第6話 黒い魔女と小さな希望
「お、おまえは! たぶんあの時の魔女だな?」
犬となった公爵様が叫ぶと、言葉の前後に「きゃわん! きゃわん!」と犬の鳴き声がつく。
感情的になると犬の本能が現れるのだろう。
ぐるるるる、と唸る犬に、黒い魔女はキッと睨む目を向けた。
「たぶんって何よ! そうよ、あの時あなたに呪いをかけた魔女サーヤよ! あなたの人生がひっくり返るくらいの衝撃を与えたんだから、それくらい覚えておきなさい」
「いや、あの時は動転していたし、随分前のことだし」
こいつ、ヘタレかと思ったら案外肝が据わっている。
いや、抜けているというべきか、素直過ぎるというべきか。
「ふん……まあいいわ。だって、やっとあなたが私を呼んでくれたのだもの」
魔女はふふっと口角を上げ頬に手を当てるが、いや、だからたぶん呼んでない。
だいぶ待ち焦がれたせいで耳に入る言葉は都合よく解釈されるようになっているのだろうか。
「だれか呼んだか……?」
そこの犬公爵もキョロキョロするな。他に誰がいる。
「さっきあなた、会いたくても会えないって言ったじゃない! 絶対言ったわ! 私聞いたんだからね!」
「ああ……」
そういえば、っていう顔をされると困る。
犬のキョトン顔はかわいすぎて撫でまくりたくなるではないか。
「ほら。やっと私しかいないとわかってくれたのね。今すぐにでも結婚してあげるわ」
なるほど。
呪いのせいで公爵様は誰とも結婚したくなくなる。では自分が結婚してやると持ち掛ける。そうして公爵様を意のままにしようとしていたわけか。
随分と狡い。
しかしある意味真っ直ぐすぎる公爵様にはそんな腐った思考は通じないようだった。
「いや、私は既に結婚している。だから犬になったのだぞ」
何を言っているんだとばかりにもふもふの眉をしかめた公爵様を見下ろし、魔女はしばし黙り込んだ。
こちらでもそういえば、って言う顔をするな。
しかし魔女の開き直りは早かった。
「別にいいわ。私に人間の戸籍なんて関係ないから」
床にいる犬公爵を見下ろしていたために垂れた巻き髪をバサリと背に払い、ふん、と居丈高に笑う。
この魔女、あまり計算は得意でないようだ。
どうにも行き当たりばったり感が強い。
「おまえに関係なくとも、私には大いに関係ある」
「魔女の結婚は、血の契りを交わすだけだもの、すぐ済むわ。そんな女は放っておいて私と楽しく暮らせばいいのよ。逃げないとわかったら、あなたの呪いを解いてあげてもいい」
「それは嫌だ」
「なんでよ!」
「だっておまえ、自分本位そうだし、人の話聞かないし、気分屋っぽいし。一緒に暮らすのは疲れそうだから」
正直だな。
だが正直ならいいわけではない。
大人は建前も必要なんだぞ。
案の定魔女は、思ったままを言ったというように凛としている犬の公爵様を睨みつけ、顔を真っ赤にして怒りをたぎらせた。
「なぁんですってぇ?! この期に及んで、まだそんなことを言うの?! 私しかあなたの呪いは解けないっていうのに」
「その呪いの解き方って?」
さりげなく質問を挟むと、魔女は勢いよく答えてくれた。
「心から愛する人が口づければいいのよ。だけど、犬よ? しかもモラハラ公爵よ? 愛してくれる人なんてどこにもいないでしょう」
どこかで聞いたことのあるような解呪方法だが、『心から愛する』とは魔法でどのように判定されるのだろう。興味深い。
「なるほど。公爵様は元の姿に戻りたいですか?」
「もちろんだ!」
勢い余ってわきゃん! という鳴き声と併せて答えた公爵様に、魔女がふふんと割り入った。
「じゃあ私と結婚して一生傍にいて。それなら今すぐにでも呪いを解いてあげる」
「それはいやだ!」
「なんでよ! 私はあなたを愛しているっていうのに、何が問題なのよ! 大体ねえ――」
食い気味に拒絶された魔女がぎゃーぎゃーと喚いている間に、私は足元の公爵様の前にしゃがみこみ、尋ねた。
「では、私が口づけをしてみてもよろしいですか?」
「え? なぜ?」
「真実の愛なんてどのように判定するのかと疑問に思いまして。案外キスをするだけで戻ることもあるのでは、と」
「確かに。ではお願いする」
「承知しました」
その答えを聞くと、私は犬の公爵様をひょいっと抱き上げた。
「あ、だが待て、キスなんてしたこと――」
「待ったは聞きません」
「え? まっ、なんでそんな男前!?」
この期に及んできゃんきゃんとうるさい。
