I LOVE YOU
たった一つだけの変わらない願い。
幼い頃からの約束だけを信じているから今の私がここにいる。
一つだけの願いを抱いて大きく変わった私、
あの頃の小さな瞳にはどう映っているのかな?
ねぇ。あなたの大きな瞳に映る私は昔と変わらずそこにいる?
それとももう、見失ったのかな……
ねぇ、そのままが続いたら私、分からなくなる――
――怖くなるよ――
❀話の始まり
秋晴れの空。日が高くなった頃にチャイムが響けば、陽気な賑わいがやってくる。
昼休み――それは進学校唯一の休み時間。
昼休みの賑わい――それは桜の如く華やかで呆気無い、でも楽しいひと時。
時間の別れはすぐにやってくる。だからだろうか、時間を惜しまず使う生徒たちの心が絶える事はない。
『一‐A』
この教室のドアの前に佇む少女の胸の内にも賑わいがあった。
(きょ、今日こそは言うんだ。絶対!)
ときめき。それが彼女の中で燃える心。
二人分の弁当箱を抱え、息を整えながら「落ち着け自分」と言い聞かせる少女――平賀愛。
健康的、明朗活発。そんな言葉が似合う一見何処にでもいそうな高校一年生ではあるが、この少女、只の平凡な女子高生ではない。
『二人分の弁当を持ってある人物を訪ねる』
愛の存在証明を支えるこの習慣。
給食の制度が無くなった中学から毎日行っている恒例行事。
今年で四年目。
もう彼女の生活の一部といってもいい。
毎日惜しげなく通う彼女の姿は「健気な奥様」と既に学校の名物として定着した。
(言えるよね……)
しかし、今、愛は扉の前で一息ついている。
すっと開けられるはずのドアが気合いなしには開けられないのだ。――一ヶ月前、あの思いを抱くようになってからは……。
(うん、言うんだ! 頑張れワタシ!)
覚悟を決めた愛の目がパッと開き、手がすっと伸びてドアを開ける。
「勇ちゃん、ご飯食べよう」
逸る気持ちを抑え、ややおどけた口調で何事もない自分を演出してみた。
しかし――
「で、こうなった訳。笑えるだろ?」
「やだぁ~それ本当なの?」
「マジ! アハハ」
声をかけた先――愛の目に映ったのは男と女の談笑。
「いや~、まさか鴨も好きだったとは知らなかったなぁ」
「本当、港君が私と同じ趣味を持ってて良かったわ」
港と呼ばれた男はこれ見よがしにとばかり、大いに笑いながら喋っている。
これに対し鴨と呼ばれた少女は飽く迄も慎ましやかだが、どこかしらその嬉しさが内面に増していっている様が分かる。
鴨の微笑にはくっきりとした色艶があり、軽くデッサンした程度でもいい絵の素材となりそうな天性の気品と、一介の高校生の表現力を超えた芸術性があった。
「だろう、俺なんかもう――」
愛が来ているということを微塵も感じず学園のマドンナを相手に花を咲かせ続ける港と、その話に食いついて放そうともしない鴨。
もはやどこぞの青春ドラマよろしく、圧倒的に光る彼女の優雅な微笑み。
ガララララ、
本来の自分の立ち位置を奪われた感に負けた愛は何も言わず、力なくドアを閉めた。
「あら? 今、平賀さんが来ていたような」
芸術的な角度で首を傾げる鴨。
ドアの方から何やらかの気配を嗅ぎ取ると、あっけらかんとして何も気付かない港の言葉を中断し、目を向けた。
その言葉に港は目をギョッとさせ、心臓に警鐘を鳴らす。「しまった」と思いつつ急いで振り返りドアの方へ注意を注いだ。
閉じられたドアそのものは静かなのだが、
港には分かる。
そのドアの奥には自分以外の誰にも感じられない。港にしか見えない恐怖が隠れているとガラス越しにはっきりと伝わってくる。
「勇ちゃん!!!!!」
ガラ、ピッシャン!!
遠慮の要らないドアの開け方。
ドアというより雷の落ちたような音。
その勢いに相応しき仰々しい面持ち。
炎の化身と化した愛が大股一直線にずかずかと、大層な足音があるかのように鴨と港の間に割って入る。
二人の間に立って入った愛。
鴨には一瞥も向けず、港勇をキッと睨んだ。
「勇ちゃん! さっきのあの顔は何? って言うか今この人の何処を見てたの!」
ガルルルルと獣の目で唸り、机を床に埋める勢いでバンバン叩く。
「お、おいおい、落ち着け愛……」
触らぬ神に祟り無し。現状回避のため今のことを気にせず触れずに愛をなだめると、勇は日常通りに接した。
「それよりも今日の飯は?」
いつも出してる笑顔のオーラを振り向かせる。愛はその言葉を聞いたとたん、自分の役目を思い出したのか目がくりんと丸くなり、
「はい、これ」
愛はいつもの笑顔で弁当を渡した。
「おう、サンキューな」
受け取った勇は早速、ふたを開けて中身を掻っ込んだ。
愛も反対側に腰掛け、一緒に弁当を食べながら会話――というような日常を表現しようとしたが、腰を掛ける前に気付いてしまった。
「……って、誤魔化さないで! 何? 何なの⁉ 勇ちゃんのさっきのあの目線⁉」
恋の炎は再び発火、嫉妬の炎は制御不能。
ウガーと気分だけなら教室炎上も可能としていた。
勇は見ざる聞かざる。しかし、この状況を打破する為、言わざるをえなかった。
「それにしても美味いなぁ、この肉団子。作るの大変だったろ?」
わざとらしさが多分に含まれる無茶振りな感想ではあったが……
「本当⁉ 良かった~。勇ちゃん肉団子大好きだから朝早く起きて腕によりを掛けて作ったんだよ~……って、そんなんじゃないでしょ! 私の話聞いてる⁉ 勇ちゃん‼」
聞く気は無い。
裏ではここをどう切り抜けるかの模索に力を注いでいるのだ――本音を言えばこのまま無視して対岸の火事としていたい。だけども容赦なく火の粉は飛んでくる。
雲集の如く怒りを爆発させてる愛。
怒髪が天を突きそうで怖い。
愛が怒る原因が分らないほど無神経な人間ではないのに、何処に非があったのか皆目見当もつかない。
愛の気が静まる方法――
そればかりをひたすら考えているが故に、さっきから弁当を食べ続ける以外の行動がとれないでいた。
十年以上の付き合いだがこんな面倒なのは初めてで――と、ここに考えが至った時、何を思ったか、勇は箸を止めた。
「なぁ愛。俺とお前って只の幼馴染だよな」
「!」
何気ない事実をさらりと突き出され愛の動きが静まり返る。
炎の元栓が締まったことを確認した勇――そこへ漬け込み一気に畳み掛ける。
「だったら俺が鴨と親しそうに話をしようが何しようがお前が怒る問題でもないな」
静止画のままを保つ愛。
炎が出ない。いや、出る気はあっても着火に結びつかない。
愛の怒りのエネルギー残量がゼロの道を辿ったようだ。これで静かになるだろう。
してやったり。言葉とは良い武器になる。
「愛、嫉妬なんてみっともねぇ事すんなよ。そんなんだから可愛さが無くなるんだよ」
調子に乗れば口が開く。口は災いの元、とはよく言ったものである。
「ゆ・う・ちゃ・ん~~~~――」
静まり返った時とは一変、その言葉と共に愛の回りから妖気が漂いだす。意気消沈からの疾風怒涛。ゼロだったエネルギーが一気にフル満タンへと変容する。
(ヤバイ! 言い過ぎたか⁉)
「やっぱり勇ちゃんは女の子を顔や身体で判断する人だったのね!」
「~~~~ごほっ、ぐふっ」
内容に驚いた。口の中の物が飛び出てきそうになってむせ返る。
何処からそんな考えが出てきたのか。
予想の範疇を超えている。
お前なぁ、と言い返えそうと愛に顔を向け、その時になってはっきりと見えた。愛の目は冗談でも何でも無い。本気だった。
涙が目の奥に籠められ、流れてもこない。そして全エネルギーは炎とならずに顔という顔に集中して真っ赤だった。
「勇ちゃんがあんな目で女の子を見るなんて知らなかった。勇ちゃんなんか大嫌い!」
「って、また訳分かんねぇこと言うのか!」
「訳分かんないって何よ! この人を見てた目が嫌らしいって言ってるの!」
「あのなぁ、俺は普通に会話してただけだ」
「胸に注目しているのが普通なの?」
「う! ……ちょっと、魔が差した――って言うかそんなのお前にゃ関係ないだろ‼」
「無関係じゃないでしょ! 今までずっと一緒だったんだから‼」
「幼馴染というだけだ!」
『幼馴染』――
その言葉が愛の中で速やかに反復される。
愛の目が全てを映すことを止めた。
上昇していた温度が下降。
幼馴染の羅列が愛の隅々にまで広がると同時、ネジの切れた玩具のように、愛から一切の動く気配が消失した。
「ゆ、勇ちゃんの……分らず屋……」
誰にも聞こえない呟きの中、愛の目から涙がツゥーと流れ出る。
今を伝えたいのに伝えられない悔しさ、怒りとも悲しみともつかない、もどかしさ。
頬の感触が刺激となり脳に伝わった。――情も可愛げもない自身の気持ちのやり場が分らない事に気付いた愛はそのまま、
「勇ちゃんの……勇ちゃんの馬鹿~~~~」
ガラン、ピシャ!
