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ファイエルベルクの祈祷師《2》  作者: 小野田リス
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湖に向かって張り出した幅の広いテラスからは、ようやく翳りだした太陽にその山肌を薄紅色へと染められた、聖峰ホーエンベルクが見える。舟遊びを楽しむ人の声もすでに止み、静かな夕べを迎えようとしていた。


夜はホーエンドルフにあるローレルの家で、グロースフェルトからやってきた客人クリスをもてなす夕食会が開かれる。その前に、フェリスやハナ、ラドルはウーフェル荘に立ち寄り、お茶をご馳走になっていた。


クリスの”おじ”としてファイエルベルクに同行して来たサイラス=ガリエル老伯爵も、その食事会に招いたのだが、同じように王都ノルトハーフェンから避暑に来ていた友人のディナーの誘いを受けた後だったとのことで、すまなさそうな表情で断られた。


「残念だったね、サイラス様。」


ラドルは頬を上気させ、老伯爵にもらった本を胸に抱いている。昨年の秋、グロースフェルト城の人々を近くの村へと避難させたり、呪詛にかけられ怪我を負った兵士たちの治療を手伝ったりと、幼いながらも大活躍だった祈祷師見習いの少年に……と、サイラスがプレゼントしたものだ。いまノルトハーフェンで最も人気のある作家が書いた本だという。サイラスは、ラドルが『賢者の冒険物語』の愛読者と知り、わずか8歳であの本を読破したことにたいへん驚いたとのこと。


「おじ上は、おまえのことをとても褒めていたよ。」


目を細めて茶色の柔らかい髪を梳くクリスを、少年はくすぐったそうに見上げた。


「サイラス様のご先祖様って、海賊だったんだってね!大昔に大きな船で世界中を回ってたんだって、おっしゃってた。お話、もっと聞きたかったなぁ。」


ラドルは、『クリスには後で金鉱の話を最初からおしまいまで全部聞かせてもらうからね!』と隣を歩く長身の青年を見上げたまま念を押した後、その琥珀色の目をますます輝かせて朱を帯びた空に向けた。


ウーフェル荘を出て、湖から離れるようにして土の道を進むと、ホーエンドルフへとつながる石畳の通りへと出る。そこからローレルの家までは、ゆっくり歩いてもさほど時間は掛からない。


「フェリス様、私は少し買い物をして帰ります。先にクリス様を家に案内していてください。」


ハナは、ふと思い出したようにフェリスに声をかけ、音もなく森の中へと消えた。


「なぜ森の中に?」


ハナが道を外れて森へと入っていったのが目に入り、クリスは不思議そうに訊ねた。


「このあたりには、ハナにしか分からない近道がたくさんあるのよ。」


「ぼくらはとてもじゃないけど、ついて行けないような獣道だよ。」


さも当然のように見送る祈祷師とその見習いに、半ば呆れるような目を向けるクリスだった。



***



森へ入ったハナが向かったのは、湖畔の白い邸宅……ウーフェル荘だった。


湖を望む白いテラスから、白髪の老紳士が口元に笑みを浮かべて見下ろしている。サイラスだ。


ハナは目で合図されるままに、建物の中へと入った。


「戻ってきてくれてありがとう……ハナ、だったかな?」


「ええ……お呼びだったようですので。」


そう言って広げたハナの手のひらには、赤茶けたコインのような物が載っている。コインの真ん中には、この国では見たこともない彫り物がなされている。


「これを祈祷師の助手に手渡されましたね……私に見せるようにと。」


そのコインは、フェリスを挟んでローレルがクリスに詰め寄っていた時に、密かにサイラスがサクに握らせたものだ。


「君はこれが何だか、知っているようだね。」


もともと口数の少ない質だからか、あるいは元の職業がそうさせるのか、ハナは表情を変えず口を閉ざしたままサイラスの目を見た。真意を探るように……


しばらく続いた沈黙を破ったのは、サイラスだった。


「そんなに警戒しなくてもいいんだよ、ハナ。私はこれを、とある知人から貰ったんだ。」


デーネルラント王国で国教として定められ保護されているのは、ランチェスタ王国やファイエルベルク国とは異なり、東の方から伝わってきた一神教だ。布教に熱心な宗派で、ある聖職者は宣教師として世界を巡る商船への同乗を願い出る。停泊する港々で、教えを広めるためだ。商家が行う他国との交易を管理し不正を取り締まるガリエル家も、元を辿れば船舶輸送による貿易を家業とした商家だった。


