プロポーズの結末
さらさらと吹き抜ける風に揺れて、木漏れ日が道に踊る午後。
ホーエンドルフから少し離れたところにあるリリス村を訪れていたフェリスとサクは、赤い実がいっぱい入った籠をそれぞれ手に提げ、急ぐでもなくのんびりと帰り道を歩いていた。
「こんなにたくさん……あのおばあさん、一人で集めたなんてすごいね。」
「たくさん採れる秘密の場所があるらしいの。どこなのかは教えてはいただけないのだけど、こうやって毎年たくさん分けてくださるのよ。」
籠ふたつ分もの木苺を持たせてくれたリリス村のエノルおばあさんは、昨年の冬、フェリスのために白いミトンを編んでプレゼントしてくれた人だ。
「おばあさんがあまり無理をなさらないように、気にかけてほしいの。」
昨年も木苺は豊作だった。それで張り切りすぎたのか、夏の終わり頃に体調を崩してしまったのだ。サクは承知したというように口元に笑みを浮かべた後、籠の中からベリーをひとつ摘んで口に入れた。
明日の夏至のお祭のが終われば、フェリスはランチェスタ王国に向かう。司祭長から直々に任じられた仕事だ。昨年のグロースフェルトでの仕事のように、しばらくの間、ファイエルベルクを離れることになるだろう。
その間、フェリスの担当集落はまた代理の祈祷師が回ってくれることになっている。しかし最近はランチェスタへ派遣される祈祷師が増えているため、国内の各集落を訪れる頻度を減らすことで何とか対応しているというのが現状だ。手が足りない祈祷師協会から、フェリスが巡回していたホーエンドルフの近くの集落については、サクにも伝ってほしいとの依頼があった。
人と関わることが苦手なサクだが、週に一、二度のことなら……ということで引き受けた。それでさっそく、今日は引き継ぎのため、フェリスに連れられて近くの村をいくつか訪問したのだ。
「サク、これからはずいぶんと忙しくなるわね。」
他にも、薬師としてのローレルの仕事も肩代わりする。薬の材料集めだけでなく、作った薬を納めるため祈祷師協会やホーエンベルク神殿へも足繁く通うことになるだろう。
フェリスは、少し前を歩く亜麻色の髪の青年を、心配そうに見上げた。
「無理しないでね、サク。会長様もザーシャおばさんも、気にかけてくださるとおっしゃってるのだけど、夏はみんな忙しくしてるから……んっ」
口の中に甘酸っぱい香りが広がる。急に立ち止まったサクが、籠のラズベリーをひとつ、フェリスの口に入れたのだ。
「大丈夫だよ、フェリス。」
サクは、心配するフェリスを安心させるように微笑んだ後、ところで……と、表情を改めて話題を変えた。
「それよりも、出かける前に話し合っておきたいんだけど……君のプロポーズのこと。」
「そうだわ……わたくし、あなたに謝らなくてはと思っていたのよ。」
神書の事件や何やで、そのことについて二人だけで話し合う時間をずっと取れずにいた。
フェリスは道の小脇に据えられた休憩用の丸太のベンチにサクを誘って、そこに並んで腰掛けた。
「わたくし、先生とハナのこともあって、あなたの気持ちも考えずに急かすようなことをしてしまったわ。本当にごめんなさい。一緒にお仕事をするようになって思ったのだけど……サクだったら、祈祷師としてのわたくしでも受け入れてくれると思って……」
勝手な考えなのに、押し付けるようなことをしてしまった……フェリスは目を伏せて反省し、少しして再びその大きな瑠璃色の瞳をサクに向けた。
「でも、ちゃんとあなたのことを幸せにしたいって、本当に思っているのよ?」
呪術師の家に生まれ、虐げられるように生きてきたサクに……グロースフェルト城の大聖堂で、自分を消し去りたいと言って涙を流した元呪術師に……これからは生まれてきて良かったと思えるような人生を歩んでほしい。ともに暮らすことで、一番近くでそのお手伝いができるかもしれない。
「だから、改めてわたくしとの結婚のこと、考えてほしいの。」
今度は、決断を急がせたりはしないから……そういってフェリスは、サクの碧い目を覗き込んだ。
真摯な眼差しで言葉を待つ女祈祷師を、元呪術師は相変わらず穏やかな表情のまま見つめている。
おもむろに、視線を外し目を伏せ、小さく息を吐いた。
「そう……そんな風に思っていてくれてたんだ。」
ふいに山から吹き降ろしてきた風が、ベンチに腰掛けている二人の前髪や外套の裾を揺らす。
その風は、ザザ……とひとしきりあたりの木々の葉裏を返した後、またどこへともなく吹き去っていった。
人通りもなく、遠くで、近くで、鳥のさえずりが響くだけの閑やかな森の道。