大騒音で捨て台詞を吐き、埃立つ勢いで走り去ってしまった(律儀に自分用の弁当を持ってドアまで閉めて)
持論を言っただけの勇。
後に残った空気などに屈せず、「一昨日おいで」と箸で振り払い、そのまま弁当を食べ続けることにした。ドアに背を向けたままなのが何とも彼らしい。
そして、一連の流れを最初から最後まで至近距離から見守り――もとい、二人の鬩ぎ合いが凄すぎて一歩も動けなかった鴨。
いかに些細な痴話喧嘩といえども自分絡みだったので半分申し訳なく勇に尋ねてみた。
「これって私の所為? 私が港君に話しかけたのがいけなかったのかしら?」
「気にすんな鴨、あいつの馬鹿に付き合う必要はねぇ」
「ん~、でも港君、大丈夫?」
「俺? 俺は別に気にしちゃいねぇ~よ。大体、最近のあいつは五月蝿いんだよ。些細な事に大事吹かしてあ~だ、こ~だ言うんだぜ。これで少しは大人しくなるってもんだよ」
「……なら良いんだけど……」
弁当をただ掻っ込むだけの勇。仏頂面で言われても鴨の戸惑いは治まらない。
「ねえ港君。何時まで食べるつもり?」
そのままを続けられては気になって気になって仕方がないので忠告せずにはいられない。
「もう空っぽよ。そのお弁当箱」
「え?」
勇は手を止め弁当箱を改めて見た。
まさか、食べる動作を止められない程ムキになっていたなんて気付きもしなかった。
「何時の間に……」
今更動揺していたことに気付いても、中に何が入っていたのか欠片も覚えていない。
量も愛情も詰まっていた中身は綺麗さっぱりなくなっていて、空っぽの弁当箱は何も応えてはくれなかった。
❀傍から見た二人の話
話を遡ること少し前。まだ一‐Aで事件が起きていない時の事である。
『一‐F』
この後の事など露知らず、甘酸っぱい期待感を胸に秘め、愛が飛び出て行った頃の事。
「はぁ、愛は今日も元気だねぇ」
いちごミルクのパック片手に頬杖を付きながら、オバサンめいた言葉をポツリと飛ばす。少し退屈そうな少女がいた。
その少女の向かいには、
「穂ちゃんったらまたふけてる~」
人を笑い飛ばす少女が座っていた。
「響瑪、それは〝耽る〟と〝老ける〟どっちの意味で言いたかったのかな?」
顔の表情そのままに目の趣だけをギラリと突き刺し、半分わかりきった先を要求する穂。――前者は『物思いに耽る』等、何かを思う時に用いる『耽る』後者は言わずもがな。
しかし響瑪は飽く迄もひょうきんに茶目っ気たっぷりな笑顔を浮かべて、
「も~、穂ちゃんったら分ってるくせに~」
意味なく照れ笑い。全く回答になってない曖昧な返事で穂の質問を笑い飛ばした。
この手の『人をおちょくる人』には突っ込まずスルーするのがベストと分かっているのに何故口を出してしまったのか、本当、嫌な性分だとつくづく穂は自覚する。
「あんたは今日ものんきでいいね」
両手を後頭部に預け、飲み終わったパックを銜えたまま上下にプカプカと動かす穂。それにも飽きたのか動きをぴたっと止めて、机中に「だはぁ」と広がる重い息を吐いた。
「何か事件でも起きないかねぇ」
「例えばどんな?」
「…………」
響瑪の直球返しに対応しきれず穂の頭の中からあらゆるビジョンが消え去った。適当な思い付きだったため具体的なものは何もない。
何か面白いことを言うかも、と響瑪も少し期待していたのだが、その期待に添える発言は出てこなかった。
そしてとうとう、脳みそは想像を止め――
「あ~あ、一ヵ月前が懐かし~い~な~っ」
楽な方へと思考変換。過去の振り返りを始めることにした。過去には何か無かっただろうか、取り零してしまった小さな話題。
「一ヵ月前か~愛には大事件が起きたよね」
響瑪も一緒になって何か面白そうなネタがないか探し始める。
う~ん、と唸る二人の少女。
しかし、
「やっぱ愛の事件しか思いだせないねぇ」
「穂ちゃんも?」
考えに考え抜いた意見が一致してお互いに笑い合う。
何だかんだで馬が合う二人なのだった。
一ヵ月前――。
それは新学期の始まりの日。
夏休みでバラバラだった時間が一同に揃う日とあって、校内中が時間を埋めようと、この昼休みを最大に利用しようとしていた。
そんな中、愛も久しぶりの昼休みを堪能するため鞄から弁当箱を取り出し、教室を出て行こうとして――
「お、早速旦那の所に行くのかい?」
穂の呼び止めに応じる愛。その言葉で元々の笑顔が更に染め上がり、益々喜びの花に包まれていく。
「毎日せっせと手作りのお弁当届けるなんて、愛ってば良妻賢母の鏡~」
「穂~、響瑪~。そんなに褒められると照れちゃうよ~」
謙遜しつつも幸せ一杯、夢無限。
赤くなりながらも恥じらいでもじもじ。何年経っても初々しさが残る愛の所作。
自分達の関係を改めて言って貰えると、その都度毎に実感が湧き出てきてしまう。
今の愛なら天を越えて宇宙まで昇れる心地かもしれない。
「しかしまた、今日は気合入ってるね」
「これのこと?」
取り出した弁当箱を見て感心する二人。幸せの素への注目に気をよくして更に幸せ夢妄想が膨らむ愛。
「今日から食欲の秋だもん。秋といえば食欲の秋にスポーツの秋! 勇ちゃんがお腹空かさず放課後テニスに集中できるように、って張り切っちゃった!」
両手に抱える重箱サイズの豪華な弁当箱は愛の努力と汗の結晶。全ては愛の愛情がなせる賜物なのだ。
高校の昼休みに重箱というミスマッチが不自然に思えない愛のその包容力。それには感服するしかなかった。
「あ! そんなことよりも早く勇ちゃんの所に行かなきゃ!」
すかさず愛は「行ってくるね~」と、とろけそうな幸せオーラを残して一‐Aへと向かった。愛の放つ幸せな音色のハーモニーに勝るものは未だ嘗て見たこともない。
「愛。嬉しそうだねぇ」
「だって~、夏休み明け四十日ぶりでしょ~、それは気合入るよね~」
愛は出て行ったというのに穂たちの周りには『愛の幸せオーラのハーモニー』が未だ漂い続け、二人はその残り香をふわふわと堪能することとなった。
「いやぁ、それがあの二人、昨日も会って一緒にご飯食べているんだよねぇ」
雅に手を振って訂正を入れる穂。その流れは至極まったりとしていて、いつもの二人とは正反対の和やかな話の進め方だった。
「へえ~、日常が毎日新鮮な気分なんて流石は愛~、真似できないね~」
和やかに会話が弾めば笑い方まで変るのだろうか、今の二人はしとやかに、蝶よ花よと自己の脳裏を愛でている。
そんな空気の中――、
ヅガッ!
無骨で無機質なドアの音が飛び込み、硬くて鈍い床の音がカツカツと割り込んできた。
二人が向かい合う机の横で止まった人――きらめく弁当箱を両手に抱えてはいるが、開いた口が塞がらず、目を大きく、我が身を疑っている愛。
目の焦点定まらないまま何処を見るでもなく――、
「一‐Aってどこだっけ……」
迷子となって帰ってきた。
「廊下を挟んだ突き当り」
穂は何も考えず反射的に返す。
「あっ、そうだね、うん……」
知ってるはずの答えに頷くが、声が上ずっていてまるで半信半疑。「本当にそこでいいの?」と確認を取りたそうでもあったが、それ以上何も言わず、何事もなかったかのように去って言った。
ガラッと音を立てドアが閉まると同時、再びたおやかな風雅が流れ出す。
二人にとって今の出来事は無かったことになっていた。
「でも穂ちゃん~。二人の最新情報を知っているなんて、スト~カ~」
ちょっと身を乗り出して核心に迫った響瑪の突っ込みにカッカッと高らかに笑う穂。
「だってそれ、私の家での話だからねぇ」
いちごミルクをすすり、種ではないが種明かしをする。
「昨日二人で宿題の追い込みやっててさ、でも数学は全く進まなくてね、そこで数学得意の港を呼んだって訳。決して疚しい理由じゃないよぉ」
残念でしたぁと目を付いて返しても響瑪は引かず寧ろ更に乗ってきて、
「でも~、それって~――」
二人の目と口が同時に開く、
「「お邪魔虫!」」
バタン!
二人同時に声を揃えて笑い上げた時、一人の女生徒が机に倒れこんできた。
二人は脊髄反射の如く机に置いてあった物を拾い上げる。当然、間を割って倒れこんできた女生徒を支える手はなかった。
倒れたままの女生徒は青ざめて目がくぼみ、虚ろな眼差し。まるで未知なる恐怖を経験してきたかのように見えた。――しかし、その女生徒の手にはきらめく弁当箱があり、
「え? 愛?」
確認してビックリ。さっきまでの面影は何処にもなく例えて言うなら『初めて出会った半死人』へと変貌していた。
訳が分からず目を疑う二人。この短時間で何があったのか?
