魔王と愉快な男たち
やはり彼女を外に出すべきではなかった。
逃げるかもしれないなんていう器の小さい不安ではなくて、もっと深刻な意味で、今はそう思う。逃げただけなら追えるけれど、彼女の身に何かがあったら取り返しがつかない。
謁見の申し出があった見どころがあるはずの魔族はころりと失神してしまった。周囲にいた配下の魔族に「医務室へ」と命じながら、ルイは玉座の間を出た。
廊下を歩く。恐縮する魔族の中で、やはりビスだけが別格だった。尻尾を大きく膨らませながら後をついて来て、
「エレノアさんに何かあったんだ。こっちへの宣戦布告かにゃん」
「人間界で彼女が傷を負った。詳細は不明、意図も不明だ。人間が意図的に彼女を害したとすれば、喧嘩を売っていないと思う方がおかしいな。彼女は私が追う」
王自ら外に出ることに、疑問は出なかった。エレノアと繋がりのあるルイが直接探索に当たる方がずっと効率的だと、配下の皆は理解している。
「おれも出ていい?」
「残って緊急時に備えてほしい」
「にゃにゃにゃん。何か用意することある?」
「人間界との境近くに配備している魔族に警戒を促すことと、今からでも増員して情報収集に注力するように動いてほしい。特にサルマ神聖国とミルジア帝国周辺に――」
一通り指示を終えると、ビスはにゃんと返事をする。了解という意味らしい。
彼女の髪を頼りにエレノアを捜して走って、こうしていると過去を思い出す。火の記憶。魔物に破壊された町の中で妹は死んでいて、彼女は甚振られていた。
――エリー、エリー、どこですか、どうしてどこにもいないんですか。
彼女が最後にいたのは『実家』近くの森の上空で、そこからぱったりと足取りが追えなくなっている。空に浮いたまま周囲を見るけれど、あの銀色はどこにも見えない。
――ねえ、お返事をしてください。
髪で辿れない。これで考えられる可能性としては、別の世界にいる――つまりは死んだか、逃げたか。
いやそんなはずはない。彼女は帰ってくると約束したのだ、魔術師との約束の意味を彼女は知っているはずだ。絶対にどこかにいる。きっと人間に酷いことをされて、おかしな魔術か何かで帰宅を妨害されているに違いない。
死んでいる可能性は、それこそありえない。
微かな繋がりがまだ消えていない。
探索を再開する。太い木々が林立して、道らしい道はなかった。たしかに彼女の魔力が残っている。この周辺にいたはずだ。こうしている間にも彼女は。
より気配の騒がしい方向に向かうと、いくらか離れた地点に十人近い人間の男の集団がいた。こちらが視認すればあちらの視界にも入ったようで、少々騒がしく話し合いを始める。
これで彼女に無体を働いていたら即座に止めるつもりだったけれど、エレノアを捕えている様子はない。
「おい、あの男」
「どっかのお偉いさんか」
「一人でこんなとこに」
たしかにルイの格好は勘違いされやすいかもしれない。
お偉いさんではあるけれど、人間にとってはただの害悪だろうに。角や獣耳といった魔族らしい特徴がないから、人間の中に混じっても違和感はないだろうけれど。
やがてリーダーらしき人間が小走りで近づいて、ルイの前で立ち止まると、さ、と敬礼の形をとった。気怠い動作で目も死んでいる、だが火薬の臭いが染みつく手練れであることが窺えた。かつての腹心アルスが一瞬被って見えたけれど、よく見れば背丈も髪色もまったくの別人だった。
「ミルジア帝国第三遊撃隊、狙撃班班長ダーヴィン・カッセルです。失礼ですが――」
「すみません、このあたりで妖精を見ませんでしたか?」
話をしている暇はない。
とりあえずこちらの要件を済まそう。
「妖精?」
「おかしなことにどこにもいなくて、逃げないと約束をしたのだが、このあたりで痕跡が消えてしまってな。放浪癖でもあるのか。彼女を知りませんか? 見ませんでしたか? とても美しい妖精だ。一目見たら忘れられないくらいの」
ルイがわざわざ笑みを作って柔らかく対応してあげているのに、話すたび男たちの顔が青くなっていく。班長だけが毅然としていた。
こいつらはエレノアを見たのか、と確信した。
「僕の妻なんです。早く見つけてあげないといけなくて。どこに行ったんですか?」
無言でルイを見つめる男の後方で、愉快な仲間たちが勝手に騒ぎ始める、
「魔王じゃないのか……?」
「まさか。自分一人で出てくるとか無いだろ」
「じゃあ、さっきの妖精は」
――さっきの?