しばらくして、サクは落ち着いた声色で話し始めた。
「フェリス……僕は今まで一度も、幸せになりたいと思ったことはなかったよ。」
思ってもみなかった言葉にフェリスは戸惑う。
「どうして……どうしてそんなことを言うの?」
「償いたい。僕が望むことは、だたそれだけなんだ。」
自分のせいで、ブラン城にいた多くの人の命が失われた。その中には、フェリスの両親も含まれる。誰に許されようとも、自分で自分を許せない……。
「グロースフェルト城で君に力を封印された時に、僕は死ぬことで贖いたいと思った。でも、君はそれすらも許してくれなかった」
「わたくし、そんなつもりでは」
「分かってる。」
今にも泣きそうな祈祷師の頬に、サクはそっと手を当てた。大丈夫、ちゃんと分かってる……。
「これは、神が決めたことで……僕に与えられた償い方なんだって、今は思ってる。」
フェリスを介して、神より与えられた”償い方”。人の命を損なうばかりだったエメロンの名と受け継いだ血の力を捨て、今度は祈祷師と共に人の命を”生かす”という新しい生き方……。
「でも、幸せにはなりたいとは思わないだなんて……。わたくしでは、あなたのことを幸せにはできないの?」
そんな寂しいことを言わないで……いつの間にかフェリスは泣いていた。サクはフェリスの頬に当てていた手で、そこに伝う涙を拭う。
「そうじゃないんだ、フェリス。」
きれいな空色の瞳を細め、元呪術師はひとつひとつ、噛みしめるように言葉を紡いだ。
「気付いたんだ。こういう生き方を選ばせてもらえて……こんな自分の幸せを、こうやって心から願ってくれる人がいて……いつの間にか僕は、もう十分に幸せになってたんだよ。それって全部、君のおかげだろ?」
そういって頭に手を置き、そのまま滑らかな金糸の髪を優しく撫でた。
「君の気持ちはすごく嬉しいのだけど、僕はもう大丈夫だから……ありがとう、フェリス。」
フェリスの視界が再び滲んだ……だが今度はさっきと違って、悲しい涙ではない。人の命を生かすために生きるという”幸せ”……その生き方に、すでにサクは自分の幸福を見出しつつあるという。強い決意のようなものも感じさせるサクの言葉に胸を打たれたのだ。
「サク、それは……あなたの”心の声”なのね?」
だったら……
「あなた”心の声”のために、わたくしにできることは他にないかしら?」
「他にって……これ以上、望むことなどひとつもないんだけど……。」
目の端を拭いながら訊ねるフェリスに、サクは困ったように眉尻を下げた。視線を地面に落として思案していたが、やがてふと思いついたように顔を上げる。
「でも、そうだな……君が……フェリスが今よりももっと幸せになったら……僕は本当に救われる。」
「わたくしが幸せに?」
「君の幸せのために、僕ができることってない?」
「わたくしは今、十分に幸せよ。」
自然と口から出た自分の言葉に、フェリスは、はっと気づいたように眉を上げた。
「あら、わたくし……今、あなたと同じことを言ったわね!」
「じゃあ、どっちみち僕の出番はもう無いってことだね。」
「まあ、サクったら。」
可笑しそうにふふと笑みを漏らすフェリスにつられて笑ったサクは、思い出したように籠の実をいくつか取り出し、『食べる?』と訊ねるように首を傾けた。
大きな手のひらに乗せられたベリーをフェリスはひとつ摘み、口の中に含んだ……またそこに甘酸っぱい香りが広がる。目を細めて口の中の実を味わう祈祷師を見つめながら、元呪術師はつぶやくように言った。
「本当に、君のために何かできるといいんだけど……あ、”夫”としてじゃなく、友人としてね。」
口の両端を持ち上げて付け加えられた最後の言葉に、フェリスの方は口を尖らせる。
「そんなに強調しなくてもいいでしょう?分かったわ、結婚のことはもう言わない。……わたくし、とうとうフラれちゃったのね。ザーシャおばさんやナディおばさんのおっしゃるとおりだわ。」
「なんて言われたの?」
「わたくしのような仕事をしている人が結婚相手を見つけるのは難しいって、おっしゃったのよ。」
そう言って肩を竦めるフェリスの目元は、泣いたために少し赤くなってはいるが、涙はすっかり止まっている。
「祈祷師をお嫁にしてくださる方、ホーエンドルフにいらっしゃるかしら。できればサクみたいにお薬のことに詳しいと助かるのだけど……ザーシャおばさんに相談してみなくちゃ。」
独り言のように呟き、右頬に手を当てて真面目な顔で考え込むフェリスを見て、サクは呆れ顔になった。
