第139話 冥界破者
黒曜石の素材で敷き詰められた艶やかな床。綺麗に磨き上げられたソレはまるで科鏡の様に反射して彼らの身を映し出す。重苦しい雰囲気がその場には満ち満ちていた。”血”の守護者────クレイム・ブラッドレイが玉座の間へと姿消したのはほんの数秒前の出来事であった。
「ッ……」
フリージアは無意識に生唾を飲み込む。それは彼がずっと仇として、殺すと決めていた龍と遂に邂逅するからか? それとも眼前に、彼女たちの眼先に聳える扉を守護する黒灰の騎士の威圧感の所為か? どちらのか、はっきりとは分からず……いや、もしかしなくてもその二つの理由が少女の胸中に内在していた。
去り際、彼には強がって見せたが、正直に言えば不安で仕方がなかった、恐くて仕方がなかった。何せ、眼前に立っているのは帝国最強の称号〈五天剣〉を与えられた騎士であり、五振りある〈剣〉の内、彼の老騎士がその頂点に長年君臨している強者であるのだから。
────何処までやれるかしらね……?
皆目、見当も付かない。
「全く、我らが主は本当に身勝手すぎる。それに仕えるこちらの身の事も少しは考えて欲しいものだな……まあ、世界を見下す龍に言ったところで無駄か────」
嘯きながら、鎧具足の上に漆黒の外衣を靡かせて、老騎士はその手にぶら下げた禍々しい魔鎌を構え直す。そうして真っ直ぐに正面────三人の若き血統者たちに向けて言い放った。
「貴殿らに恨みはないが、主が通すなと仰せならばそれに従うしかあるまいよ。申し訳ないが、黙って踵を返すか……それとも潔く負けを認めてもらえるだろうか?」
瞬間、底冷えするような殺気が重苦しい静寂を塗り替え、老騎士は恐ろしい速さで三人────その中で戦闘能力が一番低いレビィアに狙いを定めた。
「ッ────下がって!貴方の役目はここまで、この騎士は私とヴァイスで相手をする!!」
死を刈り取る鎌刃がレビィアの細い首に掛かりかける。それをフリージアは間一髪で彼女を無理やり後方へ突き飛ばすことで回避する。
「え────うぇッ!?」
身体を後ろへ容赦なく吹き飛ばされた本人はまともに受け身も取れずに地面に尻もちを付いて呻く。痛そうではあったし、フリージア自身も乱暴であったと自覚はしているが、何が起きたのかも分からずに死ぬよりは良いだろうと割り切った。
「うむ、良い反応だ。しかし、この期に及んで仲間の心配とは……俺も随分と舐められたものだな……」
「うっ────チッ!!」
品定めでもするように、兜越しで老騎士の鋭い眼光がフリージアを射抜く。空を斬った鎌はその勢いを利用して一回転、鋭い旋回を経て彼女の身体を腰から真っ二つにしようと迫る。それを既の所で細剣で去なして、事なきを得る。しかし、ただやられてばかりではいられない。
「ヴァイス!!」
「うん!!」
短く、激を飛ばすようなやり取り。老騎士がフリージアへと目移りしている隙にどうしてもう一人の勇者が動かずにいられるだろうか。瞬く間に老騎士の背後へと忍び寄ったヴァイスはガラ空きである彼の背へと天色の剣を上段から振り抜いた。
「ハァアッ!!」
確かに彼の剣が老騎士を切り裂くかと、そう思われた直後────
「貴殿も中々に筋が良い────だが幾分、気が急いでいるな」
「な────!?」
彼の老騎士は悠々とその黒紫の鎌でヴァイスの攻撃を弾き、弾き飛ぶように後退した。
「ふむ、これは中々────」
まずは小手調べ……とでも言うように老騎士は攻防を一旦区切る。その姿には強者としての余裕が垣間見えて、多対一だと言うのにそれを全く気にした様子もない。対して、たった数合の斬り結びでフリージアとヴァイスのその額には嫌な汗がじとりと滲んでいる。
「魔鎌〈破壊の鎌刃〉、これが噂に聞く全てを崩壊させる〈冥界破者〉の力……」
「たった一度の打ち合いで刃に罅が……!?」
二人は今しがたの禍々しい魔鎌との衝突で齎せられた自身の武器の状況を見て苦し気な反応を見せる。
第一剣────ヴォルフ・グレイブスの使用武器は見ての通りその禍々しい黒紫の鎌である。そうしてその鎌は第四剣のラミア・ガーロットが武器としていた〈魔槍〉と同じく、〈魔鎌〉と言われるモノである。
〈五天剣〉とは帝国最強の騎士に与えられる称号であるが、厳密に言えばちょっと違う。強い騎士ならば誰でもなれるのか? 否、それは断じて否であり、帝国が所有する五本の魔を関する武器────魔装機の力を自由自在に操り、それを認められ下賜された騎士こそが〈五天剣〉の称号を得るのだ。
魔装機は正にもう一つの魔法の具現であり、帝国が所有する五本のソレは様々な力を内包している。〈反転遊戯〉の魔槍が宿すその力は「双極する磁力の付与」であり、〈黒海覇王〉の魔剣が内包するその力は「増幅」である。その強さは〈血統魔法〉に勝るとも劣らない。その謳い文句にはなに一つの虚飾はないのである。
────この魔装機の力をどう攻略するかが勝利の鍵……!!
