2話 鏡の中の悪霊
電車事故にてなんとか一命を取り留め、1か月のリハビリ期間を終えて心身ともに日常生活に問題なしと判断されたキョウヤは病院を退院した。
夜の7時ごろ、彼の父に車に乗せられ自宅へと帰っていく。その道中、キョウヤは車の中から見える三日月を車のドアガラスの中の怪物とぼんやりと眺めていた。
自宅に帰ったのち家族によって晴れて退院した彼のためにささやかだがパーティーが開かれた。 パーティーの最後に家族みんなで写真を撮ることになった。写真の中には笑顔を見せる父と母と妹と、怪物が写っていた。
しかし彼の妹である星野朝日によるとほかの家族ではキョウヤの姿には特に異常はないらしく、どうやら己の鏡像が怪物に見えるのは自分だけであることを彼は理解した。
パーティーは終わり、久しぶりに実家の風呂を浴びたキョウヤは歯を磨こうと洗面所に据え付けられた三面鏡の前に立つ。怪物は向かい合うようにして鏡の中に立っていた。
彼は体を確認するが一切異常はない。これは病院による専門的な検査でも同様であった。そしてこの怪物は自分以外の誰にも見えず、彼の精神状態によるものが原因でもないということが診断されていた。
間違いなく電車事故に端を発する事象ではあるのだろうが、原因はわからないのだから多分何とかしようとしたところですぐに治るものでもないのだろう。
これさえ除けば彼の日常はおおよそ帰ってきていた。きっと問題はない、そう考えた彼は三面鏡の向こうにたたずむ怪物に小さく語り掛ける。
「お前が何かはよくわからんが、これからよろしく」
そういって、彼が手元の歯ブラシを取ろうと少し下を見たときのことだ。
『ああ、こちらこそよろしく』
三面鏡からした声にはっと上を向くと怪物はその目を細め、ニタァとほほ笑んでいた。
次の日、朝食も終わり家族全員がいなくなった後、彼は寝間着姿のままで自室の学習机の上に小さな手鏡を置くとその前に座った。
恐怖で結局一睡もできなかった彼は昨日逃げ出してしまった鏡の中の非現実と向き合った。
「…おい、化け物」
キョウヤは鏡の中にたたずむ何かに語り掛ける。すると病院での1か月の間沈黙を保ち続けた赤黒いそれは目を細くしてその体を構成するノイズの中から口を顕した。怪物の口が動くと、そこからノイズのかかったような声が響いてきた。
『おはよう、人間。休日なのにずいぶんと早いお目覚めじゃないか、よく寝られたか?』
怪物は挑発的な口調であったが、彼はそれには努めて冷静な口調で返す。
「…おかげさまでな」
本当のことを意地で隠す彼に対して怪物の口からはまた言葉が紡がれる。
『ふむ、ではその目の下のクマはちゃんと温めて消すと良い。やり方教えてあげようか?』
「ガキ扱いしているつもりか?」
怪物のわざとらしい言葉遣いにキョウヤはいら立つ。自分の目の下にクマができていること自体、鏡で自分の姿を確認できない彼には知りようのないことだった。鏡の中からはげらげらという爆笑の声が響いていた。
『いや悪い、見ていられない風体でな?で、話しかけてきたなら何か用があるのだろう?』
怪物からの働きかけに、彼は本題を口にする。それがなんであれ、会話の可能な存在であるならその口から直接その正体を知れるかもしれないというのが彼の考えであった。
「お前はなんだ?」
その質問を聞いた怪物は眉をしかめるように目じりを動かす。
『……具体性のない質問だな。呼ぶ名前が欲しいなら「悪霊」とでも呼べ』
お前みたいなそもそも存在自体が具体的でないやつに言われたくない、という言葉を飲み込んでキョウヤは自らを悪霊と名乗ったそれへと質問を続ける。
「なんで俺にはお前が見えている?」
その質問に悪霊は目を左右に動かしたと思うと結論を一言で語る。
『オレがお前の魂を奪ってなり替わったからだ』
突然すぎる発言にキョウヤの思考は疑問符で埋め尽くされる。ファンタジーじみた発言を糾弾しようと右手で悪霊を指さすキョウヤを悪霊は抑える。