「なんていうか、君、結婚に対してすごく現実的だよね。女の子だったらもうちょっと、ほら、夢見がちなところがあってもいいというか……君のことを大切にしてくれる素敵な王子様が白馬に乗って現れる……なんてことがあるかも知れないんだよ?」
サクは、表情に抑揚のないすみれ色の瞳をした陰気な王子が白馬に跨っている様子を思い浮かべて、小さく吹き出した。
フェリスは真面目な顔のまま、眉を顰めてサクを見上げた。
「笑い事ではないわ。ナディおばさんがね、そういうのが一番良くないっておっしゃってるの。『結婚に夢なんか見ちゃいけない、分相応がいいんだ』って。」
人差し指を立て口調を真似て話すフェリスを、半眼で眺めるサクだった。
「なんでも鵜呑みにしちゃう子に、余計なこと言うよね二人とも……。」
あの”王子様”は、どうやら考えていた以上に苦労しそうだ。少しは協力してやるか……自分ができる”償い”のひとつとして。
日が少し傾いてきている。
サクは立ち上がり、一度ぐっと背伸びをしてから籠を手に取った。
「でもまあ、今はお互いちゃんと幸せだということなんだね。君にはもっと幸せになってほしいし、素敵な結婚相手が見つかるように……僕も陰ながら応援させてもらうよ。」
幸せになってほしいと思う相手は、もう十分に幸せだと言う……なんとありがたいことだろう。そして、幸せでいてほしいと願い、願われる……そんな思いで結ばれる絆の、なんと温かいことか。
「サク……ありがとう。」
亜麻色の髪に落ちる木漏れ日をまぶしげに見上げ、フェリスはにっこりと微笑んだ。
**
赤い実の詰まった籠を手に、再びゆっくりと森の道を歩き出した二人は、時々その実をつまみ食いしながら担当する集落についてあれこれと話あった。
おおかた、仕事の話が済んだところでサクが話題を変える。
「ところでさ……ランチェスタに同行する”偽司祭”のことなんだけど……」
フェリスにしては珍しく、大きなため息をついた。
「わたくしは止めたのよ……お兄様もパルも、もちろんローレル先生も大反対なの。」
「でも、司祭長は『それがいい』って大喜びだとか……。」
”偽司祭”の同行について大賛成なのは、司祭長ミゲルだけだ。面白がっているだけのようにも見えるが。
「戦える”司祭”がそばにいたら安心だっておっしゃるのよ。」
しかし……
「ランチェスタ聖教会も、もちろん宰相だって……まさかグロースフェルト辺境伯が潜んで来るなんて思ってもないだろうな。」
サクは吹き出すのを堪えるかのように、可笑しそうに目を細めた。
そうなのだ。
クリスが……クリスチアン=グロースフェルト辺境伯が、その身分を”司祭”と偽って同行することになったのだ。
「サイラス様は、何ておっしゃったんだろう。」
クリスはデーネルラントの軍人であり、国の要人でもある。そんな人間を”敵国”に単身送り込むなど、ありえないことだ。
「わたくしも当然、お引き留めになると思っていたのだけど……。」
話を聞いた後、何が面白いのか呵呵大笑し、フェリスやローレル、シルヴィを驚かせた。
『もちろん大反対なのだが……どうせ止めても無駄だろうから。少しの間、猶予をやろう。』
そう言って胸元から何かコインのようなものを取り出し、ハナに差し出した。
『フェリスがランチェスタでの身分を回復した時に、永久に君に返すつもりだったが……悪いがハナ、一度でいいからこれを使わせてはくれないだろうか。必ず無事に、クリスを国に帰してほしい。』
ハナはしばらく老ガリエル伯の手のひらの上にあるものを見つめていたが、思いを決めたように小さく顎を引き、それを自分の手に取った。
必ず生きて戻ることと、期限は一月だけという条件で、サイラスはクリスが彼の思い通りに動くことを許したのだった。
戦場で死ぬのも、戦を止めるために死ぬのも、軍人なら覚悟しておくべきことだ……サイラスの、誰に聞かせるともなく俯き加減にそう呟いた言葉が、今でもフェリスの耳に残っている……。
「わたくし、ちゃんとお役目を果たしたら、必ずみんなで無事に帰って来なくては。」
軍人だから命を犠牲にしてもいいなど、絶対にあってはならないことだ。誰かの私利私欲のために……呪術師たちの呪詛のために……どんな命も失われてははならない。フェリスが司祭長から任じられた”血の役目”とは、きっとそのためのものだ。
瑠璃色の瞳に決意をみなぎらせた女祈祷師に、サクは遠慮気味に声を掛ける。
「あのー……盛り上がってるところ申し訳ないんだけど……そもそも、どうしてそこまでしてクリスが付いてくるか、分かってる?」
サクに訊ねられ、はたと我に返る。
