後編
ナタリーとダグラスを排除したアリシアの次の狙いは、血縁上の家族であった。といっても、彼らを潰すのは決して難しいことではない。
むしろ簡単だからこそ、今まで放置していたといっても過言ではないだろう。
(……ああ、可哀想なきょうだいたち)
貴族としての教育をまともに受けさせないのは、これはもう一種の虐待だ。アリシアのきょうだいたちも、言ってみれば被害者の立場にもなれるのである。
(けれど、そんなことわたくしには関係ない)
彼らだって、意図してアリシアを傷付けたのだから。
見世物のように、床に這いつくばって食事をさせられた屈辱を――死にたいと願ったあの日を、アリシアは決して忘れはしない。
「とても綺麗だ、アリー」
いつもより念入りに身支度を整えたアリシアに、レイノルドは微笑んだ。
「ありがとう、レイさま。これも、公爵家に居候している身でありながら、身の回りのお世話をしてくださる彼女たちのおかげです」
「……優しいね、アリーは」
アリシアはなにも言わず、返すように頬を緩める。
それに微笑み返したレイノルドにエスコートされ、王宮へと向かった。
今日は、第一王子――つまり、レイノルドの従兄弟にあたる人物の生誕を祝う舞踏会である。下位貴族から上位貴族まで、すべての貴族家が集まる催しは王家主催のものぐらいだろう。
煌びやかな会場の中、アリシアはうっそりと微笑む。
(まもなく実家は終わる。真に愛する人と添い遂げる……美しいことだわ。その美しい愛に溺れ死ぬといい)
過ちを犯したのは自分たちであるはずなのに、あたかも生まれてきた子どもが悪いとばかりに虐げ、きょうだいたちからも苦しめられているのにも気がついておきながら、放置した。
けれど。
まっとうな人間としての教育を放棄したつけを、今、払うがいい――。
「――どうしてあんたがいるの!?」
アリシアの予想通り、問題は向こうからやってきた。どちらにしろ、人目憚らず声を荒げるようでは、貴族として生きていくのは難しかっただろう。そもそも、すべての貴族が招待される舞踏会に、アリシアがいないわけがないということもわからないほどの愚鈍さだ。
出会い頭に甲高い声を上げて距離を詰めてくる異父妹の前に、レイノルドが立ちはだかった。
「なによ、あんた……?」
訝しげに眉を寄せる異父妹。これにはさすがのアリシアも驚いたが、普段の振る舞いを知っているアリシアより、周囲のほうが強い衝撃を受けただろう。
(まさか、国の主要な人物さえ覚えていないなんて。リッツは末席とはいえ、一応上位貴族に分類される家だから、夜会などで実物を一度も見たことがないということはないと思うのだけれど……)
そこに、見覚えのある顔がもうふたつやってきた。
「あら、良い男じゃない。あんたにはもったいないわ」
「……まさか、王家主催の舞踏会に来て男漁りとはね。さすが、ダグラス殿に婚約破棄された女は違うな」
もうひとりの異父妹と、異母弟である。
アリシアは、途端に嫌な感覚に襲われた。失うものはなにもないが、過去にされてきた行為が頭をよぎる。
床にぶちまけられたスープを「舐めろ」と言われたこと。キャンドルの火で髪の毛を燃やされそうになったこと。遊びだと言って、邸内を追い回されたこと。腐った果物を無理矢理食べさせられたこと。水を浴びせられ、下着のまま冬の外に放置されたこと。
人はこんなにも鬼畜になれるのだと、アリシアは彼らから学んだのだ。
「――その言葉は間違っている」
彼らの嘲りに返したのは、レイノルドだった。
「は……?」
「まず、ダグラス・カミッロが婚約破棄をしたのではない。アリシアが、彼有責で婚約破棄をしたんだ」
「……な――」
「現に、リッツ伯爵家からアンネローロ伯爵家に慰謝料の請求がされている」
