光の血
執務室には今、司祭長ミゲル、ローレルとハナ、そしてフェリスだけが残されている。
ミゲルは、再びいつもの柔和で愉しげな様子に戻っている。
「何か聞きたいことがあるようだねぇ。」
白いひげを胸のあたりで撫でながら、目を細めてフェリスに声をかけた。
そうだ、フェリスにはミゲルに訊ねたいと思っていたことがあった。
「司祭長様、第六の書のお話の時に……最後におっしゃった言葉は、どういう意味なのですか?異国の言葉のように聞こえたのですが……」
『ああ、あれか』と思い出したように頷いたミゲルは、ゆっくりと、穏やかな声で再び”あの言葉”を繰り返した。
《 悪しきもの宿りし魂に寄りて さだめて光の血 生まれ落つる 》
「それは古代エメロニアの言葉だな。」
「おお、さすがローレルだねぇ!その通り!」
すかさず反応したローレルに司祭長は大きく頷く。
「神書第六の書の最後に書かれている一文でね。山の神様が我々に残してくれた大切な約束事なんだよ。」
ミゲルは再び、第六の書で語られる”山の神の奇跡”の結末について話し始めた。
「聖峰の頂きで浄めの血を捧げた呪術師の娘は、その後、仲間とともに神殿へ戻る途中で……力尽きてしまったんだよ。」
付き添っていた6人の司祭や呪術師たちは、悲しみに打ちひしがれながらホーエンベルク山の凍った土の中へと娘を埋葬し、彼女のために祈り続けた。すると、いつしか山の上から光の粒が雪のように舞い降り、彼らの耳に”あの言葉”が響いたという……
「400年前の悲劇は、力ある血を持つ一人の呪術師の欲念から始まった。しかし、その力を抑えることのできる血を持つ者もまた、同じ時代に生まれついたというわけで……神は必ず救いの手を差し伸べてくださるということだねぇ。」
生きて戻った6名によって、最初の神書は記された。
彼らは、同じ郷里から出た”悪しき魂”によって引き起こされた悲劇が、二度と繰り返されることのないようにと願い……故国イールズ=エメロニア帝国で見てきたこと、宰相と同化した呪術師のこと、彼や彼に追随する者たちが扱っていた呪詛のこと、それを解呪するために積み重ねられた研究やその経験について……司祭たちの協力を得ながら、すべてを詳細に書き残したのだ。
つまり、神書を紐解くということは、当時の呪術師が扱っていた強力な呪詛についての知識を得ることを意味する。
その神書を欲している者が、ランチェスタ王国にいる……
「……今のランチェスタは、当時のイールズ=エメロニア帝国の様子にとてもよく似ておるねぇ。」
宰相に取り入った呪術師が、強硬派と穏健派の対立を利用し怪しい動きを見せている。10年前のドレア村、8年前のブラン城、そして昨年は再び国境を越えてグロースフェルトを襲い……今回はついに、ホーエンベルク神殿で厳重に守られている神書にまで手を出した。
サクやヨシュアのように妖の力の弱い呪術師には強い呪詛の薬を持たせたり、穏健派の代表格であるピエル=バートル家にまで隠密を忍び込ませたり……そんな彼らを意のままに操り、策を弄し、エトワール宮廷の秩序を乱し続ける力を持つ呪術師が存在するらしい。
例えば、あの”白い外套の呪術師”のように。
フェリスは、再び西向きの窓へと顔を向けた。もしも神書が、彼のような呪術師の手に渡ってしまったら……
「どうもあんまりぐずぐずしてられないみたいだし……私にひとつ考えがあるんだがー。」
そう切り出して語ったミゲルの声は、相変わらず愉しげで柔らかなままだが、その内容は穏やかでなものではなかった。
「フェリス、近いうちに一度ランチェスタに戻ってみないかい?」
一瞬、何を言われているのか理解できないでいた。
「突然何をおっしゃるのですか、ミゲル様!」
「どういうことだ、司祭長!」
フェリスが改めて頭の中でミゲルの言葉を繰り返す前に、ローレルとハナが発言主に詰め寄った。
「どうもこうも、ちょっと帰ってもらうだけじゃない。」
「ちょっと帰るって、その辺の村に出かけてくるのとはわけが違うんだぞ!」
