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ハルノサナカ

作者: Arui0

田舎の観光会社を舞台に起きる後輩×先輩のBLです

ハルノサナカ





家にどうぞ


市那の部屋


話したい


姉妹町


桜公園


対話


名前


花びら





 人生は決まっていると三倉は思っていた。馬鹿だと自分を貶していれば、自分は主人公では無いと思って生きれば、大抵のことには裏切られない。

 自分が脇役のAとかBであるとして、主役級のカリスマ性を持つものとはどんなものか、要は今自分の横に座り、上司の話に頷いてるこの男のような存在だと見倉は思った。

「市那君が来てくれて助かったよ」

 酒に酔った部長が人の良い笑顔で期待の新人、「市那塩也を見る。

「いえ」

 答える市那は落ち着いていた。彼は絵に描いたように優秀な社員だ。清潔感があって男前で、仕事もできるため周囲から慕われている。隣に座る三倉はそんな市那の教育担当だった。そうなった理由は三倉が2年だけ先輩だったからと言う事以外にないだろう。

 この職場は地域発展を目的として観光事業を展開する小さな会社である。4月の今は桜が咲き、名所を見にくる客が増えるため繁忙期となる。三倉は営業を主に行ってる為、市那を早く現場慣れさせるのにちょうど良い選択だったのだろう。

「お前も良かったな」部長が今度は三倉を見た。

「はい」

 彼は自分と市那の違いを実感していた。仕事柄、人との会話は続くが、元来は人見知りだった。癖毛は直したくても直らず、視力が悪いので厚めの眼鏡をかける。冴えなくて人が良さそうで地味な29歳、それが自分。

 とはいえ、市那と自分を比べて卑下するわけでは無い。三倉は周りの期待通りに動く市那を早くも尊敬している。

「先輩の教え方が良いので」

 市那が晴れやかな笑みを三倉へと向けた。

「そりゃどうも」

 冗談もうまいらしく、市那が居ると場は盛りあがる。営業先でもこの性格はうまく作用していた。一つだけ不思議なのは、この完璧な男がどうして田舎の観光会社に入社したのかと言う事だった。三倉はその点については深く聞いたことは無かった。対人の仕事がしたくてという理由は言っていたが、真意など恐らく一生分からないだろう。

「そういやテレビの取材が入ってな。また三倉に答えてもらおうと思ったんだが」部長が言った。

「いやぁ、俺よりも…」

 三倉は市那を見た。景観のいい時期はニュース番組の取材が入ることもある。

「市那、どうだ?美男子が出たほうがいいだろ。数分でもどよめかれるぞ」

 三倉は市那を小突く。

「まだ何もわかりませんよ」

 市那が入社したのは今年の2月だった。

「こういうのは慣れだぞ、市那君」

 部長も市那に出てもらう事に乗り気らしい。急な家族の事情で辞めてしまった社員の後任として入社した市那。条件をこんなに満たした奴がきて部長もうれしいだろうなと、他人事のように考えながら三倉は酒を飲みすすめた。

