前編
※シリアス注意。
※長編に続く可能性あり(いつか/未定)。
※ヒロインの情緒が不安定。
※本人なりの復讐譚。
――生まれたときから、すべてが敵だった。
「どうして……?」
震える婚約者を醒めた目で眺めながら、アリシア・ウォーグレンは自らの不運を心の内で嘲笑った。
(……もう、以前のアリシアではない。敵に好かれようとするなんて馬鹿のすることだわ。敵ならしっかり排除しておかなきゃ……)
リッツ伯爵家の長女として生を受けたアリシア・ウォーグレンの不運は、その両親から始まったと言ってもいいだろう。
アリシアの両親は、まごうことなき政略結婚だった。
愛がないどころか信頼関係すらなく、そのうえ、互いに身分のうえで一緒になれない恋人がいたので、周囲の目を欺くにはちょうどいいとばかりに婚姻を結んだのである。
無論、そんなふたりには寝所を共にするつもりはなかった。
それでもアリシアという存在が生まれたのは、そんなふたりの間に間違いが起きたからだった。
偽りの婚姻関係を結ぶことで、真に愛する人と結ばれるという奇跡的な状況を手にしたふたりは、伯爵家に長年仕える使用人から見ても異様に思えるほどに浮足立っていた。
――大事なのは世間体。
そんな名目のもとに、互いに愛人を囲っているのは家族や使用人の知るところであったので、彼らが舞い上がる理由について疑問に思う者はほとんどいなかったと言っていい。
だが、そんなある日のこと。
夜会から気分良く帰ってきたふたりの間に、間違いが起きてしまった。どうやら会場で通常より多量の酒を飲み、前後不覚になってしまったらしい。
一夜の過ち。
正式な夫婦間でそんな言葉を使うのは不自然にも感じるが、このふたりにとってはまさにその状態だった。
さらに、その一夜の過ちによって子が出来たうえに、気付いたときにはすでに堕胎できない状態になっていたというのは、悪夢以外のなにものでもなかったのだ――。
かくして、アリシア・ウォーグレンは産声を上げた。
伯爵夫人の出産ということもあって、さすがに出産は手厚く行われたということだが、産まれたばかりの娘を見て、伯爵夫人はそんな娘を一度も腕に抱かぬまま、息も絶え絶えに「わたくしを苦しめたのはこの生き物ね。早くどこかにやってちょうだい」と言い放ったと言う。
父親である伯爵は言わずもがなで、出産に立ち会うどころか、娘が産まれたと噂で聞いて「女で良かった。家を継がせなくて済む。成人したら修道院にやろう」と漏らした。同じリッツの血を継ぐ人間でも、自分と愛する女の子を後継にしたかったのだ。
そんな事情もあり、アリシアは両親の顔を見たことがない。
同じ敷地内にはいるだろうが、産まれたそのときから別邸に追いやられ、乳母に育てられていたからだ。伯爵家に忠誠を誓う使用人たちも、目障りだという子どもを伯爵夫妻の目にさらすわけにはいかなかった。
自身の待遇に不満を持っていた乳母も、アリシアが乳を必要としなくなる年齢になると、伯爵家を去った。あとは、日に何度か食事を持ってきてくれる使用人を待つだけの毎日。
退屈したアリシアが邸を抜け出し、父と母の顔を見に行きたいと願うのも当然のことだっただろう。
両親と言葉を交わしたことのないアリシアだったが、別邸に置かれていた本に書かれてある情報から「子どもには必ず親というものがいるらしい」ということを読み取った。
誰も気にかけてはいなかったが、アリシアは聡明な子どもだった。それこそ、文字を独学で覚えてしまう程度には。
一度、外を出歩こうとして酷い叱責を受けたことがあるアリシアは、夜になると誰にも見つからないよう、こっそり邸を抜け出した。
そこで見たのは、明かりが灯った大きな邸。
