「もちろん、ここにも法ある」
この作品は、サイエンスライター北村雄一さんの地球放送の記事からインスピレーションをいただき執筆しました。石油資源枯渇後も人類は生きてゆく。世界一かわいいアウトローの物語をお楽しみください。
もちろん、ここにも法はある‥‥条件つきで。
たとえばこの地で正視に堪えない犯罪行為が行われているとしよう。善意の目撃者が、その事実関係を証拠と共に「都市」へ訴え出たとする。
そして予備調査の結果「訴えが信憑性の高いものである」と判断された場合、「執行官」がやってきて、この地に秩序をもたらすことになる。
今となっては入手困難なプレートキャリアとアサルトライフルで武装し、爆薬つきのドローンを蜂の群れのように引き連れた「執行官」は、資源枯渇後の法の番人だ。交通の便も悪く、行政も限定的にしか機能していないこの世界では、「執行官」の権限は必然的に大きくなっている。すべての行動を撮影することを条件に、「処分」を行うことさえ認められる。
その「実力行使」は巷に出没する「山賊風情」を問題にはしない。山賊なんてしょせんは猿山の大将だ。速やかに「法」は回復されるに違いない。
ただ、それには時間がかかる。予備調査に二か月。執行官の編成と派遣に二週間、現地での情報収集と詳細調査(目標の特定とも言う)、作戦立案‥‥つまり、急ぎの用には間に合わない。
ここには一時的に暴力の不均衡が生じ、理不尽が現実のものになる。それが現実だ。
たとえばこの状態。十二歳のいたいけな子供がなすすべもなく椅子にくくりつけられ、その目の前で幼馴染の少女が今にも犯されようとしていても、それは特別珍しい光景というわけではない。これは今や日本全国で見られるありきたりな日常の光景だ。
石油資源枯渇後の世界ではまさにパンダのように貴重な職種、「学者」達はこの状態を以下のように表現する。
—暴力が世界に還元された状態—
なるほど、いいえて妙だ。ここには軍隊も、警察もない。あるのは水とカロリーと鉄だ。だから時には悪党がのさばり、時には自警団がのさばる。
町の集会も行われる広場の前だった。旧時代に存在した観光施設の跡地で、アスファルトの名残のような物と、機械で加工された石畳が地面を覆っている。明け方の日の光はまだ谷あいには届いておらず、見下ろす段々畑には山頂の影が伸びていた。
広場は石畳の遊歩道に囲まれていて、ずっと上の方には、朽ち果ててかけてつる植物に覆われた、古めかしい回転木馬も見える。
顔の真ん中を蹴り飛ばされて、あきらは仰向けに転がった。椅子の背もたれと地面の間に腕を挟まれて痛い。
「気に入らねぇ。小賢しいクソガキだ。なんでこんなガキに時間を取られなきゃいけないんだ俺は?」
あきらのおでこを、散弾銃の銃口が、ごつん、と小突いた。
ほんとに悲しいことだ。これから夜明けだというのに、これから長く美しい人生が待っていたはずなのに。
あきらは心で深いため息をついた。
‥‥たぶん、ぼくはここまでだ。




