第11話 心の在り処
「何故ハーバート卿がこちらに?」
「ジョシュアと呼んでくれていいよ。騒ぎが聞こえて、何事かと覗いてみたら追われていたから。間一髪だったね」
それは確かに大きな騒ぎではあったが、何故あなたが? というところが重要だ。
それにあの調子では助けなどなくとも逃げ切れたのに、余計にややこしい状況にされ、ありがた迷惑でしかない。
「前から君のことは気になっていたんだ。是非話してみたいと思ってね」
「お話であればこのような場所ではなく、ふさわしい場所があるかと思いますが。それと、ハーバート卿にはマリア様がいらっしゃいます」
「婚約者とだけ話していても見聞は広がらないよ」
「それが他人の妻である必要性は?」
「君のステータスなんて関係ないよ。君自身に興味があるんだ」
立場を度外視して無遠慮に近づいてくる人は、私自身に幸があろうが不幸があろうが関係ないと思っている人だ。
だって立場は必ず人について回るものであり、それは私に跳ね返ってくるものなのだから。
たとえばこんなところに二人でいるところをマリア様に見つかりでもしたら、私は途端に標的にされるだろう。
今私を追い落とそうとしている人にとっても、いい攻撃材料になる。
「興味が理由でしたら、私にはジョシュア様への興味がありませんので失礼いたします」
一方的な興味で会話を成り立たせようとされても困る。
大仰なまでに丁寧な挨拶をし、くるりと背を向ける。
しかしそれを無視して声がかけられる。
「君もいきなりモラハラ公爵の嫁になんてされて、困っているだろう? さっきだって大変な目に遭っていた」
「困ったことも、先程大変な目に遭ったことも事実ですが、それは私自身の問題であり、ハーバート卿には関係のないことです」
「私なら助けてあげられるよ?」
にっこりと、と形容したらいいのだろうか。
だが『にこやか』とは言い難い笑みだった。
本人はフルスマイルのつもりなのだろうけれど、うさん臭さしか感じない。
最初は私を惚れさせるようとするかのような言動。
それが無理と見るや、味方であるという主張に変えたということは、言葉は手段でしかなく、その裏に何らかの意図があるということだ。
しかし、マリア様は私が敵で公爵様の味方という口ぶりだったのに、ジョシュア様は逆だというのがまた解せない。
マリア様はジョシュア様からアドバイスももらっていると口にしていたけれど、二人の間ではどれほど話が通じているのだろう。
それぞれに違う思惑で動いているのか、共闘しているのか。
わからないが、ジョシュア様が善意で動いているようには思えないし、この状況は私にとって圧倒的にリスクしかない。
今はさっさとこの場を去るべきだ。
「必要ありません。失礼いたします」
今度こそ歩き出した私の腕を、ぱしっと掴まれぞっとする。
咄嗟に振りほどこうとしたが、力が強く離れない。
「これまで誰かに助けられたことがないからすぐには信じられないのかもしれない。だけど君のことを心から案じている人間がここにもいると知っておいてほしい」
言葉だけを聞けば大層な決め台詞かもしれない。
孤独に生きてきたヒロインならば一言で落ちもするだろう。
だが。
「間に合っています。私には心から心配してくださる旦那様がおりますので」
ジョシュア様から見ればいつも怖い顔をしている私のような人間は孤独に見えたのだろうけれど、見当違いだ。
私には家族も友人もいる。
何よりも、公爵様がいる。助けてもらうなら公爵様がいい。
私は腕を肩からぶぉんと回して掴まれた手を思い切り振りほどくと、全速力でその場を走り去った。
――嫌な感触が残っている。
それを振り払いたくて、私は風で洗うようにして思い切り手を振り走った。
ああ、早く家に帰りたい。
そう思った時、自然と頭に描いたのは公爵様の待つお屋敷で。
いつの間にか、私の家はちゃんと公爵家になっていたと知った。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
ノアンナ様も奮闘してくれたけれど、一日中人の好奇と悪意に晒され、私はぐったりとして帰りの馬車へと向かった。
そこでまた信じられない人が信じられないことに私を出迎えたのである。
「公爵様……。お迎えにいらっしゃらなくて平気だとお伝えしたはずですが」