「ダグラス殿が有責だなんてありえない……」
「なぜ? 彼は学園で知り合った女生徒と不貞を働いていた。証拠を提出し、アンネローロ伯爵も認めていることだけれど」
異母弟は言い返せないのが悔しかったのか、言葉に詰まって下唇を噛み締めた。しかし、レイノルドは追撃の手を緩めない。
「それに、男漁りという言葉も下品すぎるだろう。自分の婚約者と舞踏会に参加することのどこに問題が?」
「……は? 婚約者……ですって?」
あとから現れた異父妹が視線を鋭くさせる。
「私はレイノルド・エルグランド――彼女とは婚約関係にある」
まともな感覚を持ち合わせる貴族であれば、その名前にひれ伏すことだろう。一般的に、伯爵家の人間が公爵家の人間に挨拶もなく話しかけるだけで無礼にあたる。
それも、レイノルドは卒業後、バーナム公爵の持つ複数の爵位のうち、伯爵位を譲り受けることが決まっている。バーナム公爵が引退するまでは、ファッラ伯爵になるのだ。
そういった意味でも、リッツ伯爵家の子息でしかない彼らとは格が違う。しかも、アリシアがレイノルドを経て仕入れた情報によると、彼らは婚約者すら決まっていないらしい。
釣書すらほとんどないようで、これは上位貴族としては非常に珍しいことである。特に、伯爵家を継ぐことがほとんど確定している異母弟にそういった類の話がないのは、本人に問題があると吹聴しているようなものだ。
あるいは、リッツ伯爵家そのものに価値がないと思われているか。
「……どうせ、たいしたことがない家なんでしょうね。この人を選ぶぐらいだもの。あんたはどこの家の者かしら。子爵家? それとも……ああ、まさか一代貴族の男爵家とか?」
アリシアは愕然とした。
当然、周囲も同様である。
(無知って怖いわ……)
ひとくちに貴族といっても、下位から上位まで、すべてを記憶している人は少ないだろう。ただ、失礼があってはいけないので、貴族教育の中で、上位貴族の顔と名前を一致させられるようなカリキュラムを組むのはもはや常識と言っていい。
その名前を聞いても反応しない――つまりそれは、リッツ伯爵家はまともな教育を施していないということになる。
「……彼はバーナム公爵家のご子息です」
アリシアは、呆れながらもそう言った。
(結局、わたくしがなにをしなくても自滅しそうね)
それもこれも、真実の愛で結ばれた両親とその愛人が、愛情を注ぐだけ注いで放置した結果である。もっとも、教育係ひとり付けられず、別邸に放り込まれた書籍だけで学んできたアリシアとしては、本人の資質も無関係ではないと考えているのだが――。
「こうしゃ、く……? ……嘘よ、そんなわけない」
「事実です。王家主催の公の場で、そんな嘘を吐くわけないでしょう」
「嘘よ!」
「そ、そうだわ。あんたが公爵家の人間と知り合えるわけが……」
「彼とは貴族学園で知り合いました。すべての貴族が通る道なのだから、特におかしいことはないでしょう」
冷静に切り返すアリシアに、異父妹がさらになにかを言い募ろうとしたそのとき。
「お前たち、なにを騒いでいるんだ」
ざわつく人込みをかき分けて、渋い顔をした男性が歩いてきた。
(……ああ……)
その姿は昔見たときよりも、幾分か老いていて。だが、いかにも傲慢そうな態度は変わらない。
――アリシアの父親だった。
「お父さま! この女が……!」
異父妹が訴えかけると、父親の視線がアリシアに向けられる。「汚らしい子ども」と言われたときのことが鮮明に思い出されて、アリシアはわずかに身体を強張らせた。
だが――。
「うちの娘となにか? どこの家のご令嬢かな」
吐き出された言葉に、アリシアは吹き出しそうになった。
「なにを……」
