辺境伯のプレゼント
山と空の色を映して、エメラルド色に輝く湖面に浮かぶ数隻の小舟からは、楽しげな声が聞こえている。
淡い色合いのドレスやパラソルが、対岸の森の緑によく映えている。良家の娘たちが避暑地用にあつらえたであろう色目の明るい装いは、夏の日差しを軽やかに跳ね返していた。
湖畔の岩場に腰掛けて、舟遊びに興じる人々を楽しげに眺めているのは、頭巾を目深にかぶった祈祷師フェリスだ。相変わらず濃紺色の外套をまとっているが、夏用のそれは薄手の布で仕立てられている。
祈祷師協会での寄り合いが解散となったのは、半刻ほど前のこと。昼食会も兼ねて、まもなくホーエンベルク国内の各地で執り行われる”夏至のお祭り”について、準備状況などを報告し合った。その後、どの祈祷師がどこのお祭りを補助するのか、ダン会長を含む理事会によって決められた振り当てを告げられた。
各地方で行われる”夏至のお祭り”は、そのほとんどは、村人が集まって祈りを捧げ、歌い、踊り、そして夜は宴会という小ぢんまりとしたものだ。しかし、ホーエンドルフで開かれる”夏至のお祭り”はそれらとは一線を画す。
まず規模が違う。
ファイエルベルク国の首都であり、宿泊施設も多く別荘地からも近いホーエンドルフのお祭りには、国内だけでなく大陸中から人が集まり、昼夜通して大いに盛り上がる。大きな通りや各小広場に民芸品や食べ物、飲み物の屋台が出るだけでなく、街の中心にある大広場には大きな舞台が設置される。そこでは、朝からいろんな国からやって来た音楽家が歌や器楽の演奏を次々と披露し、集う人々の耳を楽しませ、陽気に躍らせる。
そして祭りのクライマックスは、”山の神様の奇跡”をモチーフにしたお芝居だ。ホーエンドルフの有志が集まり、春先から二月以上かけて練習を重ね、衣装や舞台装置の準備をする。
祭りに集まる人々が最も楽しみにしているその舞台は、通常、午後半ば頃に始まる。
真っ白な祭服に身を包んだ司祭長が舞台の真ん中に立つと、それまでガヤガヤと賑やかだった大広場は、しんと静まりかえる。やがて、司祭長の厳かな祈りの声が聞こえると、それに同調するように人々も共に頭を垂れ、両手を胸元で結ぶ。祈祷が終わり、司祭長が舞台袖に消えると、観衆は大きな拍手で最初の登場人物である主役”花冠の乙女”を迎える。
その乙女は、争いと病に苦しむ民を救って欲しいと神に伝えるため、天国に最も近い場所を目指し、命がけで山を登り続ける。山の頂に着いた乙女が祈りを捧げると、その声が届いたのか、神々しい光が麓の人々に降り注ぎ、剣は斧に、盾は長い縄に変わり、人々の病は癒えた。戦に明け暮れていた男達はそのまま木こりとして山で働き、快復した民は起き上がり喜びと共に歌い踊り出す……
……という場面で、終幕となる。
ちなみに、”花冠の乙女”は、毎年、雪解けの頃になると祭りの主催者である商工会により希望者が募られ、くじ引きで選ばれる。『誰に演じてほしいか』とか『誰に決まるのか』などといった話題は、ホーエンドルフの人々には春の風物詩のひとつとなっている。
さて今回、フェリスはホーエンドルフのお祭りをお手伝いをすることになっていた。
今日改めて振り当てられたのは"本部待機"という担当だった。祭りの日、祈祷師協会本部の建物は急病人や迷子の世話をする救護棟として解放される。早朝から夕刻まで待機し、そこへ連れて来られた人たちの世話をするという役割だ。前の年も、その前の年も別の村へお手伝いに行っていたフェリスは、ホーエンドルフの祭りを手伝うのは初めてのこと。祈祷師仲間によると、協会の建物はその日大勢の人が出入りして、終日大忙しだそうだ。
「きっと、困ってる人がたくさん来るのだわ。しっかり頑張らなくては。」
湖面のさざ波が照り返す光に負けぬほど、フェリスの瑠璃色の瞳はますます煌めいた。相変わらずやる気満々の女祈祷師である。
「それに”あの事”もしっかり準備しておかないと……今年は、ローレル先生には役割がないんですもの。これは滅多とないチャンスだわ。」
フェリスの心の中には、一つの企みがあった。
先ごろのペテルとハイディの結婚式の時に思いついた”いいこと”。