驚いた。驚いたけれど、自然と肩の力が抜けたのがわかった。
「どうにも様子が気になってな」
「問題ありません。さすがに人目のあるところで公爵夫人を害そうとする者はおりませんわ」
足をひっかけられるとか、髪を引っ張られるとか、因縁をつけられ囲まれるとか、今日一日でも面倒なことはたくさんあったけれど、今ここでそれを話したくはない。
私はいつも通りだったはずだ。
なのに、何を感じ取ったものか、公爵様はむっと眉間に皺を寄せた。
「だが何かはあったわけだな?」
「まあ、それは」
ますます眉間に皺が寄る。
公爵様が口を開いた時だった。
「クアンツ様!」
親しげに呼ぶ甲高い声が聞こえ、ぎょっとして振り返るとそこにはツインテールをぷりんぷりんと揺らしたマリア様の姿があった。
「マリア様……」
本当にこのカップルはそろいもそろって何なのか。
しかし、さすが公爵様は年季が入っているだけのことはある。
「クアンツ様、私、」
「うるさい。私に触れるな」
ビリッと空気が震えるような、低く怒気を孕んだ声だった。
マリア様は用件すら伝えることもできないまま言葉を奪われ、公爵様の腕に抱きつきかけていた体はびくりと跳ねて二歩、三歩と下がった。
「ジゼルを害そうとしたのはおまえか?」
「いえ、いえ、そんな――! 池のことでしたらあれはただの事故で、そもそも私はただ、クアンツ様のためにと」
「私の名を呼ぶことを許した覚えはないのだが、どういうつもりか? まさか、ジゼルなどやめて自分を嫁になどとは言うまいな。覚えているぞ。おまえはいつぞや仕方なく出席した舞踏会で、私を見るや否や嫁にと望まれては困るとばかりに脱兎のごとく逃げ出しただろう」
マリア様は口をはくはくとさせ、顔がさあっと青ざめていく。
「それと、婚約者がいたのではなかったか? このような公衆の面前で、しかも妻と二人話しているところに割り入り、抱きつこうとする恥知らずだとは、おまえの婚約者は哀れだな」
侮蔑するような目でマリア様を見下ろした公爵様は、私の肩をぐいっと抱き寄せた。
「誰でも私の妻になれるなど思い上がるなよ。私が心を許すのはジゼル一人だけ」
よく通る声ではっきりとそう宣言すると、公爵様は私に手を差し出した。
「ジゼル、手を」
私は公爵様にエスコートされ、凍り付いた人々を置き去りにして馬車に乗り込んだ。
後に続くかと思った公爵様は何故か乗ってこない。
公爵様はまるで一人一人を凍らせていくようにたっぷりと人々を眺め渡した。
「ジゼルに害を成す者は何人たりとも許さん。言動にはよくよく気を付けることだ」
低い声があたりにしんと響き、居合わせた人々は固まった。
身に覚えのある令嬢は青い顔で震え、他人事とにやにやしていた子息たちは顔をこわばらせている。
公爵様が乗り込み、馬車が動き出すと、脱力して姿勢悪く壁に背をもたれた。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「有無を言わせぬとは。お見事でした」
「ああいう手合いの話は聞くだけ無駄だ」
さすが慣れているだけある。
しかし余波がすごい。心臓がばくばくとしてなかなか鳴り止まない。
凍り付いていた人の中で顔を熱くしていたのは私だけだろう。
私を守るために言ってくれたのだということはわかる。
それは私が妻になったからだということもわかっている。
けれどいつまでも頬の熱が冷めてくれない。
「マリア様のこと、ご存じだったのですね」
「知らん」
初めて私の方が戸惑った。
「大体そこらの令嬢など同じようなものだろう」
確かに、この年頃であれば大体の令嬢は婚約者がいるし、ああいうタイプであれば社交場にもあちこち出向いているだろうから、どこかで公爵様に会ったこともあるだろう。
寸分違わず一致していたことがすごいが、偶然でも奇跡でもなく、マリア様のあのわずかな言動から導き出された必然とも言える。
「顔色が悪いな」
公爵様はしかめっ面で眉を寄せ、心配げに私を見る。
ここまで人の悪意を一身に浴びたことはないから、さすがの私も正直こたえた。
先程のマリア様のこともざまあと思うより、逃れられてほっとしてしまったくらいだ。
私が答えずにいると、公爵様はきっぱりと言った。
