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ファイエルベルクの祈祷師《2》  作者: 小野田リス
3/20

祈祷師のプロポーズ

赤い三角屋根に装飾的な木組みと漆喰の外壁が美しいハーフティンバー様式の家々が、石畳の路地にひしめくように立ち並ぶ。そんなホーエンドルフの風趣溢れる街並みも、ファイエルベルクを訪れる人々の心を惹きつける観光資源の一つだ。


木骨はどの家も黒か濃褐色に塗られているが、漆喰の色は白やクリーム色、薄紅色など、家主の趣味でそれぞれ違う。また、ほとんどの家の外壁には、戸口の上や軒のあたりに、家業を表した図柄や、ホーエンベルクの国花であるスミレ、または”山の神様の奇跡”の伝承を模した絵などが描かれている。家はそれぞれに個性的でありながら、通りを見通すと、両側に天地を赤い屋根と石畳で区切られた一幅の長い絵巻物が広げてられているようで、道行く人の目を楽しませるものとなっている。


夏至のお祭りの主要会場ともなる街の大広場から少し離れた路地の一角に、薄紅色の漆喰に赤く塗られた木戸の、見るからに派手な家がある。祈祷師ローレルの家だ。


戸口まで5つの石段を上がり、赤い扉を開けてすぐのところは、人が2〜3人ほど入ると窮屈に感じるような小部屋になっている。冬場はそこで外套や靴底についた雪を払い落とすのだが、季節は夏。今はそこを素通りして、上部に乳白色のガラスがはめ込まれたもうひとつの薄い木戸を開ける。


その扉を開けると、まずは薬草や香草の独特の香りが鼻腔を突く。次に、部屋の真ん中に据えられた、天板の厚い古びた大きな木製のテーブルが目に入る。ローレルやフェリス、ハナ、ラドルが共に過ごすその部屋は、彼らの食堂兼居間であり、寝る以外のほとんどの時間を皆そこで過ごしている。


その部屋の右手前には、簡素ではあるが清潔な台所が備えられ、その傍に造り付けられた木棚には、数種類の食器が並べられている。居間の再奥には大きな暖炉があり、その傍に置かれた揺り椅子が、座面に置かれた小さなクッションと共に所在なさげに見える。


暖炉の右側には扉付きの戸棚、左隣には裏庭へと続く木戸がある。戸棚には薬の材料や製薬のための道具が仕舞われており、裏庭には小さな畑と薪小屋がある。畑ではローズマリーやミントの他に、この季節はラベンダーやフェンネル、カモミールの可愛らしい小さな花々が彩りを添えている。


また居間の左右の壁には一つずつ、飾り気のない板戸がある。向かって右側、台所の奥の扉はローレルの私室へ通じる。そして左側の扉から続く部屋は、フェリスとハナ、ラドルが寝起きする寝室となっている。


**


その日、ハナとラドルは寝室の窓をすべて開け放ち、部屋の模様替えをしていた。年が明けて9つになったラドルのために、彼の”私室”を設えることにしたのだ。


寝室の一部を背の高い本棚で仕切り、その本棚の側面と壁の間には薄緑色の布を垂らして、”ラドルの部屋”の入り口とした。本棚と薄布で区切られたその小さな部屋には新らしく寝台を据えた。大工仕事が得意な、ザーシャの夫マッケイの手によるものだ。ハナによってすでにリネン類も整えられ、いつでも横になれる状態にしてある。


「さあ、ラドル。大方これで終わったようですし……そろそろお昼にしませんか?」


ハナは、模様替えの済んだ部屋を見渡しながら、本棚の整理をしているラドルに声をかけた。


「うん、わかった。本も片付いたよ。」


そう言って、ラドルは最後に本棚の中でも”一番いい場所”へ、手にしていた堅表紙の色あせた古めかしい本……クリスから譲り受けた『賢者の冒険物語』を押し込んだ。


クリスこと、クリスチアン=グロースフェルト辺境伯……隣国、デーネルラント王国の西側の国境を守るその領主と知り合ったのは、昨年の秋頃のことだ。その人にもらった本『賢者の冒険物語』は、祈祷師協会会長のダンの話によると、どうやら事実に基づいて書かれたものらしい。クリスが本の内容から推測して領地内の地質調査をしたところ、本当に金鉱を掘り当てた……と、フェリス宛ての手紙の中に書いてあった。


