序二段:異郷に立つと同時に 襲い来る何か
まるで奈落にでも向かっていくように、何も見えない暗闇が何処までも続いて、そして、しだいにぼんやりと、奥に光が見え始める。
その時間は長くも感じられたし、抜けるまで、いやにあっさりとしていたような気もする。
「う……うん?」
光を抜けた直後。
気が付くと、由希は見慣れた道場ではなく、何処かの森の中に独りで佇んでいた。
「あれ?ここは?」
手には、先ほどの刀が変わらず握られており、服装も含めて特に変化はない。
周囲を見れば、足元の近くに靴や木刀を収めた布袋が落ちており、それなりの広範囲が先ほどの闇に包まれた事を窺わせた。
「これって、前みたいな幻覚……じゃあないね。草木の匂いが本物だ」
意外にも、由希は冷静に周囲を見渡すと、空気の匂いや、土の感触を確かめ始める。
と言うのも、彼女がこのような現象を経験したのは、実は二度目だったからで、最初に経験した時も、父親が大事にしていた刀を、何となく興味本位で触ったことがきっかけだった。
(そう言えば父さん。あの時、物凄く怒ってたっけ……)
しかし、数年前のその時に見たものは、ただのぼんやりとした幻だったはずで、直ぐに消え去っていた。
明らかに状況が違っている。
「……ともかく、靴でも履こう」
近くに落ちていた布袋から、愛用のスニーカーを取り出して履く。
その後、その場で数歩だけ足踏みをして、足や靴に異常が無いかを確認していく。
「よし。体と靴、どっちも大丈夫だね」
ついでに木刀の布袋を回収して肩から下げ、手に持っていた刀は、腰のベルトに挟むようにして携行することにした。
(さて、と。これがどうであれ、まずは街か人でも探すとしようかな。ここに居ても始まらない気がするしね)
そして、何処へやらを目指そうとした、その時だった。
「―――――――! !」
何処からか、若い女性の悲鳴らしき声が響き渡り、それを耳にした由希の体は反射的に音の伝達方向を向いた。
「今の声は……?誰かが襲われている?」
このまま助けに向かうか否かの頓着をする前に、既に彼女は駆け出していた。提げている布袋から木刀を引き抜いて。
敷き詰められたように立ち並ぶ木々の道を駆け、草むらを抜け、彼女がはすり抜いた先で待っていたのは、修道女姿の少女が、褐色の肌を持つ小柄な人型生物三匹に襲われそうになっている光景だった。
「---!-----!」
少女は、由希の聞いたことも無いような言語で叫びつつ、牽制するように持っているメイス状の武器を振り回している。褐色肌の人型生物は、その範囲に入らないよう間合いを図りながら、下卑た笑みを浮かべている。
(あれは……え?小鬼?シスターさん?)
その様子を見た由希の頭に、いくつもの疑問が浮かんで止まらなかったが、その全てを振り切るように褐色人型生物の背後から接近すると。
「ふんっ!」
木刀を握る手に裂帛の気合を込めて、何のためらいも無くその首筋を打ち抜いた。
「げや……! ?」
骨の折れるような鈍い音と、生物が発した濁った声を聴きながらも一瞥することも無く、横を駆け抜けて修道女姿の少女を護るように立った。
「大丈夫ですか! ?」
「―――――?――――!」
「え?」
やはり聞いたことの無い言語が、少女の口から飛び出す。ただ、言葉は通じていなくとも雰囲気は伝わっているようで、由希が少女を助けに来たという事だけは、しっかりと伝わっているようだった。
(よく、分からないけど。ともかく今は……!)
由希は考えることを一時放棄し、目の前で、仲間を倒されて、地面で泡を吹いていることに怒っている小鬼二匹に向き直った。
彼女は、日頃そうしているように木刀を正眼に構え、足運びを整えて、次の動きに備える。
(相手は二人。こっちは一人と護らないといけない人が一人。不利も不利だね。でも、やるしかなさそう)
由希は、相手が自分から意識を外しているうちに状況を素早く整理すると、次に小鬼達の様子を観察し始める。
(それぞれ、手には棍棒を一本ずつ。片手で扱っているから、きっと力は強めだ。さて……)
木刀の切っ先を、槍の穂先を向けるように小鬼達に向け、足を軽く引いて力を込める。体全体の力配分に体勢を合わせて、突撃の構えを取った。
「むっ……ん!」
そして、一直線に小鬼向けて突進を仕掛ける。
「げぎゃぎゃ!」
「がぎゃぎゃ!」
真っ直ぐ自分たちに向かってくる由希の姿に、小鬼達は下卑た笑いと声を上げる。
一気に距離が近付く由希に向けて棍棒を振り上げると、先ほどの仲間の仇を取るかのように、正面から猛然と襲い掛かっていく。
(狙うのは……)
そうして距離が詰まり、由希が小鬼達の棍棒の間合いに踏み込んだ、次の瞬間。
(ここだ!)
