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中編

 実のところ、その方法は考えるまでもない。

 標的はバーナム公爵家嫡男レイノルド・エルグランド、その人だけ。


 彼を落とせばいい。


 自分を愛するように仕向けるのだ。

 それだけで世界が変わる。


(それが自分自身を貶めることを知っているから、今までそうしなかっただけだわ。まったく考えなかったわけじゃない)


 窓から漏れてくる明かりに憧れた幼いアリシアはもういない。きょうだいたちの言うことは真実だった。アリシアはどこに行ったって愛されることはないのだ。

 だが、そんなアリシアでも刹那の熱情を奪うことはできると考えていた。それが永遠に続かなくとも構わない。むしろ、一時(いっとき)であっても、火力が強ければ強いほどいい。


(……わたくしは、絶対にあなたたちを許さない)





 決心したアリシアの行動は早かった。


 手始めに、アリシアはナタリーに謝罪した。ダグラスと親しくしているので嫉妬してしまった、とナタリーの喜びそうな理由を付け加えて。

 同時に、レイノルドにも謝罪の言葉を伝える。

 彼の場合はただ身内に甘いだけで、貴族としての常識がないわけではないので、自分に断りもなくナタリーが婚約者を愛称で呼んでいることへの違和感、入学したら悪い噂が流れていたが、それまではナタリーと顔を合わせたこともなかったことなどもにおわせておいた。

 すると、レイノルドは驚くほどすんなり納得し、ナタリーに注意までしてくれたのだ。


(あのナタリーの顔といったら……)


 アリシアは人知れずほくそ笑む。


(……理由は知らないけれど、わたくしを貶めたいと願うあまり、自らを不幸にするなんて――お馬鹿さんね)


 実は、ナタリーの本命はダグラスではないのだ。

 アリシアは幼いころから使用人の顔色を窺いながら生きてきたので、その洞察力は同世代の人間よりもずっと優れていた。

 だから、()()に気がついたのは、偶然だったと言えよう。


(あの子の本命は、レイノルドだわ!)


 彼女の目はいつも彼を追っていた。

 隣にダグラスがいても、彼の存在を意識していた。

 なら、なぜアリシアに執着するのか――そんなことはもう、どうだっていいのだ。どちらにせよ、子爵令嬢であるナタリーと次期公爵を確約されたレイノルドが結ばれる道はない。

 レイノルド本人が望めば話は別だが、彼はナタリーを乳きょうだいとしてしか見ていないようだった。


(だから、駄目よ。彼は渡さない)


 人間、誰しも「特別」という言葉には弱いものである。

 アリシアはその日から、レイノルドの前で()()は笑い、無礼にならない程度に砕けた口調を心掛け、婚約者のことで困っていると何度も相談を持ち掛けた。

 そんなことを繰り返していくうち、レイノルドの気持ちがこちらに傾いていくのが手に取るようにわかった。ナタリーの気持ちが荒んでいくのも。


(どう? 自分の愛する人が奪われる気持ちは。まあ、わたくしは別にダグラスのことを愛していたわけじゃないけれど……彼が唯一だったという点では同じだわ)


 学園に通うようになって以降、ダグラスから贈り物ひとつないのだと知って、レイノルドはたいそう驚いていた。貴族として非常識な振る舞いだからだ。

 顔色が悪いように見えたのは、おそらく、ダグラスがナタリーに()()()()()()のを知っているからだろう。


 ――そう、わたくしをもっと可愛そうな子にしてちょうだいね。


 レイノルドは面白いぐらいアリシアの思う通りに動いた。

 アリシアが「婚約者は次の夜会にナタリーと参加するらしい」と嘆けば、代わりにエスコートをすると申し出てくれたし、ドレスがないと困ってみせれば、さすがに自分の瞳の色を選ぶことはしなかったが、「友人として」と流行を追ったドレスをプレゼントしてくれた。

 「友人がいない」と困った様子を見せれば、自身の友人を紹介してくれた。そのたびに、自分に()()素を見せるアリシアを見て、ひっそり優越感を覚えていたのも知っている。


 最初こそ人目につかない場所で交流を重ねていたふたりだったが、気付けばレイノルドのほうから堂々と距離を縮めてくるようになった。


(……愛されるって、こんなにも簡単で――つまらないことだったのね)