本によると、貴族の家というのは愛情よりも政治的な価値のうえに成り立っていることが多いらしい。それはつまり、誰しもが家族と親しいわけではないということだろう。自分のように。
しかし――。
今、アリシアの目に映る景色は、どうしようもなく幸せなものに見えた。
窓から漏れる明かりというものを、初めて見たのだ。
そこから目が離せなくなっていたアリシアの耳に、馬の蹄の音が届いた。半ば反射的に木の陰に身を隠すと、伯爵家の家紋が刻まれた馬車が入ってくる。
使用人がドアを開け、そこから降りてきたのは――。
(あれが、わたしのお父さま……)
顔こそ見たことはないが、直感で理解した。
厳しい雰囲気を漂わせてはいるものの、馬車の中を振り返ったその顔は非常に穏やかで。邸を抜け出したことが知られれば叱責される――そんな考えは一瞬にして吹き飛んだ。
思わず飛び出しそうになったアリシアは、しかしすぐに身体を硬直させた。
差し出された父親の手を取り、優雅な振る舞いで馬車から降り立った女性の腕の中に、小さな生き物が抱かれていたからだ。
そして、父親がその女性を母親のそれとは違う名前で呼んだことにも気がついた。言葉を交わしたことはなくとも、アリシアも両親の名前だけは知っていた。いつしか、乳母が口にしていたからである。それをアリシアは忘れていなかった。
寂しい――。
そう思うたび、父と母の名前を呼ぶことで、どうにか耐えていた。
「お、お父さま……」
女性と小さな生き物が邸の中に入ると、父親はしばらく御者とふたりで話をしていた。なにかしらの指示を出していたのだろう。
御者が立ち去ってすぐ、アリシアは我慢できずにそこから飛び出した。
一度ぐらい、名前を呼んでくれるかもしれない。
そう思っただけだった。
しかし、父親はアリシアの姿を認めて、不快げに眉根を寄せると――。
「なんだ、この汚らしい子どもは。どこから入り込んだ?」
まるでアリシアが唾棄すべき存在だとでも言うように、冷たく見下ろした。
それほどまでに目障りだったのか。
いや、それならまだよかっただろう。
女性を邸の中までエスコートし、再び仕える主人のもとまで戻ってきた侍従が冷静に「旦那さま。お嬢さまでございますよ」と教えると、父親は「ああ、これが」と呟き、別邸に戻したのちは決して彼らの前に姿を現さないようにと言いつけて背中を向けた。
(……わたしのこと、覚えてもいなかったんだわ)
そこでアリシアは、自分がいったいどのような存在なのかを自覚した。
少し成長すると、アリシアには弟がひとり、妹がふたりいることを知った。弟は父親の息子で、妹ふたりは母親とその愛する人との間に出来た子どもらしい。
意外なことに、このふたつの歪な家族はうまくいっているようだった。
要は、アリシアの両親の婚姻はいわゆる契約婚。互いに胸の内を打ち明け合っての結婚だったので、憎み合う理由がないどころか、むしろ共闘関係と言えた。
愛する人との間に産まれた子どもたちを慈しまない理由はない。伯爵家に産まれた息子ひとり、娘ふたりはそれぞれの両親に愛されてすくすくと育った。
とはいえ、いくら愛人を囲う貴族が珍しくないといえども、愛人との間に子を持つのは非常識とされる世の中だ。
共闘関係が崩れると困るため、伯爵は息子と娘ふたりを正妻と自分の実子として届け出た。さすがに「いるもの」を「いないもの」とすることはできないので、そこに関してはアリシアも同様である。
なぜ、使用人と会話すらないアリシアがここまで知っているかというと、教えてくれる親切な人間がいるからだった。
アリシアのきょうだいたちだ。
愛されて育った彼らだったが、不運なことに性格だけはどうにもならなかったらしい。