レイノルドが、口元を戦慄かせる。
当然、彼はリッツ伯爵家の実情を知っているわけであるが、まさかここまでとは思わなかったのだろう。
あの日――父親に「姿を現すな」と言われてから、アリシアは徹底的にこの男を避け続けた。なにかしらの思惑があったわけではない。ただ、傷付きたくなかったからだ。
息子や娘たちから名前を耳にする機会はあったかもしれないが、興味がなくあまり聞いていなかったか、あるいは、アリシアというのは貴族によくある名前なので、とうの昔に記憶の彼方に追いやった娘とは結び付かなかったのだろう。
「……ぷっ、お父さまったら、やーだ!」
異父妹は大げさに笑い出したが、周囲はそうもいかない。
常に注目を浴びているレイノルド・エルグランドの婚約者がリッツ伯爵家の長女、アリシア・ウォーグレンだというのは周知の事実なのだ。
そして、上位貴族の末席に名を連ねるリッツ伯爵家の当主を知らない者もいない。
これはいったいどういうことかと、周りの貴族たちのざわめきが大きくなった。
「なにが面白い?」
愛する娘といえども、人前で笑われるのはさすがに不服だったのか、リッツ伯爵は眉根を寄せた。
「お父さまったら。アリシアですよ。長女、いたでしょう?」
「もう、おっかしい! いくら興味がないと言っても、まさか顔も覚えていらっしゃらないの? アリシア、残念ね。やっぱりあんたは誰にも愛されないんだわ!」
囃し立てるように言う異父妹たちに対して、父親の顔からは血の気が引いていく。なにしろ、育てるつもりのない娘を、それでも成人するまでは囲っておこうとする程度には、体裁を重んじる人間なのだ。
もっとも、アリシアはすでに成人を迎えているので、ダグラスと婚約した時点でその話はなくなったのかもしれないが――いや、おそらくそれすら忘れていただけだろう。伯爵家の当主が不機嫌になるのがわかっていて、わざわざ忘れ去られた娘の話を蒸し返す使用人はいない。
「お久しぶりです、お父さま」
アリシアは微笑を浮かべて、見事な礼を披露した。
その美しい所作に、至る所でため息が零れ落ちる。
「お前は……」
顔を青褪めさせたままアリシアと視線を合わせたリッツ伯爵は、しかしすぐに隣に侍るレイノルド・エルグランドに気がついたらしい。
「……レイノルド殿」
「リッツ伯爵。まさか……あなたが実の娘の顔すら覚えていなかったとは」
「い、いや。それは――」
「さすが、リッツ伯爵家で唯一、伯爵と夫人おふたりの血を引く彼女の育児を放棄するだけのことはありますね」
額に大粒の汗を浮かべる父親の姿を見て、アリシアは失望した。
(……なんだ。この人、こんなに弱い生き物だったのね)
考えてみれば、当然である。
真に愛する人と結ばれたいと願いながらも、それができるだけの努力はせず。なら、自分のほうが彼らに合わせた立場になればよかったものを、上位貴族としての恩恵だけは受けていたいと願い。
子どもは庶子、または平民扱いになってしまうが、自身は一生独身を貫き、愛する人を恋人として遇することもできたのに、結婚しないと一人前には見られないという風潮に逆らうことをしなかったのだ。
もともと強い人なら、こんなことはしない。
愛する人のことは諦めて貴族としての道を選ぶか、貴族でいることを諦めて愛する人と共に生きるか、どちらも手に入れるために、それ相応の努力をするかをしたはずである。身分差は縮まらないものだが、抜け道のひとつやふたつあるのだから。
「唯一ふたりの血を引く……? どういうことだ?」
人垣の中から、不意にそんな声が上がる。
リッツ伯爵の耳にも届いたのか、「いや、それは――」と弁明しようとするが、レイノルドはそれを許さなかった。
