ホーエンベルク神殿
フェリスとハナが、いつもの濃紺色の長い外套とファイエルベルク自警団の制服という装いで神殿に現れた頃には、太陽は聖峰ホーエンベルク山の背中へとすっかり隠れてしまっていた。朝方の雨で艶を得た山々の夕映えも徐々に宵闇の中へと溶けてゆき、神殿に着いた頃にはすでに黒い影となっていた。
その時間ともなると、さすがに礼拝者の列もなく、フェリスたちはすぐに中へと通された。
大扉を入ってすぐのところに、先に来ていたローレルとラドル、そしてクリスが立っている。
「先生……サクは、どうして……?」
「リヴァージュ荘へ知らせに来た司祭の話だと、”神書”を盗み出したのはあいつだということだ。」
「そんな……」
”神書”は神殿にとって、いや、ファイエルベルク国にとっても大切なものだ。そんな大事なものを盗むなど……サクがそんなことをするはずはない。
彼に会って、話を聞かなければ……
「サクはいま、どこにいるの?」
「分からない。いま、面会を頼んでいるところだ。」
クリスも神妙な面持ちで、礼拝堂の奥の方へと目を向けている。
大扉を入り、そこから続く広くて長い廊下の先に、天井の高い巨大な礼拝堂がある。その礼拝堂の最奥、司祭たちが祈祷や神事を執り行う祭壇のある聖域の手前の左右の壁には、それぞれさらに奥に続く建物へとつながる扉がある。一般の参拝客には立ち入りを許されていないその場所で司祭たちは暮らし、日々の執務をこなしている。
捕らえた呪術師たちの収容所も、そして力を失った元呪術師たちの暮らす場所も、そのどこかにある。
そして、詳しい場所は秘されているが、”神書”が保管されている書庫も、この神殿の奥のどこかだと聞く。
神殿は、大昔の”大陸統一戦争”以来、何百年もかけて増改築を繰り返している。もともと巨大な建築物ではあったが、今となっては、長年そこで暮らす司祭であっても、奥まった場所ともなると自分がどこにいるのか分からなくなるほど、複雑な作りになっているという……
聖域の側にある扉が開き、一人の司祭が現れた。
「お待たせいたしました。私は、ヨルクと申します……神殿での聖務の他に、国内の各地を周って古い伝承や絵画、書物を集めたり、集めた蔵書の目録作りをしている者です。」
夏の山を思わせる深い緑色の祭服を身につけた背の高い司祭が、穏やかな笑みを湛えながら自らを紹介した。
その笑顔とは対照的に、続けられた言葉は厳しい内容のものだった。
「サクという元呪術師を捕らえたのは、司祭長様のご指示によります。昨日、司祭長様が問い詰めたところ、自分が盗んだと告白しました。」
フェリスは息を飲んだ。
……そんな……そんなはずはない!
「いや、それはおかしい。実は昨日、私もその元呪術師と共に司祭長の部屋にいたのです。」
狼狽えるフェリスの背に、”大丈夫だ”というように右手を添えたクリスは、『その時の面会では、そのような様子はまったくなかったが……?』とさらに仔細を尋ねるように鋭い眼光を向けた。
ローレルも信じられないといった表情で、『とにかく一度、サクに会わせて欲しい』と頼んだが、その背の高い司祭は目を伏せて『残念ですが、それはできません』と穏やかに言うのみだ。
「サクが盗んだっていう証拠、あるの?!」
たまらずといったように、ラドルがヨルクに詰め寄った。問われた彼は眉尻を下げる。
「証拠も何も、本人がそう言っているのです。とはいえ、彼は”神書”をどうやって盗んだのか、またどこに隠し持っているのかについては、何も語ろうとしません。」
そしてその後は、『私も彼が盗んだとは思えないのですが……』と困ったように微笑むだけだった。
「とにかく、今日はもうお帰りください。サクは今後も神殿で収容します。引き続き、司祭長様と副司祭長さまが事情をお尋ねになるそうです。」
そう言って一礼すると、ヨルクは元来た扉の向こうへと、吸い込まれるようにして入っていった。
……どういうことだろう。
フェリスは、サクが自分たちを裏切るようなことをするはずがないと揺るぎなく信じている。
何か事情があるに違いない。
誰にも気づかれないように、さっとハナに目を向ける。彼女は心得たと言うように、わずかに顎を引いた。
