第133話 開戦前夜
雲一つない夜空に浮かんだ三日月。控えめに、けれども確かに闇を照らしていたその光の全てを天高く生い茂る木々が邪魔をする。そこは深く、深く、真黒な闇が溶け込んだ森であった。
ハッキリ言えば見通しは最悪。魔力による身体強化で夜目が聞くとは言え、この塗り潰すような真暗な景色は、本能的に恐怖を煽る。
「すぅ……はぁ……」
僅かながらに呼吸を整えて、息を殺す。異様な緊張感が心臓の鼓動を速めた。
松明の明かりで周囲を照らすなんて言う愚行は侵さない。一時の自身の心の安寧の為に今後の全てを台無しにしかねない行動はできるだけ立つべきであった。
それを自身と同じように息を殺して身を潜める仲間たちも重々承知しているのか、文句の一つも零すことはない。
────ここまでは順調か……。
王都を発ち、先だってザラーム平野前の高丘にて拠点を陣取っていた先遣部隊と合流したのが一日前。そこから俺達は十分な休息を経て、数時間ほどかけて高丘と平野の真横に群生する森の中を見ての通りひっそりと駆け抜けていた。
何故か?
理由は簡単、あのクソトカゲが居座っている根城がある帝都へと潜入する為である。
夜明けまで残り二時間と言ったところか、微かながらに闇に藍色が混ざり始める。国境線に広がるザラーム平野から帝都〈シェードスケイド〉までは平野を横断しても六時間は要する。〈龍伐大戦〉の開戦と同時に帝都に侵入し、優位を取りたかった別動隊の俺達は一足先に行動を開始していたのだ。
現在地のスイルベルの森はザラーム平野の真横に群生する森林地帯であり、平野と比べて道は悪く、帝都に向かうには遠回りになってしまうが今の俺達からすればこの森は隠密行動には打って付けであった。森を抜けた後も特殊な道順でほぼ確実に俺達の存在を気取られずに帝都へと侵入する道程も確保できていた。
余りにも用意周到なその仕事は勿論俺ではなく、ここまで俺達を先頭で導いてくれた黒髪の少女だ。帝国出身であり、暗殺一家と言う特殊な生まれであるレビィアは帝都内は勿論のことその周辺の抜け道を熟知しており、こうして作戦の要と言っても過言ではない順路案に大きく貢献してくれていた。当然のことながら帝都の土地勘が皆無である俺達は現在、彼女におんぶにだっこの状態であった。
────彼女にこんな技能があったとは、全く知らなかったな……。
一度目の人生では知り得なかったことがここでもまた一つ出てくる。まさか一度目では王国を混乱の渦に貶めようとしていた彼女が今度は自分の故郷に反旗を翻すとは……本当に人生何が起きるか分かったものではない。
────しかも当の本人は全くもって未練も戸惑いも無いと来たもんだ。
迷いのない彼女のその決断には正直驚かされた。これも俺が引き寄せた運命なのだとしたら彼女には申し訳ないことをしたとも思ってしまう。
閑話休題。
改めて〈龍伐大戦〉は夜明けと同時に観戦だ。前述した通り、既に夜が更けてから今までずっと移動をしていた為、その開戦と同時に俺達は帝都に侵入可能な距離まで来ている。後は開戦の狼煙を待つだけであるが────
「────ッ!!」
不意に目前の木々の隙間、暗い闇の向こうから何かが一直線にこちらへと飛来してくる。
「……チッ!!」
腹の底から急き上がる声を噛み殺し、小さく下を打つ。反射的に剣を抜き放ち飛び掛かってくるナニかを弾いて応戦するも手ごたえはない。その一連の動作だけで俺達の間に緊張が走る。
依然として敵は見えない。夜目で視界はハッキリとしているのに視認ができないと言うことは相手もやり手……それも暗殺に特化した敵であろう。
「レイ様、恐らく敵は帝国の暗殺部隊〈影浸り〉で間違いないかと……」
「まあ、あのクソトカゲがこんな分かりやすく穴な道を見逃すはずもないか────」
即座に敵の攻撃やその隠行技術からレビィアは襲撃者を予想する。多分、彼女の予想は正しく、そして俺達はまんまと隙を突かれた訳だ。
