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ファイエルベルクの祈祷師《2》  作者: 小野田リス
11/20

闇落つる神殿にて

”その者”……ランチェスタ王国ピエル=バートル公爵家の令嬢付き侍女……その名をウルケ=ドゥエメールという女は、今、ホーエンベルク神殿の内部にある一室にて匿われている。


すぐにでも”神書ハイリゲ”を持ち出したいが、今朝方の雨で、街道へと続く近道の崖階段はいつもより滑りやすく危険なため、”協力者”……ヨルクという司祭に『明け方まで待って出たほうが良い』と助言されたのだ。今夜のような雨上がりの夜道を蝋燭の灯りだけで行くよりも、夜明けの薄明かりを頼りに降りるほうが断然、安全で確実だという。


それにしても……


まさかあの場所にグロースフェルト辺境伯が現れるとは思ってもみなかった。


つけられていたのではなく、先にここへ来ていたのだろう。


ウルケは、念のために帯剣しておいて良かったと安堵する。


あの時、気配を感じずあのまま放置していたらと思うと……


幼い頃から両親により密かに鍛えらえていた隠密としての感覚は、やはり鈍ってはいなかった。この時のために、ドゥエメール一族は幼少期から厳しい訓練を始める。それぞれ表向きの主人に仕える頃には、誰にも知られずにあらゆる場所へと忍び込み、どんな密やかな語らいも聞き漏らさずに情報として頭に収めることができるようになっているのだ。


彼女の一族は、”さるお方”の一族のためだけに存在し、その一族に求められれば、手段を選ばずその目的を完遂する。


とはいえ、本当に危うかった。


今更ながら手のひらが冷えてくるのを自覚する。


”さる方”から手紙と共に預かっていた”呪詛”の一つである薬が、結局は役に立った。辺境伯はあの薬により意識を失い、その場に倒れたが……このまま生かしておくわけにはいかない。


しかし、その場で殺すことは”協力者”……ヨルクによって頑なに拒否された。やはり、腐っても聖職者ということか。


ウルケは改めて、布に包まれた”神書ハイリゲ”を手元に引き寄せ、抱きしめるように胸に閉じ込める。


「ついに、あのお方の元へと帰れるわ……。」


どれだけ敬っていようと、思い焦がれていようと、その気持ちは決して表に出すことは許されなかった。


しかし、明日の朝、この”神書ハイリゲ”を持って無事にここを抜け出しランチェスタに戻れば……



コン、ココン、ココン……



小さく扉を叩く音がする。独特のリズムは、その音の主が”協力者ヨルク”であることを伝えるものだ。


ウルケは、それでも用心深く、ゆっくりと扉を開けた。


やはり、そこにはヨルクがひとりで立っていた。手にはパンとミルクの乗った小さなトレーを持っている。『夜食を持ってきたので、入ってもいいか』とのことだった。


さっと辺りの気配を探り、他に誰もいないようだったのでそのまま招き入れる。


「さきほどの男は、橋の下の仮小屋に隠しておきました。崖階段へと通じる出口からだとそこを通りかかるでしょうし……お好きになさってください。」


神殿の外であれば、あとはどうでもいいということか……ではお言葉に甘えて、そこで切り捨てておこう。


「ただ、その仮小屋は正面玄関の真下にあります。橋の修繕で年に数回やってくる工夫こうふのためのものです。今は誰も使っておりませんが……万が一にも参拝客の目にはつかないように願います。」


「ええ、分かりました。」


ウルケの灰色の瞳は、改めて穏やかな面持ちの司祭を捉える。


なぜファイエルベルク神殿の司祭ともあろう者が、我が国の”さるお方”の”協力者”なのか……訊ねたいことは山ほどあるが、それは藪蛇やぶへびというものだ。自分の方にも、訊ねられても答えられないことが多くある。


しばらく探るように見合っていた二人だが、ヨルクの方が先に目を伏せ、『では、これで……。』と静かに言い置き部屋を出て行った。


……いよいよだ。もうすぐ、真の自分に戻れる……!


