護衛の本分
翌朝、クリスはサクと共にホーエンベルク神殿へと向かっていた。
仕事に向かうフェリスとハナ、所用で神殿に向かうサクが途中まで一緒に歩いていたところへ、後から1台の小ぶりの馬車が追いついて止まった。クリスだった。昨夜の食事の礼を述べた後、サクが同じく神殿へ向かっていると知り同乗させたのだ。
「ねえ……せっかくだし、君も近いうちにフェリスに同行して祈祷師の仕事を見てくれば?」
朝陽を受けたホーエンベルク山がそこかしこに投げる光は、二人の乗った馬車の中にも差し込んできている。外の景色を眩しそうに眺めるクリスに、サクはそう声をかけた。
「そうしたいが……今日はもともと、司祭長と会う約束をしていたんだ。」
グロースフェルト城の図書室に放置されていた古い歴史書は、クリスの幼い頃からの愛読書だ。それらに何度も出てくる”祈祷師”は、すでにデーネルラントには存在しない。その祈祷師がファイエルベルクではいまでも現役で活躍していることに、興味をそそられないわけではない。
ただ、クリスはここへ避暑に来ているのではないのだ。
祈祷師協会のダン会長から、祈祷師たちは今、呪術師の起こした事件のためにランチェスタに派遣されることが多いと聞いている。ついに先ごろ、その呪術師がデーネルラントにも現れた。彼らの狙いは、隣り合うランチェスタ王国とデーネルラント王国の不和だ。しかしその先に起こりうること……ランチェスタ国内での宰相の権力を拡大させ、その覇権がどのようにデーネルラントに及ぶのか、その全容はいまだ計り知れない。
呪術師たちの実態も、まだ掴め切れていない。それなのに、その動きはますます活発になってきている……
デーネルラント王宮は、ファイエルベルク国のホーエンベルク神殿だけではなく、この度再興したピエル=プリエール家当主シルヴィを通して、ランチェスタ王国の穏健派ともつながりを強く持とうと考えていた。呪詛は、時に無差別に人を殺める非常に危険なものだ。呪術師たちの力を削ぐためには……そして、大陸全土に及びかねない戦争を避けるためにも、3国の連携は必須である。
祈祷師の総本山であり呪術師の収容所でもあるホーエンベルク神殿の司祭長とは、できるだけ早いうちにデーネルラント王国としても膝を突き合わせて話し合わねばならない。その前に、まずはクリスが西の国境を守るグロースフェルト辺境伯としてこの度の会談を申し入れたところ、快諾の回答を得た。
「今日の面会には、おまえにも同席してほしいのだが……」
「知ってることは、全部話したんだけどね。いいよ、一緒に行こう。」
サクはすでにデーネルラントからもホーエンベルク神殿からも一通り聴取は受けている。
先ごろグロースフェルト城を襲った”白い外套の呪術師”は、ランチェスタ王国の宰相や強硬派に最も近い存在と思われる。フェリスに力を封じられるまで、サクはその男と同じように、ランチェスタ強硬派の元で呪術師として暗躍していた。
ランチェスタには、呪術師が所属する”組織”のようなものが確かに存在する。しかし、ことあるごとに集まり、互いの情報を交換をするファイエルベルクの祈祷師協会のような、顔が見える組織ではない……呪術師は互いを”仲間”と呼び合うが、連んで行動することはほとんどないのだ。サクに関して言えば、白い外套の呪術師が伝令係として目の前に現れ、”組織”からの指示を伝えるとともに、活動費や呪詛の一種でもある”麻薬”を渡されていたとのこと。
しばらく互いに沈思し、静かな車内だったが、実は……と先にサクが言葉を発した。
「実は、僕も司祭長様にはお会いしたいと思っていたんだ。昨日、呼び出された件で話がしたくて。」
どうやら”神書”が盗まれたらしい……
サクは、”神書”とはどういうものかという説明を交えながら、前の日に司祭長から聞いた話を伝えた。
クリスは、時折質問を挟みながら、サクの話に注意深く耳を傾けた。
「神書、か……。」
グロースフェルト城で所蔵されている歴史書の中でも、折に触れ語られるファイエルベルクの”山の神の奇跡”。やはりこの国には、それについてさらに詳述されたものがあった。
呪詛についても詳しく記されたその聖典に用があるのは、この国の司祭か、祈祷師か……呪術師くらいなものだ。