「うまくいくと良いのだけれど……」
それにはまず、そろそろサクに心を決めてもらわねば。夏至のお祭りまで、あと5日しかないのだ。
**
「夏でもその外套なんだな、祈祷師殿。」
聞き覚えのある声と同時に、フェリスを覆うように突然大きな人影が伸びた。
驚いて振り仰ぐと、そこにあったのは懐かしいすみれ色の瞳……。
「クリス!」
フェリスは立ち上がり、高いところにあるその青年の首元へ腕を回すように飛びついた。
「久しぶりね!」
わずかに思い出した子供の頃の記憶の中にいたのは、黒髪にすみれ色の瞳の少年……それは当時、人質としてランチェスタに送られていたクリスチアン=グロースフェルトだった。フェリスにとって、唯一、過去を辿ることのできる”よすが”である。
一方のクリスは抱きつかれるとは思ってなかったのか、無意識に目元が赤く染まる。無防備だったため危うくよろけそうになりながらも、何とかしっかりと抱きとめた。
「元気そうで何よりだ、フェリス。」
頭巾が外れて露わになった白い額にふいに唇を寄せた。が、されたフェリスは顔色ひとつ変えずに『ありがとう!』と言う。
「”おまじない”ね!わたくし、あれから他にはまだ何も思い出せないのよ。」
「……。」
そうだった。クリスの口づけは、フェリスにとっては『記憶を呼び覚ます”おまじない”』ということになっていたのだ。彼女の反応に少しがっかりしつつも、思い直す……今回、彼がファイエルベルク国に来た目的のひとつは……
「あら?これは、わたくしが差し上げた”お守り”ね!」
再会を喜ぶ抱擁は一瞬で終わり、すでに体を離していたフェリスが指先で触れたのは、クリスの胸元の羽飾りだった。昨秋、デーネルラントに現れた呪術師の力を封印する目的でフェリスが手作りしたものだ。
「でも……前よりもずっと素敵になってるわ。」
フェリスが作ったのは、グロースフェルトの城で出会ったメイド、リリーに分けてもらった縫い針に鳥の羽を糸で巻き付けただけのものだった。しかし今クリスが付けているそれには、針の先端を保護する小さな金色のキャップと、それと羽飾りをつなげる金の鎖が新たに付けられていた。
「ああ、大事なものだから……失くさないように、少し手を加えたんだ。」
キャップと鎖でしっかりと固定された羽飾りは、知らぬ間に抜け落ちて失くなってしまうようなことはなさそうだ。それに、フェリスがプレゼントした時よりもずっと豪奢で立派に見える。
「この金は、新しく見つかった金鉱で採れたものだ。」
まあ、とフェリスは大きい目をさらに大きく見開いた。
「ラドルがそのお話を聞きたがっていたの!あなたに頂いた『賢者の冒険物語』の本も、とても大事にしているわ。今でも時折出してきて読んでいるのよ。」
そうか、とクリスは目を細めた。そして、黒い上衣の胸ポケットから小さな包みを取り出した。
「おまえにも、あげたいものがあるんだ。」
そう言って広げた中身は、細い金の鎖に小さな六芒星を象った金細工が揺れるネックレスだった。六芒星の中央部分には、小さな青い石がはめこまれている。
「ここにラピスラズリを付けた。おまえの瞳と同じ色の石だ。」
フェリスは、まじまじとクリスが手にしているペンダントを眺めた後、困惑気味に眉尻を下げてクリスを見上げた。
「嬉しいけど……こんな高価なもの、わたくし、頂けないわ。」
グロースフェルト領は、経営難だとリリーから聞いている。以前に祈祷師への報酬としてもらった5万フォリンだって、返したほうが良かったのではないかと今でも心配しているのだ。
「おまえ、さてはまだグロースフェルトの懐事情を気にしているな?」
クリスは目線の高さをフェリスに合わせるように腰を屈め、いたずらっぽい笑みを見せた。
「グロースフェルトはこれから、デーネルラントの中でも有数の富裕領となるよ。」
この度見つかった金鉱は、クリスが思っていた以上に資源豊富なものだった。金だけではない。白金や銅、鉄鉱石など、多種多様な金属が採れることが分かったのだ。