そっと穂が尋ねてみた。
「あ、愛? だよね……何かあったの?」
「ゆ、勇ちゃんが……」
質問に答えようと口が僅かにパクパク動く。
「勇ちゃんが……大勢の女の子に……囲まれて……た……」
「「ええええええ!!!」」
「――いや、懐かしい」
そんなことがあったなぁと遠い目をしてもそれは本当に過ぎ去った出来事であり、遠くに行ってしまった事実である。
もはや新鮮味に欠けネタにはならない。
「信じられなかったよね~。あの港君が女子に囲まれるなんて~」
「うんうん。聞いてビックリ、知って笑う。あれは本当に面白い事件だったねぇ」
しみじみとあの日あの時の映像と情景を思い出す二人。
「あの日を境に愛も少し変わったよね~」
「そういやそうだね。女らしく見せようとか、何か物思う心がついたというか……まぁ、まだまだお子様、思考回路は小学生だけどね」
過去を振り返るのにも飽きてきたらしい。穂の言葉尻がまた段々と垂れ下がってきた。
「う~ん、そっちもそうなんだけど~、何かこう、港君を見る目が変ったというか~、何時にも増して一喜一憂が激しいというか~」
逆に響瑪の方は振り返る間に着眼する部分を見つけ、それをどう言い表そうか頭を使い始めた。只今考え中の響瑪をじっと見て、何かを言い出してくれるのを待っていた穂が先に「そういえば」と口を開ける。
「そういえば愛って事件の真相を知っていたかな?」
突然ぽっと出た疑問が何故かそのまま口から滑り落ちてしまった。
響瑪も、言った本人もなにを今更と面食らった顔をしている。
「まさか~あれの真相なんて結構有名だよ」
響瑪の笑い飛ばしに穂も「だよねぇ」と同意する。が、愛が事件の真相を知っているなんて本人の口からも噂からも聞いたことがない。言っておきながら「まてよ」と再び思い出し始めた。
ちょうどその時、ガラララ。と教室のドアが開き、一人の女生徒が音もなくふらっと入ってきた。
ついさっきまでの暇な状態だったらすぐに気付いたかもしれない。しかし、今は考えに没頭しすぎてそれどころではなかった。
その女生徒は真っ直ぐに二人のもとへとやってきてピタリと止まる。
「「!」」
血の気の引いた顔、風で倒れそうな身体。
人違いかとも思ったが間違いなく愛だった。
「みのるぅ~~、おとめぇ~~、終わったよ~~~………」
死に掛けた蚊の羽音じみたか細い声を絞り終えると、愛はそのまま崩れ落ちていった。
「ああ、愛、しっかり!」
本気で気にかけてくれる友人の声も、未来が閉ざされた今となっては彼方からの音声にしか聞こえないのであった。
❀始まりの話
教室の片隅、大勢の中、一人で泣くほど辛いものはないと思う。
小さな体なのに、出てくる涙は大人の基準を遥かに凌ぎ、それを隠そうとうずくまっても、その潜在感情は膨れ上がるばかり。
幼い時、誰もが自分の扱い方に苦労する。
だから、人に助けてもらう。迷わず目指したところへ進めるように、今の自分を見失わないように。そして、いつかそのお返しに、自分も誰かを助けられるように。――これを繰り返すからこそ、人は成長していく。
それが、二人の物語の始まりだった――
幼稚園が始まって間もないのに――
早々に、泣いてしまった。
みんなにとっては簡単なのに、私にとっては複雑な作業だった。
一生懸命やっているのに出来なくて、でも諦めたくなくて、ずっと頑張っていたのに、どんなに必死に取り組んでもやっぱり駄目。
小さな手の中にあるのは紙くず。何も変わらない、無残な事実。
もう悲しくなって、何も、分からない。
目的も何もかも忘れて泣いていた。
「どうしたの?」
まだ一度も話したことの無い、知らない男の子の声だった。
涙や鼻水でべとべとに汚れた私の顔を見ても嫌な顔一つしないで、優しい――大きな瞳で私をじっと見つめてくれた。
「あっ、つるがぐしょぐしょになってる」
私の手の中の折り紙は失敗に失敗を重ねて涙も混じっていたから――しわしわのふにゃふにゃになっていて、見られたくなかった。
笑われるのが怖かった。
でも、男の子は折り紙を見て、
「ぼくがやってあげる」
笑ってそのまま一生懸命に折り始めた。
その笑い顔はどうしてか分からないけど、怖くなかった。
しわしわになった紙を覚束ない手で折っていたから、結構な時間が掛かったと思う。
でも、その作業に見惚れていたらあっという間に鶴が出来上がっていて、男の子が私のほうを向いて笑っていた。
「はい、できたよ」
「あ、ありがとう」
出来上がった鶴が目の中に飛び込んできた。
差し出されたことの意味が分からなくて、やっとの思いで出せた声が震えていたなんて、今にして思えば、少し迂闊だった。
どんな風に何回折っても形にすらならなかったのに――
鶴が目の前に、男の子の手の中にある。
「あ! わらった、わらった。かわいい~」
鶴に見惚れた私がどんな風に笑ったかなんて覚えていない。鶴を折って貰った私よりも折ってくれた男の子の方がとても喜んでいて、それが印象的だった。
「あのね、つるをおるときはね、オリメを、しっかりつけるのがいいんだって」
「ふ~ん」
興味のない、そっけない返事をしてしまったことには今でも少し、後悔している。
ずっと、男の子の大きな瞳に見惚れていた。
「こまったときはぼくをよんでね。いつでもぼくがたすけてあげる」
彼の瞳の中の星が一斉に輝いて、泣いていた私を照らし出してくれた。
「わぁ~~、うん!」
私の為に輝いてくれた。
私のヒーロー。
初めての出会い。
初めて交わした約束。
あれからいつも一緒にいるようになったね。
どこかに行ったり何かをしたり。
一緒に、色んな思いを共感してきたよね。
いつも助け合いの繰り返しで、それが当たり前と思うようになった。
……それが駄目だったのかな?
ねぇ、お願い。何か言って!
何かを伝えて!
何だか不安で堪らない――
こんなの、いつもの私じゃないよ……
どうしちゃったんだろ?
……何で、苦しいのかな?
世界が遠のいて、目の前にあるのに入れない――開けるのが怖い扉が出てきたよ。
どうしてこんな風に感じるのかなぁ……
❀勇の話
天高く馬肥ゆる秋――。
青く澄み渡り、いわし雲が気持ちよく泳いでいる空に向かって様々な音や声がこだまを繰り返す。
放課後――それは次の日までの休み時間。
何にでも没頭できる時間帯。
テニスコートの端で、勇は乾いた音を空に響かせていた。
ラケットから繰り出される剛速球は弧を描き、向かいのコートへ目掛けて跳んでいく。
ここまで猛々しいボールは並みの力では到底返せない。……もっとも、それはコートの中に入っていれば有効、の話ではあるが……。
さっきから何十球と打っているのにコートの中には一球も入ってくれなかった。
コートにまで馬鹿にされたのかと思うと苛立ちは最高潮に達する。
勇はコートのラインをじっと見つめて――ひたすらに――何も考えられないでいた。
もし、回りに人がいなければ勇はラケットを地面に投げ捨てていたかもしれない。――そんな悪態をつかないでいられるのは、自制心が強いからだ。
自制心が働いているおかげで理性が保っていられる――……それを思うと、この自制心も放棄したくなる――だけども、それが出来ないのは重々承知――だからこの自制心には憎さ百倍といったところだ。
何故こうも苛立っているのか……
目の前の風景に飽き、心を落ち着かせようと空を見上げる。
鳶が空を旋回していた。
ピーヒョロロロと無心が具現したような鳴き声が聞こえる。
周りの雑音にもかき消されないなんて、どんな鳴き方をすれば出来るんだか……。
空は途方もなく高くて何もなく――『女心と秋の空』――そんな言葉がぼんやりと思い浮かんできた。
秋の空が変わりやすいように女の心も変わりやすい、といった訳の分らない諺だ。
雄大に澄みきるこの空の何処が女の心に見立てられるのだろうか。この空のような心だったらあいつもあんな風になるわけ無い――そう、虚ろな気持ちになったときだった。
「男心と秋の空。かな?」
足音一つ立てずに忍び寄った声があった。
「京太……」
もう一人の幼馴染の誘いを受け、勇は空を見上げるのを止めた。
「君が物思いに耽るなんて、秋だから?」
薄笑いを浮かべている幼馴染。しかし、どこか心を見透かされた気がして面白くなかった。
「それを言うなら女心だろ?」
「それは新しい用法。もともとの用法はこっち。まぁ現代ではどっちも有りだけどね」
自慢げに言ったのに手も無く撤回され、挙句解説されてしまった。何だかばつが悪くなるし、改めて知識の差を痛感させられる。
ああそう、と適当に流し、聞く耳を絶った。
頭を使うのは性に合わない。
下らないことを考えるのは止めて、やっぱり体を動かすことにする。
サーブを打とうとボールを手にした時――、
「ちなみに『男心と秋の空は一夜に七度変わる』っても言うんだよね」
聞き流せなかった。
言葉の意味は分らない。なのに、感覚的な何かが勇の脳裏に突き刺さり、何かを思い出させるように浸透していく。
はっと気が付いたら全身が動くことを放棄していた。
「……何が言いたい……」
思うようにならない身体に変わって目で抵抗をする。歯を食いしばり、それ以上言うなと脅しを掛ける。
明らかに勇は京太を忌々しく睨んでいる。しかしその意思を汲み取ってか無視してか、京太は上機嫌で饒舌に話し出した。
「愛ちゃんと喧嘩しちゃったんだって? ご愁傷様――。いや~、しっかし、珍しいことをしたね、君が大人しい理由が分かったよ。
初めての喧嘩別れだからこの先どうすればいいのか分からなくて困ってるんだ。でもさ、自分の気持ちの整理も付かないんじゃ、この先何にも変わらないね。泥沼になるだ――」
「……してねぇ……」
勇から怒気の混じった声が漏れ出し、京太は話すのを止めた。別に気圧されて止めたわけではない。せっかく開いた勇の口からどんな申し開きが聞けるのか面白そうだから黙って喋らせようという魂胆だった。
何を見せてくれるのか一興はある。
「俺は喧嘩なんてしてねぇ! あっちが勝手に腹立ててっただけだ‼」
バチコン!