「ローレル殿もおまえも、やはりその紛失には呪術師が関わってる、と?」
「どうだろうね。盗み出したところで、読める人間は限られているし。」
「……どういうことだ?」
「ちょっと特殊な文字なんだ。例えば君がその本を手にしたところで、書かれてあることは理解できないということさ。」
読めるのは、ホーエンベルク神殿の司祭たち以外だと、”第三の神事”に含まれる、”知識”を受け継いでいる呪術師だけだ。”知識”とは、古代エメロニアの古語だ。それを受け継ぐ者とは、つまりエメロニアの血を持つ者を意味する。
白い外套の呪術師は10年前、ブラン城にいたサクの前に”仲間だ”といって現れた時に、自らを『イールズ帝国内でエメロンの家督を継ぐ者』と名乗った。つまり、あの男もエメロニアの血を受け継いだ呪術師ということだ。彼なら神書を読めるだろうし、その中に記されていることに興味を持つことも考えられる。
だとしても……
「……たとえ呪術師が”神書”を欲したとしても、そうやすやすとファイエルベルクに入ってくることはないと思うね。」
ファイエルベルクには、多くの祈祷師が存在する。呪詛を用いたところですぐに解呪され、妖の力を持つ者はそれを封じられる……ローレルの父親のように、自ら望まない限り、呪術師がこの国に足を踏み入れることはないだろう。
サクの言うことに”もっともだ”と感じたクリスは、『そうか』と短く相槌を打ち、そのまま再び視線を窓の外へと投げた。
……とはいえ、何者かが”神書”を外へ持ち出そうとしていることは間違いなく、それはホーエンベルク神殿にとっては当然歓迎されることではない。どうにも、きな臭い感じがする……
「ところで、さ。」
ふいに声色を変えて、サクが切り出した。
「昨日の話の続きだけど……フェリスのこと、どうするの?」
朝の明るい透明な日差しとは裏腹に、クリスのまとう空気はどんよりと沈む。
「……そろそろ、シルヴィが婚約者を伴ってホーエンドルフに到着する予定だ。今日の午後、フェリスを連れて彼らに会いに行くから、その時こそ二人で話しを……」
「また誰かに邪魔されないようにね。早くしてくれないと……フェリスに今朝、『心を決めてほしい』ってせっつかれたよ。」
クリスは苦虫を噛み潰したように、ますます不機嫌な顔になった。
「……とりあえずおまえを殴りたい。」
『やめてよ』と、距離を取るようにサクは身を引いた。
「手紙にも書いたし、昨日も話したけど……フェリスは”そういう意味”での好意があって僕に結婚を申し込んだんじゃないから。」
「どういう意味でも、気に食わん。」
「君……なんかそういうところ、ローレルに似てきたね。」
サクは、実はクリス宛ての手紙の中で、フェリスが自分に結婚を申し込んだことを知らせている。ただし彼女は自分に特別な感情を持っている訳ではない、という旨も添えて……呪術師として隠密活動をしていた時期を合わせても、あれほど文章に気を使った手紙はそれまで書いたことがなかった。
なぜ『結婚』なのか、その理由についてはすでにこっそりとフェリス本人から聞いていたのだが、その際に彼女から『誰にも言わないで』と頼まれた。サクは迷った末にそのことは手紙には書かずにおいた……クリスが自分の言葉ではっきりとフェリスに想いを伝えれば済むことだと高を括っていたのだ。フェリスがクリスの気持ちに気づいて、そのことに向き合えば……彼女の心に何か他に芽生えるものがあるだろうと期待した。
ところが、昨日さっそく二人きりで話す機会があったというのに、クリスはどうやらそれができなかったらしい。
結局、食事会の後のウーフェル荘までの帰路で、サクはフェリスが結婚したがる理由について全てを説明することになった。
「それにしても……フェリスは本気なのか?」
「だろうね。まぁ、細かいところではいろいろと問題があるけど……彼女の言う通り、夏至の祭の日に”それ”を実行するのは、何かとタイミングがいい。」
クリスは、ますます気持ちが沈んだ。我が瑠璃姫は相変わらず無茶が過ぎる……果たして、自分に彼女を止められるだろうか。
フェリスの考えた”いいこと”。それは、ハナとローレルの結婚に関わることだった。
***
いつものように少し前を歩く、ハナの美しく涼しげな横顔……。
フェリスは、珍しく焦っている。
