3話 異世界さんぽ①
キョウヤは部屋着のジャージを、上をフードのついたジャンパーに着替え下はそのままで下駄箱に立つ。朝から憔悴し、外の新鮮な空気を求めた彼は隙間から日差しの差し込む玄関扉を思いっきり開け放った。
キョウヤの目の前に広がっていたのは、いつもと変わらない空、いつもと変わらない道路、そして目の前を浮遊するクラゲのような何かが入り混じった光景だった。
「世界は一つではない」というのは世界を見よう・作ろうとする領域ではよく見られる構造の一つである。
それの厄介なところの一つは別の世界という文脈的な構造そのものがいくつも存在しているという点だ。
いわゆる平行宇宙のように基本的には同一の宇宙だがある条件において異なる特性を持ったいくつかの宇宙が並立したもの。
タイムトラベルに見られるバタフライエフェクトのようにタイムトラベラーによって世界の過去が改変されることによって未来にあらわれる観測者の知らない世界。
上記の二つを組み合わせた某国民的「少し不思議漫画」的な時空間に関する認識。
近年でのオカルトにおいてはある条件において元の世界から別の世界へと観測者が迷い込んでしまうというまるで主要道から脇道にそれてしまうような構造を持つパターンもある。
それらに共通項を充てるなら、それはだれも「知らない・見たことがない」ものという点であろうか。
それらの中でキョウヤの目の前に広がっていた「異世界」に最も近しいものはおそらく「脇道的な」異世界であろう。
しかしそれとも少しだけ違うのはその視界に映った「異常」にさえ目をつむってしまえば、世界はただ「正常」に運行されていることであった。
目の前でふよふよと揺れるクラゲに手を伸ばしても、それは手をするりとまるでホログラムのように抜けて行ってしまう。
向こうを見やるとこの間まで空きテナントであることを嫌ってか犬の張り紙がされていた立て看板には「鯉島祓士事務所 従業員募集中」などと聞いたこともない職業に関する張り紙がされていた。
だがそれさえ見なければ町並みは普段見慣れているものとは一切違いがない。あまりにも一般的でおよそ目立つようなところのない、朝立に襲われたあとのただの住宅街だ。
もともとそれらはそこにあって、ただ誰もそれらの存在に気が付かなかっただけではないかとすら感じられる。
最もその「知らない世界」に近いものを挙げるとするなら、それは世界の法則や「スケールの違う、すみわけのされた世界」というものであろうか。
それはおそらく人類の原初の「知らない」の一つであろう。
天体を構成する重力は少なくとも人類の生まれたときからずっと人類のそばにあったはずだ。人類は古来より、上下の感覚を持って生きてきたはずだ。
だがそれに人類が気づいたのは今からおよそ350年前で、その性質が少しずつ解ってくるのはある天才がいなければ、おそらく今からもっと未来かもしれない。
互いに一切隔絶されることはなく、互いにかかわりあっているのにその存在に気づくことすらなかった世界 キョウヤは目の前に広がる世界にそんな印象を抱いた。
呆けた彼の頬をふいと風が触れる。はっとして目の前を見ると、すでにクラゲはいなくなっていた。
目の前の道路の真ん中には水たまりが風に揺られて、波紋を立ててさざめいていた。
水たまりに近づくがそれはなんてことはない普通の水たまりであった。そこに写る悪霊にキョウヤは問いかける。
「今まではこんなものは見えなかったぞ。何かしたのか?」
悪霊はニヤリと笑う。
『ああ、それはお前がオレに話しかけたからだ。そうしてお前とオレの距離がより近づいたから、オレの「眼」がお前にも使えるようになったのだよ』
その言葉にキョウヤはわずかに動揺する。つまり、キョウヤは気づかずして自らこの異常な世界に足を踏み入れてしまったことになる。今後ともそのつながりが断ち切られない限りはずっと彼の視界には非現実が紛れ込み続けるのだ。
「これから俺の目に映る世界はずっとこうなのか」
『安心しろ、もとからこうなっていた』
悪霊の顔がグイと左右に周囲を見渡すように振れる。キョウヤの顔もそれにつられて左右に周囲を確かめるように動いた。
『ずいぶんとさびれた住宅街だなあ。少し散歩でもしよう』
住宅街を品定めしたのか、眉をしかめた悪霊は冗談めいた口調で語り掛ける。
川上の方にある住宅街の真ん中あたりに建てられたキョウヤの自宅、その先にある道路は一本道で左右に分岐している。家から見て右側に行くと彼が普段通っている高校のある比較的閑静な商業地帯へ、左側は大きな河川を挟んでまあまあな規模の工業地域へとつながっている。
…どうせなら心を落ち着けられる場所に行きたい。左側へ15分ほど行った先にある河川がいい。徒歩圏内には特に人が入れるほど整備された山がなく、自然環境を町のウリとしていない近場ではそこが一番「自然」と呼べる緑が感じられる空間であった。
次いでに川に隣接した厄除けの神社にも寄ろうと彼は考えた。
脳内で結論の出たキョウヤは悪霊の質問に答える。
「左側に行こう」
悪霊は自分でも実は答えられるとは思っていなかった質問にあまりにもあっさりと答えられ、何か不気味なものを見たような表情をとる。
『お前、もうこの状況に適応しているのか?』
異常という意味であればもう1か月前から始まっている。そして少し前の悪霊の話を、自身の現状を頭から追い出したかった彼にとっては、目の前の不思議な状況はむしろ好意的に受け取られた。
空を見ると何やら浮いている大き目のクジラのような存在、よく耳を澄ませると聞こえてくるカラカラとした声のような何か、物陰に隠れたその音の主たる小さな生物的な実体。
漫画やテレビに出てくるような世界観は少年の心を大変ひきつけ、先ほどまでの憔悴しきった表情はいくらか緩和されていた。
『まあいい、ガイド役ぐらいは務めてやるよ』
悪霊の言葉を聞いたキョウヤは水たまりを軽く踏み抜き、体を左へと翻すとひとまず川を目指して見知った異世界へと歩き始めたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
今後も二人の物語をぽつぽつと上げていきたいと思いますのでよろしければこの物語の感想・評価の方をぜひともよろしくお願いします。