第138話 啄み、蝕む
陰鬱とした渡り城内を走り抜けて、着実に上の階層へと昇っていく。
「これで四つの目の〈結界〉か……」
足元に砕け散った黒い硝子片を一瞥して独り言つ。
現在地は城内四階層。レビィアの話道理ならばこの階に玉座の間があるとのことだ。序盤に比べるとだいぶん着実に先へと進めている。逆に言えば、最初の〈結界〉以降、時にこれと言った罠や敵襲なんてのは無かった。
階層を上るごとにこうして認識疎外の〈結界〉によって足止めを食らうが、四回目ともなると慣れたものだ。別の階に来た瞬間に違和感を察知して、作業的に〈結界〉の核を破壊して先へと進む。この四階層の狂わせていた〈結界〉も現在進行形で破壊してしまったので後は本当に目的地へと一直線に向かうだけだ。
「先に進もう」
〈結界〉による認識疎外が解けた空間、不自然に景色が塗り替わって俺は待たせていたフリージア達と合流する。そうして一呼吸おいてからすぐさま先を急ごうとするが────
「大丈夫、レイ?」
不意にフリージアが俺の外套の裾を掴んで止めてくる。勢いに引かれて後ろを向くと、何故かフリージア達は不安げに表情を曇らせていた。
「どうしたんだ?俺は全然大丈夫だけど……」
今しがた一番の不安要素である〈結界〉は排除した。ならば俺が合流するほんのわずかな時間で何か別の問題が起きたのかと身構えるが、どうにも三人の反応を見るにそういうわけでもないらしい。
────本当にどうしたんだ?
話の流れが読めずに困惑しているとフリージアは一層外套を掴む力を強めて、躊躇うように言葉を紡いだ。
「その……凄く汗をかいてるし、呼吸もなんだか苦しそう……」
「────え?」
指摘をされて、俺は反射的に自分の身体を拭う。すると確かに一拭きで尋常じゃない汗が手を濡らした。
「マジか……」
ここまで何とか表には出さずに上手く誤魔化せていると思っていたが、まさか自分でも気が付かないほどこの身体は今にも衝動に駆られそうに成っていた。
つい先ほど────厳密に言えばクロノス血を飲んでから────俺は身を焦がすほどの渇きと疼きに苛まれ、その衝動は時間が経過するごとに、自分のモノではない血が身体に馴染めば馴染むほどに増していた。今まで我慢できていた、なんなら気にも留めなかった吸血衝動が先ほどの血の接種によってまた目覚めてしまった。
自覚した衝動は以前の様に制御することはできず、我慢のできない子供の様にそれだけを執拗に望み欲する。それを何とか表面上だけでも取り繕っていたつもりだったが、予想以上に俺の身体は限界らしい。
「少し休憩にしよう?ね、レイくん」
「そうです、それが良いですわ……」
「レイ……」
こちらを気遣うような声。不安げで懇願するようなその提案に、しかし俺は首を横に振る。
「すぅ……はぁ……」
深呼吸を一つ、二つ……激しく脈打ち、急き立てるように暴れ狂う衝動を無理やり封じる。それで何とか暴れだそうとしていた吸血衝動を諫めることに成功する。大丈夫だ、まだいける。まだ行かなきゃ辿り着けない。
今は自分の心配なんかをしている場合ではない。この程度では魔に吞まれはしない、呑まれる訳にはいかないと気を強く保つ。我が身可愛さ、未知の恐怖に勇み足を踏む段階ではもうないのだ。
「三人ともありがとう……けど、大丈夫だ。このまま先に進もう」
心配してくれた三人には申し訳ないが、ここで足を止めるわけにはいかない。目的地はすぐそこ、正確に城内を把握していなくてもその気配で奴が何処にいるのかは分かる。
「……本当に苦しくなったら、言ってね?」
「ああ」
「……絶対よ?」
「分かった」
最後の確認、約束と言わんばかりにフリージアが見つめてくる。酷く不安げなその蒼い双眸で見上げられると俺も頷くしかない。そんなやり取りをして、俺達は再び歩き出す。
前述した通り、階層を惑わしていた〈結界〉は消え去り、後は一直線に〈影龍〉が居るであろう玉座の間に向かうだけだが、それでも道中は入り組んでおり下手に進むと目的地まではたどり着けない作りになっている。
「────この二股の道を右です」