それと……そのクリスの手紙からは、フェリスへの特別な感情が読み取れる。まだ9つのラドルにも分かるほどだ。


『賢者の冒険物語』の背表紙にしばし視線を留めていたラドルは、ふうっと一息ついてから、腕まくりしていた白いシャツの袖を元に戻し、ハナを追いかけるように寝室を出た。


**


居間の真ん中にある栗材の大きなテーブルの上には、サクとローレルが出かける前に使った思われる二つのマグカップが、そのままになっている。それを片付けながら、ラドルは台所に立つハナの背中に話しかけた。


「……ハナ。フェリスは本当にサクと結婚するつもりなのかな。」


艶やかな絹糸の束を思わせるハナの黒髪は、いつものようにきっちりと編み込まれ項のあたりにまとめられているが、装いはいつものファイエルベルク自警団の制服ではない。今日は祈祷師協会の寄り合いの日なので、フェリスは一人で出かけている。そのためハナも、今日はクリーム色のブラウスに丈の長い濃緑色のスカートというこざっぱりとした普段着で、今は黄色いピンストライプのエプロンをつけている。


右手には薄くスライスされたライ麦パンとチーズが乗せられたプレート、左手にはミルクの入った陶製のポットを持ったハナは、『そうですねぇ』と嘆息気味につぶやきながらラドルに振り向いた。


「私にはフェリス様が何をお考えなのか、さっぱり分かりませんが……少なくとも、あの方が自発的にそれを思いついたわけではなさそうですね。」


『だよね』と応じつつ、ラドルは自分たちがミルクを飲むためのカップを二つ、テーブルに並べた。


「あのペテルとハイディの結婚式の日、ザーシャとナディに何か言われたんだよ。お祝いの宴の時に3人でこそこそ話してたの、ぼく、見たもの。」


テーブルには、簡素な昼食が整えられた。二人はそれぞれの”定位置”に座り、ラドルは指を組み、ハナは手を合わせ、各々食事の前の感謝の祈りを捧げた。


食事をしながら、話題は再びフェリスの突然のプロポーズに及ぶ。


「あの突拍子もない結婚の申し込みから、もうだいぶ経つけど……フェリスもサクも、相変わらずだよね。」


「ええ。ここ数年の中で、あれは私にとっても大事件でしたが……これといって二人の関係に変化は見られませんね。」


あえて言うなら、サクに対するローレルの当たりが刺々しくなったくらいか。


「冗談……っていう感じでもなかったよね、フェリスは。」


ラドルは、思い出すようにそう言ってから、チーズを乗せたパンの最後のひとかけを口の中に放りこんだ。



『ねぇ、サク。わたくしと結婚してくださらない?』


いつもの巡回から帰ってきたフェリスは、居間で仕事の片付けをしていたサクの顔を見るなり、思い出したように突然そう切り出したのだ。


ラドルは肩から外した頭陀袋を、ハナは脱いで手にしていたフロックコートを取り落とし、ローレルは飲んでいたスグリ酒を盛大に吹き出した。言われたサクは、半開きになった口から言葉も出せず、ただただ目を丸くしていた。『な、な……グォホグォホッ……何をっグフッ……何を言うんだフェリス!!グォホッグォホッ』と、せたためか驚いたためか、ローレルは顔を真っ赤にして詰め寄った。ラドルとハナも駆け寄って『急にどうしたの?!』『本気ですか?!』とそれぞれに質問攻めにしてしまったので、プロポーズに対するサクの返答は、あの後、何となく流れたままになっている。