そうして第一剣〈冥界破者〉の使用する魔鎌〈破壊の鎌刃〉は、その鎌刃に物体が触れると破壊を促進させる能力が付与されている。そうしてもう一つ注意するべき点は眼前の老騎士の扱う魔法であり。彼の騎士は二つの属性魔法を操る魔法の手練れでもあると言うこと。その属性は火と水であり。世界でも珍しい二重属性の使い手でもあった。
「随分と博識なことだな……。こんな時代遅れの魔法騎士なぞ、貴殿らからすれば化石も同然じゃないか?」
虚勢でも謙遜でもない。彼の英雄、〈紅血魔帝〉と覇を競った生きる伝説の老騎士の今の言葉は本心であった。
「ッ……!!」
そこには油断も隙も無い。今の攻防だけで老騎士が二人の血統者を取るに足らないと侮ってくれればどれだけ状況は好転したことだろうか。それを理解していた氷の姫はやはり苦虫を噛み潰したように顔を顰める。
「さて当然ながらこちらの手の内は全て割れている。それにまだ若いとは言え、ウチの若造どもと比べたら断然やりよる……。本当に次から次へと兵共が迫ってきて────」
黒灰の騎士甲冑に漆黒の外衣を纏うその姿は宛ら冥界より具現した死神のようであり、戦い方も正に終焉を告げる死の宣告者のようであった。
「────油断も隙もあったもんじゃあないな」
瞬間、気が付けば黒灰の老騎士が眼前から消え失せる。そうしてそれと同時に広間を埋め尽くす濃霧が視界を埋め尽くした。
「「ッ!!?」」
その事実を認識し、警戒したところでもう遅い。どれだけ視線を彷徨わせても全て濃霧に遮られて一寸先も見通すことは叶わない。そうして異様な蒸し暑さでじっとりと全身が汗をかき始めて、焦燥と熱さによって思考が乱れた明確な隙を────
「────!!」
「ッ…………う、ぐぅ!!」
死神は無駄なく刈り取りに来る。徐に濃霧の先から鎌刃が出現し、それは無駄のない起動でフリージアの細身を切り裂きにかかる。空気の微妙な震え、直前の霧の不自然な揺らぎを視界の端で捕らえられた彼女であったが完璧に回避することは不可能だった。寧ろ、たった僅かの猶予で致命傷を避けた少女を褒めるべきだろう。
「見事。今のも躱すとは……!!」
その実、依然として濃霧に身を隠した老騎士は驚愕の声を上げて、素直にフリージアを称賛した。
しかし、魔鎌によってその身を────左肩を浅く────切り裂かれた少女はそれどころではない。
「ぐ、ぅう……なるほど、これは普通に血が出るより厄介ね────」
「大丈夫、フリージア!?」
今しがた切り裂かれた箇所を苦悶の表情で抑えるフリージア。その傷口からは特に出血は無く、一見何ともないように思えるがそれは大きな間違いであった。
普通の裂傷と違い、彼女の肩は罅割れるように瓦解を始めている。魔鎌が内包する「触れた物体の破壊を促進させる」能力は勿論、人体のも有効であり、あの鎌刃で身を斬られた者はじわじわとその傷口から崩壊を始める。その崩壊を止める方法は魔鎌の所有者を殺すか、最高位の霊薬でその身を癒すか、傷口のある個所を切り捨てるかである。
幸いと言うべきかフリージアとヴァイスは最高位の霊薬である〈聖者の薬水〉をそれぞれ一つずつ今回の為に用意はしていたが、
「さて、この危殆をどう退ける?」
それを許すほどの慈悲を彼の老騎士は持ち合わせていない。
「クソッ────!!」
即座にフリージアに霊薬を振り撒こうとしていたヴァイスの行く手をまたも濃霧の中から這い出た鎌刃によって阻まれる。
防御は不可能……とまでは言わないができるならば避けた方がいい。その破壊能力によって既に勇者の天色の剣は罅割れている。これで眼前から迫りくる鎌刃を防いでもいいが、そうすれば更に剣の崩壊が促進させられる。
────もってあと三回が限度……この後の事も考えると二回以上の斬り結びは致命的だ!!