そしてその先には、”さるお方”が約束してくださった、我が国の女性にはあり得ないような栄誉ある地位が待っている。



***



黒紫色の髪にすみれ色の瞳の少年……小さいクリスが、哀しい目でフェリスを見ている。


「クリス、ほんとうに行っちゃうの?」


少年は、黙ってフェリスの頭に手を置いて、相変わらず哀しそうにな目で見下ろしている。


「明日からはだれが、わたしを馬に乗せてくれるというの?」


気づくと、フェリスの頬をポロポロと伝うものがあった……わたし、泣いているのだわ……


少年は、親指とその付け根の辺りでフェリスの頬を優しく拭い、そこに柔らかくて暖かい唇を寄せた。


視線を合わせるように膝を屈め、フェリスの目を覗き込む。


「おれたちは、家族になるんだろ?」


そうだ、スノーマンをたくさん作った時に、クリスとそう約束をした。


フェリスは、こくんと首を縦にふる。


さっきまで寂しそうに見えたすみれ色の瞳が、嬉しそうに細められた。


「じゃあ、また会える……必ず、会いにくるよ。」


クリスの言葉に、フェリスは、優しかった兄の言葉を重ねる……『必ず、帰ってくるよ……』そう言って旅立った”おにいさま”は、もう何年も戻ってはきていない。


そのことを思い出したフェリスは、ますます涙を溢れさせた。


……クリスも、同じようにまたずっと会えないままになるのだわ……


哀しくて、寂しくて……頭を撫でていた”大好き”なその人の手が離れていくのが、名残惜しい気持ちで……


そんな哀しい気持ちもまるごと包み込むように、”お母さま”の腕がフェリスにまわされた。


「フェリシア……必ず、また会えるわ……お母さまが、必ず叶えてあげる。」


とてもきれいな、お山の色とおなじ、お母さまのひとみの色……


……必ず、叶えてあげる………


**


「フェリス様……フェリス様……!」


揺さぶられるように抱きかかえられていることを自覚して、フェリスは少し頭が痛むのを堪えるように目を開けた。


何も見えない……闇の中にいる。


しかし、体にまわされている腕が誰のものなのか、フェリスはちゃんと分かっている。


「ハナ……」


ついさっきまでの記憶では、同じようにこの狭い空間でフェリスに腕を回していたのは、クリスだった。


「そうだわ……ハナ、クリスはどこ?」


ハナは、分からないというように言葉を詰まらせた。


ひとまず二人は、暗くて狭い蝋燭台の下から出ることにした。


大扉が閉まる前までは、数多くの奉納の蝋燭が灯されていたが、今はそのほとんどが消えており、かすかに二人の顔を照らすのみだ。


フェリスは、クリスがどこにもいないことに不安を覚えながらも、今はその気持ちを押さえ込み、記憶が途切れる寸前に起こったできごとをハナに伝えた。


ハナは注意深くフェリスの話に聞き入っていたが、やがてその表情は険しいものとなる……


「確かにその人は”ヨルク様”と呼ばれたのですね?」


フェリスは、その時に聞こえてきた言葉をひとつひとつ、確かめるようにして思い出していた。


「……ええ、確かにそう言ったわ。その男の人の声には、聞き覚えがあったもの。」


……それに。


「それに、”ヨルク様”と言ったもう一人の声にも、聞き覚えがあるわ。」


「女性……だったんですね?」


そう、間違いない。もう一つの足音の主は、顔は見えなかったがその声は確かに女性のものだった。つい最近、耳にしている声だ。


どうしようもなく、胸がざわざわする………


今すぐにでもクリスを探しに行きたいが、今は落ち着いて、”やるべきこと”を一つずつ確実に進めなくてはならない時だ。


「ハナ、サクには会えたの?」


問われた護衛役は、『いえ……』と詫びるように短く言った。


「ただ……”捕らえられている”というのは、正しくはないようです。」


ハナは、司祭長と副司祭長は確かに同じ部屋にいたが、そこに尋問対象であるサクはいなかったこと……彼らが何かを待っている様子だったが、特に険しい顔をしているわけでも、戸惑っていたり慌てているような様子もなく穏やかな面持ちだったこと……などを、主人あるじである女祈祷師に伝えた。