「わかってるってば……怖いのう、ローレル。そんな大声で怒鳴られたら、私の寿命も無駄に縮んじゃうよ。」
「簡単に言いやがって……俺の寿命が縮んだわっ!」
覆いかぶさる勢いで顔を近づける大柄の祈祷師を手元の紙の束で押しのけるように遠ざけ、ミゲルは改めてフェリスに向き合った。
「まずはね、ランチェスタ聖教会の大司教を訪ねておくれ。おまえのこと、待ってると思うから。でね……」
司祭長は引き出しから新しい紙を取り出し、そこに何か書き付け、そして紙の束の中から1枚の書面を取り出した。2枚の紙をトントンと揃え、フェリスに手渡す。
「これはね、私から大司教様へのお手紙。それと、もう一枚は預かってたおまえの名前ね。」
「名前……ですか?」
そうだよ、とミゲルは目を細めて頷いた。
「ランチェスタでは名前がないと、何かと不便だからねぇ。あ、でもおまえはヨルクとは違って、”一時的に”返すだけだから。」
慌てて言い添え、瑠璃色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「無事に役目を果たしたら、またこっちに帰っておいで。その時に、また神殿に名前を預けてくれるのか、そのまま持っておくのか……改めてゆっくり考えるといい。」
フェリスは、2枚の紙を大事そうに胸に押し当てる。いよいよ、わたくしもランチェスタに……。
でも……
「でも司祭長様、わたくしのお役目とは何ですか?」
さらに目を細め、目尻にたくさんシワを作った司祭長ミゲルは、言い淀むことなく目の前の女祈祷師に告げた。
「”光の血”としてのお役目だよ、フェリス。私や、祈祷師協会のダンの見立てに間違いがなければね。」
遠くに響く鐘の音のような、心を落ち着かせる声だった。
「大丈夫、おまえを”花冠の乙女”のようにはしないよ……もちろん聖教会へはうちの司祭にも何人か一緒に向かわせるし。ローレルもハナも、きっとみんな行くよね。」
二人の養い親は、当然だというように首肯する。
「だよね。あと、詳しいことはランチェスタ聖教会の大司教様に……おまえの叔父さんに聞くといいよ。それから……」
ミゲルは白いふさふさの眉毛を上げて、片目をパチリと閉じた。
「おまえの結婚は、そのお役目を果たしてからでも遅くはないと思うよ。」
***
サクに渡された司祭服を着替え、いつもの黒衣に戻ったクリスは今、リヴァージュ荘に借りていた馬を引いて馬車道を下っている。
馬上には、プラチナブロンドの髪をふわふわとなびかせる白い妖精……ではなく、ピエル=バートル公爵令嬢パラサティナがいた。その背には愛用の赤く塗られた弓が担がれている。
一体、この令嬢は何を考えているのか……クリスは盛大にため息をついた。
「あなたは……夜の山を一人で上ってきたのですか?」
「そうです。シルヴァン様に相談したら、有無を言わせず止められましたもので。」
涼しい顔でさらっとそう答えるパラサティナを諌めるように、強く眉根を寄せて見上げる。
「危険なことを……何かあったら、どうなさるおつもりだったのですか。」
狼に襲われていたかもしれないのに、と声色を強めて言った。
「終わったことを後からグチグチとおっしゃるなんて、そういうの、女性に一番嫌われますのよ。」
「嫌われようがどう思われようが、全く構わんね。あなたこそ、シルヴィにこれ以上心配をかけるのはお止しなさい。結婚前に嫌われますよ。」
「クリス様と違って、シルヴァン様は寛大でいらっしゃいますから。」
満面の笑みだ。朝の光も弾きかえすほどの威力がある。この笑顔に当てられて、シルヴィはついつい許してしまうのだろうか。
しかし、その眩しいほどの笑顔に、背中の弓矢は全くそぐわない。
「……長年側に仕えたご自分の侍女を、その矢でどうなさるおつもりだったのですか。」
いささか声が低くなるのは、橋の上から射った矢が、見事なまでにあの侍女を仕留めようとしていたのを思い出したためだ。逃げ道を塞ぐ第一矢、的を固定する第二矢、恐怖と諦念を抱かせ動きを封じる第三矢、そして最後の第四矢は……