「ガリエル家は、代々王宮に使える宮廷官吏の一貴族だが……今でも昔の家業の関係で、遠い外国へと向かう宣教師たちとも交流があってね。」


そのコインのような銅板は、布教の旅から戻ってきた宣教師からも貰ったものだという。大陸からはるか離れた東の果てにある小さな島国で手に入れたものだと、その宣教師は語ったそうだ。


「彼はこのコインを、さる高貴な身分の領主にもらったのだと話していた。旅の途中で何か困ったことがあれば、その領地内の、とある山里の者にこのコインを見せて助けてもらうようにと手渡されたらしい……」


老伯爵の一人語りのような言葉を聞きながら、ハナは手のひらにある銅板を、驚きとともに懐かしい気持ちで眺めていた。


「……この銅板にあるのは、蝸牛をかたどったものです。」


ハナはこの老伯爵に全てを……自身の過去に関わることを話すべきかどうか逡巡していた。まさかこんな遠くの土地で、この銅板を受け取ることになろうとは……


この老人はこの”蝸牛の手形”について、どれほどのことを知っているのだろうか……


「君が話したくなければ、何も言わなくていいんだよハナ。」


切れ長の黒い瞳に、ある種の戸惑いを見て取ったサイラスは、さらに声を和らげた。


「ただ、そのコインは、君の故郷で……ある種の”特別な”仕事をしている人間には大きな意味があるものだということを、私も知っているよ。」


そしてハナ自身もおそらく、コインの意味をよく知っている……そう思って、一種の賭けのような気持ちでローレルの助手にそれを託したのだとサイラスは話した。


「あなた様は、私に何をお望みなのでしょうか。しかし……私はもう”忘れ去られた”存在です。この手形を渡されたところで、その仕事を受けることはいたしません。」


自分は、全てを捨ててフェリスのために生きるのだと決めている。


サイラスは、ハナの問いには答えることなく、声色も静かに話を続ける……


「……君の故郷は、本当に遠いところにあるんだね。どういう経緯でその地を去り、これまでどうやって生きてきたのか、そしてどうやってこの国までたどり着いたのか……いずれにせよ、君は見るからに異国の人間だ。相当、辛い思いをしてきたのだろうと察することしかできないが……」


エメラルド色の瞳でいたわるように見つめていた老紳士は、一旦言葉を切り、その目に少し強い意志を込めるようにして改めてハナを見据えた。


「私は、君と二人だけで話がしたかっただけなんだ。君の出自を詮索するためでもないし、ましてや仕事を依頼するためにこの銅板を渡したわけではないよ……”シノビ”としての君に、ね。」


ハナの瞳に、さっと鋭い光が宿った。”忍び”……久々に耳にした故郷の言葉だった。



***



ハナは、ひと気のない湖畔の岩場に立って、翳りゆく白い”槍の穂先”を眺めていた。湖は、山の向こうにある西日の色をいまだに残す空を映し、ゆらゆらと水面に光を滲ませている。


夏至の頃となると、遅い時間になってもなかなか夕闇は降りてこない……故郷とはまったく違う時間の流れ方を、改めて感じる。


サイラスの話は仕事の依頼ではなかったが、ハナに大きな決断を迫るものだった。


フェリスの、近い将来に関するものだ。


**


『私の”甥”は、ああ見えて執着心が強いみたいでね……』


どうにかして君の”養い子”を自分の妻にしたいようだと、サイラスは打ち明けた。子供の頃から何かを欲するようなこともなく、辺境伯を継いでからも仕事にしか興味のなかったクリスが、ついに自分の気持ちを先んじる行動に出た。それは、サイラスにとっても、もちろん兄であるルッツにも喜ばしいことだった。