アリシアという存在を知り、親の目を掻い潜ってその様子を見に来た彼らは、半分でも血のつながった姉を甚振ることに快感を覚えた。
時に暴力をふるい、時に暴言を投げつけた。
そうしているうち、アリシアには婚約者と呼べるものができた。
名をダグラス・カミッロという。アンネローロ伯爵家の次男だ。
歴史の長い家門ではあるが、ここ数代にわたり領地経営がうまくいっていないらしく、資金援助のためにリッツ伯爵家を頼ってきたのである。当初、渋い顔をしていた伯爵も、国王の覚えがめでたいということで、アンネローロと縁を結ぶことにした。
だが、相手は吹けば飛ぶような伯爵家。
ある程度のリスクがある以上、すでに愛着が湧いている娘ふたりを婚約者にするのは憚られた。いざとなったときに、切り捨てられないからである。
ならばと考えたのが、顔も覚えていないもうひとりの娘を差し出すことだった。どのみち、成人したら修道院に出す予定だった娘だ。それが伯爵家に嫁に行けるというのだから、むしろ喜ぶだろうとすら考えた。
こうしてアリシアは、アンネローロ伯爵家の次男と婚約を結ぶに至ったのだ。
――最初こそ、ダグラスとアリシアはうまくいっていた。
少なくとも、周囲にはそう見えていた。
多少気弱な側面はあるものの、穏やかなダグラスがその日あったことを話し、微笑を浮かべたアリシアが相槌を打ちながら傾聴する。
月に一度の顔合わせは、アリシアにとって唯一他者と時間を共有できる時間でもあった。
だが、数年が経ち、ダグラスが貴族学園に入学するとそれも変わった。
ダグラスがアリシアを訪れる頻度が目に見えて減り、それどころか婚約者としての義務を果たすことすらほとんどなくなった。
そのころには社交界デビューもしていたが、デビュタントのエスコートさえ断られたのにはさすがに驚いた。外の世界に疎いとはいえ、その程度の常識はアリシアも知っていたからだ。
デビュタントのときですらドレスを新調することは許されず、母親のものを着回すことになった。伯爵夫妻がアリシアの年齢など覚えているはずもないので、おそらく伯爵家に仕える侍従の誰かが気を回したのだろう。アリシアのためではない。伯爵家に恥を掻かせてはいけないからだ。
そんなアリシアの様子を見て、異父妹たちは酷く楽しげに笑った。「どこに行ってもあなたは愛されないのよ」と。
なぜ、婚約者の態度ががらりと変わったのか。
疑問に感じつつも問い詰めなかったのは、アリシアにとってもまた、ダグラスは好意を抱いているということ以上に、リッツ伯爵家から連れ出してくれる相手かもしれないと考えていたからだった。それ以外のことはどうでもよかった。
アリシアの脳裏にはまだ、あの日見た、邸の窓から煌々と漏れるあたたかな光が焼き付いていた。
その翌年、アリシアもダグラスの後を追うようにして、貴族学園に入園した。
そこでようやく理解したのだ。ダグラスにはどうやら、他に愛する人がいるらしいということを。
ナタリー・ヒックマン。ディアス子爵家の令嬢だった。
しかも、形式上の婚約者であるアリシアが、ダグラスと親しいナタリーに嫉妬し、あまつさえ嫌がらせをしているという噂まで流れていた。ありえない――。アリシアは、学園に入るまでナタリーの存在さえ知らなかったのである。どのようにして嫌がらせなどできようか。
だが、デビュタントの日以来、ろくに社交界に顔を出していなかったアリシアには知人のひとりもいない。その噂を否定する人間はいなかった。
唯一、当事者であるダグラスとナタリーだけは知っていただろうが、幼いころからの環境により人の気持ちに聡かったアリシアは、すべてはナタリーの仕業だと気がついていた。ダグラスに至っては、気弱な彼のことだ。ナタリーに良く見られたい、もしくは面倒ごとに巻き込まれたくないだけだろう。