「彼らはそれぞれ、伯爵とその愛人、または夫人とその愛人の子だ」
誰かが大きく息を呑んだ。
アリシアは、笑いそうになるのを堪えるので必死だった。
(弱いなら弱いで、余計なことをしなければよかったのにね)
最近では減少傾向にあるものの、いまだ愛人を侍らせる既婚者は多い。ただ、その場合でも、愛人との間に子を設けるのはご法度と言われるほど非常識なことである。
とはいえ、中にはなにかの弾みで出来てしまうこともあるだろう。あるいは、愛する人との子を望む人間もいる。その場合には、当然正妻の子が優遇されることになるし、愛人の子には基本的に家を継ぐ権利はない。例外的に愛人の子が家を継ぐことになるのは、その家の血を継いでいて、かつ正妻に子がいないときのみだ。
だが、彼らの場合、問題はそこではない。確かに体裁的に問題はあるかもしれないが、必ずしも違法というわけではないのだ。
彼らの問題は――。
「にもかかわらず、リッツ伯爵夫妻は、彼らのことをふたりの実子として届け出ている」
愛人の子を、夫妻の実子として申請していることなのである。
(体裁を重視し、周りに咎められることを恐れるあまり、法律を犯すなんて……小心者なのか、馬鹿なのか。まあ、前伯爵夫妻も夫人の実家も知っていて見逃しているのだから、同罪だわね)
万が一にも露見することはないという自信があったのだろう。前伯爵夫妻も、現夫人の実家も、申請時に見逃した以上、共犯になる。
それ以外で、唯一この関係を知っているのはアリシアだけだが、友人ひとりいない彼女の言い分に耳を傾ける人間はいなかったはずだ。知っていて口を閉じていたというのは前伯爵夫妻らと同じだが、たとえそこが問題になったとしても、アリシア自身は純然たる被害者でしかないと証明できるだろう。
結局は、放置するだけでなく、その存在を忘れ去っていたのがリッツ伯爵の敗因となったのである。
「――リッツ伯爵」
かつり、かつり。
重々しい足音が響く。
空気が揺れ、人垣が割れていく。
そこから姿を現したのは、この国の頂点に立つ男だった。
「あ……」
リッツ伯爵が、恐怖のあまり座り込む。
アリシアとレイノルド含め、男性は頭を下げ、女性は深く膝を折り曲げた。それでも変わらず、きょとんとしている異父妹と異母弟に、アリシアは「本当になにを学んできたのだろう」と心の底から問いかけたくなった。
下位貴族が上位貴族の集まりに呼ばれることはほとんどないが、つながりさえあれば、下位貴族の集まりに上位貴族が顔を出すということはよくあるので、彼らは下位貴族とばかり遊んでいたのかもしれない。
周りが下位貴族ばかりであれば、彼らは傅かれるほうの立場になる。
「リッツ伯爵令嬢、レイノルド」
名指しで「顔を上げよ」と言われ、アリシアはレイノルドと共に姿勢を正した。国王のすべてを見透かしそうな瞳が、アリシアに向けられる。
やがて「ふむ」と頷いた国王は、アリシアの異父妹と異母弟に視線を移した。国王にまじまじと見つめられては、清廉潔白な人間でも不安になるものだろう。上位貴族とはいえ、国王は雲の上の存在。謁見の機会などほとんどないのだ。
緊張感が高まりつつある中、ひとりの騎士が、すっかり血の気を失った女性を連行してきた。
(……あら)
――傍観者に徹していた、リッツ伯爵夫人である。
「お、お母さま!」
なにかがおかしいと察した異父妹が、助けを求めるように叫ぶ。しかし、彼らはもはや罪人なのだ。罪人が罪人を救うことなどできるはずもない。
「レイノルドがリッツ伯爵令嬢と親しくなった時点で、リッツ伯爵家については調査が入っている。そなたらの彼女への仕打ちも、すべてだ。本来はまず、登城させたうえで調書を取る手筈になっておったが……」
始めたのは、彼らのほうだ。