そんな状況でもやはりレビィアの先導は最初と変わらずに正確だ。着実に肌を撫ぜる魔力の密度が増しているし、城全体を支配している影の濃くなっている。
道行く先にはやはり何もなく殺風景だ。敵の影も無ければ〈結界〉以外の罠は皆無。無駄な力を使わなくて済むのはありがたいが、逆に言えばきな臭くもある。まるで誘われているような、各階層ごとにある〈結界〉だって一種の知恵遊びの様に、別に万全の状態でだどり付こうが関係ないと、こちらを意に介さない龍の傲慢さが見て取れる。
────ほんと、舐められたもんだよな……。
それに少しばかりの苛立ちを覚える。こうしてこちらの神経を逆なですることがあのクソトカゲの策なのかもしれないが、どうにも感情の制御が難しい。
妙な違和感を覚えながらも、レビィアの円滑な案内もあってあっさりと城の最上部にある玉座の間、その扉の直前にある広間へとたどり着く。ゆったりと警戒を怠らずに広間へと足を踏み入れると、俺達の入場と共に広間に薄明かりが灯る。そうして藍色の光に照らされて姿を露にしたのは一人の騎士だった。
「……」
黒灰の鎧具足に身を包んだその騎士は俺達の存在に気が付いてもその身を揺らがせることは無く、巌の如く動じずにただ真っ直ぐにこちらを見据えるのみだ。
その騎士から感じられる気配や風格は先ほど対峙した庭園の女騎士や、迷宮で打倒したタイラス・アーネルとは比べ物にならない程に洗練され隙が無い。彼の背後には玉座へと続く扉。彼が主である彼の龍の行くてを阻む最後の守護者なのだろう。その予想正しく、眼前の騎士は言葉を紡いだ。
「これより先に進みたくば〈五天剣〉が一振り、第一剣であるこのヴォルフ・グレイブスを打倒して見せよ」
低く唸るような嗄れ声。その声から察するに眼前の老兵は訥々と零した。
「ッ!!」
その異様な圧に反射的に身構える。それは他の三人も同様であった。
〈影龍〉の相手を前に眼前の老騎士を相手取るには三人がかりとも言えど緊張走る。その実力から言っても、生半可な力では奴を打倒するのは難しい。それこそ、あのタイラス・アーネルよりも彼の老騎士は強いのだ。
「全力で来い。でなければ為すべきことも成し遂げられずに、呆気なく死ぬことになる」
鼓舞するかのような訥々とした嗄れ声。反射的に全身の身の毛がよだち、そうして何処からともなく出現した鎌を構えて老騎士が勢いよく地面を蹴ろうとした。その瞬間であった。
「ッ────行け、”血”の守護者よ。我らが主がお前を呼んでいる」
不意に老騎士は構えを解き、脱力した様子で俺にそんなことを言ってくる。その唐突な言葉に困惑する。
「は?何を言って────」
「貴様だけ、この先の玉座の間の入室を許可された。だからこの先に行け。他の者たちはここで俺と一緒に残ってもらう」
改めて、心底うんざりした様子で老騎士は言う。その様子からはつい直前まで発していた戦意は微塵も感じられず、疎ましそうに俺を睥睨するだけだ。
意味の分からない状況。あの老騎士の言葉を鵜呑みにしてもいいのか一瞬ためらうが、隣で細剣を抜き張ったフリージアがこちらを見て言った。
「多分、罠じゃないわ。あの騎士は本当にレイを玉座の間に通すみたい」
「だが……」
「私たちの事は気にしないで行って、レイ。本当は一緒に行きたいけれど、あの騎士を前にそういうわけにもいかないでしょ?」
本来なら、眼前の老騎士は全員で確実に相手取るのが安全策だ。しかし、フリージアは覚悟と信念、そして少しの心配げな感情をその双眸に宿して先に進むように言った。ヴァイスとレビィアの方も見るが、既に覚悟は定まっているらしい。
────あのクソトカゲの言葉に素直に従うのは癪だが……。
残された時間は少ない。一刻も早く、このふざけた戦争を終わらせるにはこの場を彼女たちに任せるしかなかった。
「……死ぬなよ」
「レイも、絶対に生きて〈影龍〉を倒して」
短く彼女と言葉を交わし、俺は走り出す。
「……」
難なく老騎士の横も通り過ぎれば、玉座の間へと続く荘厳で巨大な扉は勝手に、まるで俺を招き入れるように開いた。
去り際、フリージアとレビィア、そして最後に勇者に確認するように目線を送ってから、俺は広間を後にした。