『まあ待て。順を追って説明してやる』
そういった悪霊の右側のノイズがもぞもぞと動き出したと思うと、右腕があらわれる。その指先はキョウヤと同様に鏡の先を指さすポーズをとっている。
悪霊がその右腕をすっと下におろすと、キョウヤの右腕は彼の意思を無視して悪霊の動きに沿うように下へとおろされた。
驚愕してキョウヤが悪霊の方へと目を向けると悪霊は説明を再開する。
『これは見ての通りだが今のはつまりオレがお前の体を操ったということだ』
一瞬キョウヤの様子を伺い、悪霊は話を続ける。
『さて、少し痛いが許せよ?』
そういうと、悪霊はキョウヤの右腕を操って自身の写る鏡の隣にある鉛筆立ての中からカッターをその手に取らせた。
そうして取り出したカッターの刃を押し出すと、それを左手に押し当て、スライドさせたのだ。彼の左手に鋭い痛みが走った。そして当然に切られた左手からは赤い血が漏れ出す。
しかし次の瞬間、左手の傷口の上に赤黒い雷が走ったかと思うとその傷口はすっかりとなくなってしまっていた。
見間違いや目の錯覚のようにも思われたが、カッターの刃には間違いなく血が付いている。傷は今の一瞬に治ったとしか形容のしようがなかった。
『俺たちの関係はつまり一種の共生関係のようなものだ。俺はお前の中にいて、お前はオレの「ガワ」だ。だから今みたいにお前の体を操ったり、俺の力で治したりもできるというわけだ』
少なくとも病院で検査を受けたときには彼の身体には大きな異常は見られなかった。しかし先ほどの回復は明らかに人間の起こせることではなかった。
『感謝しろよ?お前の体はオレがお手製で治してやったのだからな』
目の前で起きた一連の事象と目の前のそれの言葉を総合して、彼は超心理的なものの存在を認めざるを得なくなっていた。
もしかしたら身の肉体よりもさらに本質的な部分、それこそさっき悪霊が語った魂のような部分で変化が起きたのかもしれない。
確かにそれであれば異様に早かった自身の身体の回復にも説明がつく、とキョウヤは悪霊の一連の発言内容が間違いではないと認識していた。
ひとしきり語り終えて満足げな悪霊をよそに、しかしあまりの事態に顔面蒼白になったキョウヤは震えた声で質問を続けた。
「それで、最初の質問と今の説明になんの関係がある?」
『今お前の命の正体はこのオレだ。お前の鏡像がオレなのは鏡を通してお前の現状が見えているだけだ』
この悪霊の話を総括すればつまり、キョウヤは一切の自覚なく人間ではない何かに変質してしまったということになる。
泣きそうな声になりながら、キョウヤは質問を続ける。
「…じゃあ俺の中身はどこにいった?返してくれよ」
数秒の沈黙ののち、悪霊はゆっくりと口を開く
『お前の魂は現在オレだけが知る場所に保管されている。だが返すことはできんのだ…お前の体が今は入用なのでな。それが終わったら返してやる』
「なんだよ?お前何が目的なんだよ!?」
『オレの「仲間」を倒すのに協力してもらう』
ヒートアップしたキョウヤを悪霊はカウンセラーのように優しい口調でたしなめると、その首を窓の方へ向けた。
『外に出ればいやでもわかるさ。今日はなかなかにいい天気だ』
キョウヤもその動きにひきづられて窓の方を見ると、確かに12月とは思えない陽気を感じさせるような晴天が広がっていた。
「ああ、そうかよ」
すでに脳がパンクしかかっていたキョウヤは何とか一度現実から目をそらせるものが欲しかった。悪霊の語ることなど一切理解で来ていなかったが、光に吸い寄せられる蛾のように彼は陽光にひかれてしまった。
だから彼はうつろにそう答えると席を立って外出用の服装に着替え始めたのだった。
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今後も二人の物語をぽつぽつと上げていきたいと思いますのでよろしければこの物語の感想・評価の方をぜひともよろしくお願いします。