「もうよい。明日からは外へ出るな」
「それは過保護ですよ。学院には学びに行っているのですから」
「せめてほとぼりが冷めるまででいい。俺が心配でとてもいられない。気が気ではない。これまで俺に近づいた女性はみな嫌がらせを受けていたが、今更こんなモラハラの嫁になったところで妬む者もおるまいと思ったのが甘かった」
そりゃあ、ちょっと微笑んだだけであの威力だ。
これまでのモラハラ悪印象を一瞬で塗り替えるのには十分だったことだろう。
「慣れていなかっただけです。大体手口もわかりましたから、あとはもう大丈夫です」
「――わかった。だが、とにかく今は少し休むといい」
そう言って公爵様は私の隣に移動すると、頭を抱き寄せ、肩にもたれさせたから慌てた。
「それほどのことではありません。大丈夫です」
「そんな顔色で言われても離すことはできない。少しでいい。目を瞑っておけ」
「はい……、ありがとうございます」
珍しく頑として譲らない公爵様に、大人しく目を閉じた。
するとすぐに頭の奥から重いものがやってきて、とろりとした眠気に襲われる。
自分でも気付かないうちに疲れがたまっていたのかもしれない。
触れあう温もりが心地いい。
一瞬の間に体から力が抜けていく。
「次にもし俺がもうだめだと思えば否やはないぞ」
「……はい」
「それに学院でこうだとすると、社交界に出たら――。やはりもっと――」
公爵様は何かぶつぶつと言っていたけれど、私はあっという間に眠りに引きずり込まれてしまった。
翌日学院に行くと、視線は相変わらず感じるものの、攻撃されることはなくなった。
やはり公爵様は長年恐れられてきただけあって、十分すぎる効果があったようだ。
サンルームで食事を終えた私に、ノアンナ様は言った。
「恐ろしい旦那様を持ったものね」
「まあ、そうね」
いろんな意味で。
「私、昨日の公爵様を見て、やっぱり公爵様は公爵様なんだと思いましたわ」
「どういうことですか?」
「あれほど恐ろしく怒った顔など、見たことがありませんもの。――それに、あちこちの家から悲鳴があがっていたようですわよ」
「え……?」
聞けば、いくつかのお屋敷に学院から通達が届いたのだという。
内容は、『国王陛下への翻意があるととれる言動は慎むように』というもの。
大袈裟にも感じるが、王命で結婚した私を認めないとなればそういうことにもなるだろう。
「無作為に届いたのではなく、的確に心当たりのある方の元にだけ届けられたようで、それがなお恐怖だったようですよ」
つまりは『おまえが学院で何をしているのか知っているぞ』と言っているも同じだ。
私が報告していた内容を書き留めている様子はなかったけれど、しっかり把握していた上に裏でそのような行動をとっていたとは思わなかった。
さらに屋敷に届けられたということは両親もそれを知ることとなり、内容を見れば子供がいかに愚かな振る舞いをしていたかと顔を青くしたことだろう。
どうりで攻撃がさっぱりと止んだわけだ。
「愛ですわね」
ふふっと笑ったノアンナ様に、戸惑う。
「人々の前で牽制するにも、通達のように陛下への翻意ありとみなすと脅せば早かったかもしれません。それがわかっていても、ジゼル様の前ではそれを理由としたくなかったのでしょうね。あの時語られた言葉は、ジゼル様に向けたものでもあったのかもしれません。ジゼル様への愛をとても感じましたもの」
「愛? まだ知り合って日も浅いのに、そんなこと――」
だって、これまでの私のどこに公爵様が好きになるような要素があっただろうか。
引かれたり、怖れられたり、怯えられたり。
期待されているのは感じるし、妻が私でよかったとは言われているが、それはまた愛とは別物だろう。
そもそも、真実の愛をもって口づけをしなければならないのは私だけで、公爵様は私を愛する必要なんてないのだ。
「愛は理屈ではありませんのよ。時間なんて関係ありません。落ちる時は落ちるのです」
理屈ではない。
そう言われると、どうしたら公爵様を愛せるかあれこれ考えていた私はどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「きっと、ジゼル様も時間の問題ですわね」
私の顔を覗き込んだノアンナ様が、ふふっと笑った。
 