「石を掘り出す人、石からいろんな金属を取り出す人、それを加工する人、加工した物を売る人……金鉱は、たくさんの仕事を生み出す。仕事があれば多くの人が集まる。人が集まれば周りに村や町ができ、村や町ができれば商売が盛んになる。商売が盛んになれば世に金が回り、新しい町でも、もとからあった町でも、そこに暮らす人々の生活が潤う。そうやって領民が豊かになれば、そのうち領主はこれまでみたいに金の心配をすることもなくなるってわけだ。」
『このネックレスも、その金鉱で採れたものを加工して作ったのだ』と言って、クリスは手にしていたものをフェリスの細くて白い首に付けた。
「ありがとう、クリス……」
フェリスは、そこにあることを確かめるように金色の六芒星を指で触れ、ほのかに頬を赤らめた。
短めの鎖にしたのは正解だった。襟ぐりの浅いペザントブラウスを着ていても、いつもの外套を羽織っていても見えるようにと工夫したのだ。金色の華奢な首飾りは、フェリスの白い肌と瑠璃色の瞳にとてもよく映えている。
地質調査や採掘の費用など、初期投資に関してはノルトハーフェンに住む兄ルッツや、彼の婿入り先であるガリエル家にも助けてもらったが、予想より早く返済を終えることができるだろう。
金鉱経営はまだまだ始まったばかりの事業だ。それに、ランチェスタにいる呪術師たちの不穏な動きも引き続き留意していなければならない。
『本格的に忙しくなる前に行ってこい』と滞在する場所まで用意して、兄ルッツに熱烈に勧められてファイエルベルクにやってきた……フェリスに会うために。
会って、それから……
「ゴルァ!!それ以上、引っつくんじゃねぇ!!」
……不本意にも『懐かしい』と感じてしまうその怒鳴り声は、緋色の外套の大男のものだろう。
クリスは、知らず知らず滑らかな白い頬に触れていた手をさっと引っ込め、声の主を振り返った。
「……ご無沙汰をしております、派手な祈祷師殿。……と、”サク”。」
「おい、何度も言うが俺は派手じゃねえ!夏なのに何なんだ、その真っ黒い格好は!!」
『相変わらず陰気な野郎だ!』と悪態をつきながら、ローレルは引き剥がすようにフェリスの肩を抱き寄せた。少し遅れて後についてきたサクは、相変わらず過保護な親代わりの祈祷師の態度に呆れた気味だ。
「ローレル先生、サク!お帰りなさい!」
「ただいま、フェリス。そのネックレス、素敵だね。クリスにもらったの?」
細い首元に揺れる六芒星とラピズラズリのペンダントにさっそく気づいたサクは、よく似合っていると褒めた。
「ええ、綺麗でしょう?新しく見つかった金鉱で採れたもので作ってくれたんですって。」
『そう』と相槌を打ち、サクはクリスにぎこちない笑顔を向けた。
「やあ、クリス。元気そうだね。」
対するクリスは、いつもながらの無表情で右手を差し出し握手を求めた。
「おまえもな。手紙、いろいろと知らせてくれて助かるよ。」
一瞬、驚いたように眉を上げたサクだが、すぐにそれに応じ同じく右手で握り返した。
「例の件に関してだけど……健闘を祈るよ。僕はまだ、何も言ってないから。」
『何のことだ』と訝しげな顔をするローレルの外套を引っ張って、サクはその場を離れようとした。
「ローレル、先に帰ろう。ハナに頼まれた花束がしおれてしまう。」
「バカヤロウ!うちの娘をケダモノと二人きりにしていいはずがないだろう!」
一緒に連れて帰ると頑なに言い張る祈祷師と、いい加減にしなさいと諌める助手がもめていたところに、白髪の老紳士が近づいた。
「ローレル殿、私が代わりに二人のそばで見張っておきますから、ご安心なさい。」
ルッツの義父、ガリエル閣下ことサイラス=ガリエルだった。
**
サクに引っ張られしぶしぶといった表情で帰っていったローレルを見送ったあと、老ガリエル伯サイラスとフェリスは改めて挨拶を交わした。
サイラスは、ガリエル伯爵夫人……サリダの実父だ。昨秋、二月ほど一緒に過ごした彼女の瞳の色は、サイラスのそれと同じエメラルド色だ。微笑む時に目を細める表情など、実によく似ている。フェリスはすぐに打ち解けた気分になった。
「ガリエル閣下は、ローレル先生とお知り合いですの?」
「サイラスでいいよ、祈祷師のお嬢さん。ローレル殿は去年の秋、呪術師を捉えた後ルッツと一緒にノルトハーフェンに来て、私にかけられた呪詛を解いてくれたんだ。とても世話になったよ。」