 飲み会は思ったよりも長引き、終わる頃には三倉は多少気分が悪くなっていた。飲みすぎたせいではなく気の使いすぎだ。

「疲れた…」

 市那が心配そうに三倉を見る。

「家近いんですよね?」

「あぁ、曲がってすぐの左のアパートだよ」

 そう言って三倉は鞄の中から家の鍵を探る。すると、あるはずの鍵が無かった。辺りはもう真っ暗で街灯の灯りを頼りに鍵を探すが、どこにも無い。

「会社に置いてきたみたいだ…」

三倉は思わず、市那を頼るように見上げた。だが

市那にはどうすることもできない。

「僕の家泊まります?」

「え…?いや…いいよ。近くのホテルか何か探すから」

「あの…ホテルも何もないですよ。田舎だし…野宿するのもまずいから、どうぞ。ついでに取材について聞いていいですか?」

 市那の発言は正論だった。そもそも、何もないから、この様な地域を盛り上げるための会社があるのだ。

「ほんと…すまない…世話になる」

「いえ、三倉先輩」

 穏やかな笑みを見せる市那が、仮面ライダーに変身する前の若手俳優の様に見えた。











『市那の部屋』

 時計は夜の10時を指していた。鍵を忘れたせいで三倉は妙に疲れていたが、市那の部屋はモデルルームの様に快適だった。自宅の鍵を忘れたことなど一度もなかった。

「何してんだ俺は…」

「あの、三倉先輩、シャワーどうぞ」

 帰るや否や市那はシャワーを浴びに行った。流石は清潔な男である。三倉はどうにも落ち着かずにソファに座り、テレビの画面を凝視していた。

「いや…俺…床で寝るし…風呂も良いって」

「明日休みでしたっけ?」

「そうだけど。でもだからじゃなくてな、友人でもないしさ」

 市那からはどこか否定的な雰囲気を感じた。

「普段は入るぞ?」

「気にしないでください」

 決まりが悪かった三倉はバスルームに向かう事にした。着替えがないというと以前の旅行の予定がなくなって使ってなかったからと市那が下着をくれた。戻る頃には市那は床にもう一人分の布団を敷いていた。

 そして、当然のように「僕は床で寝ます」と、真顔で言った。どこか恐怖を感じた三倉は拒否をする。

「おまえ…準備良すぎない…?」

「先輩はうっかりしすぎです」

「…それ、その通りだな…あーもう、本当、感謝しかないわ」

「別に。今からでも野宿したいなら僕は止めません」

 市那が布団を片付け始めるので三倉は止めた。

「いやいや待って、寝るから!!市那君、ストップ!!」

「いえ、無理せず」

「今の嘘だって、まじめに、な??」

 三倉はベッドに飛び込むようにして寝転がる。

「ここで寝る」

「……飲み直しません?」市那が提案した。三倉は市那をまじまじと眺める。市那は眉を潜めた。そういう表情にも思うことがあった。市那はどこか刺々しい。

「なんです?」

「いや、会社と印象が違うなって」

「……すみません、素が出てますね」

 市那はとたんに、しおらしくなる。

「いや、いいよ。そのくらいのほうが」

 三倉は体を起こした。

「三倉先輩も会社で会うより明るい感じがします」

「いや…お前ちょっと素を出しすぎだぞ」

「すみません」と、市那は言うが反省してるようには見えない。

「じゃあ、飲み直すか」と、三倉がいうと市那は頷いた。これまで市那は非の打ち所がない存在だった。

 だが、案外に笑わなかったり愛想がないところがあるようだ。後輩の家に泊まっても気を使うだけかと思ったが二人だけの二次会は想像よりも盛り上がった。

「はぁ?お前、それは言ったらだめだろ…」

「ええ、なので干されました」

 酒が入ったせいか、市那は色々と話していた。前の職場で上司に要らんことを言ったらしい。明日悔やむのが間違いなかったが三倉も同じで、これまで人に話したことがない失恋の話をしていた。