そんなとき出会ったのが、レイノルド・エルグランドという青年だった。バーナム公爵家の長男である。
(……綺麗な人)
初めて彼を見たとき、感情の起伏が乏しいことに自覚があるアリシアですら、思わずため息を吐きたくなったほどだった。
「なにか本を探している?」
そんな彼がわざわざ話しかけてくる理由は明白だった。アリシアがナタリーを傷付けないよう、釘を刺しに来たのだ。彼はなんでも、ナタリーとは乳きょうだいらしい。ナタリーの母親が、レイノルドの乳母だったのだという。
人目につかない図書室。その本棚の間で話しかけてくるのだから、できれば人に知られたくないということだろう。
アリシアはいつものように微笑を浮かべて、いいえ、と首を振った。
「特定の書籍を探しているわけではございません。なにか読みやすいものがあればと思って」
落ち着いたアリシアの様子にわずかに目を見開いたレイノルドだったが、すぐに表情を取り繕い、スッと一冊の本を抜き取った。
「じゃあ、これはどうかな?」
「……まあ」
手渡されたそれの表紙に視線を落とし、アリシアは目を瞬かせた。その表情に、レイノルドはどきりとする。
乳きょうだいから聞いていた卑劣極まりないあくどい女であるようには見えなかったからだ。表情管理が完璧なのだと言われてしまえば、それまでだが。
レイノルドが選んだのは、勇者が活躍する冒険譚だった。
意外だわ――。
バーナム公爵家嫡男のことは、入学してすぐにアリシアも噂で聞いて知っていた。無論、アリシアにそれを教えてくれる友人らしき存在はいないので、立ち聞きした程度だが――父親が王弟で、王家の血が流れている以上、噂にならないほうが難しいというものだ。
なにより、レイノルド・エルグランドという青年は非常に優秀らしく、幼いころは、それこそ神童と呼ばれるほどだったのだとか。だからだろうか。国王の息子たちの立場を考えて、すでに王位継承権を放棄している。
よほどのことがなければ、それが復活することはないだろう。
そんな男が選んだのが、夢にあふれた冒険譚なのだ。
これをおかしいと言わずして、なんと言えばよいのか――。
アリシアは、久方ぶりに心の底から微笑んだ。といっても、注視しなければわからないほどにほんのり口角を持ち上げた程度であるが。
「……ありがとうございます」
しかし、まるで精巧に作られた人形のような美しさの中に垣間見える人間らしさに、レイノルドは一目で惹き込まれた。
膝を少し折り曲げて挨拶をするアリシアを、レイノルドは思わず呼び止める。
「私はレイノルド・エルグランド。あなたの名前を聞いてもいいかな」
なんという茶番を。
レイノルド自身、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。いくらなんでも会話が下手すぎるだろう、と。
アリシアもそれは同様で、そんなレイノルドを少々訝しく思いながらも、改めてレイノルドに向き直る。
「存じております、バーナム卿。わたくしは、リッツ伯爵家のアリシア・ウォーグレンと申します」
――ふたりの関係はそこから始まった。
日に一度か二度、レイノルドは必ず話しかけてきた。
きっとナタリーに変な考えを持たないように監視しているつもりなのだろうと思いながらも、レイノルドはアリシアの話をまともに聞いてくれる唯一の存在。なかなか遠ざけることができずにいたのは――アリシアの捨てられなかった弱さによるものだった。
だが、それも長くは続かなかった。
「アリシア、どうしてナタリーを階段から突き落としたりしたの?」
久しぶりに顔を見せたと思ったダグラスは、まったく身に覚えのないそんなことをのたまった。その腕にしなだれかかるように縋り付くナタリーの口元が、わずかに緩んでいる。