サイラスは自分の腕にフェリスの手を取り、ウーフェル荘に向かって岩場から湖の縁を歩き始めた。
「君のようなチャーミングな娘がいたんだね。若い男と二人だけにしておくなんて、そりゃあ心配にもなるだろう。」
少し遅れてついてくる不機嫌そうな青年へと顔だけ向けて、意味ありげに片目をつぶった。
そう、クリスは今とても機嫌が悪い。
せっかく口うるさい親代わりがいなくなったというのに、今度は自分の親代わりが、初対面にもかかわらず親しげにフェリスと並んで歩いている。本来そこは、自分がいるはずの場所だ。
「”おじ上”、先に屋敷にお戻りください。俺はフェリスと少し話がしたい。」
『おやおや』と眉を上げ、サイラスは名残惜しそうにフェリスの手を腕から外し、その肩に両手を置いて言い聞かせるように言った。
「フェリス、何かあったらすぐ大声で助けを呼ぶんだよ?」
フェリスは『こんなところで、助けを呼ぶようなことなんて起こるかしら』と不思議に思いながらも、老紳士に答えて頷いた。
「ええ、わかりました。でもクリスもいますし……この辺りは昼間に狼が出るような場所ではありませんわ。」
『狼にもいろいろあってね』とさらに話し始めたサイラスの言葉を遮り、クリスはフェリスの肩を抱いて体を反転させた。
「ではおじ上、また後ほど。」
その場から引き剥がすように、戸惑うフェリスを連れ去るクリスの後ろ姿を見送りながら、サイラスは目を細めてふっと笑みを漏らした。
「そうか、あのクリスが、ねぇ。ルッツも喜ぶはずだ。」
しかしあれなら、義息の心配も私のお節介も無用だろう……そう独りごち、老ガリエル伯はふっふと笑いながら白亜の屋敷へと戻っていった。
**
「どうしてサイラス様のことを『おじ上』と呼ぶの、クリス?」
サイラスは、クリスの兄ルッツの義父にあたる。親戚とはいえ、血の繋がらない関係だ。
「おじと甥ということにしてあるんだ。ここではそうする方がいい。」
デーネルラントの西の国境を守るグロースフェルト辺境伯が、領地を離れていることを知られないようにするための配慮だ。ちなみに、現在のグロースフェルト城にはルッツが家族とともに入り、クリスの代わりを務めている。
この季節、ファイエルベルクにはデーネルラントだけではなくランチェスタ王国からも人が訪れる。他にも多くの国の人々が観光で訪れるファイエルベルク国では、国家間の関係に由来するいがみ合いは、どんな小さなことでも禁じられている。万が一そのようなことが起これば余儀なく強制退去となり、ファイエルベルク自警団により自国へと護送される。
そのため避暑でこの辺りに集まる貴族たちは、事前に争いごとを避ける意味でも、身分や出自を曖昧にしている場合がほとんどだ。
しかしクリスがサイラスを『おじ上』と親しげに呼ぶのは、他にも理由がある。
「それに、あの人は俺や兄の”育ての親”なんだ。なんとなく昔からそう呼んでる。」
フェリスは目を丸くした。そういえば、クリスやルッツの両親のことは、その存在についても聞いたことがなかった。
『少し長くなるが、聞いてほしい』と前置きをして、クリスは語り始めた。
「俺たちの両親は、俺が生まれてすぐに亡くなった。」
22年前、デーネルラントとランチェスタの間で大きな戦があった。戦は1年のうちに収束したが、父は戦いの時に負った怪我が原因で落命し、母はクリスを産んだ後、夫を追うように病に倒れ亡くなった。当時まだ幼かったルッツの後見人として、実質グロースフェルト領を差配していたのがサイラス=ガリエルだった。サイラスは、ルッツとクリスの父親とは遠い親戚であり親友だった。サイラスの妻は赤ん坊だったクリスを、ちょうど同じ頃に生まれた娘サリダと共に育て上げた。実の息子のように可愛がってくれたガリエル夫妻には感謝してもしきれない……が、常に心のどこかで『甘えてはいけない』という気持ちがあり、どことなく冷めた子供時代を過ごしていた。
「兄が成人してグロースフェルト辺境伯となった時、おじ上とその家族は、家督を継ぐために城を出てノルトハーフェンに戻った。俺がランチェスタへ送られたのは、その2年後のことだ。」