「その人、酷いですね」

 市那が暗い声でいい、三倉のコップに酒を注いだ。

「俺が鈍すぎたんだって。相手は本気じゃなかった」

「でもせめて振ってから…」

「いや、市那、そんなもんだよ。男前は浮気なんてされないか」

 市那はさらりと告げた。

「された経験は無いです」

 三倉は笑った。

「してばっかりか?最低だな。人のこと言えないだろ」

 三倉にはこれまで考えないようにしていた事が浮かんでいた。市那を見ると少し緊張するのだ。

「でもその女性は酷すぎます」

「いや女じゃ無いし……」

 そういって三倉は黙った。隠すことではないが、わざわざ、言うことでもない。

 市那は何か確信したような表情をしていた。三倉は咳払いをして、気分を切り替えてからこう言った。 

「あの、もう俺の女じゃないし、の、いいまちがい」

「男ですか」

「…えーと…あーぁ」

 市那が笑ったが、その笑みは不健康な雰囲気を放っていた。

「さいあく」そういって三倉は酒を口に含む。

「僕、三倉さんのこと、かわいと思ってるんですけど、よく言われませんか?」

 市那の言葉を聞いて三倉はむせた。

「はぁ?」

 三倉は黙った。どう答えれば正解なのかわからなかったからだ。多少悩んでから三倉は「ありがとう」とだけいい、「もう寝る」と言った。

「三倉さん?」

「俺が男が好きだときても、別に褒められて嬉しいわけじゃない。放っておいてくれ」

 市那なりに気を遣ってくれたのだと三倉は考えた。

「違います。口説いてるんです」

「はい?」

「三倉さんのこと、好きなんです」

 情報量が多すぎて三倉は混乱した。市那は美形で優秀ながら謎の多い社員で実は愛想が悪く自分に好意を持ってる。そんな市那と自分は、今2人きりなのだ。

「本気か?」

「仕事熱心で優しいところに惚れました。僕、恋愛対象は性別関係ないですから」

「いや……俺今年で30だぞ?」

市那の顔は赤いが、それは酒のせいだった。三倉はふと、これはそもそも夢だと思い始めた。

「そんなのどうでもいいです。僕のことどう思います」

 4歳下の市那はまだ世の中をよく分かってない青年に思える。

 しかし、酒は正常な判断を鈍らせた。市那は自分が好きらしい。自分も市那の事を気にしていた。だったら戸惑う事ないだろうと。

「いや…お前って、真面目で優しいし、いいなーって」

「本当ですか」

「あぁ」

 三倉がそう言うと、市那は三倉を抱きしめた。そんなことは久しくされた事が無かった三倉は身体を強張らせる。腕を回すより先に、三倉の事を市那が押し倒した。市那は必死な表情で三倉を見下ろしている。三倉は期待せずに生きてきた。

 だが、人生は時に、脇役に重要な役を与えることもあるらしい。

「おちついてくれよ、市那くん…?」

「黙って」

 主役級のカリスマ、市那塩也が低く響く声で、耳元で告げる。三倉は考えることをやめた。明日は休日だから、と、彼は何の役にも立たない言い訳をした。





『話したい』

 【昼上がりして鍵返します】

 朝起きると、机には市那の手書きメモがあった。三倉は目覚めてすぐに昨夜のことを悔やんだ。酔った勢いで後輩の告白を受け取り、挙句寝てしまったのだ。顔を洗ったが流せたのは汗だけだ。市那は喫煙者らしく灰皿がテーブルに置いてある。三倉は鞄からタバコを取り出して吸いながらり明日からどう働こうかと考えていた。うっかりすると昨日の市那について考えてしまうので、彼はスマホを眺めたり資料を見たりしながら、時間を潰していた。