「ローレル先生、先にラドルを連れてホーエンドルフに戻っていてくださいますか?わたくしは……」
瑠璃色の瞳は、礼拝堂の奥……祭壇に向けられている。
「せっかく参りましたので、ゆっくりお祈りをしてしてからハナと一緒に帰ります。」
心が決まれば、戸惑いも消えていく。フェリスは、背中を支えるように手を当ててくれている長身の青年にも笑顔を向け、ウーフェル荘に戻るようにと勧めた。
フェリスを待つと言い張るローレルに、ハナは『あなたは今夜、夕食係ですね。』と短く言う。自分の役割を思い出した大柄の祈祷師は、見習いの少年を連れてしぶしぶといったように大扉を出て行った。
クリスも『二人とも、夜道は気をつけるように』と言い残し、ローレルたちを追うように外へ出た。
……いま、礼拝堂に残っているのは、フェリスとハナ、そして数名の参拝客のみ。
フェリスは、その一番後ろ……廊下から礼拝堂に入ってすぐの、薄暗い場所にあるベンチに腰掛け、頭巾を目深にかぶり膝の上で両手を組んだ。
そして、静かに言った。
「ハナ……サクを探してきてくれる?」
護衛係は、音も立てず仄暗い部屋の隅から燭台の灯りの届かぬ場所へと移動し、まるで壁の中へと吸い込まれたかのようにその姿と気配を消した。
***
フェリスは、礼拝堂のベンチに静かに腰掛けて、ハナが戻ってくるのを待っていた。
「こんなことだろうと思った。」
突然、隣に座った”その人”の声に、フェリスは聞き覚えがある。
深くかぶった頭巾から伺うように見上げると、そこには黒紫色の髪にスミレ色の瞳があった。
クリスだ。
フェリスは驚いたように丸い目をさらに丸くした。
「あら……どうして戻ってきちゃったの?」
目立たないようにするためか、その黒衣の青年も真面目な顔をして軽く頭を垂れているが……祈るためにそこにいるのではなさそうだ。
クリスは、姿勢はそのままに、視線だけ隣に座る祈祷師へと向けている。
「フェリスが……また何か良からぬことを企んでいるみたいだったから。」
「まあ、”良からぬこと”だなんて……わたくしはただ、ハナにサクの様子を見に行ってもらおうとしただけだわ。」
心外だというように、大きな目をさらに大きくして、ただし声は小さくして抗議した。
「俺たちやここの司祭たちには知られないように探し出して、そのあと勝手に入り込んで、許可なく話を聞くつもりなんだろ?」
すっかり言い当てられ、フェリスは言葉に詰まる。こんなことをして、万が一、ローレルやラドル、クリスまで責められるようなことになってはいけない……そう思って、こういう仕事に長けているハナと二人だけで残ることにしたのだ。
護衛として山の集落を回る仕事にもずっと一緒についてきてくれるハナには、フェリスの意図していることは言葉にせずとも伝わる。
でも……
「でも、どうしてクリスにも分かっちゃったの?」
不思議そうに尋ねる女祈祷師に、青年は俯き加減のまま、口の両端を釣り上げて見せた。
「おまえ……何か隠し事をしているときはいつも、両手を後ろに回して親指を握りしめるんだ。」
ハッと目を見開いたフェリスに、吹き出すのを堪えるように続けて言った。
「子供の頃からの、変わらない癖だよ。」
サクの拘束理由を聞かされ、戸惑っていたフェリスの背中を支えるように手を当てていたクリスには、自分でも意識していなかったその”癖”をばっちり目撃されていたというわけだ。一度は外に出たが、無鉄砲な女祈祷師がまた何か無茶なことをするのではないかと心配になり再び戻って様子を見にきたのだという。
種明かしを聞かされたフェリスは、小さくため息をついた。
「……わたくし、あなたにはこれからもずっと隠し事ができないわね。」
「そういうことだ。」
クリスは、おかしくて堪らないといった風にくつくつと笑いを漏らす。
そうするうちに、暗がりが聖域の方から徐々に近づいてきた……司祭たちが、礼拝堂の壁に等間隔に据えられていた燭台の灯りを順々に消しているのだ。他の数人の司祭たちも、まだ礼拝堂に残っていた参拝客に退出するよう告げて回っている。
まもなく、神殿の大扉が閉じられる時間だ。
「困ったわ……ハナが戻るまでここにいたいのに。」
フェリスは祈るふりを続けたまま、辺りの様子を見渡した。どこか隠れるところがあれば……