もっとも、アリシアの思惑通りではあるのだが。
体裁を重んじる彼らが、地位を失い、名誉を失い、金を失い、笑いものになり――そして、見下していたはずの子どもが輝かしい未来を手に入れることに耐えられるはずがない。
「そなたらは、子どもたちの出生について虚偽申告を行った。これは重大な罪である。よって、リッツ伯爵は本日をもって褫爵。そのうえで、罰を与えることとする。無論、隠ぺい行為に協力していた前伯爵とその夫人、現伯爵夫人の生家にも責が及ぶと覚悟しておくがいい」
「ひっ……!」
「ち、しゃく……? お母さま、ちしゃくってなあに?」
アリシアの視界の端で、立ち眩みを起こしたように倒れ込んだ女性がひとり。もしかしたら、前伯爵夫人、あるいは現伯爵夫人の実家の人間なのかもしれない。
「――連れて行け」
国王が、控えていた騎士たちに命を下した。
屈強な男たちに囲まれた異父妹たちは、「な、なによ!?」「や、ちょっと触らないで!」「わたしを誰だと思っているの!?」と、困惑とも怒りともわからない金切り声を上げながら、引きずられていく。
異母弟は状況の悪さに慄いたのか、顔を青褪めさせて「もう終わりだ……なぜ」と呟いていた。
「やめ――やめて! ちょっと、子どもたちになにをするの!? 離しなさい! 怪我でもしたらどうするつもり!?」
黙っている場合ではないとようやく気がついたのか、伯爵夫人が騎士たちに食って掛かる。リッツ伯爵は呆然としたまま、すでに会場を出るところだった。――堂々と入場した数十分前には、こんなことになるだなんてまったく予想していなかっただろう。
「あなた! ねえ、少しは抵抗しなさいよ!」
もがきながら、伯爵夫人が夫の丸まった背中に叫ぶ。
(……とんだ家族ごっこだわ)
ついには抱えられてしまった夫人と、その様子を醒めた目で眺めていたアリシアの視線がぶつかった。驚くべきことに、アリシアにとってはこれが母親との初対面だったのだ。
実の母親であるはずなのに、似ている部分がまったくないことに、アリシアは安堵した。
「あ、あんた! えっと……わたくしの娘でしょう!? よくもこんな酷いことを! 家族を壊して楽しい!? 鬼畜よ! こんなの、鬼畜生のすることだわ!」
貴族らしからぬ暴言に、多くの貴族婦人が愕然としている。中には、汚いものを見たとばかりに視線を逸らす者もいた。
アリシアを守るように身じろいだレイノルドだったが、そんなレイノルドを視線で制止して、アリシアは一歩前に出た。
「――初めまして、お母さま」
遠ざかっていく母親に、アリシアは美しい笑みを浮かべた。
「正しく罪を償えば、ようやく愛するご家族と人目憚らず、仲良く暮らすことができますよ。――どうぞ、お幸せに」
激しく呼吸を乱しながら、伯爵夫人はアリシアを睨み。
「あ……ああああああああ!」
地獄の底まで響きそうな、怨念のこもった叫び声を上げたのだった。
結果として、リッツ伯爵と夫人は王家に対して虚偽の申告をしたということで、禁錮二十年が言い渡された。
それが妥当な罰であるか否かについては、その立場によって感想も異なるだろうが、これにはアリシアへの虐待や、異父妹たちに対する教育放棄なども含まれている。また、子どもたちの出生についての虚偽申告はしたものの、それが王家に対する叛意を反映したものでなかったことなども鑑みた結果、上記の禁錮刑になったそうだ。
無論、爵位はすでに取り上げられているので、平民と同等の扱いになる。
異父妹と異母弟については、禁錮二年に加え、その後五年間の修道院での奉仕を義務付けられた。
運命とは奇妙なもので、当初アリシアを修道院に送ろうとしていた伯爵夫妻の愛する子どもたちが、修道院で監視されることになってしまったのだ。