ランチェスタ行きを告げる兄の言葉にも、クリスは素直に従った。たった一人の家族である兄と引き離されることにも、さほど心を揺さぶられることはなかった。それが自分の役割なのだから、と。ランチェスタに入ってからも、敵国の子供ということで王都エトワールでは何度か危ない目にも遭った。しかし、それも”自分の役割”なのだからいつ死んでも仕方がない割り切っていた。
「だが俺は、アラン様の計らいでブラン城の騎士学校に入ってから、少しずつ変わっていったんだ。」
当初は相変わらず誰とも慣れ合わずに一人で過ごしていたクリスだが、ある日、森を散歩中に一人の少女に捕まってしまった。
その少女は、突然、目の間に両手を広げて立ちはだかり、どこで拾ったのか割と太い枝を投げてよこした。
『そのつるぎをとりなさい、森をゆく”つわもの”よ!』
何だかよく分からなかったが、とりあえず拾えと言われたので拾ってみたところ、目の前の少女は、同じような太い枝を両手で持ち、頭の上に構えた。
『いざ!』と大声をあげ、ダダダダっと突進してきたその少女のまじめくさった顔は、今でも忘れられない。
クリスは片手で持った枝で、突っ込んできた枝先を器用に弾き返し、少女の手からいとも簡単に枝を落とさせた……以来、森で出会った小さな”つわもの”は、クリスを師と崇めて後ろを付いてまわるようになった。
「それって、わたくしのことねクリス。」
フェリスは、真面目な顔で話を聞いている。森で”決闘ごっこ”を挑んできた時の少女の表情を思い出させ、クリスは笑って頷いた。
「そうだよ、我が瑠璃姫……」
当時、フェリシアと呼ばれていたブラン城主の娘は、騎士学校の学生達に随分可愛がられていた。毎日のように学校に現れるその少女にせがまれ、”騎士ごっこ”の相手をさせられる学生達は、誰も彼も楽しそうだった。しかし皆、最後は決まって”負けたふり”をする。クリスは、少女にとっては初めて”自分に勝った相手”だ。『クリスは誰よりも強い』と思ったその少女は、毎日のようにクリスに近づき、教えを請うた。
最初は『面倒な子に付きまとわれたものだ』と感じていたが、その朗らかな笑顔に日々接するうち、心が次第と変化していく……『フェリシアはおれの弟子だ』……『おれのだ』……。
そして、あの冬の日。
「最初に3つのスノーマンを作ったんだ。アラン様とアナベル様、そしてフェリシアを……」
フェリスは目を伏せて、ゆっくりと慎重にその日の記憶を辿ってみた。気をつけないと、急に眠気に襲われるかも知れない。
「……ええ……それから、わたくしの隣にシルヴィ、お兄様のスノーマンも作ったのよ。」
しかし、兄シルヴァンは人質としてデーネルラントに送られていた。
『だから、今はこの4つ目はクリスだわ!』
4つ目をクリスとしたが、それでも並んだスノーマンはひとつの家族のようだった。たとえ敵国同士でも、家族になれば、並んだスノーマンみたいに仲良く隣り合える。幼いながらに、少女はそう感じたのだろう。
少女は、あの日『クリスとけっこんして家族になる』と言った。
**
クリスの言葉に誘われるように、フェリスもあの冬の日のことを少しずつ思い出していた。
……クリスとけっこんする……
そんなこと言ったかしら……言った、かも知れない…………いえ、言ったわ、わたくし。
脳裏に蘇る、より詳細な冬の日の記憶に困惑するフェリスだった。
**
クリスは、さらに丁寧に記憶を辿っていた。
フェリシアが『家族になる』と笑顔で言った時、クリスは気づいてしまった。自分は、寂しかったのだと。
物心ついた時から、何かを欲することを諦めていたように思う。求めても、何も得られない。だったら最初からほしいと思わなければいい。自己防衛の手段だったのかも知れない。だから、ずっと流されるように生きていた。
クリスにとっての家族は、兄たった一人だった。その兄も、国や領民のために尽くす人間だ。甘えられないし、甘えてはいけない。
しかし、スノーマンは並んでいるだけで家族のように見えた。心から甘えられずとも、多くの言葉を交わさずとも、クリスは本当は兄やガリエル一家の……”家族”の側にずっといたかったのだ。