そんなフェリスの腕を引いて無理やり立たせたクリスは、司祭たちに気付かれぬように、奉納用の蝋燭台の下へと彼女を押し込み、自身もその狭い空間へと身を隠した。
木枠と薄い天板を組んだだけの蝋燭台の下は、四方を装飾用の厚い天鵞絨で覆われているため、じっとしていれば誰にも見つからずにやり過ごすことができる……
「ありがとう、クリス。」
ちょうどいいところを見つけてくれたクリスに、フェリスはできるだけ小さな声で、謝意を伝えた。
蝋燭台の下は真っ暗で、何がなんだかよく分からないが、とにかくハナが戻って来るまではここにじっとしていよう……
壁の蝋燭を消して歩く音も、礼拝堂に残っていた参拝客にかけられていた声もなくなり、一度、司祭たちが大扉を閉じる大きな音がした後は……何も聞こえなくなった。
あたりは、闇と静寂に包まれている。
そして、暗闇に慣れてきた頃になってようやくフェリスは気付いた……狭い場所だったため、クリスとぴったり寄り添うようにして隠れていたことに。
「あ、の……もう出てもかまわないのじゃない?」
フェリスはまたできるだけ小さな声を心がけて、そうクリスに提案した。
夜目の利くフェリスには、すでにクリスの顔がどれほど近くにあるのか分かる。ふっと息を漏らすような音がしたのは、彼が笑っているのだということを伝えるものだ。
「厚い天鵞絨の中だし、ここにいる方が暖かい。音も響きにくいだろうし。」
確かに、夏とはいえ人気のない夜の神殿は冷えてくるし、この中にいれば小さな話し声なら響くことはない。
だけど……このままこんな狭い場所にくっついて隠れているのは……何だかとても気恥ずかしい。それに、いくら厚い布に遮られているとはいえ、フェリスはいま、自分の鼓動が礼拝堂中に響いているかのようにも感じるのだ。
「じゃ、わ、わたくしは外に……」
這い出そうとしたところを、長い腕に捕まった。腰に巻かれたその腕に軽々と引き寄せられ、そのまま硬い腿の上に乗せられる格好となる。
「じっとしてろ。」
低い小さな声に耳元でそう囁かれ、もう一方の手には頭巾ごと頭を抱えられた。こめかみのあたりに、クリスの首筋の脈動を感じる……
とんでもないことになってるような気がする………
フェリスの右半身は、クリスの体にぴったりとくっついている状態だ。右耳も右の頬もこめかみも、見えてはいないだろうがきっと真っ赤になってるはず……熱くて仕方がない。
しばらく硬直して動けなかったフェリスだが、このままではいけないような気がして、とりあえず自由の利く左手で、クリスの胸をぐいぐいと押してみる。すると、回された両腕にますます力が込められ、なおかつ頭を頬と顎で抑えられてしまった。
これでは、ますます身動きが取れない……。
「温かい……」
「クリス……わたくしは”湯たんぽ”じゃないわ。」
最初はくすくすと笑いながら、自分よりも一回り小柄な祈祷師を外套ごと胸の中へ包み込むように拘束していたクリスだったが、ふいに、フェリスにもわかるほどの鋭い緊張が走った。
「このまま静かにしてろ。誰か来る。」
確かに……気配がする。
ふたつの足音が聞こえる……聖域の方からと、礼拝堂の最後部席……フェリスたちが腰掛けていたあたりとは反対側のベンチからと……。
近づいて来たふたつの足音は、やがて、祈祷師と辺境伯が身を潜めている蝋燭台の前で合流し、止まった。
フェリスは、クリスの胸の中に閉じ込められていることも忘れ、近くに立ち止まる二人の気配に集中した。
話し声がする……
「誰にも気づかれずに……ここに来れましたね?」
柔らかい、男の人の声だ。しかも、聞き覚えがある。
すぐに衣擦れの音がする。男の人の質問に首肯したのか。
「”神書”は、後ほどお渡しします。」
その言葉の後にも、さっきと同じように、布の擦れる音がした。
……”神書”。
フェリスとクリスは、その言葉に反応してさらに緊張するのが互いに感じられた。
「では……こちらへ。」
招くような言葉の後、今度は、もう一人の足音の主からは、”布の音”ではなく”声”が聞こえた。
「……人の気配がします。」
蝋燭台の下に隠れていた二人の体が強張る……。
ズサッ!!
