Intraoral invaders(三十と一夜の短篇第30回)
ぬらり、とあかく濡れた剥き出しの大地に、うすよごれた塔がいくつも建っている。
かつてはしろく輝いていたであろうそれらの塔は、色をにごらせ、あるいは形を崩し、ようようその場にとどまっているという有り様だ。
ごう、とぬるい風がふき、かたむいた塔のあいだを走りぬけていく。そのあとを追うように、空から降ってくるものがある。
雨だ。
つめたく、黒い雨がざんざんと降ってきた。
滝のように降りそそぐ黒い水は、落ちるたびにじゅう、と音を立てる。
塔に落ちては、じゅう。大地に降りそそいでは、じゅう。
じゅうじゅう、じゅうじゅうと手当たり次第に飛びついては、触れるものを焼き溶かしていく。防ぎようのない暴力にさらされて、塔はなすすべもなくにごった色のかべを削がれ、またかたちを失っていく。ぐずり、ぐずりと崩れ落ち、もはやこれまでかと思われた、そのとき。
ふと、雨がやんだ。
すき間もないほど降りしきっていた雨はぴたりと止まり、わずかな水滴さえ落ちてはこない。
濁流のように大地を飲み込んでいた黒い雨は、降りはじめたときと同じように唐突に降りやむと、おのれが傷つけたものたちのことなどふり返りもせずに去っていく。
あとに残ったのはじゅう、じゅわりとはじけて溶ける、不気味な音ばかり。それも、聞こえていたのはほんのわずかなあいだだけで、すぐにあたりはしんとしずかになった。
「重畳、重畳」
かかか、とわらうのは、でっぷりと球のようにふとったおとこ。
塔のかげから姿をあらわしたおとこは、荒れた大地を見渡して、満足そうにうなずいている。
「よいのう、よいのう。まこと、われらにふさわしい、住みよいところじゃ」
「ほんになあ。極楽とはここのことよ」
もうひとり、よく似た姿をしたおとこが塔の影からあらわれる。そのあとからも、そっくりなものがついて出る。
「極楽、天国、パラダイス。われらにとって、これ以上にない土地よな」
ぞろぞろと塔の影やすき間から姿を見せるのは、いずれもまるまるとした体のおとこたち。じくじくといたんだ大地を無遠慮に踏みしだき、あとからあとから湧いて出る。
一体どこに隠れていたのか、出るわ出るわ、はちきれんばかりのおとこたちの体で、あっという間に大地は見えなくなった。それでもなお止まらぬおとこたちの増殖に、ついには塔までが覆いかくされん、という段になって。
「おう、降るぞ!」
ひとりのおとこが声をあげた。それがはじめに姿を見せたおとこであったか、あるいは他のだれかであったか。ひしめくおとこたちの中にあって見分けることはできない。
けれども、だれもそのようなことは気にもとめず、みな一様に空を見あげた。
「それ、きた!」
「やれ、きた!」
「降れ、降れ! もっと降れ!」
やんや、やんやとはやし立てるおとこたちの視線のさきでは、おおきな影が落ちてきていた。
ねっとりとぬるい空気に包まれた影は、塔にぶつかり、くだけてつぶれて、おとこたちのもとへと降ってくる。
「おう、うまい」
ねっとりと、あちらこちらにからみつく降ってきたものに、おとこのひとりがかぶりつく。
「たまらんのう」
喰らったおとこはにかにかとわらい、ぶつりとその身をふたつに増やす。
「力が出るわい」
「もっと喰わせろ」
そこここで、塔にぶつかっては落ちてくるものにおとこたちがかぶりつく。おとこたちは喰うたび数を増やしていき、なまぐさい大地にひしめきあう。
ふと、丸い体のおとこたちのあいだに、ひょろりとだれかが立ち上がる。
「やあ、これは結構なところですねえ」
ほっそりとした体は縦に長く、丸いおとこの群集から頭ひとつぶんと言わず、半身ほど飛びぬけている。あきらかに仲間ではないその姿を見て、しかし丸い体のおとこたちはうれしげに笑う。
「おうおう、ようやく出てきたか。これほど住みよいところはなかなか見つからん。あんたもそう思うだろ。さあさ、たんと喰って、その棒切れのような体をしっかり太らせろ」
にかにかと笑う丸いおとこの言葉に、棒切れのようなおとこは苦笑する。
「わたしのこの身は、生まれつきのものですからねえ。いくら食べたとて、あなたがたのようには太れませんが」
にたりと笑い、おとこは続ける。