怒りに身を任せ、言葉と共にボールを打つ。
たったそれだけの動作でもう勇の息は上がっていた。
無意識の領域から噴き出す莫大な感情エネルギーを運動へと代謝し、ひとまずの冷静は保たれたが――それだけ、勇はまだこの事実を認める事が出来ていないのだと窺えた。
「で、原因は?」
涼やかな顔でさらりと次のステップを踏ませる京太。上からでも下からでも、ましてや同等的立場でもないその物言いは深層心理を撫でるのにいい声だった。
その言葉に従い、勇は苛立ちの中だというのに何の疑問も持たず、その言葉通りの記憶を思い起こし、真相を告げた。
「俺が、ただ鴨と喋っていただけだ」
「ふ~ん、鴨って君のクラスにいるモデルスタイルグラマー美人で有名なあの鴨さん?」
「……お前、わざとそう言ってんのか?」
「いや? 僕なりの彼女のイメージだよ」
「だったら誤解しそうな言葉を使うなよな」
「じゃあ、そのグラビア美人と何について語り合ってたの?」
「…………」
また微妙な言い回しが気になった。
語り合うって言い方は何だと今度は言いたくなった。しかし、この小賢しい頭の持ち主にこんなこと言ったって軽くあしらわれるのが落ちだ。
何だか手懐けられてる様で腑に落ちない。
仏頂面することでせめてものささやかな気障りを出すに留めて話を進めた。
「別に、昨日のドラマの内容だよ。クラスで見てるの俺とあいつぐらいなマイナーもん。
あいつ、見逃したから、詳細を教えてくれって頼まれて、だから詳しく教えてやって……そしたら盛り上がって……」
「なるほど。同じものに興味を持つ者同士、話し込んで意気投合。その勢いでつい彼女の魅力部分に目がいっちゃったところに純で素朴な愛ちゃんがやって来て、その現場をあらぬ方向に勘違いしたって訳か」
まだ言い終わっていないのに――まるで現場を目撃していたかの様にすらすらと述べる京太に絶句する勇。
昼間の出来事はその場にいたクラスメート全員が注目するほどの騒ぎだった――そして、既に学校中余すところ無く広まっている。
だから京太も内容だけなら最初から知っていたのである。
「ま、ほんの出来心とはいえ、彼女と間近で話せる機会があるなら僕もそうしてしまっただろうし、男としてはしょうがない。今回は間が悪かったとしか――」
バコン!
ボールが京太の顔面目掛けて飛んできた。
今度は場当たりで打ったのではない。明らかに故意だった。
しかし、京太はそんな唐突な行為でさえも猶予無く反応し、紙一重の差で躱す神業を見せ付けると、
「『人に向けて打ってはいけない』――部の規約は守ろうよ、勇」
優しく肩をなで、今の出来事は無かったかのように振舞った。
何も言わない勇。
無言で手を振り払うと、そのまま京太からも離れ――、ボールかごの方へ歩み寄る。
その無表情な背中に、
「もう有名だよ。昼休み、君が『鴨の胸に夢中になって幼馴染と言い張る「嫁」と喧嘩した』って――」
滑らかに聞いた噂をこちらも無表情で突きつける京太。
「俺はしてねえ!」
勇は歩みを止めはしたが、顔はこっちに向けずに言い放った。
依然、頑として意地を張る勇の背中。
そこには、張り合いの無い自信の薄さと、自己防衛の為に身構える彼自身の虚勢の分厚さを感じた。
顔は見えないが、どんな顔かは容易に想像が付く。耳の辺りまで真っ赤にする辺りが、勇の真情を語っていた。
(遊びすぎたかな?)
肩まで息を落として反省の色を出す。
彼の代名詞ともいえるその涼やかな顔にもわずかに曇りの影が浮かぶ。
勇をからかうのは楽しくて止められない。
それは、勇は馬鹿が付く程の勢いを持った真っ正直な人間だからだ。
でも今の彼は、その人間性を必死で保とうとしている人――彼はいつもの彼ではない。
――思春期――
子供から大人へ変貌し、そのストレスから心が揺らぐ次期。
きっと、彼はその真只中にいるのだろう。今まで思いもよらない考えや欲情が芽生え始め、その新しい自分に馴染めないでいる。
それまでの自分との齟齬を感じとってしまったのだ。
思い通りにならず不安になったり苛立ったり、神経が休まっているのか気に掛かる。
今日の昼間に起こった事件は、二人のそんな気持ちから起こったことではないかと京太は密かに考えていた。
一人でサーブの練習を再開する勇の姿を見て京太はそっと助言する。
「漫ろ神に惑わされているよ、勇」
漫ろ神――人に取り憑いて落ち着きを無くさせる神。
勇の動作はとてもぎこちない。
練習、というよりも目の前の現状理解から逃げているだけにしか見えなかった。
指摘され、サーブの手を止める勇。京太を睨む目がだるい。もはやその顔に、気持ちの焦点となるものは何も無い。
只あったのは、
「ほっといてくれ」
真実の見方に困惑する恥じらいの心だった。
昼間のことは勇なりにも反省しているらしいが、ちょっと昔気質で依怙地な彼の性分ではその先の進展までは望めそうになかった。
意地を張っていても平行線を辿るだけ、
「じゃあムキにならないことだね。さっきから『してない』の一点張り。初めて冷却したからって意地を張るモンでもないよ。
そんなの一々気にしてたら愛ちゃんが可哀想なだけだしね」
勇に合わせたのか、京太も態度を改め、少し厳しい、冷たい素振りを見せた。
普段、京太は聞く耳の無い人間に意見するなんて面倒な事はしない。しかし、今回は珍しく聞く気の有る無しが分からない相手に向かって言葉を添えた――否、おせっかいと思われても言っておきたかったのだ。
勇は物心つく頃から既に一緒にいた掛け替えの無い友達。愛も幼稚園入園と共に出来た二番目の友達で、大事な友達の一人。
一番長く深い絆で繋がっていて、何年経っても変わらない大事な友達。
そんな相思相愛の大事な友達同士で起こった事件に心を動かされないほど京太の心はさらっとしてはいなかった。
自分の言葉で何とかなるなら、と最初からそう思ってのことだった。
そんな京太の真意が伝わったのか、
「俺は何も、気になんか……」
勇がこっちを向きかけ視線を落とした。
勇の心理に若干の変化が見え、京太も少し荷が降りる。これが解決の糸口にでもなってくれたら良いと安堵するのだが、
「俺は何も気になんかしてねぇからな!!」
勇の意地が増長しただけの言葉は、もはや負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。
「認めたくない」の単語を、目を瞑ってまで頑なに隠す本心。ここまでムキに強情さを言い放つと、堂々巡りになりそうな予感がして流石の京太も慌てて困った顔になる。
慣れないことはするもんでもないかと思ったが――あたりを見渡すと――またいつもの涼しい顔に戻った。そう、女子からは爽やかで素敵な微笑み。男子からは底意地の謀れない危険な笑顔と称されるニヒルな顔で、
「なら、後ろの先輩たちは何?」
「は?」
突然出された脈絡の無い質問。
何のことかと思わず拍子抜けしてしまい、勇は後ろを振りかえる。
そこには怖い顔をしたテニス部の先輩が勢ぞろいしていて、しかも全員、頭や顔に瘤を作っていた。
この瘤の原因は――
「おい、一年! テメーさっきからどこに向かって打ってんだぁ?」
「俺達に当たりっ放しなんだけどよぉ?」
「落とし前、きっちりつけてくれるよな?」
ヤクザ紛いなやばい雰囲気をかもし出す先輩達――。その勢いに飲まれ、必死の言い訳をしようと勇は顔の筋肉を動かしだす。悩みの中から抜け出し、現実へ戻ってきた証拠。
目にも色が戻り、しきりに「え、あ、いやその……」といった弁解措置を取り繕おうとして、今の勇はいつもの勇なのだろう。
勇が先輩達から視線はそらさず、目線で京太に助けの合図を送る。
京太はその合図を受け取ると踵を変え――
「言ったよね、『漫ろ神に惑わされてる』……ってね」
おちょくる心を抑え、わざと残念そうな声で未練なくその場から離れて行く。
京太の動作を合図にしたかのように――勇と先輩達からは騒がしく賑やかな、ケジメの儀式的ムードが展開され始めた。
ぎこちない動作で打ったボールがコートの中に入るはずも無かったが、まさか人の頭にダイレクトに当たるとも思っていなかった。
「ボールをどこに飛ばしたのか分からないなんて……相当重症だね」
勇に助け舟を出す気になれない事は京太にとっても心から残念だった。あれはきっと「気にしてない」と言い張る勇の身から出た錆であり、その強がりが形となって現れた姿ではないかとも思う。
少し悪いが、これは勇の現状を知る良い薬だ。これで少しでも考え方が変わってくれたなら、このお喋りも無駄ではない。
後は先輩達に締めて貰い、京太もテニスの練習を始めることにした。
因みに、石橋京太は部外者ではなく、歴としたテニス部員である。
❀秘密の話
夕焼けが沈むのを見送る河川敷。
茜色に染まっていくランドセルを背負うのが嬉しくてたまらない。
入学式の終わった日――。
幼稚園は卒園して、あの頃よりも大きくなった一歩を踏みしめた日だった。
「ねぇ、ゆうちゃんはアイラブユウってしってる?」
「アイラブユウ? あ、わかった! アイは愛ちゃん! ユウは僕! で、ラブは・・・あれ? ラブって何?」
「エイゴでね、「好き」なんだって!」
「すき?」
「うん! それでね、アイは『私』で、ユウは『あなた』なんだって!」
「へ?」
「だから、アイラブユウはね、エイゴだと『私は、あなたが、好き』ってなるの! でねでね、ニホンゴでも『あいはゆうちゃんが好き』ってなるんだよ‼」
「……『わたしは、あなたが、すき』『愛ラブ勇』『愛ちゃん、すき、僕を』……すげ~、どっちもおんなじだ! アイラブユウってすげ~、どっちでもいける!」
「うん! あいとゆうちゃんに、ぴったしのコトバだね‼」
遠い日の思い出だけど、一番身近な約束をした日。
他愛も無い遊び心から生まれた私達だけの大事な言葉。
アイラブユウを合言葉に歩みを進める、私の歯車。――だけど、それは私の独りよがりだったの?