「じゃ、まぁッ!!」
故に、勇者の取った行動は回避一択。先ほどの攻撃とは違い分かりやすい軌道で迫りくる刃をヴァイスは間一髪で回避する。
「器用なものだな!!」
上半身を仰け反らせ、床と接着する程の柔軟さで鎌刃を躱した勇者にまたも老騎士は感嘆した声を上げる。
「ッ……そこ!!」
その声を頼りに勇者は上半身を跳ね上げるように天色の剣を振り上げる。不安定な状態から放たれたとは思えない正確無比な一振りは確かに嗄れ声のした方向を捉えるが、虚しくも空を斬った。
────クソ……いったい何処にいるって言うんだ……!!
全く手ごたえの無い感覚に勇者の思考は散漫になる。それを咎めるように後方から大声が張り上がった。
「舐め、るなァア!!」
依然として左肩にできた罅割れの回復はできていない。しかし、そんなの関係ないと言うように氷の姫は広間全体を凍てつかせるほどの冷気を放つ。
瞬く間に周囲の濃霧を六花へと豹変させて、視界が一気に開ける。藍色の光に照らされて幻想的に煌めく氷片の先には今まで姿を頑なに現さなかった黒灰の老騎士がいた。
呆気なく自身の二つの魔法を掛け合わせて生じさせていた濃霧を、圧倒的な冷気と魔力の勢いによって無効化された。流石に、広間全体に霜が降るほど寒さが充満してしまうと彼の魔法では新たに濃霧を発せさせることは不可能であった。
「これはグレイフロストの……。そうか、これはますます気が抜けない!!」
これが属性魔法と血統魔法の決定的な差であった。しかし、そんなことなどこの老騎士はとっくの昔に突き付けられ、絶望させられ、諦念させられていた事実である。この身は特別な魔法を宿してなどいない。なれば、それ以外の方法を用いてバケモノどもに肉薄するだけのこと。この程度の事象は老騎士にしてみれば日常茶飯事であった。
「ヴァイス!!」
「うん!!」
それはこの二人の血統者も同じことである。依然として劣勢、厄介極まりない濃霧を攻略してもまだ本命である魔鎌が彼らの優位を打ち砕く。
視界は良好。だが眼前の死神は濃霧が無くても理不尽に死と破壊を突き付けてくる。一度でもしくじればその身は二度と修復不可能な我楽多へと成り下がる。それを自覚すると臆病風がどこかから湧いてできて、前に進もうとする足が竦む。
────関係あるかッ!!
しかし、だからと言って、彼らが先に進まない理由にはならない。ここで停滞する理由には成り得ない。
「「ッ!!」」
勇者と氷姫が弾け飛ぶようにして眼前の老騎士へと肉薄する。それに反射して死神も地面を大きく蹴った。
「正念場だな!!」
両側から挟撃するように肉薄する二人の血統者。それを認めて死神はどちらを迎え入れでもなく、真っ直ぐに突き進む。
先に仕掛けたのは勇者であった。
「〈極光の白刃〉!!」
光り輝く魔力の胎動、周囲をより一層照らす光粒子は剣身に宿り、ソレはやがて大きな刃を形作っり一振りの極光の大剣と成った。振り翳された光の刃に死神は年甲斐もなく無邪気な声が出た。
「光の魔法!勇者の再来は本当だったか!!」
反応とは裏腹に死神は大きく、周囲の空気まで滅殺するかのように禍々しい黒の闘気を鎌刃に纏わせて光の刃を撃激する。
光と黒の衝突。激しい魔力と闘気の激突に周囲が震え上がり、衝撃波が巻き起こる。その発信源に居る二つの影は両者一歩も引かずに力の押し付け合いをする。
「ハ、ァアアアアアアアアアッ!!」
「ウォオオオオオオオオオオッ!!」
一見、拮抗しているかのように思える鍔迫り合い。しかしそれを打ち破るのはやはり魔鎌の反則的な能力であった。
「光の刃であろうと此奴は全てを破壊するぞ!!」
「ク、ソ────ッ!!」
じわじわとしかして着実に勇者の光の刃は鎌刃の能力によってその刀身を蝕み、瓦解させていく。あと数秒もこの力勝負を続ければ勇者の剣は完全に破壊される────