今朝、またサクに結婚のことを”保留”にされてしまった。ほとんど毎日一緒にいるのに、何を躊躇ってるのだろう。ザーシャおばさんもナディおばさんも、わたくしとサクは『ちょうど良い』と言っていたのに。
サクは……わたくしのことが嫌いなのかしら。封印で力を削いでしまった、わたくしのことが……
ふと心に浮かんできた疑念を払うように、フェリスは目を伏せて軽く頭を振った。
いえ、サクは大事なことだからちゃんと考えてくれているのだわ……
だけどせめて、夏至のお祭りの朝までには決めてほしい。”花冠の乙女”のお芝居の前に祈りを捧げるため、その日、ホーエンドルフに司祭長様がお見えになる。これもまたとない好機だ……わたくしとサク、そしてその後ハナとローレル先生を……。
「まったく……ローレル様の飲み過ぎには困ったものです。」
急に思い出したようにそう言って、ハナは『フン』と鼻を鳴らした。
ちょうどローレルとハナのことを考えていたフェリスは、一瞬どきりとしたが……ハナが自分から何か話す時は決まってローレルの話題だということに改めて思い至り、思わず笑みが漏れる。
「ふふ、ハナは本当にローレル先生のことが心配なのね。」
「心配しているのではありません。呆れているのです。」
フェリスの指摘に早口で答えるハナの頬は、やはり赤くなっている。
昨夜の食事会でスグリ酒を飲み過ぎたローレルは、今朝は二日酔いで、ひどい頭痛に見舞われていた。今日はちょうど近くの集落をまわるだけなので、ラドルにはローレルのそばにいてもらうことにして、フェリスとハナの二人で出かけていた。
こうして二人だけで歩くのは、久しぶりのことだ。
「ねえ、ハナ……ローレル先生のこと、好きよね?」
誰とでも静かな口調で言葉を選びながら話すハナが、ローレルにだけは思ったまま、感情のままに話す。
また誰に対しても慎重な態度で接するハナが、無防備にも全幅の信頼を寄せているのはローレルだけだ。
ローレルはハナを必要としているし、彼女の言うことには子供のように素直に従う。花を摘んでこいと言われれば、ちゃんと花束にして持ち帰るような……
フェリスは、急かすでもなくハナの答えを待っていた。
ハナは、前に視線を留めたまましばらく黙って歩き続けていたが、やがて歩速をゆるめて立ち止まり、フェリスを振り返った。
「そうですね……私は、ローレル様を慕っています。」
そう言って、切れ長の目を優しく細めた。
目を見て、しっかりと答えてくれたハナ。
フェリスは、嬉しいのにどこか少し寂しいような、複雑な気持ちになった。その気持ちをごまかすように、大切な大切な、母親代わりの護衛の首に腕を回し、そっと抱きしめた。
……何故、こんな気持ちになるのだろう……。
……そうだわ、わたくし……ハナのことを、まるで自分のもののように感じているのかも知れないわ……。
だけど、ハナにはハナの人生がある。
「あのね、ハナ。わたくしは、わたくしの人生をゆこうと思うの……もうすぐ18になるのだもの。だから、ハナは好きにしていいの。」
もしもハナが、自分のためにローレルへの好意を胸の奥深くに閉じ込めてしまっているのなら……どうか……
抱きしめられていた護衛役は、黒い瞳をさらに細めて、ふふと小さく笑った。
「なるほど……そういうことでしたか。」
首に回されたフェリスの腕を優しくほどき、ハナは両手をフェリスの肩に添えた。
「フェリス様。あなたは、本当にサクと結婚なさりたいのですか?」
ハナの気持ちを聞いていたのに逆に尋ねられ、不意を突かれたフェリスは少し言葉に詰まったが、自分で考えて心に決めていたことを思い出しながら『そうよ』と答えた。
「……ええ。わたくし、サクとならやっていけると思うわ。祈祷師のお仕事をしながら、ちゃんとサクと……」
「私がローレル様をお慕いしているように、フェリス様もサクのことを想ってらっしゃると良いのですが……」
フェリスの言葉を遮るように話し始めるのは、ハナにしては珍しいことだった。しかし、何もかも優しく包み込む夜の闇のような黒い瞳は、いつものようにフェリスをしっかりと映している。
「私には経験がありませんので……結婚について詳しいことは分かりかねます。ずっとお側にいる者として、こんな大事なことについてあなたにお教えできることが何もなく、歯がゆいばかりです。」