「がげゃっ!?」
何かが折れるような鈍い音と共に、小鬼の濁った悲鳴が上がった。
由希は、振り下ろされた棍棒を半身分の紙一重で躱し、渾身の突きを喉元に叩き込んでいた。
普通の試合であれば決して行わない、槍による突撃を思わせる一撃は、小鬼の体に深くめり込んでいる。
「次……」
引き抜くように木刀を戻すと、足運びだけでもう一匹の小鬼の方へと向き直った。
だが、無暗に攻撃はせず、切っ先と視線で牽制しつつ、少女の前へと戻っていく。
「―――!」
変わらず少女は何かを話しているが、言語が分からないために、そちらに気が回せないことを申し訳なく思いながらも、由希は小鬼を牽制し続ける。
「……」
しばらくそうしていると、小鬼は流石に自らの不利を悟ったか、逃げていくのだった。
「……ふぅ」
小鬼の姿が完全に見えなくなった後、由希は大きく一息ついて体の力を抜くと、改めて少女の方へと向き直った。
「―――――!」
少女は、嬉しそうな表情で何かを必死に伝えようとしているが。
(感謝してくれているのは分かるけど……)
やはり理解できないため、苦笑を浮かべるしかなかった。
「―――?―――!」
すると、少女は何かに気付いたようにポンと手を打つと、もごもごと口の中で何かの言葉を呟き始め、それに合わせて彼女の手から光の粒子が溢れだし、由希へと流れ込む。
(これは……?)
粒子が吸い込まれるたびに体がぼんやりと温かくなり、頭が冴え、心が落ち着いていくように、由希には感じられた。
そして、光の粒子が完全に体へと馴染んでいった。
「あー。あー。えっと、私の言葉、分かりますか?」
「! ?」
それは驚くべき変化だった。
先ほどまで、意味不明の音の羅列でしかなかった少女の言葉が、明確に理解できる言語として、由希の耳に届き始めたのだ。
「あ、はい。分かります。私の言葉も、分かりますか?」
「あ、はい!分かります!良かった、通じて。やはり言語を扱う文科系の法術は必須ですね」
「えっと……」
良く分からない単語が繰り返される。
少女が語る「文科系の法術」と言う言葉や、先ほど彼女が見せた現象からして、全く由希の理解の範疇外だった。
「あ、先ほどは、助けて頂いて有難う御座います!旅の途中で、ゴブリンワンダラーに襲われてしまって。数匹は倒せましたが数が多くて……」
「ちょ、ちょっと待って!ごめんなさい、何の話、ですか?」
理解の外にある言葉が羅列されていくのを、何とかせき止めることに成功した由希は、幾つかの質問を少女に投げかけた。
第一に、先ほどの小鬼達は何なのかということ。
第二に、魔法と言っていたが、少女の使った技術は何かということ。
「え?あれ?旅人さんなら、常識だったと思うんですけど……。うーん?」
すると、少女は少々困惑したような表情を浮かべたが、それ以上詮索することなく一つずつ説明を始めた。
「あの魔物たちは、ゴブリンワンダラーと言って、ゴブリンの群を追い出された追放者たちです」
そう言う生物、魔物が居るという事について、簡単に解説までしてくれる。
「えっと、これは法の神に仕える聖職者が授かる“法術”と呼ばれるもので、負傷や疾病の治療。亡者の浄化を主に取り扱うことで有名な術体系です」
そう言う技術があり、それは当たり前に知られているものであるらしい、と説明していく。
「なるほど。有難う御座います。よく、分かりました」
由希は、少女の行った説明に頭痛をこらえるような仕草を取ると、軽くため息を吐いた。
ここが自分の知っている世界ではない、別の場所であるという事。
この世界には往年のファンタジーよろしく魔物や魔法のような術があるという事。
そして、ここが、由紀の世界とは異なる、完全なる異世界だという事実。
受け入れ、理解するには、あまりある唐突さだった。
「あの?どうかされましたか?」
考え込んでいた由希を心配してか、少女が顔を覗き込む。
「ああ、すみません。大丈夫です。ちょっと、面食らっただけですので」
実際は面食らうどころではない驚きだったが、驚きが振り切れてしまい、一周回って冷静さを維持できていた。
「ところで、この近くに、街や人里はありませんか?分からないことが多すぎて……」
それに今は、驚いている場合ではなく、現状をよく把握するための情報収集が急務だった。
「ああ、それでしたら、丁度良かったです。私も次の街を目指して歩いていましたから、宜しければ、一緒に行きませんか?」
すると、何処かおずおずとした様子で、少女が由希にそう提案してくる。
「え?ああ、それは願っても無い事です。宜しくお願いします」
無論、由希は二つ返事で快諾し、にこりと笑った。
「あ!はい!」
その様子に、少女の顔が嬉しそうに輝く。
「ついでに、道中で色々と教えてもらえると助かるのですが……」
「はい!私で分かる事でしたら。では宜しくお願いしますね、えっと……」
「ああ、自己紹介がまだでしたね。私は由希と言います。宜しくお願いします」
由希は、自分の名前を教えると同時に、姿勢を正し、軽く一礼した。
「ユキさんですね。私はブリジッタと申します。宜しくお願いしますね、ユキさん」
少女ブリジッタもまた、自己紹介の後で軽く一礼して見せた。
これが、彼女達の思わぬ旅の始まりで、その第一歩だった。