第1話 目指す場所
マリア様やジョシュア様の強襲があった日の夜のこと。
寝室のベッドにちょこんと座った犬の姿の公爵様は、改めて学院であったことを話してほしいと言った。
つぶらな瞳でやや眉を寄せたようなしかめ面で話を聞く犬の姿の公爵様はますますかわいいしかない。
「――というようなところで、大体の方はさほど気にすることもないと思うのですが、気にかかるのはお二方。まず一人目は、先程馬車の前に駆け寄ってきた、マリア=アルターナ侯爵令嬢です。私が親しくさせていただいているノアンナ様の妹で、お察しの通り自分の欲望に忠実な方です」
「だろうな。普通の令嬢であれば、妻の前であのような行動はとるまい」
「前から言動がわからないと思ってはいましたが、私に絡んでくるのもどうにもおかしいと思い始めました。意図がさっぱり読めません。二人目が、その婚約者であるジョシュア=ハーバート侯爵子息です。私を助けるふりをして味方だと言って取り入り、公爵様とのつながりを求めているのかとも思いましたが、はっきりとは意図がわかりません」
さらに眉を寄せた公爵様の目がふわふわの毛にやや隠れ、その下からじっと私を見る。
「ジョシュア=ハーバート……。俺が目当てではないのかもしれないな」
「声をかけられたのは今日が初めてですから、『公爵夫人』となった私に用があったというのは確かかと思いますし、その先には公爵様を見据えているはずです」
「何を話した? 一言一句覚えている限り伝えてくれ」
私は頷き、『ジゼル殿。こちらへ!』と言われて無視したら舌打ちと共に強引に腕を引っ張られたところから、『間に合っています』と私が駆け去ったところまで、記憶を辿りながら報告した。
「気に入らんな」
聞き終えた公爵様はふさふさの腕を組み、椅子に重ねられたクッションにもたれてきっぱりとそう言った。
かわいいしかないが、私も完全に同意だ。深く頷く。
「自分本位さがまったく隠せていませんでした。それと、王太子殿下が私と公爵様が結婚したことを声高らかに周囲に聞かせていた時、何やら眉を顰めて難しい顔をしていたのが気になっています」
「俺とジゼルの結婚が不都合ということか。やはりジゼルに好意があったのでは――」
「あの人は私個人など見てはいませんでしたので、それはないかと思います。ありえるとすれば、マリア様を貶めた私が地位の高い公爵様と結婚したことを面白く思っていない、とかでしょうか」
最初こそ私を落とそうとしているような言動だったが、あれは恋に酔っている男というより、むしろ、にこにことしたその顔の裏に何らかの思惑を隠している感じだった。
言葉の上に真意はない。
「婚約者との仲はいいのか?」
「はい。マリア様はご両親にも甘やかされて育ったそうですが、ハーバート卿もまた何でも言うことを聞いてしまうのだとノアンナ様が言っていました」
ただ、ジョシュア様と話してみるとその話には違和感があった。
計算高い人に見えたから、婚約者をただ甘やかせば自分とて被害をこうむることは容易に想像がつくはずだ。
だとしたら何故マリア様を増長させているのか。
公爵様も考えこむように、ぷにぷに肉球を顎に当てた。
「ふうん……」
「ノアンナ様は最近マリア様がつけあがっているというようなことも仰っていました。先日の王太子殿下によるノアンナ様断罪劇も、物理的に裏に隠れていたのはマリア様ですが、その経緯にはハーバート卿が絡んでいたのではないかと」
「だとして、目的は何だ……? わざわざ王太子殿下を使うリスクをおかしてまで、何がしたかったのか」
「それがわからないのです。ただ、そのことに関してはもう一つ気になっていることがあります。王太子殿下の婚約者であるルチア様は聡明な方なのに、殿下が無実の、しかも一方的な断罪劇に至るのは違和感があります。その後、ルチア様は私に忠告までなさいましたし」
ルチア様との会話を思い出しながらあらましを話すと、公爵様は明らかに取り乱した。
「何故早く言わない? それはジゼルが危険ということだろう」
「その後に殿下が私の結婚を言いふらしましたので、そのことによっていろいろなことが起こる……という忠告だと思っていたのです。申し訳ありません。確かによくよく考えると、もう大丈夫だと思うけど念のためだとか、気にかかるところがあります」
「裏で何かが起きているということか……?」
公爵様はじっと考え込んでしまい、私はそういえば、と思い出す。