「あの者は、わたくしの一族を裏切ったのです。」
パラサティナは、ほんの一瞬だが、眉を曇らせた。さすがに、ウルケほど近くにいた人間に裏切られたことには、少なからずショックを受けたようだ。しかし、すぐに元の涼しい顔に戻る。
「そんなことよりも……あのまま逃してしまえば、いずれはフェリシアの命が危なくなっていたかも知れません。」
フェリスの命……どういうことだ。クリスは言葉を待つように、パラサティナの涼しげな表情を見上げていた。
「ウルケは、おそらく”悪しき魂の宿る者”のもとに向かうところでした。」
「悪しき魂……?」
パラサティナの人離れした美しい横顔が、憂いを帯びてますます清婉さを増す。
「我が国には、その魂を宿した呪術師が潜んでいます。その者は、”光の血”を恐れているのです……わたくしの言うことを、あなたには理解していただけないのでしょうけど。」
そう言って小さく嘆息しながら肩のあたりに手をやり、その白い指先を背中の弓に触れさせた。
「とにかく、ウルケの企みを止めるのはわたくしの役割でした。」
射止めることが叶わず、悔いるような口ぶりだ。
「弓矢で人を討つなど、ご婦人が……いわんや公爵家のご令嬢がなさっていいようなことではありませんよ。」
クリスはパラサティナを強い眼差しで見据え、咎めるように言った。軍人でもない人間が人を射殺すなど、とんでもないことだ。
突然、パラサティナは轡を引き、馬を止めた。
驚く間もなくふわりと馬の背から降り、彼女よりも頭一つ分ほど上背のある青年のアメジスト色の瞳を見返している。
「わたくしには、女である以上に大切な役目があるのです。」
いつも通りの高く通る声音だが、そこには何か重々しい響きが滲んでいた。この令嬢は、こんな厳かにも感じるような声をしていただろうか……
表情を変えることなく、クリスは目の前に立つ友人の婚約者と改めて向き合った。
夏の空を思わせる澄んだ水色の瞳には、これまで見せなかった強い光が宿っている。
「あなたがフェリシアに……あの方にどれほどの想いを寄せていらっしゃるのか分かりませんが、これ以上近づいてはなりません。」
きっぱりとそう告げるパラサティナが、対抗心や嫉妬心を顕しているのでも、ましてやふざけて言っているのでもないということをクリスは感じ取る……彼女は真面目に話をしているのだ。
「あなたは、何も分かってはいません。わたくしたちピエル一族が今にこの血を残す、本当の意味を。」
「本当の意味?」
「……3つの公爵家は、ランチェスタの王を守る3本柱のように言われていますが、そうではありません。」
木々を通して差し込む朝の白い光は、パラサティナの真珠のような肌をますます白く輝かせている。しかしまるで『どんな闇をも寄せ付けぬ』と言わんばかりに、彼女自身が光を放っているようにも錯覚する……クリスは軽く目をすがめた。
光をまとったように見えるその人は、さらに言葉を続けた。
「3つの公爵家は、今では王を守るために存在する”三位一体”のように考えられていますが……ピエル=プリエールの血を、”祈り石”の血を守るために他の2つの石が存在しているというのが正しい言い方です。」
ピエル=プリエール一族は、古来よりその血には不思議の力が宿っている。その血が絶えることのないように、彼らに迫る邪を”払い”、”守る”ために据えられた石の一族、それが”払い石”のピエル=バートル家、”守り石”のピエル=ガルド家なのだ。
「わたくしの家系……バートルの血を受け継ぐ者には、プリエール一族のために戦う使命があります。わたくしはそれを、フェリシアの瑠璃色の瞳を見たときに”自覚”しました。」
……他のバートル家の人間は、誰も覚醒することのなかった血の記憶。
……自分は、プリエール一族に宿る神の力を絶やさぬよう戦う運命にあること。
アナベルによって、生まれてすぐの赤子に引き合わされた幼いパラサティナは、そのことを頭ではなく”血”で理解した。