あれは只のお遊びで、時間に流される思い出だったのかな……
『合言葉は相手がいないと始まらない』
あなたがその相手だとずっと思っていたけれど、それは私の思い違い?
否定も肯定も出来なくて、答えが見つからない……
胸が苦しい……喉が絞まって息が出来ない。
誰か教えて、私の――
❀愛の話
少し寂しい放課後の室内。南向きの窓のせいか日が傾けば教室はすぐに暗くなる。
暗くなったと思ったら、直後に夕焼けの赤が目を眩ませ、瞬く間に橙と赤と黒の侘しさ覚えるコントラストが出来上がる。
しかしながら――その色彩に負けず劣らずな熱気と賑やかな喧騒音は絶え間なくあちこちに響き渡り、溢れかえっているのだ。
その暖かさに満たされているからだろうか、
「ひっく、あう~、ぐすっ、ん~、うう~」
愛は誰にも気兼ねすることなく机に突っ伏し思う存分に泣いていた。
「なるほどね。そういうことがあった訳か」
泣きながら話される内容を一つ一つ拾い上げ現状を把握していく穂。
「穂ちゃん、愛の言葉よく分かるね~」
その穂に響瑪は感心のエールを送った。
愛は最初からずっとすすり泣き――言葉とはいえない単なる嗚咽しか漏らしていなかったので、響瑪には何を言ってるのかチンプンカンプンだったのである。
「そりゃやっぱ年季が違うから。これが出来なかったら愛の友達なんかやってらんない」
穂と愛は小学一年からの付き合いで響瑪は今年の春から――。
確かに年季は大分違うが、それだけではこの人智を卓越した特技は持てない――、というか「この特技がなければ」と言い切る辺り二人の踏んできた経験が気になり出した。
まぁ、愛の事だから大方の想像はつくし、穂が「気にするな」と言ってそれ以上何も言わなかったので響瑪も気にしない事にした。(習得する頃にはもう卒業してそうだし)
「しかし、これは凄いことになってるね」
「そうだね~、港君にはっきり只の幼馴染なんて言われちゃったんだもんね~」
響瑪が何気無しに言った『只の幼馴染』に反応し引付けを起こす愛。
「しかも、港があの“超お嬢様”と仲良く話してたんだからね」
『仲良く』に反応してより一層身を縮める。
それからというもの、愛の思考は段々と良からぬ方向に膨れ上がり――あれやこれや、あることないことが頭の中で増産されだすと――許容範囲を超えた妄想は脳内配線を爆ぜてしまった。
すると愛の意識は全てが綺麗一掃に抹消されたのだが、ショックは頭の中で幾度とない反響を繰り返し、その反動で目がぐるぐる回ってきて今度は正気の沙汰なのかどうか疑わしくなりだす。
二人は愛の表情を見て、本人の目の前でこんな話をするのは止めようかと思ったのに、愛は穂の裾をぐいっと引っ張って、
「その鴨さんって、そんなに凄い人なの?」
自分から墓穴を掘るような質問をした。
言うべきか言わざるべきかの難しい判断を瞬時に迫られたが、愛の目の不気味さに負けてしまい、
「え? あ、ああ、まぁ」
響瑪の目を見て合図を送り、不本意ながらも穂は言い出した。
「まぁ、見たまんまの人なんだけどね。容姿端麗、学業優秀。おまけに一年生なのに弓道部のエースで、男女問わずにかなりの人気。
あの人の頼みに未だ嘗てノーと答えた人はいないとかって噂だよ」
「あとね~、品行方正で~、由緒正しい名家のお嬢さんなんだって~」
しぶしぶ白状していく穂に乗っかって何故かはきはきとプラスαな情報を付け足していく響瑪。そして二人がもたらす更なる情報処理に耐え切れずふらふらと倒れていく愛。
学園のマドンナ、鴨茅音の肖像は愛に何一つとして太刀打ちできない冷酷無比なものばかりであった。
「しっかし、何でまたそんな高嶺の花みたいな人が港なんかと……」
「あっ、それそれ~、何でも港君と鴨さんの趣味が合致してたとか~」
「え⁉ あのマイナー趣味に? ……これはもう致命的だな……あの趣味を同感できる人間なんて早々いるもんじゃない……愛ですらあいつの趣味には入っていけないってのに」
渋っていた穂から本音が一つ零れると――
「これは同じ趣味を持つ者同士『このまま二人の世界に突入!』なぁんてことも有りえるんじゃないのか? マイナー世界なら邪魔者だって現れないしね」
隣で倒れている愛を忘れ、ためらっていた事等お構いなし、次々に底意を漏らし始めた。
「とうとうあいつの趣味と対等に向き合い、もとい付き合ってくれる人間が現れたかぁ」
「ね~、港君の好きなドラマって全然だし、アーティストだって外国のジャズとかロックとかなんかちょっと独特だモンね~」
その話に響瑪が乗っかれば止める者など誰もいない。
「港君って誰かと趣味の話、したことあるのかな~?」
「ないない。やっぱその辺の鬱憤は相当溜まってんじゃないの? 男にとっちゃ趣味と価値観の共有って方が魅力的だしね」
「うんうん、そうじゃなくても鴨さんは愛より女性の魅力満載だし~」
「幼馴染よりも目の保養の方がポイント高いだろうねぇ」
「才色兼備の大和撫子。学校中の憧れを独り占めなんて港君大胆~」
挙句には勇と鴨の仲を応援しそうな話になってしまった。
もし、仮の話だが、港勇が本気で鴨茅音と交際する気があれば愛には勝ち目どころか付け入る隙さえないだろう。
愛と鴨は見た目だけでも月とスッポン、雲泥の差は軽くあるのだ。
しかしながら、愛と勇の間には幼稚園の馴れ初め以来、十二年の間に培われた深い信頼と絆があり、穂と響瑪はその最悪の可能性をこれっぽっちも感じ取っていない――。
なので、平気でこんな茶化した話が出来るのであった。
「二人して……言いたい放題だね……」
「あ……」
机の水平線上から生彩の乏しい張りのない顔が覗き、それに伴う乾いた声が機械の如く正確に出ていた。
不気味で疎ましい気を発散させたいのか、目は未だに死んでいる。
床から机へといつの間にか移動していた愛。
本人が目の前にいる事を思い出せば二人を取り巻く空気にも変化がきたし、区切りも付いた事だしと穂は鞄を持った手ごと上げていったん伸びをする。
「さて、これ以上ここに居たら愛はまだまだ絶息往生しちゃうから、そろそろ行こっか」
活き活きとした生者の声が半死人を労わろうと自ら退散を申し出た。
響瑪も賛同するとばかりについて行く。
二人がドアをくぐると同時、リモコンを押したかのように愛の気持ちが切り替わる。
背筋をシャキッと伸ばし「ええ、もう行っちゃうの⁉」と、手をドアへ真っ直ぐ伸ばして口の中だけで「カムバック!」と叫ぶ愛。
表情は半泣きではあった。しかし、その体相は元気そのもの。
言葉の流れで半死人状態に持っていける愛の心持ちも凄いが、立ち直りも途中経過を挟まないのだから更に凄い。つまり、今までの悲惨な状態は愛の心を具現化する為の身体表現(演技と言うか遊び)なのである。
「悪いけど時間だ。こう見えてもあたしゃ放課後は結構忙しいんだよ? バスケの新人戦はもう来月だし、響瑪だって合唱部があるんだし――」
秋にはイベント関連が多い。
特に部活動はなお更だ。
三年生が引退し、多くの役回りが一年へも引き継がれた。――今こそ、表舞台で努力の成果を発揮する時なのだ。
地味な控えから抜け出す絶好の機会。
メンバーから外される――
それは群集に埋もれる以外の何物でもない惨めなもの――それだけは絶対に嫌だった。
試合に出る為には二年を押し退けてでもメンバーに入る事が必須条件。
その為には一にも二にもまず練習。それはコートだろうがひな壇だろうが関係ない。
己の基礎体力の向上。
仲間内での意思疎通の確認。
全体フィーリングの凌駕。
この地道な単純作業を来る日も来る日も全員で繰り返すことで初めて信頼関係が成立し、ようやく実力を発揮する場が与えられる。
この関係を維持し、成長させる要素はただ一つ――『ルールを守る』という行為である。
逆に言えば、守らなかった場合、即亀裂が入るという脆く危ない集団なのだ。
「――もう、愛に割いてあげられる時間は終わっちゃったよ」
「穂ちゃんのところの山本先輩だっけ? 時間に厳しいモンね~」
ここで愛に付き合って遅刻しようものなら穂を取り巻く空気が苦くなる。――不審を抱かれ、パス一つ碌に回してくれなくなる。
汚名返上、名誉挽回――。そんな機会は早々回ってくるものでもない。
一度でも負の感情が芽生えれば拭い去るのは至難の業といっても過言ではないのだ。
「ほんと、合唱部はいいねぇ。その辺は甘くてさ」
「う~ん、でも、気ままにやってる人がほとんどだから――逆に硬い人が居なくて締まりがないよ~。穂ちゃんはそっち系には耐えられないんじゃないの~?」
「あ~、そうだねぇ」
今までのライフスタイルは変えたくないのが本音の穂。友達の悩みよりも部活。自分の生活サイクルに優先順位が高くて当然だ。
「じゃ、愛。そういうことだから一人で自棄を起こして無茶なことはするんじゃないよ」
最後に手でバイバイをしてそのまま二人は歩いていった。
二人の足音が聞こえない。
一人ということを認識していくと自身のやり場に困り果て、この教室にいること自体に戸惑いを覚えた。
愛の所属は茶道部だが、その活動日は普段から少なく、今日は休みの日だった。
二人は部活でも自分は休みというのはいつものこと。部室の使用は休みでも認められているのだから、そこを使って宿題するなり何なりと放課後を楽しく過ごせばいいのだ。
いつもどおりに振舞えばいいのに――なのに、今日は利用する気になれなかった。
今日は何かが違った。
何をしようにも頭の中は昼休みの出来事で埋め尽くされ、そのことがずっと気がかりで、何をして過ごそうかも思い浮かばない。
無意識への自問自答が行動の妨げになっていた。
自分の机を仕方無しにぼうっと眺めている愛――するとそこへ、
「あ~い~☆」
何の前触れもなく唐突に無邪気な声で呼びかけられた。