ただ、修道院での奉仕を終えたとして、外の世界に放り出された彼らの面倒を見る人間はいない。両親は牢の中であるし、祖父母もそろって罪に問われている。責の及ばなかった遠い親族はいるかもしれないが、わざわざ彼らを引き取りたいと思うほどのお人よしはいないだろう。
改心すればその限りではないものの、直接の被害を受けてきたアリシアには、彼らが心を入れ替えるような人間には思えなかった。
市井に出ても、扱いづらいだけでプライドだけは一人前の元貴族に働き口などあろうはずもない。彼らが自力で生活していくのは、ほとんど絶望的なのである。
また、彼らの祖父母――つまり、前リッツ伯爵夫妻および現夫人の生家の人間のことだが、彼らは禁錮刑を与えられることはなかったものの、リッツ伯爵位は褫爵されたため、前伯爵夫妻は平民になった。
元は子爵家だったリッツ伯爵夫人の生家は、男爵に降爵したうえで、特例的に一代貴族として扱われることになる。つまり、現在の当主夫妻の子ども以下は貴族と婚姻を結ぶか、自らの力で実績を積んで士爵を賜るかでしか、貴族と同等に生きる道はない。
成人前の孫がいたらしいが、これもまた婚約破棄されたようだ。相手の家も巻き込まれたくなかったのだろう。
こればかりは、爵位を息子夫婦に譲る前だったというのが裏目に出た。息子夫婦はリッツ伯爵夫人だった彼女とそう年齢は変わらないので、よほど突出した才能がない限り、今から実績を挙げて士爵を賜るのはほとんど不可能なのである。
(……思ったより甘かったけれど、まあ、あの人たちはもう死んだも同然だわ)
王家主催の舞踏会を台無しにしたことを考えれば、これでも軽い罰に思えた。ただ、なんの力も持たないひとりの令嬢の存在が、こうも大きな影響を及ぼしたのだ。
その事実が、多くの貴族を震え上がらせたことは言うまでもない。
(……さて、と)
ほどなくして、アリシアはレイノルドに呼び出された。
リッツ伯爵令嬢アリシア・ウォーグレン改め、なにも持たないただのアリシア・ウォーグレンとして。
「アリー!」
舞踏会での騒動があったあとも、アリシアが公爵家から追い出されることはなかった。同じ邸内にいながらも、こうして呼び出される意味は――。
「レイさま」
滅多に来ない温室の中、アリシアを認めたレイノルドはうれしそうに笑った。
それに応えるように、アリシアも微笑む。
「ああ、やっと……やっと、君を苦しめた家族を排除できた」
まるで壊れ物に触れるときのように、そっとアリシアの腰を引き寄せるレイノルド。レイノルドはアリシアの首元に顔をうずめ、満足そうに息を吐き出した。
頬にかかる髪の毛をさわさわと撫でながら、アリシアは「ええ、そうね」と相槌を打つ。
「これでもう、君の幸せを邪魔するものはないよね」
アリシアは、再び「ええ、そうね」と答えた。
「――なら、改めて言うよ」
一度身体を離し、しかし鼻がくっつきそうなほどの近さで、白皙の青年がとろりと瞳を蕩けさせる。
「君のリッツ伯爵家はもうない。でも、私はアリーのことを愛している。だから……アリーが学園を卒業したら、すぐに結婚してほしい。私にずっと、君を守らせて」
レイノルド・エルグランド。
素晴らしい人だ。
優秀で、優しくて、努力家で。
「……でも、わたくしはもう貴族では――」
「君を養子にしたいという家なんて、いくらでもあるだろう」
誰が見ても完璧で、結婚したいと願う人は星の数ほどいるだろう。
「そう……」
――でも。
「……ふふ」
アリシアは、そっと視線を伏せる。
「ふふふ、ふっ、あははははっ」
そして、レイノルドの肩を突き飛ばした。
「あーあ、面白い!」