 昼になり、書き置き通り市那が鍵を持って戻ってきた。

「ただいま、三倉さん」

 扉を開けると市那は一仕事終えた夫のように言った。三倉はそれにお帰りと言うべきではないと思った。

「悪かったな、わざわざ」

「え?えぇ…気にしなくても、昼食べました?」

「まだ…って、何?これ」

 市那は三倉にビニール袋を渡してほほえんだ。目を細める市那は随分と幸せそうだ。ふくろの中にはパンと飲み物が入っており、三倉はそれを市那に返した。

「こういうの良いから」

「すいません、尽くしたいタイプで」

「いや、そうじゃなく、昨日の」

「はい?何です?」

 市那の顔から笑みが消えた。彼は真剣な様子で三倉に詰め寄る。

「酔った勢いでしたけど、僕本気ですよ?」

「まず、社内恋愛って良くないだろ。こんな小さい会社で」

「好き合ってたら仕方ないかと」

 三倉は戸惑った。それはそうだ。

「それとも、好きでもないのに寝たんです?」

「……ちがうけどさ」

 市那なら若さと有能さで沢山の出会いがあるだろう。

「今日の夜、話しましょう?」

「何を?」

「どうするか」

「……そうだな」

 三倉は早く自分の家に帰りたかった。落ち着かないし、着替えもしたい。結局その後何も言わずに別れてしまった。


『姉妹町』

 自宅で三倉に鍵を返してすぐに、市那塩也は会社へ戻った。彼は焦っている。三倉栄人に対して。彼の事は入社当初から意識していたが、理由は三倉の性格にある。三倉は独特の空気を持っていた。賢い人だなと思ううちに気づけば好意を持っていたのである。

 会社に戻り残り休憩を喫煙ルームで過ごしていると、部長に声をかけられた。

「市那くん、取材は大丈夫?」

「あ…ええ、大丈夫です」

 地方番組の取材のことなどすっかり忘れていた市那は苦笑いをする。何せ昨日は大変だった。

「三倉にはそのうち姉妹町に研修に行ってもらおうと思ってるからさ」

 研修は数週間程度だろうと市那は考えた。

「市那君が来たんで、あいつも安心して一月空けられるだろ」

「研修って一月もするんですか?」

「まぁ長ければね」

 姉妹町として提携をしているそこにも同じような会社がある。共同でプロジェクトを行うこともあるので、お互いが本社で支社の様な立ち位置になっていた。昔ながらの風景を残した二つの町は協力し合ってきたのである。

「俺もね、元々あっちだし」部長が言う。

「そうなんですね」場合によっては三倉も勤務地が変わるだろう。市那はいよいよ焦りを募らせる。そうなる前に言って良かったと思った。三倉は少し抜けてるところがある。彼が鍵を忘れても敢えて指摘しなかった。

「仕事は慣れたか?」

「えぇ、楽しいです」

「そうか、よかった」

 部長は煙草に火をつける。市那塩也は煙を吸い込んだ。観光地としてこの町が生きてるのは藩政時代の建物が残ってるからだ。

「金谷城址の桜、石野さんと一緒に、また確認してきます。取材の準備をしたいので」

「あぁ、原稿は君の発想に任せるよ」丸眼鏡を掛け直しつつ、部長はスマホの画面に目をやってる。最近生まれた孫からのビデオメッセージに顔を綻ばせる彼を市那は素直に尊敬した。



『桜公園』


カメラを持って会社から歩いて3分程の城の跡地、金谷城址桜公園へと向かう。復元された城は美しかった。

 会社に所属する学芸員の石野愛はカメラを構えながら、首を振る。

「展示、大丈夫か不安なんです」

「大丈夫ですよ。きっと」

 石野と市那は同い年である。

 しかし、先輩には違いない。

「全部自分で考えたし、不安で」

「三倉さん褒めてましたよ」

「本当ですか?」

 今回の企画展は石野が全面的に担当した。普段は10年以上勤務してる学芸員が主体となる。

「そう言えば昼、忘れ物取りに戻ったんですか?」

「あぁ、昨日…三倉さんが鍵を会社に忘れていって、家に泊めたんです」

 市那は写真を2、3枚撮り、カメラを構える手を一旦降ろした。

「そうなんですか?意外ですね」

「意外って?」

「仲が良いんだなって」

「一応、普段世話になってる礼のつもりです」

 2人は復元城の付近まで向かい、異常がないか確認する。

「私も入社当初随分助けられました」

 市那は写真を撮り終える。

 そして、そろそろ戻ろうかと思い始める。

「私、告白して振られてるんです」

「え?」

 市那は驚いた。自分も昨夜したわけだが、言われると感覚が違う。

「ごめん、元彼が忘れられないって言われて」

「そう、ですか」

「市那さん、頑張ってくださいね」

 市那は石野の目を見たが、特に言葉が出てこなかった。

「明日の撮影」

 彼女はそう言うと、先に会社へと戻った。




『対話』 

 三倉は自分の家に戻っていた。三倉は後輩と恋人関係になった事は初めてだった。職場には既婚者が殆どだし、誰もそんなことには興味がない。街の歴史と発展だけが目的の人々の集まりだ。三倉もその一人である。市那と話したかったのは、正しくその事だった。近いうちに隣町の会社に研修で向かう。今後のための仕事用の資料を眺める。三倉はこの仕事を気に入っていた。リスクを侵したくない。