「あんまり無茶するもんじゃないわよヴァイス!貴方にはまだやることがあるんだから!!」
それに待ったを掛けたのは氷姫であり、彼女は底冷えするような魔力を以てして最後の力を振り絞る。
「〈氷結凍土の灰霜と帰せ〉!!」
「ッ────!!」
それはグレイフロストの秘奥にして、最強の凍結魔法技。今までじっくりと、さり気なく冷やし続けていた空間の温度。使おうと思えば即座にこの秘奥を使用することはできたが、それではこの魔法の真価を発揮することは叶わない。
「これ、は……!!?」
瞬く間に、床から這いずるような氷結凍土の極寒が老騎士の身を襲う。つい先ほどまで血から勝負を演じていた勇者の姿は既に無く。入れ替わるようにして白銀の長髪が靡いた。
完全にこの空間は眼前の氷姫の支配域と化した。それは偏にどんな状況かであろうと着実に自身の魔力と冷気を張り巡らせ、入念な準備に全てを費やした彼女の賜物であり、こうなってしまえば彼の死神であれど、簡単にこの魔法をどうにかすることは不可能であった。
「終いよ、ここまでこぎつけた時点で私の凍りは無敵────彼でも逃れるのに十数秒は要するわ」
「執念とでも言うべき魔力の結束……全く天晴と言うしかないな、しかし────!!」
氷姫は悠然と老騎士へ肉薄し、蒼水晶の様に輝く細剣で以て彼の首を討ち取ろうとする。だが、彼の老騎士も例え詰みの状況であろうとタダでやられはしない。敵がどんなに幼く、若かろうと自身を脅かす脅威と成り得るのならば賞賛し、全力で挑むが、棒立ちで殺されるつもりは毛頭ない。それは一つの騎士の矜持であった。
「せめて最後まで、騎士として全力を賭けようではないか!!」
既に半身以上を氷姫の魔法によって凍らされた老騎士はしかしながら、辛うじて動く右手で魔鎌を投擲し迫りくる氷姫に一矢報いる。
「ッ────!!」
しかし、氷姫に油断や驕りは無く。鋭く回転して迫りくる魔鎌を躱して、一息に兜と鎧の隙間に細剣を捻じ込ませる。
「あ、が……こふ────!?」
「私たちの勝よ」
そこで勝負は決した。確かの氷姫の一振りは老騎士の喉元を貫き、彼は血の泡を吹き苦しんだ後に絶命した。
一瞬の静寂。けれどそれは気のせいで直ぐに彼らは自分たちの荒れた呼吸によって意識をハッキリとさせる。集中していた所為か今まで気が付かなかったが、思ったよりも戦闘での負傷が酷かった。至る所に罅割れた傷が見え隠れして、ここまで酷使した武器も半壊している。
「ギリギリの勝利ね……」
「ふ、フリージア!早く霊薬を使わないと、髪が……!!」
「……髪?」
勝利の余韻に浸っていると慌てた様子でヴァイスが駆け寄ってくる。彼に指摘された自身の髪に意識を向ければ、彼女自身もどうして勇者殿がこんなに驚いているのか合点がいった。
「あら、いつの間にかバッサリ切られてるわね。いつかしら?最後のあの投擲の時?」
彼女の代名詞、その長く絹糸のように艶やかでキメ細やかな白銀の長髪が肩口辺りまでバッサリと切断されていたのだ。しかも切断面が罅割れ、今も彼女の髪は崩壊を続けているオマケ付きだ。
しかし、フリージアはヴァイスの指摘をのんびりと受け止めて、少し髪を弄んでから頭から霊薬を被った。別に髪の長さに拘りこそなかったが、どうにも彼女の意中の相手は彼女の長髪によく視線を向けていた。そこから導き出される思考は────
「短いのは彼の好みじゃないかしら?」
何ともこの状況にそぐわない乙女らしい疑問であった。
無意識に少女は思い人が消えた扉の先に視線を向ける。今すぐあの中に行って彼を助けたいが、けれども玉座へと続く扉は今もなお龍の影によって固く閉ざされ力づくで開けるのは不可能そうであった。
「大丈夫よね、レイ?」
不安げにその蒼い瞳が揺れる。
そうして一際大きな衝撃音と魔力の発露がその扉越しからでも伺えた。彼の戦いはまだ始まったばかりである。