湖にて
翌日にまた改めてお茶会を開くということで、その日は早めのお開きとなった。
ハナは『ウーフェル荘に寄ってから帰りましょう』と、ラドルとフェリスに声を掛けた。
お茶会のドレスの話をウルケに切り出された後、ハナは前日のウーフェル荘での密談の折にサイラスから見せられたものを思い出していた。
『実は娘から言付かっていることがあってね』とサイラスに見せられたのは、3年前にサリダが使っていた部屋のクローゼットだ。そこには、何着かの夏用のドレスが用意されていた。
ウーフェル荘がガリエル家のものとなった直後、サリダの指示で運びこまれたとのこと。すでにメイドにより、いつでも着れるように整えられている。
夫ルッツから、呪術師の襲撃事件について詳しく聞き出したサリダは、『次男のお産の時に世話になっただけでなく、その後、グロースフェルトで大変な思いをさせてしまった』と、随分と心を痛めていた。そのお詫びとお礼の気持ちを込めて、大切な友人でもある女祈祷師のために、サリダ自ら生地を選び作らせたものだそうだ。
ちなみに、サリダが聴きだしたのは事件の話だけではない。
どうやらクリスは、その祈祷師に特別な感情を持っているようだ……そう夫から聞いたサリダは『フェリスが未来の義妹に!』という期待を抱き始めている。『クリス様の”押し”だけでは心許ないので、なんとかお父様がくっ付けて来てくださいませね』と念を押されたのだと、彼女の父親は困ったように微笑みながら告白した。
「フェリスのドレス姿なんて、ぼく初めて見るよ!」
楽しみだと祈祷師見習いの少年は目を輝かせている。ハナも久しぶりのドレスの着付けを思い、『”腕が鳴る”とはこのことだ』と気分が高揚する。アイラも見送りの際に『あなたの腕の見せ所ね』と嬉しそうに応じてくれた。
ハナとラドル、クリス、フェリスの4人がリヴァージュ荘を出て湖に沿って歩いていたところ、その後を追うように走ってきたのは、ピエル=プリエール公爵……シルヴィだった。婚約者は、家に置いてきたようだ。
「リヴァージュ荘の馬車を出すから、それに乗っていかないか?あと、小舟も使えるけど……それは二人乗りだ。」
察したハナがラドルの腕を取った。
「では私とラドルは馬車で……クリス様、ウーフェル荘まで競争いたしましょう。」
そう言って、少年には有無を言わせず、スタスタとリヴァージュ荘へと戻っていった。
なぜハナが急に協力態勢になったのか……クリスは怪訝な面持ちで見送っていたが、その後ろ姿には再び戻ってくる気配はない。
「急がないと、馬車に負けてしまうわ!」
フェリスは楽しげにクリスを見上げている。
「フェリス、小舟はこの道の少し先だ。ジャンが用意してくれているはずだが……念のために先に行って、見てきてくれないか?」
そう兄に頼まれた妹は笑顔で頷き、外套の裾を翻して足早に歩いて行った。
「……ありがとう、シルヴィ。」
「いや一応、詫びのつもりで……今日はパルが君に強く当たって申し訳ない。」
『俺の婚約者は、昔からあんな調子で……』と、申し訳なさそうにシルヴィはこめかみに手を当てた。
「騎士学校の学生たちにも、”対抗心”というか”警戒心”というか……とにかく、フェリスにやたら構い過ぎる人間に対しては容赦なく向かっていくんだ。」
幼さもあり、今よりももっと妖精のように愛くるしかったパラサティナだが、彼女がブラン城に訪れると聞くと、学生たちは皆『エトワールから凶暴な番犬が来る』と恐れていたらしい。
「……俺はまだ『やたらと構い過ぎる』レベルまで到達してない。」
憮然とした表情で訴える辺境伯に、プリエール公爵は『まあまあ』となだめるように肩に手を置いた。
「パルはああ見えて相当変わり者だが……ある意味、フェリスに関しては怖いくらいに鼻が利く。生きているということを感じ取っていたり……君がフェリスに興味を持っていることに気づいたり。」
ピエル=バートル公爵……パラサティナの父親から聞いた話によると、8年前のあのブラン城襲撃の日の朝も、『今日はどうしてもブラン城に行かねばならない』と言い張って聞かなかったそうだ。その日はピエル=バートル家では年に一度の親族の集まりがあったため、パラサティナの希望はもちろん叶えられなかった。
「番犬というか……犬以上の鼻だな。」
「おまえまで犬に例えるなよ。一応、彼女は公爵令嬢で、俺の婚約者なんだぞ。」
遠慮のない親友の言葉に苦笑いのシルヴィだったが、『だけど……』といつもの穏やかな表情に戻る。