腹を抱えながら目尻に浮かんだ涙を拭うアリシアに、レイノルドは呆然とする。微笑を浮かべるばかりで、大口を開けて笑うアリシアなど、見たことがなかったからだ。
「アリシア……?」
「わたくしと結婚? ――あなたが? なぜ?」
「なぜって……なにを……?」
「どうしてわたくしが、嫌いな人と結婚なんてしなければならないの?」
「……え?」
「わたくしが一度でも、あなたを好きだと言ったことはあった?」
なかったはずだ。
アリシアは、それだけは嘘を吐いたりしなかった。
「……アリシア、え、ああ、もしかして、舞踏会のことがあったから混乱しているのかな。でも、大丈夫。もう君を邪険にする人間など――」
混乱しているのは、レイノルドのほうだろう。
理解できないのか、あるいは理解したくないのか、アリシアを抱き締めようと再び手を伸ばしてくる。容赦なくそれを叩き落したアリシアは、興奮した気持ちを落ち着けるために息を吐き出し、それからいつもの微笑を浮かべた。
「レイノルド・エルグランド。……ちょうどいい存在だったわ。ただ目についたというだけでわたくしを苦しめたナタリー・ヒックマン。彼女に良く見られたいというだけで、わたくしは悪くないかもと薄々察していたのに、わたくしを一方的に責め立てたダグラス・カミッロ。生まれたときからわたくしを蔑ろにしてきたリッツ伯爵とその家族……」
――あなたなら、消してくれるって信じてた。
ゆっくりと、理解できるように言ってやる。
アリシアは薄い唇をにっと引いて、わざとらしく首を倒した。その様子がいつもとあまりに違うことに、レイノルドはようやく気がついた。
「アリシア……」
自分は、利用されたのだと。
「そして、最後はあなた。レイノルド・エルグランド」
怒りもなにもない。
レイノルドは、ただただ混乱していた。彼の中では、改めてプロポーズをしたあとは、手を取り合って生きていく未来以外、ほんのわずかにでも想像すらしていなかったのだ。
断られるどころか、嫌いだったなどと――想定外もいいところである。
「私が、なにを……?」
掠れる声で、レイノルドが訊ねた。
リッツ伯爵家の面々は言わずもがな、ナタリーやダグラスのことも理解できる。だが、自分は――。
心当たりがないのだ。
加害者の言い分など、所詮そのようなものである。
アリシアは、そんなレイノルドの無神経さに興醒めしたかのように、すとんと表情を消した。
「ええ、確かに、あなたはあの人たちほど、酷いことはしなかったかもしれない。きっと、世間の評価がそうであるように、素晴らしい人なんでしょうね」
「なら……!」
「でも、あなたは言ったわ。『君さえいなければ』と」
「……いつ――」
訊き返そうとして、レイノルドは息を呑んだ。
あのときだ。
ナタリーが階段から突き落とされたと、そう訴えかけてきたとき。
「いや、あれは……」
「あなたにとってはきっと、簡単に忘れてしまえるようなことだったんでしょう。謝ったからそれでいいと思っているのね。でも……わたくしは一度たりとも、あの屈辱を忘れたことはなかった」
「……アリシア」
「些細なことだと、そう思う?」
たった一言だ。
たった一言が、人生を狂わせることもある。
「なら、あなたは知っている?」
暗闇の中、座り込んで泣きじゃくる幼いアリシア。可哀想なアリシア。誰にも見向きされず、お腹を空かせているアリシア。――でも、もう大丈夫。
幼いアリシアは、大人のアリシアが守るのだ。
「生まれたその瞬間から隔離され、本を読んで初めて自分にも親という存在がいるんだと知った驚きを。邸を抜け出し、父親に会いに行ったら『汚い子ども』だと追い払われた絶望を。人の気配がある邸を遠くから眺めるしかなかった羨望を。会話する相手もおらず、言葉を忘れそうな恐怖から、その日あった――朝起きた、窓の外を見たら鳥がいた、それだけのことを壁に向かって話し続ける虚しさを」