 彼はもう、自分に落ちている。

 アリシアにはその自信があった。

 婚約者がいる手前、過度のスキンシップは取れない。けれど、だからこそ、レイノルドがその付かず離れずの距離をもどかしく感じていることにも、アリシアは気がついていた。


「……これ以上、婚約者のことで悩む君を見ていたくない。ダグラスとの婚約は解消して、私と――」


 その言葉を聞いた日には、自室の硬いベッドの上で笑い転げてしまったほどだ。


(あーあ、なにが神童よ。所詮、人は人ということかしら)


 ただ、すぐに応えてしまうと興味を薄れさせてしまうかもしれない。釣った魚に餌をやらないタイプだったとしても困る。

 なので、たっぷり焦らしたあと、アリシアは「ダグラスさまのことを忘れさせてくれるなら」とレイノルドに縋った。


 レイノルドは、満更でもなさそうな顔をして「君を守るよ」と言った。


 もちろん、相手としてレイノルドを選んだのは、なにもナタリーを苦しめたいからというだけではない。この国の貴族を牽引する筆頭公爵家の人間だからだ。

 彼は腐っても国有数の高貴な存在。

 王位を継承する可能性は限りなく低いが、王家の血が流れているのは事実なのである。そんな彼の交友関係には実際、厳しい制限がかかっていると言えた。

 そんな中、特筆すべき特徴がない子爵令嬢のナタリーがそばにいられたのは、ひとえに彼女の母親がレイノルドの乳母だったからだ。そうでなければ、対等に言葉を交わすことすら許されなかっただろう。


 レイノルドが関わる人間は、王家に仕える人間によって精査される。家柄、人間性、学園での成績――そう、さまざまなことを。

 今回の計画で唯一気がかりだったのは、人知れず行われるその試験に合格できるか否かだったが、公爵家からの忠告がないのを鑑みるに、問題なかったのだろう。


(でも、そのおかげできっと……伯爵家の()()も知られているはず。血縁上の家族は国に害意があるわけじゃないから泳がされているのでしょうけど、愛する婚約者が家でどう扱われているか知ったレイノルドがどうするかなんて、わたくしの関知するところではないわ)


 思った通り、レイノルドはアリシアをダグラスの婚約者から外すなり、公爵家へと招き入れた。これ以上、あの家に置いておくことはできないと判断したのだ。

 その際、ナタリーと不貞を働いたという名目で、アンネローロ伯爵家(ダグラスの家)に多額の慰謝料を請求するよう交渉したのには驚いたが、これでアンネローロ伯爵家は虫の息となった。

 そして、ダグラスとの関係を「不貞」だとされたことにもっともショックを受けたのは、ナタリーである。


「わたしはそんなことしてない! やましいこともない! あんたね!? あんたが……あんたが、わたしの悪口を言ったんでしょう!」


 ある日、人目に付かない場所に呼び出してまで食って掛かってきたナタリーに、アリシアは微笑を浮かべて小首を傾いだ。


「心当たりがないわ」

「あんたのせいで、わたしはダグと結婚しなくちゃいけないかもしれないのよ!」

「……そうなの?」


 少し考えて、それもそうかと納得した。

 たとえふたりがどんなつもりだったのだとしても、あの時点での彼らは、婚約者でもなんでもなかった。レイノルドが不貞だと言えば、それはもう不貞なのだ。

 おそらく彼に関しては、ナタリーを貶めたかったということではなく、ダグラスに不誠実な行いを償わせたうえで、愛し合っているふたりの縁をつないであげたという程度の感覚なのだろう。ナタリーの実家は金で爵位を買ったも同然なので、今回の騒動に関する慰謝料を肩代わりするだけの能力もある。


(どうせなら、ダグラスにもちゃんと責任を取ってほしかったけれど……慰謝料がどうにかなったところで、どうせこのふたりに未来はないわ)


 ――なにがあっても、許しはしない。

 あのとき感じた気持ちだけは、自分のものだ。

 アリシアはなおも変わらず絶妙な塩梅の笑みを浮かべながら、「おめでとう」と口にした。無論、相手の気持ちを逆撫でするつもりは――ある。ないわけがない。


「『おめでとう』ですって!? あんたのせいで! あんたがわたしを不幸にしたのよ!」

「あら、それはどうして? アンネローロ卿とあなたは、密室でよくふたりきりになっていたと聞いたわ。たとえそこにやましいことがなかったとしても、周囲からどんなふうに見えるかは疑問に思うまでもないわよね」

「それはっ」

「それに。どんな関係であれ、強制されたわけでもあるまいし、嫌いな相手とふたりきりになるということはないでしょう? ――あなたたちの間にあるのがどんな愛情かは知らないけれど、少なくとも、好意的に見ている相手と一緒になれるのは、貴族として幸せなことなのではないかしら」