しかし……と続いたサイラスの言葉は、厳しい口調のものだった。


『クリスチアンと、祈祷師であるフェリスとでは、身分が違いすぎるんだよ。我が国では到底、彼女を辺境伯の妻になど、受け入れられないことだ。』


別にクリスの元へ嫁にやる気はないが、ハナの”育ての親”としての自意識がむくむくと顔をもたげる。


『フェリス様は……フェリシア様は、世が世ならピエル=プリエール家の公爵令嬢です。』


他国のどの貴族にも負けない出自だ。今は誰にも明かせない事実だが……


サイラスはハナの言葉にふっと口元を緩めた。


『そうだね、フェリスは”ランチェスタ王国の公爵令嬢”だ。』


もしクリスの妻になるのなら、フェリスにはランチェスタの公爵令嬢として来てもらわねばならない、とサイラスは言う。


『しかし、フェリス様がクリス様を結婚相手として選ばれるかどうかは分かりません。』


そもそも、彼女がクリスのことをどう思っているのかも分からない。なんせ”自分に適当な相手”として選んだと思われる、サクに結婚を申し込んでいるくらいだ。


サイラスは一瞬眉を上げて驚いたような表情になったが、クリスと一緒にいた時のフェリスの様子を思い出したのか、納得したように『あぁ』と小さく呟いた。


『じゃあ、フェリスがクリスを選ばなかったとしたら……という前提でも話をしようか。』


君も知ってのとおりランチェスタ王国は、つい先ごろ成人した若い王を立てた。しかしエトワール宮廷ではいまだ、王族を中心とした穏健派と宰相を取り巻く強硬派が対立している。フェリスの生家であるピエル=プリエール家もランチェスタ聖教会の後ろ盾を持って復興し、穏健派はそれまで以上に力を増すこととなるだろう。しかし、それでもまだまだ国内が落ち着くまでは時間がかかる……強硬派は、その懐に呪術師を抱えているのだ。いつまた、彼らの暗躍によって10年前のようにランチェスタとデーネルラントの間で大きな戦となる”きっかけ”を作られるか、分かったものではない……。


『シルヴィには……シルヴァン=ピエル=プリエールには、さらなる力をつけてもらわねばならない。』


フェリスの兄、シルヴィこと現ピエル=プリエール公爵家の当主は、国境を挟んで隣り合うグロースフェルト家に恩義を感じている人間だ。彼は必ずや、2国間で起こりうる争いの抑止力となる。


『そのためにも、フェリスにはやはりピエル=プリエールの公爵令嬢に戻ってもらいたい。』


……サイラスはそう言って、ハナに右手を広げた。蝸牛の銅板を再び返すように、と。


フェリスは、ピエル=プリエール家の人間として、王族や他の2つのピエル公爵家・ピエル=ガルド家でもピエル=バートル家でもいい、どこか力の強い穏健派の貴族に嫁いで、生家を盛り立てるべきだ……年齢的にもちょうど、この度即位した王のお妃候補にだってなれる。穏健派の勢力が安泰になれば、宰相一派は自然と力を削がれるだろう。それは、ゆくゆくはデーネルラントにとっても都合良く、さらに大きな意味でいうと大陸の平和にもつながる。