「サクは『誰とも結婚しない』って言ってたよ。それって、フェリスのプロポーズを断るってことだよね。」


「さすがに何の迷いもなく『いいよ』とは言えないでしょうね。元呪術師で、我々を襲ったこともある人です。」


サクは、元はグスターヴォ=エメロンという名で、8年前からつい先ごろまで、ランチェスタ王国の強硬派の手先として暗躍していた呪術師だった。昨秋、フェリスの封印ジーゲルにより妖の力を失い、同時に、古代エメロニアの傍系という由緒ある名前も自ら捨てたのだ。以来、ローレルの助手としてこの家で働いている。


フェリスもサクも仲は良いのだが、あくまで仕事仲間としてのことだ。目と目が合って、手と手が触れて、頬を染めて……などといったシチュエーションは、誰も一度も見たことがない。


とはいえ……


「フェリス様のお年を考えたら、このようなお話、一つや二つあって当然ですし……」


ハナは、食事の手を止めて、そっと目を伏せた。


「本当ならお輿入れのことも含めて……将来のことについては親代わりの私がもっと早くから、フェリス様の相談に乗ってさしあげるべきでした。」


フェリスは、もうあと二月もすれば18歳になる。


ファイエルベルク国では皆16歳で成人し、家業を継いだり、家を出て働いたり、結婚して独立したり、それぞれに大人の仲間入りを果たす。先日、結婚式を挙げたペテルは20歳、ハイディは17歳だった。観光都市ということもあり働き口の多いホーエンドルフに住む娘たちは、20歳を超えても結婚せずにいることが多いが、それでも将来を約束している相手くらいはいるものだ。それは、彼女たちの髪を飾るリボンを見ても分かる。


ファイエルベルクには、女性が髪を結うリボンの色にいろいろと意味がを込める習慣がある。


この国では通常、男性から女性に結婚を申し込むものなのだが、その際に慣例として赤い花を女性に贈る。そのため、プロポーズの花の色を思わせる赤い色のリボンを身につけることで、恋人もしくは婚約者がいるということを暗示している。フェリスの年に近い娘たちのほとんどは、赤いリボンで髪を結っている。男性から赤い花に真紅のリボンを添えられて永遠の愛を捧げられることは、ファイエルベルクの乙女たちの憧れなのだ。


ちなみに既婚者は黒や濃紺といった落ち着いた色のものを使う。他にも、良い結婚相手に恵まれることを願って薄紅色、想い人がいることを暗示する萌黄色のリボンなどもあるそうだ。


そしてフェリスは、自分で編んで染めた、よく分からない鈍い葡萄色の紐のようなもので無造作に束ねている……


「だからって、薄紅色やら萌黄色のリボンを結うこともなくいきなり結婚とは……っ。いつまでも子供扱いしていた私が悪いのですが、フェリス様は何もかもすっ飛ばしてそこに行き着いてしまわれたように思います。」


ハナは目を伏せたまま眉根をぐっと寄せて、テーブルの上に置いていた両手の握りこぶしを震わせた。


『だよね』と応じつつ、ラドルは自分のカップにミルクを注ぎ足した。


「あの人、何の照れも恥じらいもなくやっちゃったよね、プロポーズ。しかも、女の子なのに自分から。」


宙を見ていたラドルの琥珀色の瞳は、半眼になっている。


「……まるで、食事に誘ってるのと同じ感じだったよね。」


丁寧に編み込まれた黒髪の頭は、いまやすっかり項垂れている。


「私、どこで間違ったんでしょうね。あんな情緒もへったくれもないお嬢様にお育てした覚えはないのですが。」


近頃はよく、フェリスは彼女の母親、アナベルに似てきたものだと感じていたハナだった。そのかつての主人あるじを思わせるフェリスの柔和な笑顔に和まされていたが……フェリスのサクに対する態度には、夫アランに対するアナベルのような何かこう愛らしく細やかで、とにかく異性に対する淡い感情のようなものが一切感じられない。


アナベルが夫を心から信頼しているということは、その眼差しや声色など、随所に滲み出ていた。またアランの方にも、妻を気遣い慈しむ気持ちが溢れていた。自分には永遠に縁のないことだが、もし誰かと夫婦めおととなるならば、アランとアナベルは理想的な夫婦の在り方だとハナは感じていた。