 アリシアの両親のように、政治的な思惑が絡んだもののほうが圧倒的に多い貴族同士の結婚。運良く相手を愛せる者もいれば、外に恋愛を求める者もいる。

 そんな中、レイノルドの後押しで好いた相手と一緒になれるのだ。()()()()()に、いったいなにを嘆いているのか。


「……せ、ない……」


 ナタリーは、口元を戦慄かせた。

 アリシアの唇がかすかに歪む。


「――許せない! わたしのっ、わたしのレイまで奪った! わたしのだったのに! わたしが結婚するはずだったのに! あんたさえいなければ!」

「奪った……だなんて、心外だわ。逆に聞くけれど、なら、あなたはどうしてアンネローロ卿をわたくしから奪うような真似をしたの? わたくしとは言葉を交わしたことはおろか、顔を合わせたことすらないのに、わたくしの評判を地に貶めた。少しでもわたくしと距離を縮めそうなご令嬢がいたら、すぐに悪口を吹聴していたでしょう。挙句の果てには、階段から突き落とされたなどと嘘を吐き、アンネローロ卿にわたくしを責めさせたわね」


 そう、これがわからなかった。

 普通、顔も知らないような相手にそこまで執着するだろうか。アリシアとしては、されたことがすべてだと思っているので、このあたりにはたいして興味がない。

 だが――。


「……目についたからよ」

「目についた……」

「ダグはあんたなんて好きじゃなかった。でも、婚約者としての義務は果たそうとしていた。好きになる努力をしようとしていた。わたしは、レイと婚約すらできていないのに」

「……まさか、それが理由?」

「そうよ、悪い?」


 ナタリーは完全に開き直っていた。

 さすがのアリシアも、まったく理解できないその理由に唖然とし、しばし取り繕うのも忘れてしまったほどだった。


「わたしがレイと婚約できないんだから、他の誰かが幸せになるなんておかしいでしょう。それだけでも許せないのに、あんたは成績だって常に学年首位。――どうして? 伯爵令嬢で、頭も良くて、優しい婚約者もいて……少しぐらい、分けてくれたってかまわないじゃない」


 どう言い返そうか迷っているうちに「なのに!」とナタリーは叫んだ。


「あんたはわたしのレイまで奪っていく! こんなことってある? どうしていつも、わたしだけ不幸なの? どうしてあんただけが幸せになれるの? どうして!」


 平和主義で、争いを嫌う――そんないかにも人畜無害な女の正体はこれだ。ダグラスもレイノルドもなぜ、こんなにもわかりやすい演技に騙されるのだろう。いや、自分も偽っているわけだから、そうでなければ困る部分もあるのだが。

 アリシアは頬に手を当て、心底困ったわというふうに眉を垂らした。


「どちらのほうが()()()()()はわからないけれど、少なくとも、あなたの『レイ』が奪われることになった原因のひとつはあなた自身ではなくて? わたくし、なにもなければ、アンネローロ卿とそのまま結婚していたはずだもの」

「違うわ! あんたが横やりを入れてきたから、レイは!」

「横やりと言われても……あなたは婚約者候補ですらなかったと思うのだけれど」

「それは、家柄が……! レイはわたしを上位貴族の養子にして、それでお嫁さんにしてくれるって!」

「そうなのね。それはいつ? どこのおうちに?」

「知らないわよ、そんなの! レイがどうにか……」


 ――驚いた。


 アリシアは、未知の生物を見るかのような目で彼女を見つめた。

 どうやらナタリーの中では、自分にとって都合の良い物語が勝手に進行しているらしい。その鬼気迫った様子から考えるに、単なる嘘やでっち上げには見えないので、事実、そう思い込んでいるのかもしれなかった。

 レイノルドの妻になりたいという願望が、そうさせたのだろうか。

 だとしたら、ある意味、憐れな少女なのかもしれない。


「なら、わたくしから『レイ』に確認――」

「あんたがレイって呼ばないで!」


 一際甲高い声を上げたナタリーが、腕を振り上げた。


(……人の婚約者を愛称で呼び続けていた女が、そんなこと言うなんてね)


 勢いよく振り下ろされるそれを冷静に観察しながら、目を細める。

 彼女も自分も所詮は変わらないのだ、とアリシアは自嘲した。

 自分が世界一不幸だと思っている。世界を憎み、人を憎み、自分以外の幸せなど許せるはずはないと。

 けれど――それのなにが悪い?