屋根がある部屋に住めるだけまともな生活だろうと言われればそれまでだが、もともとないのと、本来ならあったはずのものを見せつけられるように失っていくのとでは訳が違う。
少なくとも、アリシアはそれで納得できるような少女ではなかった。
「日に何度かの食事だって、使用人が忘れて持ってこなければそれまで。……空腹の中、もしかしたらこのまま餓死させるつもりなのではと不安に思ったことはある? きょうだいたちに、スープを床にばら撒かれ、空腹が恐ろしければ直に舐めろと頭を押さえつけられたことは? 惨めで堪らないのに、彼らが指示すればそれは本当に現実になるかもしれないと慄き、這いつくばって顔を床に擦り付けたことは? もういっそのこと消えたほうが楽になれると思うのに、どうすることもできない自分の弱さに打ちのめされたことは……?」
レイノルドは絶句している。
当然だろう。
リッツ伯爵家におけるアリシアの扱いを知っていても、ここまでの詳細が書かれているわけはないし、それらの出来事を文字で追うのと、実感が伴った話として聞くのとでは感覚が異なるはずだ。
「学園への入学は貴族の義務。そうすれば、少なくとも食事の心配をすることはない。執拗にきょうだいたちに追いかけ回されることも……そう思って入った先では、すでに身に覚えのない噂が流れていた。わたくしの周りは明らかにおかしかった。そのおかしさを訴えたことだってあるのに、なにも気付こうとしない愚かな婚約者! その婚約者が、恋人らしき女が悪評をばら撒くのをただ傍観していたときの気持ちがわかる?」
アリシアの瞳は、レイノルドを見てはいなかった。過去の出来事をひとつひとつなぞっていくように、宙を彷徨っている。
(ああ……)
レイノルドは、頭の中で声を漏らした。
「少しでも環境を良くしようと、同級生たちに自ら声を掛けたこともある。でも、誰も信じてはくれなかった。たった一年早く学園に入学しただけ……バーナム公爵家の人間がそばにいるというだけで、誰もがナタリー・ヒックマンの味方をした。――お前さえいなければと言った!」
痛々しいその姿を焼き付けるように、レイノルドは瞬きひとつせずに見つめ続けた。
「――どうして?」
今、アリシアの復讐は終わろうとしている。
レイノルドはただ、優しく――そして、身内に甘かっただけだ。ただそれだけ。当時のアリシアは、彼にとって身内でなかっただけなのだ。
だけど、許せなかった。
「どうして、わたくしは生きていることすら許されないの? 息をしているだけで……誰の邪魔をしたわけでもないのに、消えろと言われなければならないの? 優越感を得たい誰かのために、利用されなければならないの? わたくしは……」
アリシアは、そっと微笑んだ。
――大丈夫よ、アリシア。
わたくしが、あなたを愛してあげる。
「わたくしは、ただあの日……窓から漏れてくるあたたかい光が羨ましかっただけなのに」
父親に追い払われ、自らに宛がわれた場所に帰ったとき。初めて、人気のない夜の邸が怖いと感じた。なにも知らなければ、そのままでいられたのに。
でも、知ってしまった。あたたかい場所があるのだと、知ってしまった。
(そうか。……そうか、アリー。君は)
ふと、アリシアがレイノルドに視線を向ける。
(君は……もうとっくに、壊れていたのか――)
そして、ゆっくりと背を向けた。
このとき初めて、レイノルドはアリシアの心に触れた気がしたのだ。
「アリー……」
儚く壊れそうなその雰囲気に、レイノルドは手を伸ばす。
「――アリー!」
きっと、この手が届くことはないのだろうと思いながら。