 資料読みがひと段落した三倉はスマホの通知に気がついた。市那から桜の写真が送られてきている。仕事と自分に対する市那の考えが三倉には読めなかった。桜が美しく見える角度で写真を撮影する市那が適当に生きてるわけもないのだ。

 三倉は市那の事を厄介だと思った。顔立ちも性格も良く仕事ができて恋には一途。三倉は我ながら呆れた。心臓の鼓動が示すのは市那への恋愛感情である。




気持ちの整理がつく前に、市那が三倉の自宅へとやってくる。

「おそくなってすみません」

「大丈夫」

 寝てしまったのは酒のせいだった。

 だが、市那が自分に興味を持ってると知っていたらきっと泊まる事は無かっただろう。

「いえ…本当にすみません」

「謝らなくて良いから」

 市那塩也が入社して、自分が担当になった時のことを思い出す。主役の王子が来てしまったと思った。

「先輩、悔やんでます?」

「悔やんでる」

 市那の顔には落胆がはっきりと浮かんでいた。

「分かってます。先輩は仕事熱心です。僕も会社を、重要だと思ってる」

「そうだろ?」

「無かったことにすべきだと思います。先輩がそうしたいなら」

 市那は出会って数ヶ月の後輩だ。

「俺がそうしたいなら…か」

「ええ、もう帰ります…」

 市那が泣きそうになっている。三倉は思わず市那の腕を掴んだ。

「俺が…俺がそうしたくない場合は?」

 三倉は言った。

「つまり?」

「俺もこのままがいい場合は?」

 市那からは静かな決意が伝わってきた。

「僕の事、好きですか?」

 市那が問う。三倉は頷いて、市那に中に入る様に促した。


「ちょっと寒いし、早く入れ」

 市那は半信半疑で入室し、扉を閉めた。靴を脱がないままで居る市那を三倉は不審がった。市那は腕を組み、一息ついてからフランクに告げる。

「好きなら好きって言ってもらえません?」

「こ、これから部屋でいおうと」

「あぁ…」

 市那は赤面し、額の汗を拭う。三倉の出立ちもこの状況も厄介だ。市那の緊張が伝わった三倉は溜息を吐いた。三倉が呆れたのは自分に対してでもある。

「でも、今聞かせてください」

「好きだよ」

「わぁ……」

 市那塩也は引いたかの様な妙な反応だ。心臓の落ち着きが一向に見られず、三倉は数秒前の記憶を消去する。削除不可能だった事に困り、三倉は市那に背を向けて誤魔化した。

「先輩、本当にかわいいです。僕、嬉しすぎてどうしたらいいか…」

「あー、そう」

 波に乗る市那に反して三倉はその波で船が転覆しそうだ。

「大丈夫ですよ先輩。普通にしてれば」

「社内恋愛ね…」

 三倉は市那を部屋に入れ、くつろいで良いと言ってから冷蔵庫の中を覗いた。三倉には失恋すると偏食する習慣があった。冷蔵庫にはその傷が残ってた時に購入したさけるチーズが数本余っている。他にまともな食材は期限が2日切れた卵と特売購入した豚肉が1パック。