突然、布を裂く音した。
長い剣が蝋燭台の下を覆う天鵞絨を突き刺していることは、夜目の利くフェリスにはちゃんと見えている……そこは、クリスに抱き寄せられていなければ、今頃は自分が突き刺さっていたであろう場所だ。
恐ろしさのあまり、口元を押さえる手から怯える息が漏れる……
「おまえはここにいろ。」
クリスは、天鵞絨から剣が引き抜かれる音や『ここでそのようなものを使うのはお止めください!』と狼狽えるように言う男の声に紛れて、フェリスの耳元でそう囁いたかと思うと素早く彼女を床に降ろし、蝋燭台の下から出て行ってしまった。
クリス……!!
引き止める間もなく表に出たクリスに、足音の主の、驚いたように息を飲む音が聞こえる。
「……どうしてあなたが……。」
取り乱したような男の声に続き、もう一人の声……女性の声が言う。
「ヨルク様、袖で口元を覆ってください。」
言い終わらないうちに、何かガラスのようなものが床に叩きつけられた。
ドサリ……という、人の倒れる音が聞こえる。
すぐに鼻腔の奥を突く匂いがフェリスにも届いた……この匂いには、覚えがある。かつてグロースフェル城の中庭で、白い外套の呪術師に嗅がされた……
記憶を辿ることも、もちろんクリスがその後どうなったのかも確かめることができず、フェリスは天鵞絨の幕の内側で意識を手放すこととなった。
***
「おかしいわね……どこへ行ってしまったのかしら……」
リヴァージュ荘の大階段を、首を傾げながら上がってくるのは、主人の湯浴みの準備を整えた老婦人……アイラ=レノワだ。
「あら、アイラ。どうかしましたの?」
婚約者に『辺境伯へきつく当たるのは止めなさい』と注意されて少し落ち込んでいた直後だったが、アイラの様子が気になったパラサティナの頭の中は、おかげですぐに切り替わった。そういうところは、未来の義妹と同じく無駄に能天気だ。
「ああ、パル様……実は、いないんです。」
「いないって、どなたが?」
答えようとしたところへ、階下から声がかかる。
「おい、アイラ……ああ、パル様。シルヴァン様のお説教はお済みですか?」
妻を探してホールに出てきたジャン=レノワだが、主人も一緒にそこにいることに気づき、笑顔を向けた。
そんな夫に、困ったことが起きたと訴えるようにアイラは眉尻を下げた。
「それがあなた……いないのよ。」
「いないって、誰がだい?」
パルと同じように尋ねる夫に、老婦人は戸惑ったように答えた。
「ウルケが……さっきからどこにも見当たりませんのよ。」
『おかしいですわね……』と口の中でつぶやきながら、先程来から何度となく訪ねた2階にある侍女の部屋を、念のためにともう一度見に行くことにした。
ジャンも『こんな時間に、どこかに出かけたのだろうか』と肩をすくめて、見回りのため建物の外へと出る。
大階段の踊り場にひとり残されたパラサティナの目に、その外見に似つかわしくないほどの鋭い光が宿る……
そして、この”ちょっとした事件”について相談すべく、すぐにシルヴィの部屋へと戻っていった。