背後に公爵家嫡男のレイノルドを用意するあたり、徹底的にアリシアを潰したいというところだろう。
(……わたくしが彼女になにをした記憶もないのだけど)
なぜここまで執拗に攻撃されるのかは不明だが、とにかくアリシアを貶めたい。そんな執着が感じられて、アリシアはわざとらしく肩を竦めた。
「わたくしが突き落とした? 彼女を?」
「もういいよ、アリシア。そんなふうに誤魔化そうとしなくても」
「誤魔化す……わたくしが?」
だいたい、どんな弁明をしたところで彼には耳を傾ける気などないのだ。アリシアに信用があるかないかではない。実際にそうしたかどうかでもない。
ただ、ナタリーに好かれたいから味方をする。それだけなのだから。
「アリシアさま! わたし、謝ってくれればそれでいいんです! 確かにダグとはちょっと仲良くしすぎたかもしれません……それは認めます。でも、ダグとわたしは良いお友達なの! 婚約者の交友関係を狭めて、それでアリシアさまはうれしいですか? アリシアさまはダグしかいないから、だからやきもちを焼いちゃうんです。アリシアさまもお友達を作れば、きっと世界が広がりますよ!」
それはあたかも、アリシアのためを思っての発言であるかのようだった。だが、そうでないことぐらいアリシアにもわかる。
そもそも、一般的な貴族令嬢であれば、婚約者でもない異性を愛称で呼んだりはしないはずだ。仮にありえるのだとするならば、それはその婚約者が認めた場合のみである。
アリシアはがっかりした。
婚約者にではない。
レイノルドにだ。
彼は曲がりなりにも公爵家の人間。貴族としてトップレベルの教育を受けてきた人間が、そんなことすらわからないとは思えなかった。つまり、あえて見逃しているのである。
――ナタリーだからという、そんなくだらない理由で。
「……謝罪は致しません。わたくし、身に覚えがないので」
「アリシア!」
普段温厚なダグラスが、厳しい声を飛ばす。
「わたくしが彼女に怪我をさせたという証拠はございますか?」
「彼女も、彼女の友人もみなそう証言している。探せば、他にも目撃者がいるだろう」
「……そうですか」
ということは、アリシアの勝ち目はない。
たとえ「していない」と反論したとして、証言などいくらでも作り出せるのだ。アリシアに自分を守ってくれるような友人はいないのだから。
レイノルドがナタリーの乳きょうだいだというのは周知の事実なので、そんなナタリーを妹のように思うレイノルドへの忖度が生まれるのは、当然のこととも言える。
幼いころから優秀だと言わしめてきたレイノルドだが、一度懐に入れた人間に対しては非常に甘かった。
「わたくし――」
――もういいわ。
アリシアは、流されるままに謝罪をしようとした。
だが、できなかった。
(……どうして?)
突然、自分というものがわからなくなってしまったのだ。
(何度も謝った。生まれてきてごめんなさいと、きょうだいたちに。わたくしは生きているだけで誰かを不幸にするのだと。だから、学園に入ってからだって……誰かと親しくなろうとは思っていなかったのに)
きょうだいたちは言った。
アリシアは生きているだけで罪人なのだと。ゆくゆくは修道院に送られ、贖罪のために一生を過ごさなければならないのだと。
ダグラスとの婚約が決まったあとも、祈る場所が変わっただけだと嗤った。
――どうして?
いらないのであれば、親はいないものとして最初から孤児院にでも捨ててくれればよかったものを、世間体のために手元に置いておこうとしたりするから。だからアリシアは、あたたかい家などという幻想に憧れを持ってしまったのだ。
――どうして?