クリスは、彼女の語る言葉を聞き漏らすことのないよう胸に収めていった。この令嬢は、おかしなことを言っているわけではない……グロースフェルトでフェリスの”解呪”を経験したクリスには分かる。
「今の世に、フェリシアのような人や、わたくしのように血の記憶を持つ者が、時を同じくして生まれてきたことには大きな意味があります。このことは、ランチェスタだとかデーネルラントだとかいうような、国という枠に収まるようなことではありません。」
パラサティナは、そこで一度言葉を切り、目を伏せた。やがて再び開いた瞳には、強いだけではなく、矢のように鋭い光が宿っていた。
「フェリシアにもわたくしにも、悪しき魂を封じるという神の定めた役目があります。それを果たすまで、わたくしたちの血の記憶は、この身をいつまでも捉え続けるでしょう。」
《……もう二度と、あの方を一人置いていくようなことはしたくないのです……》
クリスには理解できない、異国の言葉のようだ。パラサティナは、口の中で何か呟いた後、その水色の瞳を白く輝く聖峰ホーエンベルク山に向けた。
そこから視線を外すことなく、その空の色を映したように美しい瞳を持った令嬢は凛とした声で続けた。
「わたくしとシルヴァン様は、フェリシアをランチェスタに連れて帰るつもりです。」
おおかた予想はしていたが、改めて言われると胸が騒ぐ。ついにフェリスが母国へ……そうなると、クリスがフェリスに会うことはますます難しくなる。ランチェスタとデーネルラントの関係は、まだ互いに”敵国”の域を出ない。
「シルヴァン様のお気持ちはどうあれ……あなたのように国や民を背負うような方は、今、あの方と関わるべきではありません。ましてや”敵国”の要人など、言語道断です。フェリシアのことは、どうか諦めてください。」
そう話す間に、パラサティナはさっと馬に跨り自ら手綱を握った。
「先に戻ります。わたくしが申し上げたこと……よくよくお考えくださいませ。」
そう言い置いて、馬首をめぐらし帰途を走らせた。
あっという間に遠ざかる白い後ろ姿を見送りながら、クリスは頭の中で彼女の話を繰り返す……。
『フェリシアのことは諦めてください。』
あの言葉は、棘があるようにも聞こえるが、クリスの立場を……クリスチアン=グロースフェルト辺境伯としての立場を考えての忠告だ。
不意に、昨夜わずかな時間だが闇の中で自分の胸に閉じ込めた温もりが肌に蘇る。
最初は、小さな小さな、蝋燭の灯火のよう光だった……8年前に小さく灯ったその光は、以来ずっと彼の心の中を照らし、思い出す度に胸を温め続けてきた。
「今さら……水をかけたって消えるわけないだろ。」
口の中でつぶやくように言い、ウーフェル荘へ戻る歩調を早めた。
”血の記憶”だとか”神の定め”とか、頭の芯から理解できるものではないが、フェリスの持つ不思議の力は実際にこの目で見たのだ。また、金鉱が見つかったことで、グロースフェルトに残されたおとぎ話のような『賢者の冒険物語』も、史実に基づいたものだと証明されている。
パラサティナの語ったことだって、ただの絵空事だと断ずる理由がない。
それは同時に、これからフェリスがランチェスタの呪術師に深く関わることになるということを意味する。
俺も行こう。
兄上やおじ上には申し訳ないが、もう少し留守番を任せておいて……いずれにせよ、呪術師の動きを封じることと、自分とシルヴィが成し遂げようとしていることとは、表裏一体の部分があるのだ。
道を覆っていた木々が途切れたところでふと立ち止まり振り返ると、朝日を受け白みを帯びた巨大な建物が見えた。
当初の旅の目的のひとつだった、ホーエンベルク神殿がそこにある。
他にもうひとつ、大きな目的もあったのだが……
「もっと簡単に済む話だと思ってた……」
誰に聞かせるともなく、吐息とともに呟いた。
というか、こんなことに首を突っ込んで、俺の理性……大丈夫なのか?
自分への問いかけに自答できないまま、ホーエンドルフへと続く下り道を再び歩き始めた。