私は顔の前まで犬の公爵様を持ち上げると、その濡れた唇に触れるだけの口づけをした。
まるで氷に触れて驚いたかのように、ふわふわの毛並みに埋もれていた耳がぴぃんと立つ。
その一瞬後。
ぼっふぅんと辺りに白いもくもくとした霧状の何かが溢れ出し、視界が真っ白になった。
そして私の手には、さらりとした素肌。
そこには素っ裸の男が立っていた。
「うおわあああ!」
裸にひん剥かれたみたいに叫ばれると私が加害者っぽく映るのでやめてほしい。
しかし驚いた。
透き通るようなふわふわの白髪に、天使と見まごうような美顔。
ほどよく筋肉のついたたくましい胸板。
もちろんそれより下に視線は向けないだけの分別は持っているし、すぐにさらさらとした素肌からも手を離したけれど、なるほどこれは裸ではなくても色気がダダ漏れな上にイケている面である。
「戻った! 戻ったぞ!」
だが残念ながら、公爵様と思われる男が自らの手を見下ろし、そう歓喜の声をあげた瞬間だった。
ぼっひゅんと気の抜けるような音がして、目の前の成人男性は消えた。
代わりに現れたのは、先程の犬。
「なんでだーーー!!」
「ふん、当たり前よ。そんな出会って数分の女が真実の愛なんて持ってるわけがないじゃない」
それはそうだ。
これまで見てきた公爵様は、犬で、モラハラの皮で自分を守っていて、ヘタレで、およそ好きになるような要素はなかった。
後半は案外肝が据わっていて素直な面も見えはしたが、悪印象がやっと拭えたくらいのところで好感はまだない。
「でも、一瞬変わりましたね」
魔女はさっとあらぬ方に目を向け、聞こえていなかったかのように素知らぬ顔をする。
やはり試した甲斐はあった。
たとえば、愛とはいっても様々にある。
友愛、親愛、家族愛に師弟愛。他に特殊な愛もたくさんあるだろう。
今の私と公爵様の関係を鑑みれば、今回は友愛か動物愛がわずかでもあると判定されたのかもしれない。
犬に戻ってしまった公爵様はいまだ持ち上げられたところからの急降下(物理含め)に呆然としているけれど、黒い魔女はすうっと高度を下げ、そんな公爵様を見下ろした。
「一瞬なんてなんの意味もないわ。やっぱりあなたは私を選ぶしかないのよ」
「それは無理だ。おまえは私の顔が気に入っているだけだろう」
予想外にきっぱりと言われたためか、魔女は束の間黙った。
事実だったらしい。
「顔が好きだろうが体が好きだろうがあなたを愛していることに変わりはないわ。試してみないとわからないじゃない。そこの地味女の前例もあるわ」
「試さないでもわかる」
「口づけなんて減るもんじゃなし、いいじゃないの!」
「減る!」
それはごめんね。
「一度私と口づけをすれば、とりこになるわよ。とろけさせてあげる」
ふふふふふ、と妖艶な笑みを浮かべ、どんどん高度を下げていく魔女に、犬の公爵様はぞっとしたように「来るな、痴女!」と叫び、三歩下がった。
「なんですって?! 私のこの魅力にその言い種! ありえないわ!」
「つい、すまん! だがいやだ! 俺は妻との間に真実の愛を探す! 意思も何もない結婚ではあったが、既に口づけも交わしている。不貞行為はしたくない!」
キスは初めてとかあの美顔で信じられないことだったが、このピュアっピュアな口ぶりからすると本当だったのだろう。よくここまで守り抜けたものだ。
魔女は「ぬぬぬぬぬぬ……!」とギリギリ歯噛みをしていたものの、ふん、と荒い鼻息を吐くと忌々しげに高度を上げた。
「いいわ。好きなだけ犬の姿でいることね!」
そう言って背を向けたが、最後にくるりと振り返り、うふっと笑った。
「呼んでくれたら私はいつでも駆け付けるから。その時は、呪いから解放してあげるわね」
そう言って、すっと姿を消した。
一人で温度の高低差が激しいことだ。
犬の公爵様はしばらく警戒するように何もいなくなった宙にぐるるると唸っていたけれど、戻ってこないとわかると、はふうと詰めた息を吐き出した。
先程公爵様は私との間に真実の愛を探す宣言をしたわけだが、私はこの犬、もとい夫を愛せるだろうか。
噂に聞いていた通りのモラハラではなさそうだとわかっただけで好きになるわけでもなく、恋愛や友愛を抱けるか今のところ自信はない。
慈愛だったらいける気もするが、それにしたって時間はかかるだろう。
先程の魔女の様子では突発的であまり計算が得意ではなさそうだし、呪いの力もそれほど強くなさそうだ。
真実の愛以外の呪いを解く方を探す方が早いかもしれない。