 可愛そうだと。周りに不幸を撒き散らす女なのだと。それでもいいのだと自分自身を慰めてあげなければ、誰も生きる権利を認めてはくれなかった。

 生まれたそのときから、すべてが敵だったのだから。


「アリシア!」


 振り下ろされた手が、アリシアの頬を打ち据える瞬間。

 その場に飛び込んできた影があった。


「えっ……」


 ナタリーが絶句する。


「……ナタリー」


 ()()()()()乳きょうだいを見据え、低く唸ったのは、レイノルドだった。アリシアはわずかに目を見開き、「レイノルドさま……?」と声を震わせる。

 レイノルドは、アリシアを守るように華奢な肩を自らのほうに抱き寄せた。それを目の当たりにしたナタリーが「レイ!」と悲鳴を上げる。


「ずっと、考えていた。なぜアリシア()の悪い噂は絶えないのかと。最初こそ火のない所に煙は立たないものだと思っていたが、実際に話してみると、彼女は噂にあるような悪辣な人間じゃなかった。君に嫌がらせをしている様子はおろか、人のことを悪く言っているのだって見たことがない」

「レイ、全部聞いて……?」

「……階段から突き落とされたと君が泣いたときも、なにも調べず君の味方をするアンネローロ卿には腹が立った。それでも、いくつもの目撃証言が上がっていたからと……」


 口元を震わせて、レイノルドが目を伏せる。どうやら、アリシアを信じられなかったことに対して、自責の念に駆られているようだ。

 しかし、それもほんの一瞬のこと。レイノルドは、再び視線を上げて、ナタリーを冷たく見据えた。


「それに、私は君と結婚の約束などした覚えはない」

「……え」

「私にとって君はずっと妹のようなもので、恋愛対象になったこともなければ、婚約者候補として考えたこともないよ」

「そ、んな……だ、だって、子爵令嬢のわたしがレイのそばにいられたのはっ」

「君の母親が、私の乳母だったからだろう」

「嘘よ! レイは、わたしのこと好きでしょ!? そんな女より、わたしのほうが!」

「君が彼女を『そんな女』なんて言うな」


 ナタリーはほとんど呆然としていた。

 子爵令嬢が上位貴族の養子になり、王家の血を継ぐ公爵家の一員になることを本気で夢見ていたのだ。

 もっとも、実際にレイノルドがその気になっていたなら、それも夢のままでは終わらなかったのだろうが――。


(ダグラスのことは……彼女の中では、レイノルドは彼女を上位貴族の養子に据えるために奮闘している最中だったようだから、表立って愛し合えないその鬱屈した感情を持て余し、()()()()()()()から奪ってやったというところかしら。自分がこんな思いをしているのだから、お前も苦しめ、と。けれど、最終的にはレイノルドのもとに戻る予定だったということね)


 もしかすると、ダグラスと親しくしていれば、焦ったレイノルドが婚約の話を急いでくれるものだとすら思っていたのかもしれない。


()()()()()()()()、……今回の件は、公爵家から君の家に抗議させてもらうよ」

「……レイ」

「今後は愛称で呼ぶことも許可しない。……さっさと立ち去ってくれ。そうしないと、酷いことを言ってしまいそうだ」


 人は悲しすぎると、涙すら出ないのだろう。

 アリシアに階段から突き落とされたと泣きながら訴えたという彼女は、虚ろな目をしたまま身体をふらつかせ、言葉もなくその場をあとにした。その姿は幽鬼さながらである。ほんの少し前までの溌剌とした様子はどこにもない。


「……アリシア嬢」


 その後ろ姿を醒めた目で見送っていたレイノルドは、アリシアに向き直った。アリシアは、そんなレイノルドに小さく微笑む。


「あら、レイノルドさま。――先ほどみたいに呼んではくださらないの? 『アリシア』と。ああ、婚約者ですもの。『アリー』でもよろしくてよ?」


 わざとおどけたふうに言うアリシアに、レイノルドは困ったように肩を竦めた。


「……では、アリシア――アリー、すまなかった」


 ふわり。

 レイノルドの美しい髪の毛が揺れる。

 王家の次に力を持つ公爵家の人間が、頭を下げたのだ。


「レイノルドさま……頭を――」

「いや、ただ謝罪するだけでは済まないだろうね。ディアス子爵令嬢が階段から突き落とされたと訴えてきたとき、君はなにもしていないと言っていた。それなのに、最終的に認めたのは……認めざるを得なかったのは、私の存在があったからだろう。伯爵令嬢の君が、公爵家の人間を前にして強固な姿勢が取れるはずはなかったのに」