「父上が決めた婚約だったが、俺はパルが側にいると安心する。彼女は絶対に、俺たちを裏切らない。」
ピエル=プリエール家の再興を信じて、生死も分からぬ婚約者を10年も待ち続けてたパラサティナだ。
「そうか……そうやって背中を預けられる妻を得られそうで、本当に良かった。」
あの当たりの強さは、若干、気になるところではあるが……近いうちに親友の妻となる女性は、彼が全幅の信頼を寄せることのできる人なのだ。クリスは心から祝福した。
小舟は、すぐに乗れるようにちゃんと用意されていたようだ。少し離れた湖岸で、フェリスが『大丈夫』というように手を振っている。
そんな妹に応えるように片手を挙げた後、シルヴィは少し背筋を伸ばして、クリスに向き直った。
「……で、俺もフェリスの兄だ。わきまえているとは思うが、フェリスにはあくまで”紳士的”に接するように。」
そうしかつめらしくクリスに注意した後、口の両端を上げパチリと片目を閉じた。
『じゃあ、明日』と短く言ってリヴァージュ荘へと戻るフェリスの兄を、クリスは渋い顔で見送る……。
……どこを向いても”壁”ばかりだ。
高かったり低かったり、分厚かったり薄かったり……その度合いは様々だが、フェリスに近づこうとする度に現れる”壁”に、うんざりする辺境伯だった。
**
「舟って素敵ね!わたくし、初めてよ。」
ピエル=バートル家の小舟は、その別荘の外観と同じくクリームイエローに塗られており、さざ波が照り返す光を受けて黄金色にも見えた。
フェリスはエメラルド色の湖面を見渡し、遠くで魚が跳ねるのを見つけたり、湖岸の散歩を家族と楽しむ子供たちが手を振っているのに応えたり、ホーエンベルク山の白い頂きを仰ぎ眺めたりと、人生初の短い船旅を存分に楽しんでいる。
湖の真ん中あたりに着いた時、クリスが櫂を繰る手を止めた。
小舟は、ゆっくりと進む速度を落とし、やがて小波に揺られるのみとなる……。
「クリス、疲れたの?」
見ると、特に息を切らすでもなく、口元には穏やかな笑みすら浮かんでいる。訊ねるように首を傾げて、そのまま言葉を待った。
「その首飾り、今日も付けてくれているんだな。」
昨日クリスにもらった、六芒星にラピスラズリをはめ込んだペンダントを、フェリスはすっかり気に入っている。指で触れる度に嬉しい気持ちになるのだ。
「もちろんよ!とてもきれいだし……サクもハナもラドルも、みんな、似合ってるって褒めてくれるの。」
指で触れながら、『素敵なプレゼントをありがとう』と改めて感謝の気持ちを伝えた。
「そういえば、このペンダントの六芒星があれば、わたくしはいつでも解呪ができるのかしら?」
相変わらず、ランチェスタへ派遣される祈祷師は後を絶たない。フェリスが初めて呪術師に遭遇したのは、昨秋のグロースフェルトでのこと。自分にも、呪詛を解き、呪術師の妖の力を封じることができると知った。いよいよ先輩祈祷師たちのように、ランチェスタへ派遣されることもあるだろう。いままで何もできなかったが、やっと”祖国”の役に立てるかも知れない……
「フェリス……サクと結婚したいというのは、本当なのか?」
思考から引き戻され、弾かれるように顔を上げると、クリスの顔からは笑みが消えており、アメジスト色の瞳が真っ直ぐに向けられていた。
今朝ハナに訊ねられた言葉が、なぜかまたフェリスの耳に響く。
『クリス様のことをどうお考えですか……』
なぜこんな時にその言葉が耳にこだまするのか、フェリスは戸惑った。
でも、そうだわ……この”大切な人”にも、そのことはちゃんと伝えておかなくては……
フェリスは、それを肯定するように目を伏せた。
「……ええ、そうなの。サクとだったら、祈祷師のお仕事を続けながらでも、ちゃんと自分の家族を作れると思うの。」
元呪術師で、フェリスの故郷であるブラン城の滅亡にも関わりのある人だが……今はそのことを心から悔い、妖の力を失いエメロンの名も捨てて、フェリスやローレルのために誠実に尽くしてくれている。
「サクはわたくしにぴったりの人なのよ。」
そう言って話を終えたが、クリスの顔にはまだ笑みが戻らない。フェリスの話にはいつも『そうか』と言って笑ってくれるのに……今は、怒っているようにも見える。
そういえば、サクと結婚すると言った時に、ハナもラドルもローレルも、サク本人も、誰も笑ってはくれなかった……
