暁光
暗くじめじめとした木床に背中を預けたまま、クリスは手足に感覚が戻るのを待っていた。
ウルケというピエル=バートル家の侍女に投げつけられた小瓶には、何か薬品のようなものが入っていたようだ。それが気化して、人の体内に入った時に何らかの効果を現すようだが、死ぬようなものではなかった。
彼女が『口元を抑えるように』とヨルクという司祭に指示したのを聞き、クリスも倒れるふりをしながら咄嗟に呼吸を止めたが、少し体に入ったようだ。意識は失うことはなかったが、指先や足先に痺れが残った。ヨルクは、大柄な彼をなんとか背負い上げ、礼拝堂からそう遠くない階段を使い地階へ降りて外へ出たようだ。同じ道を辿れば礼拝堂に戻れるはずだが、残念ながら目印になるようなものは何もなく、詳しい順路はわからない。
フェリスは無事だろうか……
指先から手首、肘、二の腕と、少しずつ確かめるように動かしながら、頭の中は天鵞絨の内側に隠してきた祈祷師のことでいっぱいだった。
相手は剣を持っていたとはいえ、体術に優れるクリスにとってはそれほど恐れることではない。それに、ベンチや椅子、金属製の燭台など、武器になりえるものはいくらでも手に入る……が、薬を使われたのは計算外だった。”呪詛”と思われる麻酔薬を使い、さらには”神書”をここから持ち出そうとするあの侍女は、呪術師と関わりのある人物なのだろうか。しかし、彼女はピエル=バートル家付きの人間だ。穏健派の公爵家が、なぜ強硬派に与する呪術師の息が掛かった人間を抱えていたのか……。
手足が思い通りに動くことを確認し、ゆっくりと身を起こしたが、嫌な予感がしてその胸の内に暗澹たる影が差す。
「君、あんまり無茶しないでよ。」
突然かけられた声に驚いて振り向くも、薬の名残か、こめかみにツキンと痛みが走る。それを堪えるようにして闇の中へと目を眇め、声の主を捉えようと感覚を澄ませた。
「僕だよ、クリス。」
その声には聞き覚えがある。
「サク……か?」
ギイ……と細く戸口を開けて部屋の中に月明かりを入れたのは、やはりよく知るその人だった。
「君、一応デーネルラント国の要人なんだから……万が一、辺境伯に何かあったらこの国も敵国扱いされちゃうよ?」
サクは、立ち上がろうとするクリスに肩を貸しながら『好きな女の子のために体張っちゃってる場合じゃないし』とたしなめた。
「説教はいい。フェリスはどうした?」
「ハナがいるから大丈夫だろ?」
適当なこと言うなよ……と寄せられた眉根はそのままに、ふと声色を変える。
「……おまえ、そういえばここで何してる?」
神書を盗んだということで、神殿に捕らえられていると聞いていたが……どうやら違うようだ。
「盗人探しってところかな。君、危ないことしてくれたけど、おかげで一気にカタがつきそうだよ。」
感謝するような言いぶりだが、薄明かりに照らされた口元は引き締められたままだ。
「……神書は、まだ戻ってないんだな。」
「あの人、剣術だけじゃなくて、なんか呪詛も使えるみたいだし。」
神殿の中で刃傷沙汰は当然許されない。かといって、彼女にそれが通じるとは思えず、下手に刺激して他の司祭や神殿内の住人に被害が及ぶことなどあってはならない。
「多分、夜が明ける頃合いを待って、この近くの崖階段からランチェスタに通じる街道へと抜けるつもりじゃないかな……ついでにここに寄って、君を殺してくと思う。」
「殺すって……さらっと言うな。」
「あのヨルクってやつが君をここに放置したのは、それが目的だと思うよ……まあ、まさかこんな早く意識が戻るとは思ってないだろうけどね。」
そのヨルクも、そろそろ副司祭長によって身柄を押さえられることだろう。サクが顛末を知らせておいたのだ。
『一人で動ける?』と確認し、サクはクリスを支える手を離した。
大きく深呼吸し、慎重に肩や首を回してみた。先ほど、一瞬だが目の後ろあたりに感じた突き刺すような痛みも、今はもう感じない。
「返り討ちにしてやろうか。」
「クリスってさ、時々ものすごい陰険で物騒な顔するよね。」
かつて敵としてグロースフェルト城で対峙したことのある元呪術師は、その時の記憶が蘇ったのか若干頬を引きつらせている。