「……レイノルドさま」

「やってもいないことを、認めさせてしまった。さらには、勝手に『裏切られた』と思って、君を傷付けるようなことまで……」

「……裏切られた、とは?」

「あのときの私は、君のことをほとんど好きになっていた。他人を傷付けるような人ではないと……だから、その信用を裏切られたような気持ちになってしまったんだ。本当に身勝手だったと、今はそう思う」


 レイノルドは、噛み締めるようにそう言った。


(……後悔しているのね)


 彼は反省し、自らの至らなかった点を素直に認められる人間だ。

 下げられたままの頭を眺めながら、アリシアはゆるりと微笑んだ。


 ――だからなんだと言うの?


 後悔していたとして、過去の行いが消えてなくなるわけではない。きっと彼は善良な人間なのだろう。アリシアにもそれはわかる。

 だが、善良な人間が他人を傷付けずにいられるかというと、そうでもないのである。むしろ、悪気がないからこそ性質が悪かったりもする。


「レイノルドさま……」

「『レイ』と」

「……レイさま、わたくし、レイさまには感謝しているんですよ」

「……感謝……?」


 そこでようやく、レイノルドが顔を上げた。

 綺麗な翡翠色の瞳と視線がぶつかる。


「だって、そうでしょう? あなたはわたくしを、あの家から救ってくれた。そうでなければ、今頃どうなっていたかわからない。あなたのご家族だって、婚約者でしかない身でありながら、公爵家でわたくしを保護することに賛同してくださったでしょう?」

「それは当然のことで……」

「だとしても、わたくしがレイさまに救われたというのは……本当のことだわ」


 ああ、とレイノルドはため息を零した。

 これ以上堪えられないというように、アリシアの細い身体を抱き寄せる。アリシアはそっと目を伏せ、その背中に手を這わせた。





 ナタリー・ヒックマンが学園を辞したとアリシアが耳にしたのは、その翌日のことだった。


(あら、意外と早かったわね)


 貴族学園に通うことは貴族として生まれた者の義務であるが、全員が卒業できるかというと、そうとも限らない。

 例えば、在学中に犯罪行為に手を出した者や、著しく他者を害した者などは、運営側によって除籍されることがあるのである。ナタリーの場合は後者だろう。


「アリシア……」


 併設されたカフェテリアで休憩していたところに声を掛けてきたのは、かつての婚約者――ダグラスだった。

 たいして驚く様子もなく、アリシアはいつも通りの微笑を浮かべている。


「……今まで、すまなかった」


 人目も憚らず、頭を下げるダグラス。


(あら、まあ。最近は頭を下げるのが流行っているのかしら)


 肩が触れ合うほど近くに座っているレイノルドをちらと見遣って、それから再び視線を戻す。いかにも不快そうに眉根を寄せているのは、呼び方がそのままだったからだろう。

 ナタリーにしてもダグラスにしても、貴族としての意識に乏しい――とにかく、お似合いのふたりである。


「学園に入ってからの僕は、正直、どうかしていたように思う。ナタリーと顔を合わせたことすらない君が、嫌がらせなどできるはずがないと……少し考えればわかったはずなのに。彼女の言うことを鵜呑みにし、婚約者だった君を蔑ろにしてしまった」


 ダグラスは、自分のなにが悪かったのか、どう思っていたのかを滔々(とうとう)と語り始める。いったいなにが始まったのかと、周囲の学生たちが耳を澄ませているのが感じられた。