ハナは呟くようにそう言って目を伏せ、小さく嘆息した。そして、道行く人が一休みできるようにと据えられた、木の幹を寝かせて座面を削っただけの腰掛へとフェリスを誘って、そこに座らせた。
**
ハナもフェリスの隣に腰掛け、瑠璃色の瞳を覗き込んだ。
「フェリス様……私は確かに経験がなく、結婚や夫婦のことはよく分かっておりませんが……ひとつだけ言えることがあります。」
フェリスの母アナベルは、城の従者や騎士学校の学生達への心配りはもちろん、娘であるフェリスのことも大切にしていたが……
「あなたのお母様のお心は、いつもあなたのお父様のお幸せを願っておいででした。」
アランに幸せでいてほしい、笑っていてほしいと願い、そのために夫の側にいることを選んだような人だった。
そして……アナベル自身も、毎日、笑顔で暮らしていた……
「私も、ローレル様にはいつも楽しく愉快な気持ちで過ごしてほしいと願い、笑顔でいてくださることが嬉しく……お傍で暮らしていて、それを目にすることができると幸せだと感じます。」
だから……
「ですからフェリス様には、いま一度、ご自分の心の声をちゃんと聞き取っていただきたいのです。本当の、心の声を……あなたは、本当にご自分の意志で、サクとあなたご自身の幸せのためにその道を選ばれたのですか?いまのフェリス様は、サクを本当に幸せにできますか?」
互いの幸せのために必要とし、されること……まったくの他人である二人が家族となるために、これ以上の絆はないのだ。
**
フェリスはハナの言葉を、ひとつひとつ胸に刻むように聞いていた。
サクと自分の幸せのために……
いまの自分がサクを幸せにできるのか……
互いの幸せのために必要とし、されること……
本当の、心の声……
フェリスは目を伏せて、護衛役であり母親代わりでもあるその人の言葉を反芻した。
確かにサクのことは好きだし、サクには幸せになってもらいたい。しかし、自分がサクを幸せにするのだという、決意のようなものはいままで自覚したこともなかった。
フェリスがサクとの結婚を考えた最も大きな理由は、ハナとローレルの結婚のためだ。
ハナはローレルのことを慕っているし、ローレルにはハナが必要だ。元はと言えばフェリスのためだったが、今でも一緒に暮らしている理由はそこにある……そして、その二人が一緒にいることは、フェリスにとって”当たり前のこと”となり過ぎていた。
しかしザーシャとナディに自身の結婚について考えるきっかけを与えられたその日から、フェリスの頭の中は、二人の”養い親”のことばかりだった。
ローレルとハナほど、夫婦らしい夫婦はない。言いたいことを言い合い、足りないところを補い合い、そして互いを信頼し、想い合っている。なのに結婚しない理由が分からない。
宴の後、数日間、そのことについて考えてみた。
ローレルが元呪術師であること。ハナが遠い異国から来た人であること。そして、自分が二人に頼りすぎていること。
フェリスの考えでは、この3つが、彼らの結婚を妨げているように思われた。
元呪術師の結婚に際しては、司祭長直々の”祝福”が必要で、なおかつその結婚相手の家族が立ち会わねばならない。もしも、その人に家族がいない場合は後見人を立てればいいのだが……その後見人は、”特例”を除き、必ず”三組の夫婦”からなる6人でなければならない。ザーシャやナディにお願いできるとして、どうしてもあと一組、身近に思い当たる夫婦がいない。
その時、ナディの言葉がふと思い出された。
彼女は言った……『夏至のお祭りの日に結婚すりゃいいじゃない』と。
その時、フェリスの頭の中は、さっと雲が晴れて光が差し込んだように明るくなった。
夏至のお祭りの日、まずは”特例”で後見人の必要がない”祈祷師”フェリスとサクが、司祭長様の”祝福”を受けて夫婦になる。その直後、ザーシャ夫妻、ナディ夫妻、そしてフェリスとサクを後見人としたハナがローレルと結婚する。
フェリスとラドルは家を出て、サクと暮らせばいい。助手が二人もいれば、今のフェリスなら祈祷師の仕事を十分にやっていける。
人も場所も、何もかも条件が整うその日に、フェリスの考える”3つの問題”が一度に解決するのだ。やはり、これ以上のチャンスはない……!