油断……していたつもりはないし、警戒を怠っていたつもりもない。けれども後は開戦の合図を待つだけとなり、気が緩んでいたのも事実だった。結果として敵は俺達を闇討ちできると判断して攻撃を仕掛けてきた。
────反省だ。
現状と問題点をしっかりと整理し、思考を切り替える。
流石にここで奴らを逃し、自分たちの存在がバレるのは論外である。少し荒業であるがここで全てを潰すのは絶対だ。
────気配は変わらない。今ならまだ間に合うな。
一度気配を察知できればそれを見失う道理はない。俺はフリージアとクロノスに目配せをする。
「「……」」
それに二人は黙して頷き、音もなく行動を開始した。
瞬間、周囲を肌寒い空気と、それを切裂く不自然な風が巻き起こった。
「んなッ!?」
「身動きが……!!」
「何が起きて……ッ!?」
補足しているのは全部で四つの気配、急襲の失敗に奴らは即撤退をしようとしたがもう遅い。
フリージアの魔法によって地面には霜が降り、襲撃者たちの機動力を封じる為に氷の茨が絡みつく。次いで敵の位置と座標を気配と魔力から割り出したクロノスが【瞬空魔法】にて逆に急襲すれば、なんとも呆気なく敵の制圧が完了した。
張りつめた空気が一瞬弛緩し、再び暗がりの森に不気味な静けさが漂い始める。
「……」
ひやりとした場面に息を呑む。当然と言えば当然だが、抜け道たり得るこの森にあのクソトカゲは目ざとく警戒網を敷いていた。その事実に今一度気を引き締める。改めて周囲の警戒をして、流れで時間を確かめた。
「夜明けだ……」
高い木々に覆われた森の中では気付きにくいが、暗がりの中にほんのりと藍色の主張が強くなってきている。その内、ここまで陽の光はひり注ぐことだろう。
夜が明ける。それはつまり開戦の合図でもあった。
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茜色に大地が照らされ始めた頃。ザラーム平野にて完全武装を果たした兵士の軍隊が二つ、相対していた。
その総勢は約四万弱。所狭しと平野には人が波のように居た。互いに戦力は同等と言ったところであり、一見すればどちらの軍が最後までこの戦場の地に立っていられるかは未知数。
陽は確かに昇り始めている。けれども相対した軍勢はまだ武器を抜かず、雄たけびを上げず、眼前にいる敵へと肉薄しようとはしない。それは本来の戦争であれば在り得ないことであり、異様な光景であって、不気味な雰囲気であった。
どうして互いの姿を認識しているのに戦いが始まらないのか?
その答えは、これがただの戦争ではないからだ。
これは古くから続く、龍と世界の契約、神聖なる戦いである。
その開戦の合図は発端である龍の務めであった。
一触即発、今にも雄たけびを上げて猛進しそうな両軍に冷や水を浴びせるように、茜色に染まり始めていた空が黒く塗り替わり一体の龍が現れた。
『ついにこの時が来た!』
それが影龍であることは言わずもがな。彼の龍は尊大に大空に翼を広げ、眼下に広がる軍勢を睥睨した。場の空気が一層、奇妙なモノへと成り替わる。
「「「影龍様に勝利を!!」」」
「「「彼の龍に鉄槌を!!」」」
片や、黒き龍の登場に色めき立ち士気を上げて奮起する者。片や、今回の全ての元凶である忌々しき龍の出現に憤慨する者。反応は極端であった。しかし正直に言えば、その龍にとって眼下に広がる彼らの反応なんてのはどうでもよくて、この戦いで死のうが生き残ろうが興味関心の端にも無かった。
『我は好き勝手に、自由に、望むがままに暴れる。だから貴様らも勝手に騒ぎ、争って、足掻き続けろ!その果てに最後まで生き残っていた奴らの勝利だ!!』
だからこそ龍は尊大に、大仰に、心底身勝手に、煽り文句と共にこの大戦の開戦を告げた。
「「全軍突撃!!」」
それを聞き入れた帝国軍は雄叫びを上げて進軍してくる。それに反射するように王国軍も進軍した。
そうして〈龍伐大戦〉が始まった。