「そうなのよ、分からないの。どうしてなのかしら……」
司祭長との話では、ハナのように”フェリスの護衛”という役回りになる。そしてサイラスの言葉を借りれば、『戦を止める』ということにもなるだろうが。
ランチェスタの呪術師たちは、何度もデーネルラントの国境を襲っている。長い歴史を通してみても、2国間ではこれまでも何度も諍いが起こり、クリスの父親だった人もその戦争で負った怪我で亡くなったと聞く。おそらく、フェリスに課せられた”血の役目”が果たされることで、呪術師の力を削ぎ、そのことが国同士の争いを少なからず収めることにも繋がるのだろうけど……クリスにしてみれば、無用心にも”敵国”に忍び込むことになるのだ。
「クリスはデーネルラントの偉い方なのに、わたくしに付き添ってこんな危険なこと……だからわたくしも反対したのに。」
フェリスの仕事は、いずれは争いの抑止力となるのだろうが、だからといって危険を冒し、身分を偽り、異国の”司祭”に扮してまで一介の祈祷師を守る義理も必要もない。
そんな思いにたどり着くと、フェリスは、なぜかいつも心細くなり……気がつけば、指先は喉元の小さな”六芒星”に触れている……。
にわかに、六芒星のペンダントに触れていたフェリスの白い手を取り、サクはそっと自分の両手の中に包み込んだ。
突然の行為に、フェリスは目を瞬かせる。
「どうしたの、サク?」
小首を傾げてそう訊ねるが、握った手を離さないどころか、ますます強く力を込める……晴れ渡った冬の空のように澄んだ碧眼には、いつの間にか今まで見たこともないような切なげな光が宿っていた。
「フェリス……寂しそうな目をしてる。やっぱり……君には僕が必要なのかな……」
腕にかけられたままの木苺の籠が揺れた拍子に、甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。サクが、両手に取った華奢な手を口元に寄せた……
……途端。
あちこちでガサガサッという葉の擦れる音がして、いつの間にか二人は、六つの瞳に囲まれていた。
「……フェリス様、サク、遅いので迎えに来ました。」
低い声色でそう告げるのは、サクの真後ろで鋭く光る黒いふたつの瞳……ハナだ。
右手の草むらには明るい水色の瞳がふたつ……パラサティナが赤い弓を構えている。
さらに左手には、アメジスト色のふたつの瞳……腰に手を当て、眉間に深い縦じわを作っているクリスがいた。
「あら、みんな……こんなところで何をしているの?」
「わたくしは、森の中をお散歩中に熊が見えたもので……。」
パルは相変わらず弓を構えたまま、にっこりと輝くような笑顔を見せた。
「弓矢を抱えて散歩とは、物騒なご令嬢だな。ちなみに俺は、狼退治だ。」
クリスは眉根を寄せたまま、フェリスの右手を握りしめていたサクの手をパン!と払った。その拍子に、籠の赤い実が幾つかこぼれ落ちる。
フェリスの護衛係は、相変わらずサクの真後ろでじっとしている。
「サク……私はいま、『盗人を、捕らえてみれば我が子なり』といった心境です。」
「君の故郷の言い回しだね、ハナ。というか、僕の背中に当ててるソレ……危ないから仕舞ってくれないかな。」
パルにも『冗談だから。』と言って、弓を下げさせた。
「いや~、まさに『壁に耳あり障子に目あり』だね。みんな、予想以上の反応だよ。」
ははは……と乾いた声を漏らすサクの笑顔は、木陰でも分かるほど不自然に強張っている。
「大丈夫、サク?」
気遣わしげに緋色の外套に手をかけ、覗き込むように見上げるフェリスの肩を、すっと黒衣の青年が後ろから抑えた。
「そいつは大丈夫だ、フェリス。つまらん冗談が言えるくらいだから、けっこう元気なんだろ。」
「クリス様こそ早くフェリシアからその手お離しくださいませ。そうしていただかないとわたくし、今度お会いした時にはあなたと熊をうっかり間違えますわよ?」
パラサティナは満面の笑みを絶やさぬまま……構えはしないものの、手元の弓には再び矢を当てがっている。
「うっかりじゃなくて、わざと間違えるつもりだろ。」
「クリス様、パル様。熊よりもまずはこの狼を始末しましょう。」
「……ハナ、怖いこと言わないで。冗談だって言ってるでしょ。」
静かだった森の道が、急に賑やかになった。
フェリスはふふと小さく笑う。
「こんなところで鉢合わせだなんて、みんなとっても気が合うわね!」
重なり合う枝葉から差し込む穏やかな日差しが、吹き抜ける風に踊り、祈祷師の笑顔の下で揺れる六芒星を小さく煌めかせた。