「今すぐにでも俺が代わりに神書とやらを取り返してやりたいところだが……まずはフェリスの無事を確かめたい。」
そう言って、黴臭いその部屋から出ようとしたクリスを、サクが『ちょおっと待った!』と引き止めた。
「そのままじゃ目立つから……これ、着てなよ。」
渡されたものを広げると、それは月明かり中で眠るように横たわる山々を思わせる深い緑色の……司祭服だった。
***
朝靄でけぶるホーエンベルク神殿の前に、萌黄色と緋色のふたつの人影が見える。
「おまえと二人だけで神殿に来る時は、もっと晴れやかな気持ちでいるはずだったんだが……。」
「こんな状況ですので、その話はまた今度にしましょう。」
「そうやってのらりくらりと躱されて、恒例のアレも今年で8回目だ。」
「私の故郷に『七転び八起き』という言葉があります。」
『七転び八起きねぇ』と何の気なしに口の中で繰り返した緋色の外套の大男……ローレルは、ハっと何かに気づいたかのように、隣に立つ美しい黒髪と黒い瞳を持つ”同居人”の方へと顔を向けた。いつものようなやり取りで、うっかりそのまま流してしまいそうになっていたが……
「おい、それって……」
最後まで言葉を待たずして、ハナは神殿の方へと歩みを進める。
「置いていきますよ、ローレル様。大扉は閉まってますので、こっそりお邪魔しますから……早くしないと、また待ちきれずにフェリス様が無茶をなさるかもしれません。」
振り返らずにただ神殿へと近づく女護衛の顔は、道を急いだためか後ろを歩く大柄の祈祷師を意識してか……頬は真っ赤に染まっていた。
刹那、同じように顔を上気させた大男だったが、向こう見ずな”我が娘”のことを思い出し表情を引き締める。
やはり、神書はただの紛失ではなかった。誰が、どんな目的でそれを欲しているのか定かではないが、よりにもよって神殿の中で剣を振り回すような物騒なやつが持ち出そうとしているとは……早くフェリスを、ついでにあの陰気な野郎も助け出さねば。
ふたつの人影は、朝ぼらけに浮かび上がる聖峰を背に、音もなく神殿の正面入り口へと続く細い橋を渡って行った。
***
切り立った崖の上に聳えるホーエンベルク神殿……その一部を岩山に埋め込むようにして建てられた神殿は、総階数5層からなる灰色の石の巨館だ。
正面入口となる木製の大扉や、多くの巡礼者を迎え入れる礼拝堂のある階から上3層を地上階としており、よってその下にある2層は地階ということになる。
ウルケが匿われていたのは、最下層となる地下2階にある工人用の部屋だった。
山を上って来た訪問者が馬や馬車を停め置き、入殿の手続きをするレンガ造りの小屋のある場所は、神殿の大扉からは浅い谷を挟んだところにある。その谷に渡された橋の補修や点検は毎年りんごの花が咲き始める季節に行われる。初夏を迎えるこの時期は、谷の底にある仮小屋も、職工用のその部屋も、誰にも使われることがなく、理由もなくその一画に近付く者はいない。
”協力者”である司祭ヨルクが夜食を運んできた後は、物音どころか、人の気配すら感じなかった。その静寂はウルケが呼吸する音さえも飲み込み、逆に肌に染み入ってくるようにも感じたほどだ。
その張り詰めた闇と静けさを、夜明け前の白み始めた空が溶かしていく……
地階といえども岩山に張り付くようにして建っているため、崖谷側の部屋には、天井近くに明かり取り用の小さな窓が付けられている。ウルケの部屋にも明かり窓があり、まだ仄暗い外光と小鳥のさえずりが、朝の冷ややかな空気とともにそこから流れ込んできていた。
コン、ココン、ココン……
合図のノックだ。
特徴あるリズムのそれは、扉の外にいるのが”協力者”である司祭のヨルクだということを示すもの。
ウルケは、神書を包んだ布を体に巻き付けるようにし、その上から深いオリーブ色の外套を羽織った。その背中には、仮初めの主人であるパラサティナの目を盗み、苦労してリヴァージュ荘に持ち込んだ長剣を背負う。
用心深く扉を引き開ける。
薄暗い廊下を左右に見渡すと、濃緑色の司祭服が左手の角を曲がっていくのをみとめた。
音を立てないように慎重に扉を閉め、同じように左手の角を曲がる。今度は突き当たりを右手に……後続者を待たず、そのの距離を近づけようとしないのは、まもなく夜が明ける時間ということもあるからだろう。万が一の人目を気にしてのこと、ウルケも付かず離れず、前を行く司祭を見逃さないように廊下を進んだ。