……しかし、フェリスが思いついたこの”いいこと”の中に、『サクの幸せのために結婚するのだ』という思考はどこにも見当たらなかった。
「……どうしましょう、わたくしサクに謝らないと……」
わたくしは、なんてひどいことをしているのかしら……フェリスはようやく自分の浅はかさに気づき、サクに対して心から申し訳ない気持ちになった。
「わたくし、サクのためにもう一度ちゃんとプロポーズし直さないと……」
ハナの目が大きく開かれ、眉も驚いたように上がる。そしていつもの落ち着いた眼差しが宙を泳いだ。
「いえ、だからそうではなくて……えーと……他には何かありませんか?いえ、こんな回りくどい言い方ではフェリス様には……」
独り言のようにぶつくさと口の中で何か言っている護衛役に、フェリスは不思議そうに瑠璃色の瞳を瞬かせた。珍しいものを見るように、しばらくその様子を眺めていたら、やがて意を決したようにハナがぐっと顔をフェリスに向けた。
「単刀直入にお伺いしますが……フェリス様は、クリス様のことをどうお考えですか?」
「……クリス?」
「ええ。昨日、クリス様からこの素敵なペンダントをいただきましたよね。」
ハナは肩に添えていた手の指先を、今度は細い首元で光る小さな六芒星にそっと触れさせた。
これをもらった時に何か……いや、それだけではない。冬の間、何通も何通も、しつこいくらいに送られてきた手紙もある。あの気持ちが悪いほど甘ったるい手紙をもらった時にも……何か感じなかったか……
ハナはすでに言葉を選ぶことも忘れている様子だが、真剣な顔つきでフェリスに迫った。
訊ねられたフェリスは、また急に話題が変わってしまったように感じて少し戸惑ったが、ハナは真面目に訊ねているのだと感じ取り、同じように真面目に考えてみた。
クリスはフェリスにとって、唯一の過去の”よすが”だ。
彼がいなければ、フェリスは幼い頃の思い出を何一つ思い出すことができなかっただろうし、これからもクリスと話すことで、他にも思い出せることがあるかもしれない……しかし昨日新たに思い出したことが、自分が幼い頃にクリスと結婚するのだ言っていたことだったのには、さすがに困惑したが。
「クリスは……わたくしにはとても大切な人よ?」
その言葉を聞いたハナはショックを受けたような、胸を打たれたような、がっかりしたような、それでいて嬉しそうな……フェリスには読み取れない、なんとも複雑な表情になった。
そして最後に、何か得心したように目を伏せた。
「……そうですか……。わかりました。」
そう言って立ち上った護衛役は、いつもと変わらない落ち着いた表情に戻っていた。
「さあ、フェリス様。そろそろ次の集落に向かいましょう。午後はシルヴィ様や、シルヴィ様の婚約者様に会いに行かれるのでしょう?」
「そうだわ、お昼頃までに街に戻らないといけないのだわ。行きましょう、ハナ」
サクには、今日の夜にまた話をしよう……フェリスはそう思いなおし、萌黄色の軍服がとてもよく似合う美しい護衛とともに再び歩き始めた。
***
”その者”は今、予定通りファイエルベルク国に足を踏み入れた。
”さる方”からの手紙には、ここに間もなく”協力者”が現れるはずだとあった。
誰にも怪しまれずにその協力者から”ある物”を受け取り、それを自国に持ち帰るだけ……それだけの”仕事”。
しかしその”仕事”により、”さる方”はその力をますます大きくし、またそれはその方を心から喜ばせることとなる。手紙にそうも書いてあったのだ。
なんと栄誉なことだ……
しかし、簡単なこととはいえ、用心深く、そして注意深くしていなければならない。このことを誰にも気づかれてはならないのだ。
表向きは、とある貴人に仕える身。
そしてその表向きの”主人”は、見た目とは違いかなり鋭い感覚を持ち、相当頭の切れる方だ。
”その者”は、仮そめとはいえその方に仕えることにも誇りを感じていた。
とはいえ、真の本分を忘れてはいない。
「どうしたの?疲れたの?」
仮そめの主に不意に声をかけられ、”その者”はわずかにびくっと肩をすくめた。
「そうですね……長旅で少し疲れたかも知れません。」
『そう』と労わるような目で優しく微笑み、その人は言った。
「午後は大切なお客様があるのよ。今のうちに少し休んでおきなさい。」
”その者”は、一礼してその場を離れた。
やはりあの人は細やかな人だ。
細やかで、察しが良く……油断ならない。
改めて頭の中で”さる方”からの手紙の内容を反芻した。大丈夫、今のところ予定通りにことは運んでいる。
ふとその目を大きなガラス窓から外へ向けると、エメラルド色に輝く美しい湖と森の景色が飛び込んできた。初夏の太陽が投げかける透明な光は、視界いっぱいの緑色をみずみずしく際立たせている。
”その者”はすっと頭の中を切り替え、”通常の業務”に取り掛かる。
「テラスの窓ガラスも綺麗に磨かれているか、確認しなくては。」
そうひとりごちて、湖畔に佇むクリーム色の優美な邸宅……ピエル=バートル家の所有するリヴァージュ荘の2階へと上がっていった。