「わっ、あっ、お、響瑪⁉」
ドアから顔だけをひょいと覗かせた友人に驚いた。気配の無い友人に急いで自身の意識を呼び起こし――『考え込む姿』を全て心の奥へ仕舞い込んだ。
考え込んだときの自分を他人目線で見られるのが少し怖かった。
「あ……ああ、何でもないよ。どうして戻ってきたの? 部活は?」
冷や汗交じりの心臓の鼓動に合わせて挙動不審が露になる。
そんなのはお見通しの響瑪。
「穂ちゃんは行っちゃったけど、私はのんびりできるから~」
だから(戻って)来ちゃった。と、えくぼがかわいい、柔らかな笑顔でのほほんと挨拶。
「愛に元気になってもらおうと思って一言言いにきたの」
響瑪はパサパサした自己優先型の沽科穂と違い、さわさわと他人を気に掛ける。――どちらかというと世話焼き型の人間だった。
それ故に、人を操る術を知っている。
何をどう言えば人はどういった気持ちになり、どういう行動に移るのか――そんな高等技術を高校一年、若干十六歳という若さでもう会得しているのである。
付き合いこそ短いが、平賀愛がどういった人間であるかは響瑪の方が穂よりも熟知していた。
この場合、放って置くよりももっといい方法がある。
「愛~。何か忘れてな~い~?」
「?」
「ほら~、愛ったらお昼の授業、心ここに在らずだったでしょ~。そうしたら~」
「??」
もったいぶりながら話しかけられるもさっぱり思い出せずに響瑪の言葉にぐいぐい引き込まれていく愛。
やり易いにも程がある。
「数学課題『愛、特別バージョン』になったでしょ☆」
「ӱ☞☯※♨☠☥★❄☝」
間をおかずして愛の脳内ブレーカーがONになり、記憶回路から数学担任(三十六歳独身)のイヤ~な眼鏡顔が量産される。
急いで鞄をあさり、机にノートと教科書、参考書を広げて準備を整わせると……勢いよく涙をアーチ状に噴射させて宿題に取り掛かった。
効果音が聞こえてくるかのような愛の一瞬のリアクション。これが見たいがために響瑪は戻ってきたのであった。
人間関係は一人で考えても進展しない。
この場合、目の前の現実問題(特に逃れられない恐怖)を突きつけた方が、人はそれを対処する為にモチベーションを前向きに持っていき易くなる。
まぁ、ここまで標本に相応しい人間なんて早々いないが……
結果、愛はいつもの面白人間に早戻りした。――美味しいリアクションとともに。
「明日までにが~んばってね~」
目的も果たしたし、おっとりとした母性溢れる暖かい微笑みを残して響瑪も部活に行くことにした。
「うわ~ん、分かんない~」
愛の呻き声を背に「あ~、人助けは気持ち良い~」と鼻歌交じりで廊下を去って行く。食えない女。貒浦響瑪であった。
❀今に至る話
春が来る――。
桜の蕾はまだだし、日陰には雪が残っているけど、冬の匂いはもうしないし、上着一枚脱ぐぐらいの暖かさは出てきた。
この雪も、じきに消えるだろう。
六年間は長かったけど、もう終わりになるとは思ってもみなかった。
一ヵ月後には中学生になるなんて、まだ信じられねぇや。
「勇ちゃん、何考えてるの?」
「ん、ああ……来月からの昼飯」
「あっ、そっか、中学には給食ってないんだったっけ」
「母さん、仕事忙しくて弁当作れないって言うんだ」
「……勇ちゃんのところ母子家庭で、お母さん多忙だもんね……」
卒業は嬉しいはずなのに、全然嬉しくない。
昨夜の母さんの残念そうな顔が気掛かりで、俺が大きくなるにつれて母さんへの負担も大きくなることを知った。
些細な気遣いが、一晩で大きくなった。
楽しくない。
これから俺は、らしくない俺になっていくのか?
「う~ん、だったら……」
「おい、愛?」
俺、こいつに何か考えさせるようなこと言ったか?
「私が毎日、勇ちゃんにお弁当作る‼」
「……は?」
「だ・か・ら、勇ちゃんのお母さんに代わって、私が毎日お弁当を届けるの!」
おい? お前は何をそんなに嬉しそうな顔をして? ……っていうか何でそんな展開になっていくんだ?
「――そうしたら、勇ちゃんそんな顔しなくても済むでしょ?」
そういう愛の顔は少ししょぼついてて、瞳には涙が溜まっていた。
断るつもりだったけど、その顔を見たら全てを飲み込めた。
俺が少しでも顔を曇らせたら、愛はいつでも俺の心を晴らしてくれた。
俺が落ち込む原因を、俺が何かを言う前にこいつはいつも――根本から解決してくれる。
そうだよな――。
俺達、小さい時から助け合ってたんだ。
でか過ぎる助けだけど、助けてもらおう。
その分、俺も――愛を助けてやればいい。
「愛」
俯いた愛の肩を叩いて、顔を上げさせて、
「痛っ!」
潮垂れそうな顔にでこピンしてやった。
鳩が豆鉄砲食らった顔してら。
「美味い弁当作ってくれ」
「……うん!」
目が輝く極上の笑み。
こいつのこの顔、初めて会った時から変わらねぇな。
「お弁当か~。初めてだからな~。何を作ればいいのかな? ねえ勇ちゃん。リクエストがあったら何でも言って!」
愛、お前そんなにも俺の事思ってくれ――
「包丁持ったこと無いけど、頑張る‼」
「…………はぁ?」
「いつもお母さん、パパっと作ってチャチャっと終わらせるから手伝ったこと無いの」
確かに愛の母さんの料理は並みのレストランよりも美味くて、手際の良さも半端じゃなかった。専業主婦って聞いた時には驚いたけど……だからってこいつ、何を照れながら言って……ってか……、っていうかこいつ……。
何も考えてねぇ――
「……! そういえばお前家庭科の時――」
火事起こしそうになったことが……
「よ~し! 春休み中にみっちりと教えて貰うぞ~。目指せキャラ弁日替わり定食!」
人の話を聞け! 一人で燃えるな! 何でお前は何処までもそうポジティブなんだ……
「それじゃ、バイバイ!」
……愛の母さん、面倒くさいこと押し付けてごめんなさい。
最初はかなり大変で、面倒な奴だった。
泣き虫で弱虫、不器用の要領悪、おまけに間抜け。
様々な悪口が似合うと、今でも――悪いとは思っているが、若干思う時がある。
でも、愛は底抜けに明るく、どんなことがあってもめげない、芯のある奴だった。
たまに頼られ過ぎてキレた事もあったけど――あいつは一つずつ、苦手なものを失くしていった。
今では料理、裁縫に関して愛の右に出る奴はいない。手先の器用さなら誰にも引けをとらなくなった。
それに、あいつは誰より、何より、俺より強くなっていった。
あの時の鶴のように、もう、俺は必要なくなったのかもしれない。
俺が助けてばかりだったのに――あの日以来、俺が助けられる毎日になった。
お前はもう、一人でも歩いていけるんだな。
――嬉しいはずなのに、嬉しくない……。
何かが俺の中でずれてる……。
――それはきっと、幼い日の他愛も無い思い出を大事な約束だと信じているからだ。
愛、俺はあの日の思い出、遊びだなんて思ったことはないぜ。
だから、俺はお前が――
❀再会の話
黄昏時――。日が沈むか沈まないか、夜と昼の狭間の時間。
山の向こうはまだ薄く空の色が残っているのに、頭上は夜の漆黒に覆い尽くされようと星が見え始める。――少し先は見えるのにちょっと先が見えない、まさしく「誰そ彼」だなと納得がいく。
そんな狭間の時間は街灯も点くか点かないか迷うらしい。――つまりは役に立たない。早く肝心な所を照らして欲しいと思う。
まだ電球が灯っていない茂みの中で勇は体を伏せ、目を凝らしていた。
「ったく、何で俺はこんな所にボールを飛ばしてんだ……」
やっと見つけたボールを拾い、知らずに熱くなっていた昼間の自分を冷たく非難する。
ボール越しに映る自分を捨てる感じにカゴヘ投げ入れた。
ガシャン
「おっ、一発で入った」
三十三個目のボールがカゴへ入ったのを確認してしゃがみ、また茂みの中へ入り込む。
夕方からずっとしている単純作業だった。
(何でこんなことになったんだろう……)
残り十七個。はっきり言って日没までに見つける自信は無い。
夜の帳が下りた頃に下校終了時刻はやってくる。教室、廊下、学校という建物全ての気配が消えていく時間だった。暗い建物はしんと静まり返り、何者も寄せ付けぬ雰囲気になってきたのだが――、
「終わらなかった~」
生徒玄関から喜劇よろしくアットホームムードを引っさげ、愛は出てきた――否、「早く帰れ」と警備員に追い出された。
中身的にも気持ち的にも重い鞄を両手でぶら下げ、トボトボと歩いていく。ぎっしり詰まった鞄の感触はこれから先の未来を暗示しているのかもしれない――そう思うと、余計に遣る瀬無かった。
頭の中は「こんな時いつもなら……」で止まり先へと考えを進ませてくれない。
「勇ちゃん……」
既に体の一部となった部品を呼ぶ。
一度この身から取り外してしまった部品は何処にどう取り付け直せばいいのか――いや、付け直してもいいのかすら分からない。
開いた穴を埋め合わせる代用品が今の愛には見つからないのだ。
進まない歯車、止まる自分。
時間は流れ、世界は止まらない。
コロン――
足元にテニスボールがあった。
緑色の小さなボール。
普段なら気にも留めない物をじっと見つめ、気付いたら拾ってしまっていた。
ボールを通して、自分の――勇に対する熱い思いが伝わってくる。
勇に抱いている思いが想像を超越し、膨れ上がっていくのが分かる。そのボールよりも小さな自分はギュッと潰れそうだ。
「勇ちゃん……」
胸元の前、両手の中にある小さなボール。
……会いたいよ……
涙が地面に一つ、ほろりと落ちた。
埋まらないのに動かしたい気持ちと――穴だらけで止まったままの現実が引き合わなくて壊れかける、ちぐはぐな鼓動。
壊れかけたものを直す方法は知っている。
自信の無い、弱い私がその修理の邪魔をしているだけ。明日も笑って、勇ちゃんにお弁当を届けたい――このままは続けない――
(仲直りがしたい!)