そのことを”養い親”として、しっかりと考えてほしい。そして、その答えを出した時に、改めてこのコインを君に託そう……


促されるままに、ハナはサイラスにコインを返した。


さらに、サイラスの話は続く。


『それと……私やルッツは、フェリスのことだけではなく、君自身の”身の振り方”についても心配している。』


『私、ですか?』


ハナは怪訝な表情で訊ねた。なぜ彼らが自分の今後について干渉するのか、理解できない。


『君のような特殊な”能力者”が敵国にいるとなると、我々は心穏やかではないからね。』


フェリスがランチェスタに戻るなら、君はファイエルベルクに残るなり、故郷に帰るなり、好きにしていいが、とにかく彼女から離れてほしい。しかし、もしフェリスが公爵令嬢としてグロースフェルト家に嫁いでくれるなら、デーネルラントのために……いや、大陸の安寧のために、呪術師をランチェスタから追い出し、その力を削ぐための活動に協力してほしい……


ハナは最初、サイラスの言葉に『なんと勝手な言い草だ』と憤りを覚えた。自分のことは、構わない。フェリスの幸せのために生きると決めているのだ。その延長線上に起こりうる問題は、解決するためならなんだってやる。フェリスの目の前から去ることが彼女の幸せになるのなら、喜んでその道を選ぶ。


しかし……


『サイラス様、他の道はないのでしょうか……あなた様の話では、どちらの道に進んでもフェリス様は”国のため”、”家のため”に生きることになります。』


『どちらかを選ばずとも、そしてどの道も行くにしても、彼女の”出自”は彼女をどこまでも追いかけてくるだろうね。』


目を伏せて発したサイラスの言葉に、ハナは同意せずにはいられなかった。昨秋の呪術師が絡む事件だって、フェリスの存在や出自が敵に知られてしまったために起こったことだ。


それでもハナは、他の誰でもなく”フェリス自身が考えて選んだ道”を歩んでほしいのだ。そうでなくては、アナベルの遺言を守ることができない。



《フェリシアが自分で選んだ道を歩み始める時、ちゃんと笑顔かどうか、幸せかどうか見届けて……》



アナベルはそう言い残して、息を引き取ったのだ。



***



赤い扉が目立つローレルの家で開かれた食事会は、かなり賑やかなものだった。


『賑やか』にもいろいろある。その日の場合は、和やかな談笑による『賑やか』ではなく、時折響くローレルの怒気を含んだ大声がやかましかった。最初は、クリスの金鉱の話やフェリスの”寄り合い”の話を皆と同じように興味深そうに聞いていたのだが、自家製のスグリ酒で酔っ払ってからは、フェリスに親しげな目で話しかけるサクやクリスを邪魔することに躍起になっていた。


いつもより早く酔いが回ってうつらうつらしだした大柄の祈祷師を、サクとクリスが両脇から抱えて彼の私室のベッドへと運び、ようやく穏やかな宵の集いとなった。


「我が家のディナーは、お口に合いましたでしょうか。」


ハナは大きな栗材のテーブルの上を片付けながら、客人に訊ねた。


ハーブを効かせた豚肉の腸詰を焼き、それにジャガイモをつぶして衣をつけて揚げたものや、スープ、パン、そしてチーズが添えられた。フェリスたちがグロースフェルト城で出された食事に比べたら、ずいぶんと簡単なものだ。とはいえ、ホーエンドルフでの普段の食事に比べたら、かなり豪華なものだ。


「美味しかったよ、ありがとうハナ。」


その言葉を裏付けるように、クリスは出されたものは全てきれいに平らげていた。


「ハナはお料理も得意なのよ。」


フェリスは片付けを手伝いながら、まるで自分のことのように得意げに満面の笑みを浮かべた。動くたびにその明るい笑顔の下で揺れる六芒星のペンダントが目に止まり、クリスの頬は無意識に緩む……。


「なにニヤニヤしてるんだよ、クリス。」


酒の飲めないサクは、ハナと同じ葡萄水の入ったグラスを手にしている。アルコールは入っていないが、その夜のくつろいだ雰囲気が心地良いのか、口元には笑みを浮かべ頬は心なしか酔っているかのように赤みを帯びている。


「別に、にやけてなんかない。」


表情を改めるように姿勢を正し、手元のグラスに残っていたスグリ酒をあおった。


ブラン城の騎士学校時代には、よもやこうして酒の席を共にするほどの仲になろうとは、思ってもいなかった二人だ。これまで、それぞれの歩んできた道もまったく違う。ましてや、何年も後になってその道が交差した時には互いにかたき同志だったのだ……