「ちょっとコンビニ」言いかけて三倉は驚く。

「チーズ残ってますね」

 市那が後ろからひょいと顔を覗かせた。

「好きなんです?」

「一時好きで食べてたけど、もう古いから捨てる」

「……古い?」

 市那は一本手に取って賞味期限を確認する。

「大丈夫ですけど?」

「あー…うん。でも夕飯にならないし」

「夕飯作ってくれる予定でしたか。好きです」

 市那が目の色も変えずに好きと言うので三倉は参ってしまう。両思いは嬉しいが市那からは多少の危険性を感じる。

「お前少し怖いな」

 三倉は市那の視線から逃げる様に部屋へ行った。

「今更気づいても遅いですけどね」

「今更?」

「いえ」市那は微笑むと三倉のすぐそばまで来て、こう言った。

「やっと安心してできます」

「…何を?」

 2人は見つめあった。

「キスです」

 市那が距離を縮めできたので三倉は少し後ずさる。

「…わぁ…それ、素面で言えるんだ」

 苦笑いしつつも三倉は市那のリズムに合わせようと思った。

「相手があなただから」市那は止める気はないらしい。

「まて、夕飯が先だし、明日俺は出張だ。クールダウンしろ」

 近づく市那の顔を避け、彼の唇に指をやり止める。市那はふふっと笑いながら素直に頷いた。

「はい、三倉さ…」言いかけて、市那は止める。

「何」三倉は首を傾げる。

 市那は三倉の指先に触れながら聞いた。

「名前で呼びたいんですが、いいですか」

「名前?」

 三倉には、真剣な様子の市那が不思議だった。市那はまつ毛が長い。誠実そうな瞳はこちらをただ見ている。韓流アイドルを思わせるショートカットも、市那の顔立ちにはよく似合う。

「見惚れてないで答えてください」

「知ってたか、俺の名前」

「勿論」市那が何かを耐えてるのが分かった。

「まず夕飯だ。コンビニに行ってくる」

「手料理は」

「また今度。留守番してろ、な?」

 市那は唇を尖らせたが、やはり素直に「はい」と言った。しかし、目には明らかな不満が見えた。もっとストレートに表現するなら、欲求がある。

「何が欲しい?市那」

「何でも」市那がはっきりと言った。

「あ、そう…」三倉はそれだけ言って、コンビニへと向かった。


 市那塩也は座椅子に背中を預け、特段興味の無いバラエティ番組を流し見する。余計なものを払拭する事を期待したが効果はない。三倉はスウェット姿で、香りで分かったが風呂上がりだった。市那は腕を組んだ。警戒心のカケラも感じられない。飲み会の後の夜もそうだったが、三倉は何も意識してなかった。市那はそう思う。

 鍵を忘れどうしようと、市那の顔を見上げた時。市那は反射的に家に泊めてしまった。風呂上がりにベッドに寝転がった時。思わず襲いかかりそうで飲み直すことにしてしまった。あの上目遣いは狡い。

 そっけなくするつもりがむしろ距離が縮まり、元彼の存在を知って気づけば告白していた。

「……引かれたかもな」

 感情で動く方ではない。

 しかし、三倉がどれほど止めてきても、見れば可愛いと思ってしまう。恋人同士になった今、それは尚更だ。触れたいと、自然に思う。

「だから部屋に入る前に、好きかどうかきいたのに」

 独り言が増えてきた市那は口を閉ざして部屋を見回す。三倉の居住空間で目立つものは金魚鉢くらいだった。三倉らしいと思いながら、市那は側により、観賞魚の遊泳を眺める。

 三倉が帰ってきた。

「具合でも悪いのか」袋の擦れる音がする。

「大丈夫…そうです」

 金魚の具合の事だと市那は察した。三倉が市那を手招きする。市那は従った。

「適当に買ってきた」

「ありがとうございます」

「生き物飼ってる?」

 箸を渡しつつ、三倉は問う。

「飼えないので」

「実家でも?」

 三倉は市那にお茶の入ったペットボトルを手渡す。

「猫が2匹です」

「そう」

 三倉が買ってきた弁当は温められていた。緊張感が漂う室内には余計なものがいくつかあった。箸を割る音が響く。


市那は三倉を困らせる真似はしたくなかった。

「名前の事だけど」

 三倉は弁当の蓋を開けてそのままにしている。箸は進んでない。

「好きにしていい」

 市那はその発言に、ついこう言った。

「危険では?」

 三倉は首を傾げる。

「悪用する気か?」

「そうじゃないです」

 市那は迷った。三倉はついさっき自分と付き合う事になったばかりの人だ。指摘する権利はない。真意を知らない三倉はやっと食事を始める。恋人には誰にでもこうなのかと、市那はある程度不安になる。