あの陰気なグロースフェルト卿と一緒に作った雪だるまを思い出すくらいなら、仲睦まじく寄り添う両親の姿を思い出して欲しかったと、ハナは言葉にこそ出さないが、心底、惜しい気持ちになっている。


解呪ハイレンの後遺症で幼少時の記憶を失くしているフェリスに、『両親を見習え』とも言うことはできない。かといってハナ自身も独身であり、経験もないので恋愛や結婚について教えたり説教したりなどできない。だけど……


「……サクに結婚を申し込んだのは、間違いなく恋だの愛だのといったものによるものではありませんね。『自分の都合に、丁度いい人』という理由でしょう。逆に失礼な話です。」


遠慮のない分析に『ハナのその言葉が一番サクに失礼だよ』と突っ込み、ラドルはテーブルの上に組んだ両腕を乗せた。


「クリスはどう思うだろうね、今回のことを知ったら……。」


その言葉に弾かれるように、ハナは顔を上げた。


「そうでした!クリス様のお気持ちのこと、うっかり忘れていました。あんな胸焼けしそうな手紙をしつこく送ってきておいて……当のフェリス様には何一つ伝わっていなかったということでしょうか……むなし過ぎて、紙が勿体無いです。」


「ほんと、口が悪いよハナ!」


相変わらず言葉を薄布でやんわりと包めないハナに、苦笑するラドルだった。そして、ふと思いついたように身を乗り出した。


「ハナはさ……クリスとサク、どちらとくっつけばいいと思う?」


一瞬、驚いたように眉を上げたハナは、返事を促すラドルの好奇心に満ちた目が可愛らしく、ふっと表情を和らげた。


「そうですね。私は……相手はサクでもクリス様でも……正直に言ってしまうと、別にどなたでも構わないですね。」


「誰でもいいの?!」


丸い目をますます目を丸くするラドルを見て、ハナは笑って頷いた。


「私は、フェリス様がお幸せであれば、それでいいのです。」


「それじゃあ答えになってないよ。それに、フェリスは誰とだって幸せになれそうなんだもの。」


ノーテンキだから。だから、変な人とくっつかないように、ぼくたちである程度、選んであげた方がいいんじゃないか……と、祈祷師見習いの少年は的確な持論を述べた。時々、妙に大人のようなことを言うラドルがおかしくて、ハナはまた笑った。


「ラドル、私の故郷に『蓼食う虫も好き好き』という言葉があります。」


「どういう意味?」


「人の好みは、人それぞれだという意味です。フェリス様の結婚相手について、私やラドルがとやかくと言ったところで、結局決めるのはフェリス様のお心だということですよ。」


そしてその選択が最良のものとなるためにも、フェリスが自分の”心の声”を正しく聞き取れるように導きたい……ハナの思いは今、その一点にある。アナベルとの約束でもある”遺言”を守るために、ハナができることのひとつだ。


「それにもうひとつ。『割れ鍋に綴じ蓋』という言葉もあります。」


「それも結婚に関係あるの?」


首を傾げるラドルに、ハナは切れ長の目を細めて微笑んだ。


「ええ。どんな人にも、ふさわしい相手がいるものだということですよ。」


人と人の出会いは無作為のようでありながら、中にはどこかしら”作為”を感じさせるものもある。それは、ハナの故郷の言葉でいうところの”縁”だ。神様が結んだとおぼしきその絆は、切ってもきれない不思議な糸で繋がれているように、知らぬ間にいつしか互いを手繰り寄せる。


『へ〜』と間延びした声と共に、ラドルはニンマリと口角を上げる。


「それって、ローレルとハナみたいなってこと?」


ゴトンッ!!