はっとして愛は顔を上げた。
今自分が正直に思ったこと――心からの願いに気付いたお蔭か、涙は止まっていた。
手の平のボールを見つめて微笑み返す。
気持ちが溢れているだけでは良い考えは浮かばない――このままここにいても何の解決にならない事だけは分かった。
どう会いに行くかは帰りながらにでも考えればいい――全身全霊を籠めてボールをこれでもかと握り潰す。
誰もいないことは分かっているのだから、ここは遠慮なく――
「バカ~~~~~~~~~~~~~」
叫んで投げて、ストレス解消。
飛んでいくボールが要らない物を捨てた証。
気持ちもスッキリしたところで帰ろうと改めて一歩を踏み出す。
ボールは茂みの中へ落ちていき――
「痛っ!」
男の声、驚いた愛は足を止めて振り返る。
「誰だよ、ボール当てた奴」
茂みの中から勇が姿を現した。
こんな簡単に会えるなんて思いもしなかった。
❀友人の打ち明け話
ファミリーレストラン。
ゆったりと落ち着ける快適な喋り場。
一品頼めば時間無制限に過ごせるので部活帰りのまだ遊びたい盛りの高校生には何とも便利な憩い場だった。
田舎でも、国道沿いになれば何軒かはある。
既にいくつかのグループが店内を占めていて、その一角では――
「あんた、やっぱり教えてなかったんだね」
「いや~、ついうっかり」
ちょっと気苦労の穂の前に、のんびり気楽な京太が座り、
「うっかりから大きな話になっちゃったね」
気など何処にもない響瑪がゆるゆると京太の隣に座っていた。
話を遡ること一ヶ月前の始業式。
大量の女子に囲まれていた勇。
女子をはべらした満更でもないその姿を見た愛に嫉妬が生まれ――焼き餅が焼かれたまま一ヶ月が経ち、この喧嘩へと発展していったわけである。
しかし、そのシチュエーションを作った原因は石橋京太にあった。
勇と同じテニス部所属の彼は夏休みに行われた大会で一年生ながらレギュラーとして出場。しかも、超ファインプレーの連続で、今年テニス部が優勝できたのははっきりいって彼一人のおかげ。
高校生の力量を超えたそれ程の活躍だった。
当然、応援していた女子はもとより噂を聞きつけた子達も一目見ようと京太の下へ殺到。中には京太に近づきたく、言い寄ろうとした子達もいた。
しかし京太のプライベートは些細な噂一つ無く、付き合いのない人間からは謎の多い人物としても有名だった。
そこで女子達は彼と一番付き合いの長い勇にあれこれと聞きに来ていたのだ。
つまり、勇は京太についての質問攻めにあっていただけで、自身については無視されていたに等しく、愛は最初から誰にも嫉妬する必要はなかったのである。
これさえ知っていれば愛に負の感情が生まれることもなかったであろう――。
「自分から説明するとか言い出して……」
目の前の男をわずかでも信用した自分が情けなく感じてくる。
「しかもあんた、港にはまだ早すぎる物をプレゼントしたんだって?」
「うん、もうそろそろ必要かなぁとか思ってさ。三年生の時の誕生日プレゼントに卒業祝に入学祝と合計三冊! 因みに今度の誕生日にも贈ってあげようかなって思ってるよ」
「……港、それ読んだの……」
穂は開いた口が塞がらなかった。
「いや~、流石に最初渡した時は顔真っ赤にして全否定されてね。『俺には愛がいるんだぞ!』って、ものすごく細かく破かれたよ」
「やっぱり港君にはまだ早かったのかな~」
何故か勇の男心を心配する響瑪。
「二冊目渡したときも破かれたんだけどさ、そんなに顔が赤くなかったんだ。で、三冊目の残骸はもっと面白かったよ」
「何々~」
「一部の破れ方が荒かったんだ。あれは絶対に目を通した。体裁をとって置く形で破いただけだ。これは次に渡すときが楽しみだね」
細目でよく見えない京太の目から怪しい光が輝いているのが何となく見えるような穂。
「今度は絶対破らない。素直に受け取ってちゃんと見るだろうね。いよいよ勇の趣味が何かはっきりするよ」
「キャ~ッ、港君って何が好きなんだろう」
「……」
そっちに盛り上がる二人を見てもその手の話に興味の無い穂は絶句するばかりだった。
勇に芽生えた男心と、愛に芽生えた女心が重なって生まれたこの話。
しかし、こういう風に話を膨らませる者がいるとなると、単なる偶然とも思えない。
本当の首謀者は、とぼけているようで悪知恵は働く目の前のこの二人ではないか、と、まさかな疑問が生じてくる。
……出てくるが、偶然に偶然が重なっただけのことは間違いなかった。
二人の頭の中は理解不能だが、こんな遠回しに時間の掛かる悪戯はしないし、人の心を弄ぶほど腐ってはいない――と、信じたいし――何よりもそう考えるのは面倒くさい。
あの二人の間に生じた問題を他人である自分が考えたって仕方が無いのだ。
この場合考えるべきは――今後この厄介な友人達が何らかの策略を巡らしたとしても、自分が巻き込まれないように注意する――という事だけだった。
❀二人の話
帰り道――。
人通り皆無な田んぼ道の街頭は必要最低限の明かりしかない。――とりあえず田んぼに落ちないようにと点けられた物なので、道があると何となく分かる程度でいいのだ。
――その道を、二人は歩いていた。
「……なんでついて来るんだよ」
「……だって、家、近所だし、帰りはこの道だけだし……」
愛はもごもごと何か言いたげに、勇からつかず離れず――、三、四歩離れたその距離を維持し歩んでいく。
ぎこちな足取りが生み出す不協和音。その不快感が徐々に二人の心情をも取り巻いていく。
息が乱れそうなこの現状に耐えながらも歩く二人。しかし、とある街頭の下に差し掛かった時、愛はその歩みを止めた。
愛の気配が途絶えた事に数歩進んで気付き、何事かと勇も歩みを止めて後ろを振り返る。
愛は俯いていた。まるで、勇に顔を見られまいとするかのように。
今まで耐えてきた感情が抑えきれなくなったのだろう。それを指し示すのか、鞄を持つ両の手には力が凝縮されている。
「それとも……」まだるっこい二人の距離、ぐずぐずした関係を終らせたい。現状を見かねた愛の口から、一つの勇気が躍り出る。「それともこんな胸の無い幼馴染なんかより、大きくて綺麗な鴨さんの方が良かったの⁉」
きっぱりと顔を上げ――涙で潤んだ瞳を隠さずに――声を張って、思いのたけを精一杯ぶつけた。
分かりきっている事の発端。
愛の心からの質問――。
「俺がいつそんなことを言ったんだ……」
問われる必要の無い答えほどうんざりする。
「じゃあ、誰なら良いの! 私? 鴨さん? それとも……たまに一緒なクラスメート⁉」
涙で腫れた目で尚も尋ねる。
もはや問題外なところも問題視してしまう、勇にまつわる全ての女子が愛にとっては全ての元凶、悩みの種なのだ。癪に障るし、頭痛も起こる。
愛の心は不安で怯えていた。
愛は知らない。これが『嫉妬』と呼ばれる気持ちの名前。又の名を『独占欲』
勇の表情が変わることは無かった。愛を真摯に見つめる勇の瞳に自分の姿が――必死に訴える風貌が映っている。
情けなくなって、目を合わすのを止めた。
「変だよね……こんなこと聞くなんて……」
顔を逸らして行き場の無くなった視線から涙が落ちた。
「……ああ、変だな」
愛の陳情を一通り聞き終え、やっぱりか、と一息つける。
「お前、何でそんなにムキになんだよ」
今度は勇からの質問。
「だって…、だって……」愛の胸の内がどんどん締め付けられて、思考手順を飛ばした言葉がどっと溢れ出てくる。「勇ちゃんと鴨さん、お似合いだなって……。今まで、勇ちゃんと一緒に居るのは私だと当たり前に思っていたけど……けど、勇ちゃんと私が一緒に居るのが当たり前だなんて決まりなんて無くて――私は勇ちゃんの傍に居たい! ――けど、でも、でも――、勇ちゃんの傍に居る人は勇ちゃんが決めるもんで、私じゃなくちゃならない理由なんか何処にもないし! ――そしたら私は、私は何だろうって……」
長くて支離滅裂化していきそうな言葉の羅列が、絶え間無く愛の口から流れ出ていく。
だけどこれは、ある一つの気持ちでしか紡ぎ出せない言葉の羅列。