「で、あの後……フェリスとはちゃんと話ができた?」


ラドルはすでに、今日新たに作った”自室”のベッドの中だ。フェリスとハナも、台所で後片付けをしながら楽しげに話をしている。サクは声を落として、クリスにしか聞こえないように訊ねた。


「……いや、まだ何も。」


「何も?!」


突然の驚いた声に振り向いたフェリスとハナに『なんでもないから』と手を上げて、二人が再び片付け作業に戻ったのを確認してからサクはさらに声を落としてクリスに話しかける。


「フェリスにあんな分かりやすい”首輪”つけといて、何を今さら躊躇ってるんだよ。」


「首輪って……フェリスは犬じゃないぞ。」


「そこは真面目に答えるなよ。そうじゃなくて……あんまりぐずぐずしてたら、僕はフェリスのプロポーズを受けちゃうよ。」


クリスはぎょっとしたように目を大きく見開いた。


「おまえ……本当はフェリスと結婚したかったのか。」


やっぱり封印ジーゲルの後に始末しておけばよかった……と暗い呟きを吐くクリスに、サクが『面倒臭いヤツだな』と小さく舌打ちをした。


「僕は誰とも結婚しないよ。ブラン城のこと……彼女の両親を死に追いやったことを、忘れたことなどない。」


胸の内に広がる苦いものに耐えるように、サクは目を伏せた。ひとまずその感情を押さえ込み、話を続ける。


「……そうじゃなくて、フェリスが僕に結婚を申し込んだのには、彼女なりの訳がある。その理由を考えたら、僕は彼女の申し出を無下にはできないんだ。」


「理由……?なんだ、それは。」


「君が今日、もっとすんなりと彼女の心を奪ってくれていればこんな話もしなくて済んだのだが……続きは歩きながらにしよう。」


そう言ってサクは立ち上がり、ハナとフェリスに『帰るついでに、クリスをウーフェル荘まで送っていく』と声をかけた。


二人に戸口で見送られながら、サクとクリスは赤い扉を背に石畳の道を湖の方へと歩いて行った。



***



”その者”は、今朝方、何人かの手を通して密かに届けられた”さる高貴な方”の署名が入った手紙を再び開いて読み返していた。


朝からもう何度、目を通したか分からないその手紙には、今後、”その者”の為すべきことが事細かに書かれている。


その内容は、実に簡単なことだ。しかし、考えようによっては、いま仕えている主人あるじを裏切る行為にもなる。


しかし”その者”の胸の内には、そんな罪悪感を凌駕するほどの高揚感が広がっていた。


”その者”は、”さる方”の一族の隠密という身分を密かに受け継いできた、由緒ある家の出だ。その一族からの”密命”を受けずに人生を終えた先祖だってたくさんいるだろう。そうやって忘れ去られたように、何事もなくその”秘されたの家督”を次の世代へと継いでいるのが、ここ数世代の実情だ。それなのに、ああ、他の誰でもない、自分にそれが与えられたのだ。


他に誰もいない、薄暗い部屋で……”その者”は手紙を胸に押し当て、身に余る光栄に心を震わせた。


そして、火の気ない暖炉へと近づき、火床の上で手紙に蝋燭の火を近づけた。手紙に移った火はすぐに紙いっぱいに広がった。その炎は、四方の壁に怪しい陰影を映しながら、暖炉の中で踊るように揺らめき……やがて消えた。


ただの灰となった手紙……名残惜しいが、それも”さる方”からの指示だ。


手紙に書かれていたことは、すでにしっかりと頭の中に刻まれている。しばらくの間、暖炉の灰を見下ろしていた”その者”は、一呼吸して気持ちを切り替えた。そして、何事もなかったかのように部屋を出て、”通常の業務”へと戻っていった。

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