ハナが、持っていたカップを手から滑らせたのだ。底面を打ちつけた衝撃で、テーブルに飛び散ったミルクが点々と夜空に瞬く星のようになっている。


「ちょっと!派手に動揺しすぎだよ!!」


顔をしかめるラドルには目もくれず、ハナはさっと立ち上がって台所へと急ぎ、布巾を手にして戻って来た。


「わ、私はローレル様と別にそんな……」


テーブルを布巾でガシガシとこするように拭くハナの顔は、珍しく真っ赤になっている。ハナのそんな表情は、滅多に見られることではない。


「やっぱり、そうなんだ……」


「やっぱりって、何ですか!」


「ローレルは”割れ鍋”で、ハナは”綴じ蓋”だって意味。二人って、お似合いなんだもの。それにローレルは、ハナがいなかったら普通の人間のようには暮らせないと思うよ。」


祈祷師として忙しいという以前に、ローレルには生活力というものが全くといっていいほどない。料理も洗濯も掃除もしない。放っておいたら酒はあるだけ飲む。うっかり飲み過ぎたら次の日の朝は起きれない。お金の管理だって、ラドルの方がよっぽどきっちりしている。”家族”と暮らすからこそ、規則正しく人間らしく、まともに暮らせているような人だ。


ハナも何か思い出したのか、遠くを見る目になっていた。


「……そうですね。初めてこの家に入った時は、どこのゴミ置き場に来たのかと思いましたよ。」


よほど荒れ果てていたのだろう。赤かった頬がいつもの健康的な小麦色になり、すっかり自分を取り戻している。


いつものハナの様子に、何だかホッとするラドルだった。


「……ぼく、本当はずっとこのままがいいな。フェリスとハナとローレルと……ずっと一緒にいたい。」


テーブルの上で組んだ両腕に顎を乗せて、ぽつりとそう言ったラドルの頭を、ハナの暖かい手が撫でる。柔らかな髪の毛の感触を確かめるように……。


「何もかも”ずっとこのまま”というわけにはいきませんよ、ラドル。あなたも、時が来れば大人になるのです。」


でも……と、ハナは笑みを深めた。


「でも、この先何がどう変わろうとも、フェリス様と私は、もちろんローレル様も、ずっとあなたの家族であることは変わりません。」



だからここでは安心して、ゆっくり大人になりなさい……



ハナの耳の奥に、懐かしいアナベルの声が響く。


頭を撫でていた手で、今度はラドルの小さな鼻先をちょんと突いた。


「さ、そろそろ片付けましょう。今日はローレル様もサクもいませんし、午後は二人の仕事を私たちが代わりにしなくてはなりません。」


それに……


「……クリスがうちに来るのって、今夜だよね。」


「……ええ。フェリス様は祈祷師協会での寄り合いの後、ウーフェル荘までお迎えに行くそうです。」


3年前の夏にガリエル伯爵夫妻が借りていた邸宅ウーフェル荘は、ホーエンドルフから神殿に向かって少し上ったところにある湖のほとりに建てられた白い瀟洒な邸宅だ。湖畔は閑静な別荘地。中でもウーフェル荘は他の別荘群から少し離れた場所にあり、湖と森に挟まれるようにして建っている。元はデーネルラント王国の某貴族が建てた避暑用の邸宅だったが、この春にクリスの兄ルッツが……ルードヴィヒ=ガリエル伯爵が元の持ち主から買い受け、正式にガリエル家のものとなった。


しかし、この夏そこで過ごすのは、クリスチアン=グロースフェルト辺境伯だ。


ハナとラドルは、それぞれにため息をついた。


「ぼく、クリスに金鉱の話を聞くのが楽しみだったんだけど……フェリスとサクのことを知ったら、クリス、がっかりするだろうなと思ってさ……」


「……ラドル、クリス様のお気持ちについては、私たちはとりあえず知らなかったことにおきましょう。ヤヤコシイですし。」


クリスからフェリスに宛てた手紙など、読んだことはない。触れずにおこう。それでいい。それがいい。


「だね。だけど、ハナこそ気をつけてね!『紙代が勿体無い』とか『インク代の無駄遣い』とか『郵便代も水の泡』とか、言わないでよ!」


「私はそこまで言ってませんし、お金の話はしてません。」


ともかく、部外者は手も口も出してはならない類のことだ。二人は『クリスの気持ちについては、知らないふりをする』という結論で互いに頷きあい、ひとまず昼食の後片付けに取り掛かった。