「栄人さん」

 気をとり直して名前を呼んでみる。三倉は顔を上げる。

「うん?」

「栄人さん、うれしいです」

 他に言いたい事はない。ありすぎるが故に、市那はそう思った。三倉は何も言わず、弁当をまた食べ始める。それが照れ隠しなら、何事もたやすいと、市那は思う。一方の三倉はテーブルの上に置いてあるテレビのリモコンに目をやる。三倉は今、困っていた。

「もしかして、気まずいですか?」

「そりゃな」

 答える三倉は少しだけ、赤くなっている。彼からは色気が漂っていた。遠慮する必要は無かったが、市那は今夜は紳士に徹しようと思った。

「それはよかった」

 彼が口元に食べ物を運ぶ様子を黙って眺めるのは至難の技だった。

「明後日、撮影です」

「ちゃんと宣伝しろよ」

「一緒に出ましょうか」三倉は市那をみる。

「遠慮する」

「ふふ」

 笑う市那に、三倉は眉をひそめる。

「何だよ」

「かわいいです」

 それは市那の本音だった。何も言わない恋人が市那には愛しくてたまらなかった。

「ふふふ…」

「お前、変だよ」

 市那は口元に手をやり、笑いを落ち着かせてから、聞いた。

「でも、好きなんですよね」

「…まあ…うん」

 今度の休みが被ったら、この人と過ごそうと市那は思った。



 市那が出演したニュース番組が放送された当日、事務所に居た社員は一同でその様子を見ていた。そこには三倉の姿はなく、彼は外回り中だった。

「やっぱり君は華があっていいね」

 部長は言い、市那は礼を言った。画面にはニュースキャスターが桜の説明をする様子が流れている。最後に市那が企画展のPRをして、映像は地方ニュースへと切り替わった。

「しっかりPRしてくれてうれしいです」

 石野が言う。

「三倉さんのアドバイスです」

 市那がやや、笑って答えると、石野は目を丸くした。

「三倉さんの?」

「ええ」

「…はぁ…そうですか。本当にお二人、仲が良いんですね」

「ええ」

 その時、外回りを終えた三倉が戻った。タイミングが良いのか悪いのか、向き合う2人をみて三倉はへらっと笑い「何だ、仲良しだな」と言った。   市那は肩を落とした。

「放送終わりましたよ。色々と注意不足ですよ」

「はあ?それってどういう」

 石野は三倉に資料を渡す。

「ほんとそうです。これ、次の資料です」

「おお……」

 思ったより多めの資料。それを持って立ったままの三倉をおいて、石野は資料室へと向かう。市那は電話対応へと戻る。

「若手が元気で安心だね」部長が言い、三倉は多少戸惑った。

「あは、は…俺も頑張らねえと」

「君居ての会社だろ」

「それ、まじで言ってます?」

 部長は三倉の肩を叩く。

「先輩!先日営業に行った旅行会社ツアー組むとのことです」

 市那が言った。三倉は心の中でガッツポーズを取る。彼は電話を替わった。

「はい。もしもし、えぇ…」

「そうだ、市那くん。そろそろ換気して」

「はい」

 部長が言い、市那が窓を開けた。事務所の近くに咲く桜もまさに見頃だった。花びらが一枚窓から飛んでくる。そして三倉の机へと舞い降りる。電話を終えた三倉はそれを手に取った。

「すみません」

「いいよ、綺麗だし」

 三倉はいい、笑う。

今はまさに、春の最中だ。

お読みいただきありがとうございました!

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