが姉上に何を言うのですか?」
「言いたいことは色々とある」
「それが謝罪であろうと言い訳であろうと、あなたが姉上にそのような言葉をかける資格があると思っているのですか?」
ロンダーの言葉からは、アルペリオ兄様への強い敵意が伺えた。
姉である私を傷つけた男が、許せないということなのだろう。
そんな彼の気遣いが、私はとても嬉しかった。その後ろ姿が、とても頼もしく見える。
「申し訳ないことをしたとは思っている。だからこそ、謝罪をしたいんだ」
「申し訳ないこと? 違います。あなたがやったのは、許されないことだ。父上も言っていたでしょう。あなたが今こうしてここに立っているのは、父上とエスカー侯爵の間に絆があったからです。本来であれば、このような状況にはなり得ない。あなたは姉上を侮辱したのだから」
ロンダーは、アルペリオ兄様の認識の甘さを指摘した。
確かに彼がやったことは、許されるべきことではない。元々関係性が強かったから、この状況は成立しているのだ。
そこで私は理解した。アルペリオ兄様は、まだ子供であるのだと。彼は大人になどなっていない。家を継ぐ貴族としての自覚を持てていないのだ。
「……レミアナ、すまなかった。だが、これだけは信じてもらいたい。僕にとって、君は妹のようなものだ。故に君と結婚するということが許容できなかった」
「アルペリオ兄様……いいえ、アルペリオ侯爵令息、それは欺瞞です。あなたは、ハウダート伯爵夫人にうつつを抜かしていただけではありませんか」
立派になった弟の背中を見ていることもあって、私はアルペリオ兄様のちっぽけさをより強く実感するのだった。
「アルペリオ侯爵令息、はっきりと言っておきます。あなたはこれから心を入れ替えるべきです。ハウダート伯爵夫人との関係を断ち切り、真っ当な侯爵令息になってください」
「……」
アルペリオ兄様は、私の言葉に少し眉をひそめた。
それは恐らく、夫人との関係を断ち切るように進言したからだろう。丁度その時に顔を変えたのがわかった。
それだけ彼は、ハウダート伯爵夫人に惚れこんでいるのだろう。
「エスカー侯爵には、私もお世話になっています。その義理もあるため、一応言っておきますが、ハウダート伯爵夫人はまともな人ではありません。即刻手を切らなければ、あなたはいつか後悔することになりますよ」
「……レミアナ、僕のことを悪く言うのは構わないが、ハウダート伯爵夫人を悪く言うのはやめてくれないか」
夫人のことを痛烈に批判した私に対して、アルペリオ兄様は鋭い視線を向けてきた。
その視線に、私は少し驚く。兄様がそんな目をする所なんて、見たことがなかったからだ。
「アルペリオさん、あなたはどうしてあんな人の肩を持つんです? あなただってわかっているのでしょう? 彼女は様々な人と関係を結んでいる。そもそも彼女は、ハウダート伯爵の妻だ」
「……もちろん、彼女の浮き名に関して思う所がない訳ではない。しかしそれは、仕方ないことだ。僕も割り切っている」
「仕方ないこと?」
「彼女の愛は、誰よりも大きい。それを未熟な僕は一人で受け止めることができない。だから彼女は、その愛を皆に振りまいているのだ」
アルペリオ兄様は、本当にどこまでもハウダート伯爵夫人にのめり込んでいる。
彼女のことを愛おしそうに語る彼を見て、私はそれを悟った。最早彼には、誰の言葉も届かないのかもしれない。
「あなたもハウダート伯爵夫人も狂っている。凡そ理解することができない考え方だ」
「ロンダー、それは君がまだ子供だからだ」
「お言葉ですが、大人になるとはそういうことではないと思いますよ。僕もあなたも侯爵家を継ぐ責任ある立場だ。大人であるつもりなら、その責任を果たしたらどうですか?」
「知ったような口を聞かないでくれ。君はまだ何も知らない子供であるというのに」
ロンダーとアルペリオ兄様は、どんどんとヒートアップしている。
思えば、二人はそこまで親しい間柄ではなかった。姉の友人、友人の弟、希薄な関係性だった二人は、もしかしたらお互いに色々と思う所があったのかもしれない。
二人の激しい口調から、私はそれを感じ取っていた。
「姉上にとって、あなたは兄のような存在だった。しかしあなたは、婚約破棄という形で姉上を侮辱した」
「侮辱したつもりなどない。ただ僕にとって、レミアナは妹であるというだけだ」
「今のあなたが、兄のつもりなど言わないでください。既にあなたは、兄失格だ!」
ロンダーとアルペリオ兄様の言い合いに、私は何も言うことができなくなっていた。
二人の気迫に、気圧されていたのだ。特に、ロンダーの気迫に。
いつも穏やかで、どちらかというと臆病な弟が、ここまで感情を露わにしている。その事実に私は、喜びと少しの寂しさを感じていた。
「それなら言わせてもらおう。君はレミアナの何を知っているんだ?」
「……なんですって?」
「僕は君がこの家に来るよりも昔から、レミアナのことを知っている。君なんかよりも、余程僕の方がレミアナの兄弟だ」
「それは……」
しかしそこで、ロンダーが言葉を詰まらせた。
どうやらアルペリオ兄様の言葉が、彼の心のどこかに刺さったようだ。養子としてこの家に引き取られたこと、それをアルペリオはかなり気にしているのかもしれない。
それを理解した瞬間、私の心はふつふつと燃え上がっていた。抑えられない怒りというのは、こういうものをいうのだろう。感情が昂るのとは裏腹に、私はそんな感想を抱いていた。
「アルペリオ侯爵令息、今の言葉は聞き捨てなりません」
「……レミアナ?」
「ここにいるロンダーは、間違いなく私の弟です。あなたの先程の言葉は、婚約破棄されたことよりも、ハウダート伯爵夫人と関係を持っていた事実よりも、許せないことです」
どれだけ落ちぶれようとも、私の心にはアルペリオ兄様に対する情が残っていたのだろう。
彼に対して、一定以上強い言葉を出すことができなかった。彼に失望したつもりでも、完全に見限れてなかったのかもしれない。
それはきっと、今までの出来事で最も侮辱されていたのが自分だったからなのだろう。しかし彼は、最後の一線を越えたのだ。私の堪忍袋の緒は、今完全に切れた。
「私は今まで、甘かったのでしょうね。アルペリオ侯爵令息、私はもう二度とあなたを兄とは思いません。今日という日が、私達の決別の日です」
「レミアナ……」
「ロンダー、行きましょう。これ以上、この人と話していても時間の無駄だわ」
「は、はい、姉上……」
「レミアナ、待って――」
私はアルペリオ侯爵令息に背を向けて、部屋から出て行った。
なんというか、不思議なくらい清々しい気分である。もしかしたら、私はこれでやっと未来に進むことができるのかもしれない。私はやっと、彼を断ち切れたのだ。