 淀みなく話し続ける様に、きっと最初から台詞を用意していたのだろうとアリシアは結論付けた。


「……謝罪は受け取りましょう。ありがとうございました」


 最終的にそう言って話を切り上げようとすると、ダグラスは「え」と目を見開いた。おおよその目的は見当が付いていたが、アリシアはあえて「他になにか?」と小首を傾ぐ。


「い、いや……」

「では、これで。レイさま――」

「あ、待って……待ってくれ!」


 咄嗟の行動だったのだろう。

 ダグラスは、立ち上がろうと腰を持ち上げたアリシアの腕に手を伸ばした。


 ――ぱしん。


 その手が、レイノルドに叩き落される。


「あ……」


 力に差がある女性を力づくでその場に引き留めるのは、人によっては暴力とさえされることがある非常に危険な行為だ。婚約者同士であっても、問題になることが多い。


「す、すまない」


 ダグラスは顔を青褪めさせて短く謝罪したあと、しかし諦めずに、口をもごもごと動かした。


「……慰謝料、を」

「慰謝料?」

「減額……いや、少し、待ってほしい」

「……猶予はだいぶあるはずでは?」


 このあたりも、レイノルド主導で調整しているところである。レイノルドがアリシアの実家に指示を出し、ダグラスの家と交渉させているというだけだが。

 アリシアのことを不要だと切り捨てていても、王家とのつながりが欲しいあまり、アンネローロとの婚約を結んだリッツ伯爵(父親)のことだ。レイノルドとの婚約は喉から手が出るほど欲したものだっただろう。

 そんなレイノルドからの指示に、彼らはまるで忠犬のように動いた。


「……情けない話、それでも足りないくらい、で」

「ディアス子爵令嬢と婚約するのであれば、いったん彼女の家に立て替えていただくということもできると思いますけれど……」

「……彼女とは、婚約しない」

「え? でも……」


 と言いつつも、アリシアにとって驚くことではなかった。むしろ、そうだろうなと思っていたことがその通りになっただけのことである。


「もともとその予定ではあったんだ。だけど、彼女、君に酷いことをしたんだろう?」


 カフェテリア内のざわめきが、わずかに大きくなった。

 しかし、そんなことにも気付かずに、ダグラスは話を続ける。


「……君に関する悪評のほとんどは、彼女が流したものだったと聞いている。君だって希望を持って入学してきただろうに、その時点ですでに君の名誉は貶められていた。しかも、その理由はまったく君には関係のない……個人的なものだったと。そこに慰謝料が発生するのは当然のことだろう。そのことで、彼女の家にも余裕がなくなって、僕との婚約も……」


 流れた、というわけだ。


(――素晴らしいわ!)


 アリシアは、大声を上げて笑い出したい気分だった。

 なにもかもが予定通りに動く。

 レイノルドを落としたのは正しかった。


 自分が被害者になりきるには、他人を動かすのが正解だ。


 だから、ナタリーの話をレイノルドに聞かせた。「ナタリーに呼び出されたが、しっかり話し合いができるかひとりでは不安だ」と弱音を吐けば、一発だった。レイノルドは、アリシアを見守るという大義名分を掲げ、しかしふたりの会話を邪魔しないように身を隠していた。

 あの瞬間、ナタリーは()()()()ではなくなったのだ。


 その結果、ナタリーの家にも、レイノルドの婚約者に対する仕打ちについて、公爵家からの抗議と慰謝料の請求が届いた。

 彼女の母親は、王家の血を継ぐレイノルドの乳母を務めるほどの人物である。

 手痛かったのは、慰謝料より抗議のほうだろう。責任を取らせる形で、ナタリーを領地に封じた。もしかすると、そこまでする予定はなかったのかもしれないが、あのナタリーのことだ。

 反省の色がないどころか、レイノルドと結婚するのは自分だったなどと妄言を吐き続けていたとすれば、外に出せないと判断されてもおかしくはない。


 だが、ここでも健気なアリシアでなければいけなかった。


 自ら「ナタリーに苦しめられた」と吹聴すれば、ある程度の同情は集められたかもしれないが、それだけだっただろう。

 他の誰か――そう、例えば、かつての婚約者が過去の行いを反省し、アリシアには一切の非がなかったことを認めてくれたりすれば、それはもうアリシアが完全に被害者なのである。


「……そう、それは残念だわ」


 アリシアは一歩、足を進める。

 レイノルドが窘めるように「アリー」と呼んだが、アリシアは安心させるように微笑んだ。


「お話はわかりました。慰謝料の猶予についても、考えましょう」


 もっとも、アリシアが血縁上の家族と話す機会はないのだが――。


 アリシアは、女神のような微笑を湛えて、そっとダグラスの手を握る。そして、誰にも聞かれないよう、その耳元で囁いた。


「……ざまあみろ」


 ダグラスが目を見開く。


「どうして……?」


 アンネローロはもう終わりだ。

 伯爵夫妻には領地経営の才がない。ダグラスによほどの魅力があれば、婚約者として求めてくれる女性もいるだろうが、彼は今まで一切努力をしてこなかった。

 若さだけが取り柄で、顔立ちも平凡なので、観賞用としての価値すらない。彼らの家に援助をしようという奇特な人物は、なかなか現れないだろう。


 ――さようなら。


 アリシアは、口元だけでそう呟いた。

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