フェリシアはその”家族”になると言ってくれた。子供の気まぐれかも知れないし、自身もいつまで続くかわからない人質生活だったが、いつか本当にそうなれるように、互いの国の関係がより良いものとなっていてほしい。そして、どの家族も離れ離れになることなく”普通に”暮らせる世にしたい。おれは将来、そのために兄の隣で働こう。死んでなんかいられない……何としても生きて帰ろう。
諦めるばかりだった子供時代は、その日、終わった。
**
アメジスト色の瞳が、まっすぐフェリスを捉える。
「俺は、ブラン城が攻め入られ、おまえが死んだと聞いた時……諦めるのはこれで最後にしようと思っていた。」
見つめられて、フェリスはなぜか息が詰まったように胸が苦しくなり思わず身を離すように後ろへと下がったが、それ以上にクリスは前へと距離を詰めてきた。そして、長い指の背がフェリスの金糸の髪をこめかみから耳の後ろへと柔らかく撫で、そのまま流れるような動きで冷たい手のひらがフェリスの上気した頬に添えられた。
「だがおまえは生きていて、そしてまた俺の目の前に現れた。奇跡だと思った……」
もう一方の手がフェリスの背中にまわされる。吐息は鼻先をくすぐり、熱を帯びた瞳はすぐ目の前だ。
……何なのかしら、これ。何が起こってるの?
フェリスの胸は、まるで全速力で走った後のように早鐘を打っている。押し返すように咄嗟に手を当てたクリスの左胸からは、同じような速さの脈動が伝わってきた。よく知るはずの、切れ長の目に薄い唇の整った顔立ちのその人は、今はまったく知らない男の人のように見える……射竦める瞳はフェリスの心をますます締め付けて怖いほどなのに、そこから目が離せない……
**
「……フェリス様、クリス様、遅いのでお迎えに上がりました。」
足音もなくいきなり声を掛けたのは、フェリスの護衛役ハナだった。
「……ハナ、空気読んでくれ。」
抱きすくめるように、フェリスの頬と腰のあたりに手を当てた状態で、クリスはがっくりと黒紫色の頭を落とした。
「クリス様、空気は吸うもので、読むものではありません。ちなみに手紙も読んでいません。」
「もう、ハナ!わざわざ言わなくていいでしょ、それ!!」
慌てた声で諌める祈祷師見習いの少年ラドルは、ハナに目隠しされた状態だ。
「ごめんなさい。話し込んでしまってて……そんなに遅くなってしまったかしら」
ドキドキは徐々におさまってきたもののどんな表情をして良いのかわからず、フェリスは目を伏せながら黒衣の胸からからやんわりと逃れた。
ハナは無表情でラドルの目を両手で塞いだままだ。
「いえ、ローレル様もサクも、先ほど帰ってきたところです。お二人がウーフェル荘の近くですでにお会いになられていると聞き、何かあってはいけないと思って駆けつけました。」
「まだ何もない。」
「まだって……やはり何かなさるおつもりでしたね、クリス様。危機一髪でした。」
「いや、だからおまえが心配するような”危機”なんか起こらない。だから、少しでいいからラドルを連れて席を外してくれ。」
「そうはいきません、クリス様。フェリス様の身の安全だけではなく、貞操をお守りするのも護衛としての大事な仕事です。」
「テイソウって何?」
言葉や声色では判別できない辺境伯と護衛の間に流れる剣呑な雰囲気に、大胆にも割って入るラドルだった。
「あとで教えてあげますから、とりあえず今はお二人を連れてホーエンドルフに戻りましょう。」
そう言ってハナはラドルの目を覆っていた手を外した。
ふうっと大きく深呼吸したクリスのスミレ色の瞳は、元の優しい色に戻っている……痛いほど高鳴っていたフェリスの胸も、すっかり普段と変わらない落ち着いたものになった。
初めての感情から解放されホッとすると同時に、不思議とどこか少し名残惜しいような気持ちにも気づき、戸惑うフェリスだった。クリスに会えて嬉しかったはずのに、どうして途中からあんなに苦しくなったのだろう。ドキドキして息がつまるほどだったのに、それがなくなって寂しく感じるのはいったいなぜなのだろう……