ペテルとハイディの結婚式では、皆、誰もが笑顔だった。フェリスが結婚のための”祈祷”と、結ばれた二人の”祝福”の儀式を終えると、大きな歓声と拍手が沸き起こり、『おめでとう』というお祝いの言葉が何度も掛けられた。
なのに、ハナに至っては笑顔どころか『本当にサクと結婚したいのか』と疑っているかのような訊ね方で……。
そのことに改めて気づいたフェリスは、哀しい気持ちになった。
「どうして皆、そんな顔をするのかしら……」
「……どうしてだと思う?」
「わからないの。ザーシャおばさんもナディおばさんも、わたくしとサクは『ちょうどいい』っておっしゃってるわ。わたくしもそう思うのだけど……」
「フェリスは、『ちょうどいい』からサクと結婚するのか?」
「そのことを今朝、ハナにも言われたのだけど……わたくし、サクのことをちゃんと幸せにしようって、思うわ。」
フェリスは大きな目をさらに大きく見開いて、胸元に両手で握りこぶしを作った。
クリスも同じように目を見開いて、呆気にとられたような表情になったが、やがて堪えきれないというように吹き出した。そして、くつくつという笑いから、そのうちお腹を押さて声を出して笑い始める。
「はは…ははは!おまえ、すごいよ。俺が女だったら一も二もなく『不束者ですがお願いします』と言ってしまいそうだ。」
体を折って大笑いする黒衣の青年に、今度はフェリスが呆気にとられる。こんなに真面目に話しているのに、何がおかしいのかしら……
ひとしきり笑った後、クリスは目の端を拭いながら再び姿勢を正した。
「フェリス、やっぱりおまえは何もかもすっ飛ばしてそこに行き着いたみたいだ。まあ、その方が逆に安心なんだけど……」
最後は口の中で呟くように言うので聞き取れなかったが、姿勢を改めた目の前の青年は、その眼差しも再び真剣なものになっている。
「想像して欲しいんだ……そのペンダントをプレゼントして、おまえが喜んでくれた時……今もそうして身につけていてくれているのを見た時に……俺がどんな風に感じているのかを。俺の気持ちを……」
クリスの気持ちを……。
六芒星にラピスラズリをつけたのは、フェリスの瞳の色と同じ石だからだと言った。
首に付けてくれた時に触れた手が少し冷たくて、くすぐったく感じた。
見上げると、細められた目の中にすみれ色の瞳が見えて、また懐かしくて嬉しくて……心が温かくなって……
クリスは、あの時のフェリスの気持ちと、きっと同じだったに違いないと今なら思える。
そう思った時、急に頬が熱くなるのを感じた。
どうしてかしら……また、ドキドキする……
フェリスの変化に気づいたのか、クリスの目や口元に、不思議な笑みが浮かぶ。
「おまえは、何も知らないし、分かってない。」
櫂を舟に上げ、クリスは片膝をついてフェリスに近づいた。
「結婚の前に、もっと大事なことがあるんだ……」
そう言って伸ばされた手が、また昨日のようにフェリスの頬を捉える。
息が上がったように胸が苦しくなることは経験済みだ。フェリスは避けるように身を引こうと、腰掛けていた板に手をつく……
ゴトン!
何かが手に触れ、それが音を立ててクリスの膝元に落ちた。割と重量感のある音に、クリスの手が頬にあることも吹っ飛んでしまった。
「あら、何かしら?」
フェリスが拾ったのは、きらびやかな金細工の施された……。
「まあ、観劇用の望遠眼鏡よ!」
3年前の夏に、サリダ=ガリエル伯爵夫人が持っていたのを見たことがある。とても高価なものだと聞くが、いま拾ったそれは装飾も美しく、おそらくかなりの値がするものだろう。
遠くのものがよく見えるらしい……フェリスは好奇心を抑えられず、その眼鏡を覗き込んだ。
「クリス!大変よ!ラドルとハナは、もうウーフェル荘に着いたみたいだわ!」
大きな森を背負うようにして建つ白いウーフェル荘のテラスから、大きく手を振る二人が見える。
「……ちょっと貸してくれ。」
そう言ってクリスはフェリスから金色の望遠眼鏡を受け取り、逆方向のクリームイエローの建物へとそれを向けて覗き込んだ。
「…………。」
「どうしたの?何が見えるの?」
『いや、何も……』と言って再び櫂を湖面に戻し、小舟を漕ぎ出すクリスの顔は、感情の読み取れない、いつもの”無表情”になっていた。
クリスがその時に見たもの……クリーム色の華やかなリヴァージュ荘のテラスから、同じように望遠眼鏡を目元に当てたピエル=バートル公爵令嬢が笑顔で手を振っていたこと……についてフェリスが知るのは、それからずいぶん後のこととなる。