「ここまでお膳立てしていただいて、ぼんやりしているわけにもいきませんからね。精一杯、やらせていただきますよ。おあつらえ向きに、いい風が吹いてきたことですし」
おとこが細めた目で見やったのは、塔のはるか上。ぽかりと空いた空からは、ひんやりと冷えた風が吹きおろし、あかく濡れた大地を乾かしていく。
「さあ、力の見せどころです!」
棒切れのようなおとこの声に合わせて、おとこによく似た細い影がすすけた塔に群がる。
ひょろ長いおとこたちは、きょうがあの塔の最後の日だと、そびえたつしろに勇んでとびかかっていった。
ぱたり。
さいごのページにおおきく描かれたのは、あかくただれた大地にぽっかりと穴の開いた塔が傾きながらぽつりぽつりと建つ様子。四方を囲ういびつな円を追って視線を移せば、どうやらそれは大きく開けた口のイラストらしい。痛みにゆがむ子どもの顔もリアルなそれをしめしながら、江草はにこりとわらう。
「はい、みんな。わかったかなー。ジュース飲んであまいもの食べて、歯みがきしないで寝ると、くちのなかが大変なことになるからねー。そのまま寝たりしたら、ぜったいだめだよー」
読み聞かせをしていたときとは打って変わって、おだやかな口調でいう江草だが、その声を聞いているものはいなかった。
「ぎぃやぁー! もうあまいものたべないぃぃー!」
「はみ、はみがきわすれて、ごべんなざいー!」
「ごわいよー! やだー! おがあざあーん!」
ならんで読み聞かせを聞いていたはずの子どもたちは、恐ろしい絵面と内容におびえ、泣き叫び、ふるえている。なかには顔面蒼白で謝罪のことばをくり返す子、その場を逃げ出して、自分のかばんから取り出した歯ブラシで一心不乱に歯をみがいている子もいた。
「……おやぁ?」
それに気がついた江草は、半開きの目をぱちくりとさせて首をかしげる。
子どもたちの様相は、江草が想像していた反応とずいぶん異なっていた。想像では、紙しばいのおわりに歯みがきをうながして、「はーい」と返事をする子どもたちが見られると思っていたのだ。元気のよい返事とかがやく笑顔を思いながら、がんばって歯みがき推進の紙しばいをつくったはずだったのだが。
ふたを開けてみれば、阿鼻叫喚。
これはいったい、どうしたことだろう。
かしげた首がもどらない江草の首根っこをつかんだのは、先輩職員だった。
「一宮せんせいっ、南せんせいっ! あとおねがいしますっ!」
となりのクラスを受け持つ職員の名をさけんだ先輩職員は、呼ばれた職員たちが姿を見せるが早いか、紙しばいを抱えたままの江草をひきずって教室を飛び出した。
「いやあ、子どもに教えるって、むずかしいものですねえ」
ずるずるとひきずられながらいう江草に、先輩職員が目をつりあげる。
「そういう問題じゃないっ。文面がおかしいでしょうが! 絵も、なんであんなおどろおどろしいのよ!」
「ええー。虫歯のこわさをわかってもらおうと思って、創意工夫をですねえ」
まじめに答えはじめた江草ののんきな様子に、先輩職員のこめかみに青筋が浮かぶ。子ども相手にいつもおだやかな笑みをうかべているくち元は、ぴくぴくとひきつっている。
「しらべたら、虫歯菌ってたくさんいるんですねえ。今回は、そのなかから代表的な二種類をピックアップしたんですよ。ちゃんと形態も確認して、反映させていまして……」
「だまらっしゃい!!」
嬉々として説明する江草を先輩職員が一喝する。そこに、子どもたちから慕われるやさしい先生の面影はない。
「もう、あんたは自作禁止! 既存の本を読むだけにしなさい!」
「えぇー。あんなかわいいバイキンの絵じゃあ、危機感が育ちませんよう」
「危機感以前にトラウマになるわっ。なんと言おうと、だめ、ぜったい!」
「ちぇー。がんばったのになー」
「がんばる方向性を間違えてるの!」
残念がりはしても反省はしていない江草のようすに、先輩職員の怒声がこだまする。
その後、江草の描いた紙しばいは封印され、職員間では江草の物語自作禁止令が徹底されたのだった。
コーラで歯が溶けて、お菓子で口内が酸性になり虫歯菌が活発になり、口をあけて寝るからだ液が乾いて虫歯作り放題。というかみしばいを作って子どもたちに見せたところ、大泣き、ガタブル、顔面蒼白で、歯ブラシに殺到する子が続出して大失敗、というおはなし。実際にはやっていませんよ。