濃緑色の司祭服を追うように廊下の突き当たりを右手に折れると、続く廊下の左側面に、外へ通ずると思われる扉が開け放たれていた。”協力者”が『ここから出るように』と開けて行ったようだ。すでにその後ろ姿は廊下の奥だった。
外は、壁燭台の明かりに照らされた廊下よりも少し明るいほどだが、夜中に崖階段を下りるのに比べれば、もう十分に安全だといえる。
ウルケは扉の内側からしばし外の気配を探り、次に頭上に掛かる橋を見上げた。
誰もいない。
再び目を扉の外へと凝らすと、朝もやに霞んではいるが、確かに小さな小屋がある。
昨夜、呪詛で四肢の自由を奪ったグロースフェルト辺境伯が、ヨルクによってそこに置かれているはずだ。
茶褐色の髪をひっつめに結い上げた頭部を外套の頭巾で覆い隠し、足音を立てないように扉の外に出たウルケは、そのまま姿勢を低くたもちながら仮小屋の方へと近づいた。
背中の長剣を抜き、小屋の扉へと手をかける。
扉越しに何の気配も感じないことを確認してから、そっと開けて小屋の中へと入った。
部屋の真ん中に、使い古された麻布で無造作に覆われた人の肢体が転がっている。
布の上から爪先で軽く蹴ってみたが、何も反応がない……
ウルケは剣の柄を順手に持ち替え、切っ先を下に向けて胸のあたりに狙いを定めた。
よりにもよって、自分がこんな大物の首を掻くことになろうとは思わなかった……
戦場ではなくこんな山奥の薄汚い小屋の中で果てる不運を、自ら恨むがいい……!!
バサッ!!
握りしめた柄を頭上より高く持ち上げたところへ、跳ね上がった麻布が刃に絡みついた。
剣を巻き込んだ麻布は何者かによって力一杯引っ張られ、その長剣はあっと言う間にウルケの手から奪い去られる。
思ってもみない展開に驚き大きく見開かれた灰色の虹彩に映るのは……彼女のよく知る女……ハナだった。
突然丸腰になったウルケは、目の間に辺境伯ではなくフェリシアの護衛がいることに動揺したものの、すぐに頭を切り替え、胸元から呪詛毒の入った小瓶を取り出し、蓋を開けて投げつけた。
ハナは臆することなく剣が包まれた布でそれを叩き落とし、その隙に小屋の外へ逃げ出ようとしていたウルケの目の前に迫る。
ウルケはすかさず腰のナイフを引き抜きハナの首元を狙ったが、その刃が肌をかすめる前に同じような短剣で刃先をなぎ払われた。
さきほど自分がされたように、ウルケは自らの外套を剥ぎ取りハナの短剣めがけて投げつけ、その隙に小屋の外へと出た。
朝もやはまだ晴れていないが、これは逆に逃げるには好都合だ。
神殿とは逆方向へと走り去ろうとした、その時。
「おおっと、行かせるわけにはいかないね。行くなら、あんたの持ってる”神書”をこっちに渡してからだ。」
ウルケの進もうとしていた先には、緋色の外套を着た大男……ローレルが立ちはだかっていた。
**
ローレルは背丈ほどの長い杖を振り回しながら、オリーブ色の外套の女に向かっていった。
「もう諦めな。あんたの後ろにいるのは、大陸一の短剣使いだ。」
ウルケの背後では、ハナがじりじりとその距離を詰めつつある。
ローレルとハナに挟まれるようにして、進路も退路も塞がれる……再び、ウルケは胸元へと手をやった。
その時。
ザン!!
呪詛毒を取り出す前に、彼女の足元に上から矢が突き刺さった。
突然の一矢に驚き、その場にいた3人が一斉に空を振り仰ぐと、レンガ小屋と大扉をつなぐ細い橋の上で矢を構える人影が見える。
それが誰かをいち早く察したウルケは、顔面蒼白になり身を翻したが……
ザン!!
2本目の矢はウルケの外套を地面に縫いとめた。その拍子に、地面に倒れこむ……
「やめろ!!」
ローレルが大声で止めるのと、3本目の矢が倒れたウルケの頬をかすめるように突き刺さったのは同時のことだった。
……橋の上には今、二つの人影が見える。
その一つは、真っ白いマントを羽織り、朝の光のように明るい髪を風になびかせながら第四の矢を構えるパサラティナ=ピエル=バートル公爵令嬢。
そしてもう一つは、引き止めるように彼女の肩を抑えている、濃緑色の司祭服に身を包んだクリスだった。