「今日、兄から手紙が届いておりまして、先程ざっと目を通したのですが気にかかるところがありまして」
王族や貴族の人間関係など、社交界では当たり前のことに疎いままではいられないと、簡単にまとめて送ってもらったものだ。
チェストの上に置いておいた封筒を手に取る。
「俺も見てもいいか?」
「はい、もちろんです」
便箋は三枚あった。
公爵様に渡そうとして持てないということに気づき、ベッドの上に並べて置いた。
一緒に覗き込むようにすると、一枚目には王太子の取り巻きに騎士団の若手実力者やルチア様の名前がある。
「あ。二枚目のこれです。不勉強で恥ずかしい限りなのですが、ハーバート侯爵子息ジョシュア様が、第四位王位継承権を持っていることを初めて知りました」
公爵様の次に高い第三位王位継承権を持っているのは、ハーバート侯爵だ。
「ああ……。確か先王の兄君がハーバート侯爵家に婿に入ったのではなかったか」
「先王の……兄君、ですか」
王位継承権は先に生まれた子のほうが高い。
それなのに弟が王になり、しかも新たに公爵位を賜るのでもなく侯爵家に入ったということは、何か事情があったのだろうか。
「ということはもしや、ハーバート侯爵が王位を狙っている、とか」
本来ならそれほど高くない位置だったはずだが、第一王子と第二王子が亡くなったためそこまで上がったのだ。
王位まで目と鼻の先と思えば欲が出てもおかしくはない。
加えてこれまで公爵様は悪評が立っていて結婚もしていなかったから、王位にはつけないだろうと思っていたところに、私と結婚したと聞いて、それらも払拭され、邪魔になった、とか。
「しかし、だとしたらやっていることが生温いような気がするが」
第一王子と第二王子は権力闘争により命を失っている。
それに王位を狙うなら公爵様よりもまず王太子殿下が邪魔なはずだが、仲間に取り入れている。
公爵様に対してもジョシュア様は取り入ろうとする動きを見せただけ。
「今の時点ではまだ目的はわからないな……。とにかく、ジョシュアとマリア嬢には気を付けて過ごしてほしい」
「はい」
頷くと、公爵様は布団を見下ろすようにして半分目を伏せた。
「……改めて話すと、確かにロクな王位継承者がいないな。王太子は阿呆で俺は犬、ハーバート侯爵家の面々は何やらきな臭い。これではジゼルが国を乗っ取ると言い出すのもわかる」
「いえ、王位を巡り血が流れたという話を聞いておいて、クーデターを企てる気にはなりません。それにまだ王太子殿下も国王陛下も、一面しか見ておりませんから」
ロバートも父も、国王陛下の采配に首を傾げていたことを思い出す。
なかなか冷静になれなかったが、もしかしたら何か意図があったのかもしれない。
少なくとも、腹いせで私が公爵様に嫁ぐことになったのではないように思う。
陛下は公爵様の人柄を知っているはずなのだから、罰になどならないとわかっていたはずだ。
「そうか。ならよかったが……いや、いいのか……?」
「公爵様ならいい国王になれると思いますけどね」
公爵様ははっとしたように周囲を見回し、慌てた。
「軽々しくそんなことを言うな!」
「失礼しました。ですが、本心です。公爵様は優しさも勇敢さも、人を見ようとする心もお持ちですから」
「……、そろそろ夜も遅い。寝るとしよう」
犬の表情はわかりにくい。
ただ、くるりと背を向けた公爵様のお尻では短いしっぽがぷりぷりと忙しく振り回されていた。
喜んでいる……?
「本当、かわいらしい方ですね」
「……犬の時に言われても嬉しくはない」
「ですが、犬の公爵様も公爵様です。分けて考えるほうが難しいですし、かわいいと思う気持ちは『公爵様』に対してですから、かわいいも深まれば真実の愛と言えるのかもしれませんよ。試してみます?」
「いや、いい。それで戻れたとしても、もう嬉しくはない」
人の気持ちとは、難しい。
目指すゴールは同じはずなのに。
私は大人しくなった尻尾を見つめながら、ベッドに横になった。
呪いを解くために協力し始めたのにはいろいろな理由があった。
けれど今は純粋に、早く公爵様が人間に戻れたらいいのにと思っている。
公爵様の憂いを取り払えたらいい。
すっきりと心から笑えるようになってほしいから。
「ところで。ジョシュアに腕を引っ張られたと言っていたな」
ふいっと顔だけを振り向かせて、公爵様が横目に私を見た。