神殿内の、忍びこめる場所は全て調べたうえで知ることができたのは、それが全てだったとハナは言う。


ハナがそう言うからには、サクに関してはこれ以上、探りようがなさそうだとフェリスは判断する。右頬に手を当てて少し考えを巡らし……最後にハナに言った。


「ハナ、今から大急ぎでローレル先生にこれまでのことを伝えに戻ってほしいの。」


サクは拘留されている様子ではないこと、また、”神書ハイリゲ”を盗んだのはヨルクだと思われること、そのヨルクは、とある女性にそれを渡すつもりでいること……


そして、クリスがいなくなってしまったこと……


フェリスが”大急ぎで”と言っているのは、つまりはハナの特殊な能力を活かしてできるだけ早くホーエンドルフに戻れという意味だ。その場合、フェリスを伴って移動することは叶わない。


「フェリス様は……どうなさるおつもりですか?」


黒い瞳に映る蝋燭の灯が、ハナの切れ長の目の中で揺らぐ。


護衛の心配を察したフェリスは、安心させるようにゆったりとした笑みを見せた。


「大丈夫よ……ここで待っているわ。」


天鵞絨で囲われた蝋燭台に視線を留める。


クリスが、命がけで助けてくれた場所……


「ハナ、急いでほしいの。相手は剣を持っていたわ。あなた一人で彼らを探すのは危険なことだし、そんなことはさせたくないの!だけど……このままでは、クリスも危ないわ。」


ローレルにも知らせた方がいい。できるだけ早く……!


ハナは、『必ずおひとりでは行動しないと約束してください』と厳しい口調で言い置き、再び闇の中へと音もなく溶けていった。


**


フェリスは、そっと目を伏せた。


暗く、音のない礼拝堂の中を、フェリスの研ぎ澄まされた心の目が隅々まで見渡し、あらゆる気配を探る……


……誰もいない。


ハナも無事に、神殿の外へと出たようだ。



『ひとりでは動かない』と約束したものの、フェリスの心は、底の方にざらついたものが澱となって重く積もっているかのようで落ち着かない。


危険なのは分かっているが……いま、自分にもできることがあるかも知れない。


フェリスは目を閉じたまま、思いを巡らせた。


ヨルクという司祭や彼と一緒にいた女性に見つからないように、一人でクリスを探し出すのは危険なことだ。あの女性は剣を持っている。


しかし、”神書ハイリゲ”が彼らによって持ち出されたことを司祭長様にお伝えするのはどうだろう……


フェリスは何度も神殿ここには来ており、内部の様子は粗方あらかた、頭に入っている。それに、司祭長の執務室なら、今いる礼拝堂からはそう遠くない。聖域サンクチュアリの扉の向こう側ではあるが、祈祷師である彼女は一般の参拝者とは違って、奥に入ることを許されている。


行こう。


司祭長様にお会いし、勝手に礼拝堂ここに留まっていたことをお詫びして、見聞きしたことをすべてお伝えして……そして、皆でクリスを探してもらうようにお願いしよう。


そう心に決めると、胸に溜まっていた澱が少しずつ消えていくのを感じる。フェリスは心を落ち着かせるように、意識しながらゆっくりとした呼吸を繰り返した。


……こうして暗闇の中にいると、つい先ほどまで右側に感じていたクリスの温もりが思い出される。


そして再び目を開け、今度は礼拝堂の再奥……聖域サンクチュアリのその奥にある祭壇の方へと顔を向けた。


闇の中で目を慣らすと、やがて、月明かりを受けたステンドグラスが、青みを帯びた淡い光を床に落としているのが見える。


そのステンドグラスは、昼間であれば光源となる太陽の動きに合わせて複雑に変化しながら、色とりどりの宝石を散りばめたように鮮やかな光をそこかしこに投げかけるのだ。


そして、その巨大な万華鏡のようなステンドグラスを挟むように、左右の壁面には2枚の色鮮やかな刺繍が施されたタペストリーが掛けられている。左側には、山の神様に祈りを捧げる”花冠の乙女”が、右側には、山や森、そして後光を背負うホーエンベルク山が描かれている。


フェリスは、月明かりをうけておぼろげに壁に浮かぶ”花冠の乙女”と”ホーエンベルク山”をしばらく見つめた後、両手を胸のところで結び頭を垂れた。


山の神様……どうか……どうかクリスをお守りください……!

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