手に入らないのなら、初めからなにもいらなかった。持たざる者でよかった。
(……せめて一時でもあの人たちから離れられる。貴族学園に通うことが貴族としての義務だと知って、うれしかった。なのに、入学したらすでにわたくしの悪い噂は広がっていた……)
なにも望んではいなかったが、さすがにこれでは憂いなく過ごすことは無理だろう。そう判断して、同級生たちに声を掛けてみたりもした。
でも、ほとんど意味はなかった。
貴族である以上、誰もが打算で動くからだ。ナタリーの行動に違和感を持つ人間がいたとして、そこにレイノルドの存在がにおわされれば忖度せざるを得ない。
「わたくしは、やっていません」
アリシアは、半ば諦めの境地で、しかしはっきりとそう言った。
「アリシア……」
ダグラスの侮蔑を滲ませた視線にも怯むことはない。もうどうだっていいのだ。誰もアリシアの話など聞いてはくれなかった。今さらなにを言ったところで同じだろう。
一度きつく目を瞑ったダグラスは、呆れたように細く息を吐き出した。
「……アリシア、君がいつまでもそんな態度を取るなら、こちらにも考えがあるよ」
「と、申しますと?」
「婚約を破棄させてもらう」
アリシアは思わず鼻で嗤ってしまいそうになったが、なんとか寸前のところで思いとどまった。
――婚約破棄。
それはアリシア側に非があるということだろう。貴族令嬢の場合、責を負わされる立場になると非常に困ったことになる。
いわゆる「傷物」と呼ばれる存在になるので、新たな婚約を結ぶのは容易でなく、仮にそれが叶ったとしても歳の離れた男性の後妻として嫁ぐのが関の山だからだ。つまりダグラスは、すべて承知のうえで脅しをかけてきているのである。
婚約を継続したければ、これ以上ナタリーに手を出すなということだろう。
「ええ」
アリシアは微笑んだ。
「では、その旨、お父さまに伝えてくださいますか」
ダグラスはわかっていない。
アリシアには失うものなどなにもないということを。
それは長年見てきたにもかかわらず、アリシアの周囲に一切違和感を覚えていなかったということでもある。
「え、いや、アリ――」
「お父さまが受け入れれば、わたくしに否やはありません」
ダグラスの表情が強張った。
当然だ。
婚約破棄は貴族令嬢にとって致命的だとわかっているからそう仄めかしてきただけで、実際のところ、両家のつながりが失われると困るのはダグラスのほうなのだ。
「アリシア……」
「お話はそれだけでしょうか。それなら、わたくしはこれで失礼いたします」
突き放したような言い草だったのは、自覚があった。しかし、ダグラスはもはやアリシアにとっての敵も同然だった。
意図して傷付けようとしている――なにも持たない婚約者をこれ以上貶めて、いったいどうしたいのだろう。
「リッツ伯爵令嬢」
踵を返して歩き出したアリシアに、ほどなくして声をかけてきたのはレイノルドだった。ダグラスと話していたときは空気と化していたが、公爵家の人間が口を出すのはよくないと考えたのだろう。
もっとも、背後にいるだけで十分な脅威にはなっているのだが。
(みんな、ナタリー、ナタリー……)
立ち止まってその顔を仰ぎ見れば、決して自分を心配して追いかけてきたわけではないことぐらいわかる。
「……ナタリーが怪我をした。打ちどころが悪ければ、最悪――」
「それで? それが、わたくしとどのような関係が?」
本来、目上の人間の言葉を遮るのはマナー違反とされているが、アリシアはあえてそれを選んだ。自分を尊重してくれない相手を、どうしたら敬えるというのだろう。
「君は――いや、たいして関わりのない格上の人間に敵意を向けられ、挙句の果てに暴力をふるわれたナタリーの恐怖が、君にはわからないのか……」
――どうして?
ああ、また不幸なわたしが出てくる。
いけないわ、アリシア。
駄目よ。
アリシアは、心の中でもうひとりの自分を抑えつける。
「わたくしが謝罪すれば、すべて丸く収まる……そういうことでしょうか?」
変わらない笑みを浮かべるアリシアに、レイノルドは気分を害したかのように眉根を寄せた。
「君は……噂にあるような悪辣な女性ではないと。そう、信じようと思ったところだったのに……」
勝手に期待して、勝手に失望したのはそちらのほうだ。アリシアはひとり苦悩する目の前の青年を、さも退屈なものを見るような目で眺めた。
――憎い。
なにが? いいえ、なにもかも。
両親、きょうだい、乳母、使用人、婚約者、同級生――レイノルド。
憎い。
それ以上の感情が思い浮かばない。
きっと彼らは知らないのだ。
食事を忘れられることの惨めさや、たったひとりきりで過ごし、言葉すら忘れてしまいそうな不安。激しい風が窓を打ち、恐怖に怯えながら毛布にくるまって眠った夜。視界に入るだけで叱責される絶望。
――どうして?
どうして、わたしだけ?
「君さえいなければ、ナタリーは充実した学園生活を送れるだろうに」
どうしてわたしだけが、存在してはいけないの。
この日、アリシアはすべてのものに復讐すると心に誓った。