その気持ちが何なのか分かれば、自然と勇の苛立ちも消化されていった。
「愛」
なだめるように愛の肩を叩き、顔をこっちへ上げさせて、
「痛っ!」
泣いてる顔にでこピンを一発ぶつけてやった。
突然の事に恐る恐る目を開いていく愛。
愛の目の先にあったのは――目映いばかりの、屈託の無い笑顔。
勇の瞳はまっすぐに愛を捉えている。
「勇ちゃん……?」
泣いていたことなど忘れ、きょとんと目を丸くする愛。思わず鳩が豆鉄砲食らった顔になっている。
三年前と、同じ顔。
「バ~~カ、だからって突っかかるなよな」
「~~~~~~~」
もう、愛の口は何も言わず、目がぐしゃぐしゃになった。
「そんな顔すんなよ」
涙は流れ続けているのに、瞳を大きく開けて泣きを堪えようとする、子供かと言いたくなる顔。
景気づけとばかりに勇は愛の頭を調子よくくしゃくしゃ揉み解し、
「大体、昔約束しただろ?」
「約束……?」
「初めて会った時、思い出してみろよな?」
威勢の良い声で、愛の意識を遠い日の過去へと遡らせる。
幼稚園の隅で泣いていて、話しかけられて、助けてもらったその後のことだった。
「こまったときはぼくをよんでね。いつでもぼくがたすけてあげる」
「わぁ~~、うん! わたしあなたのおヨメさんになる‼」
「じゃあ、ぼくはおムコさんだね。え、と、ぼくたち『フウフ』だ!」
「ケッコン、ケッコン」
「うん。大きくなったらケッコンしよう」
「ヤクソクね」
「ヤクソクだ」
瞳の中に映る小さな自分。笑って、大きく頷いて、指きりげんまん。
「幼稚園の時の約束。思い出したか?」
片目だけを開けてニヤッと心配事など無いと笑壷に入る勇。
「あの時……もうしてたんだ……」
我に返って思わず口元を手で覆い隠す愛。
小さい身体には似合わないほどの大きな約束。忘れていた大事な思い出。
勇の中の大きな瞳はずっとその日その時を大事に見ていたのだ。
「あと、小学校のときの卒業アルバム。お前『将来俺と結婚する』って書いてただろ?
どっちも言いだしっぺはお前なのに、何でお前がそう不安がってるんだ?」
「……聞かなくなったから」
ぼそっと呟く。
「何を?」
「勇ちゃんからのI Love You.――私達の……合言葉‼」
「……‼」
「すげ~、どっちもおんなじだ! アイラブユウってすげ~、どっちでもいける!」
「うん! あいとゆうちゃんに、ぴったしのコトバだね‼」
「ピッタリなんかじゃない‼」
「え?」
「愛ちゃんが僕をすきって言っても、僕が愛ちゃんをすきって言ってない‼」
「あ……」
「だからこれは……、アイラブユウラブアイだ!」
「ア、アイラブユウラブアイ???」
「これならちゃんと、僕も愛ちゃんがすきだって言ってる」
「ん~、でもなんか言いにくい……」
「う~ん、あ! 合言葉にしよう」
「アイコトバ?」
「そう、愛ちゃんがアイラブユウって言ったら、僕はユウラブアイって答える。
僕たちだけのひみつの言葉。忍者みたいでカッコイイだろ‼」
「うん、こんどこそ、私たちにぴったしのコトバだね」
茜色に染まったランドセル。仲良く手をつないで、二人の歯車を絡み合わせた日――。
「小学校に入ったばっかりの日のこと、思い出した?」
頬を染めておずおずしながら――もじもじともぞもぞする愛とは対照的に、赤面して絶句し、二の句が継げなくなる勇。
忘れてはいないが、幼稚すぎて思い出したくない思い出だった。
アイラブユウラブアイって、ネーミングセンスが無いにも程がある。
誰もいない場所で言って本当に良かったと今更ながら安堵しだす。もし誰かに聞かれていたらと思うとゾッとする。
「そ、そんなの言わなくても伝わるだろ? 俺を見れば分かるだろ?」
先ほどまでの自信はどこかに消えて急にたじろぎだした勇に愛が止めにと突きつけた。
「じゃあ、鴨さんや他の子でも良いの? 幼馴染のままが良いの⁉」
「だからいつそんなことを……お前、俺に何言わせたいんだ!」
「合言葉!」
「~~~~~~~~」
間髪入れない愛の返事にぐうの音も出せない。――立場が完全に逆転してしまった。出来るなら墓場まで持っていきたかった完全な与太話だ。
赤面したまま目を愛から逸らした。熱くなる身体とは裏腹に、口は堅く閉ざされていく。
「お願い。言葉で伝えて、教えてほしいの」
“あなたの大きな瞳に移るのは誰?
今も私は昔と変わらずそこにいる?
私はもう昔の私じゃない。それはあなたも同じこと。
だから知りたいの。あなたはあなたで、私は私なのか。
伝えて欲しいの。
小さな瞳と大きな瞳に映るのは誰なのか、
言葉でしか分からない。あなたの言葉からでしか伝わらない。
私達の本当の思い”
“答えなんて最初から出ている。
分かりきった気持ちを聞き返すなんて馬鹿な真似はしない。
何度か聞きたくなったことはある。でも、その度にお前は俺の傍に来て、笑って、俺の名前を呼んでくれた。
そんなお前だから、俺はあの時の気持ちのままでいられる。
だからって、いつもこの気持ちのままでいる訳にはいかないだろ?
この気持ちが俺の中にあるから、俺は俺でいられるんだ。
言葉なんて要らないだろ?
お前にだけは、いつも見せてるんだから”
愛と勇――。
同じ思い出を持っていても、それぞれが、それぞれの思いで、それぞれの思い出を成長させてきていた。
勇の中で、この思い出は消えてくれたものだと思っていた。大事なのは、最初に会った時の思い出一つだけだと思っていた。
誇り(プライド)が言わせない。適当な思い付きから生まれた合言葉。
子供心の表れ。
でも、これも大事な思い出だから愛は固執して、勇への思いを成長させていたのだ。
何処も見ていない目。開かない口からわずかな音だけが漏れてくる。
「……ゆうらぶあい……」
「聞こえないよ‼」
勇にとって気持ちを言葉に表すのは拷問に等しい。
愛がつまらない自尊心の所為で泣いている。だったら――観念して、潔く腹を括ろう。
「ユウラブアイ! 俺はお前が好きだ‼」
勢い任せに愛の目をまっすぐに見て、赤い顔も隠さず堂々告げ吠える。
「……これでいいだろ⁉ 文句あるか‼」
でもやっぱり耐え切れなくなって、今にも火が出そうな顔を隠そうと夜空の方に向かって張り上げる。
――茶番はもう終らせた。
最後の最後で顔を逸らしてしまったら――柔らかく、暖かい感触が胸部に当たってきた。
愛の手が背中まで回り、はにかんだ顔を勇の胸にギュッと埋めている。
「ない! Ai LOVE Yuu !!」
ここが何処だか忘れて、気持ち正直に抱きつく愛。その顔は無邪気そのもの。さっきまで泣いていたとは思えないほどに綻んで、頬が紅潮していた。
「ば、バカ、いきなりお前大胆なことして! お前は子供か!」
勇は強がって言ってみるが――その顔は甘える子供ではなかった。勇を慕う中にも含まれているのは、多分な恥じらい。
両手をバタバタして多少の抵抗をしてみても、勇には愛を剥がす気になれなかった。
今まで誰よりも一緒に居て、知らないことなど無い間柄なのに――、今の愛は、勇の知らない顔――、交わる心音を重ね合わせるまでに穏やかに笑っている――
強がりを無くして、その分正直になる。
愛の顔を見ていたら、それも良いかもと思えてきた。
「……Yuu Loves Ai.」
愛がしたように、勇も愛の腰に手を回す。心穏やかに、愛と同じ気分に浸る勇。
誰に言われるでもなく、心の底から湧き上がる感情そのまま、自然に出た言葉。
始めからこうしていれば良かったと顔を見合わせ、苦笑いする。お互いに手を解き、何気ない日常をその道に描き始めた。
勇の肩幅一つ後ろに愛。
同じ歩幅と歩調で進む。
身体が寄り添っていなくても、二人の気持ちが寄り添っていれば、抱き合わなくても温かい――気持ちのすれ違いから始まって、意地がそれを助長して、本音を言い合い、元の鞘に収まった。
雨降って、地固まる。
星の明かりの中、笑いながら帰る二人。
笑顔を原動力に、二人の歯車が再び、より強く回りだした。
終