***



ローレルとサクが神殿を出たのは、お昼を過ぎた頃だった。頭上の太陽は聖峰をますます白く輝かせ、そこかしこに光を弾き、神殿の壁の灰色も森の緑すらも眩しく見せている。それまで薄暗い神殿の中にいたこともあり、二人は木製の大扉を出てから森に入るまで、目を眇めながら歩いた。


神殿は大盛況だが、ほとんどの巡礼者は馬車を利用するため、歩く人のための小道は打って変わって閑散としている。森の中へと入れば、自動的に”人払い”状態となった。


サクは、神殿の中で聞かされた話を反芻しながら歩いていた。


「ローレル……司祭長様の話、どう思う?」


「どうって……今のところ俺たちには関係のないことだが」


鳶色の瞳に訝しげな色を宿して、大柄の祈祷師は眉根を寄せた。


「万が一、ランチェスタの呪術師連中が関わってるってんなら話は別だ。」


入殿手続きの済んだローレルとサクが案内されたのは、司祭長の執務室だった。柔和な物腰で、くしゃっとした笑顔がチャーミングだとホーエンドルフの奥様方に人気の司祭長だが、今日は珍しく真面目な顔をして待ち構えていた。そして、そこで知らされた内容は、なかなかに不穏なものだった。


『実はね、”神書ハイリゲ”が1冊……なくなっちゃったんだよ』


神書ハイリゲ”とは、ホーエンベルク神殿の司祭たちが大切に守り後世に伝え残した古い6つの書物の総称であり、ファイエルベルク国の要とも言える大切なものだ。古代エメロニアの台頭と彼らによる近隣小国の制圧が発端となって起こった”大陸統一戦争”について詳しく書かれている。歴史書でありながら、”第三の神事”に関する研究書という側面もあり、特に”呪詛”についての詳述は、他国に残る資料とは比較にならないほどだ。


原本は、神殿の再奥といっていいような場所にある書庫に収蔵されている。幾重もの扉で厳重に保管されており、ほとんど人の目に触れることはない。しかし、呪術師の力を封じる方法や呪詛を解く方法などについても書かれており、いつの時代も司祭たちがその知識を保持していられるようにと、研究用に定期的に写本される。ちなみに祈祷師には口承でのみ伝えられる。


この度『紛失』したのは研究用の写本で、”第六の書”とのことだった。第六の書には、”山の神様の奇跡”についての詳細が記されている。そして、写本とはいえその中身は機密事項だ。触れることができるのは、司祭たちだけ……。


司祭長は紛失したというような言い方だったが、二人は盗難だと感じている。限られた人間しか手にすることのない書物で、しかも、誰がいつ手にしたのか、詳細に記録まで取っている。もし司祭長のいうように『紛失した』となれば、誰が失くしたのかすぐに分かるだろうし、わざわざホーエンドルフに住むローレルとサクを呼び出して『君たち、心当たりない?』なんて尋ねることもしないはずだ。



森を抜け、二人は牧草地まで下ってきた。日の長い夏場は、日没までたっぷり時間がある。牛飼いや山羊飼いの少年たちは、なんとなく聖峰を見上げていたり、岩陰でのんびり午睡を楽しんでいたり、それぞれ好きに過ごしている。


ローレルは、テーブルに飾るための花を摘んでくるようにハナに頼まれていたことを思い出した。道端のものを適当に採りながら、サクにも手伝うように目で促す。二人は、それぞれ片手に小さな花束を持ち、再び街へと下る道を進み始めた。


「……でもまあ、なんで俺たちが名指しで呼び出されたのか、その理由だけは分かったな。」


「そうだね……というか、ローレルにも読めるんだ。」


「おい、バカにすんな。『にも』って何だよ。」


古い名前も妖の力もとっくに捨てたとはいえ、ローレルも一応エメロニア傍流の人間だ。父親から”第三の神事”の一部である”知識”だけは受け継いでいる。


エメロニア家の末裔である彼らは、その血で妖の力を継承し、そして知識として”古語”での読み書きを身につける。



そう、神書(ハイリゲ)は何故か”古代エメロニア語”で記されているのだ……。


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