聞き逃せない言葉だった。男たちが一人一本携帯している銃器を、風の魔術でひとつ奪う。この世界にも銃器が開発されていたことは報告を受けて知っていた。
銃身にそうっと人差し指を滑らせる。根元の方から先端部に向けて、外から内側を探り上げる。極小の風に押し上げられて出てきたのは、白く輝く弾丸だった。風に運ばせて、手の平にぽとりと落とす。
「銀、ですか」
班長は「そう、銀です」と返してきた。いい性格をしている。
後方で狼狽える男たちを見る。班長にやっと動きがみられた。死んでいる目はそのままに、何かあればすぐに動けるよう足に力を込めている。
「これで彼女をどうしたんですか?」
ねえ、ほら。
答えろ人間。
「どうしたんですか?」
にこ、と微笑んで、指を鳴らした。
班長以外の男たちが低く呻いた。飛ばした氷の杭が、男たちの足を貫いて地面に縫い付けたのだった。
「まったく、酷いことを。とっても痛かったでしょうに」
これでルイの立場を察したらしく、彼らは「ぐ、ぅ」「……魔王……っ」と果敢にもルイを睨みつける。こうしている暇はないのに。彼女を探さなければいけないから、早く。
「みんなで寄ってたかって彼女を虐めたんですか? どこを撃った? 彼女をどこに連れて行った?」
強情な男たちは口を噛み締めて何も言わない。こちらの問いには答えないくせに、憎しみ溢れる眼光だけが雄弁だった。目は口ほどにものを言うとはこのことだ。けれどそれで伝わるものは欲しい情報ではない。
どうしてこんなにも言葉が通じないのだろう。
同じ言語を使っているはずなのに、返答どころか少々の悲鳴しか聞こえないのだ。ルイは焦っていた。心臓の底がちりちり炙られているようだった、五分の一はすでに真っ黒な灰になっている状況だった。その焦りのとろ火で燃え尽くされてしまった時こそおそらくこの世の終わりで、そんな危機的状況だというのに男たちはまったく呑気なものだった。
こうしている間にも手遅れになったら、どうしてくれるのか。
「魔王ルイ」
「はい」
班長がやっと人間らしくお話をしてくれるのかと期待して、
「おまえは人間だな」
「はい?」
「魔族とは気配が違う。普通ではないが、それでも人間だ」
少々落胆して、
「生物学的には人間のままかもしれませんね、残念ながら」
「ならばその身も、人間のように脆いわけだ」
班長の意図を察して、
「ええその通りです。試してみますか?」
結果はすぐに出た。
号令がない、息の合った一斉斉射だった。銃声が一発分に聞こえるほど完璧な揃い方をしていた。
けれどそれがルイに当たるわけもなく、弾を補充する隙を作ってしまえば、あとはルイにとっては単純な掃討戦になったのだった。
班長以外の男たちは手足を氷の杭で貫かれて、地面や木々で汚い標本のようになっていた。班長は背後の惨状を顧みず――敢えてそうしたのだろうけれど――淡々とルイを見つめる。
「人間でありながら魔物に手を貸すとはどういう気持ちだ」
「言ってもわからないでしょうが、僕としては魔物に手を貸しているつもりはないんですよね。便利な地位を求めたらそういう立場になってしまったというだけで、不可抗力と言いますか、微妙な気分ではあります」
大仰な溜息を吐いた。
「僕は魔物が大っ嫌いなんです」
魔王ルイは魔物も嫌いだ。一部魔族以外の、知性を持たない魔物が。
だって妹を直接殺したのは魔物だ。そこに黒幕がいたとしても、手を下したのは間違いなく魔物なのだ。
人間が嫌いだからといって、魔物が好きというわけではない。その魔物がルイ自身の力のおかげで強くなってしまうという点には思うところがあって、だから勇者ハスミとの旅では、無差別に襲ってくる魔物を粛清していくのが楽しかった。
嫌いな者同士が潰しあってくれるならと、あえて魔物を野放しにしている。
そう考えると、心から存在を許せる相手は、自分が思っていた以上に少なかった。
ルイの親愛ヒエラルキー頂点の三角形にビスがいて、その下に日頃お世話になっている魔族の方々がいて、最下層は人間とその他魔物と三階層になっている。エレノアはといえば、もはや世界を構成する柱としてランクなどつけられず、ピラミッドの欄外を気ままに漂っている。ピラミッドの下からすっぱり切り捨ててはいけるけれど、彼女がいなければそもそもルイが成立しない。ルイにとって、彼女はそういうものだった。
――我ながら愛が重いな。
とどのつまり、彼女が見つからなければ非常にまずかった。
ルイの自我崩壊カウントダウンみたいな、そういう状況だった。
一刻の猶予もない。
だからルイは久しぶりにアレをしようと思い立って、ぽん、と手を打った。
「実験をしましょう」
実験。男たちはしんとする。
手近な班長の首筋に、そうっと指を当てた。愛おしい者に触れるような動作に、班長が薄気味悪そうに眉を寄せる。ルイは別にそういう趣味があるわけでもないけれど、相手の恐怖を煽るのと恋人に触れる動作は、どこか似ていると思う。
「代表としてあなたの記憶を探ります。人格や脳が少し変質するかもしれませんけれど、答えていただけないなら仕方がないですよね」
初めからそうしておけばよかったと独り言ちる。
何かを作るとか移動するとか、そういった外側へ作用する魔術は思いつくだけ完成させたので、今は内側へ向けた魔術を考えるのがマイブームだった。分類でいえば治癒師の技術、その応用だ。かつてエレノアの羽を作ろうとした件が発想の元になっている。
「失礼します」と声をかけて、そしてルイは班長に申し訳程度の魔力を送った。脳の、特に記憶に関する部位を探るように。
班長が、脊髄反射でびくんと跳ねた。
「……ッ! ……ァ゛、ッ!」
「すみません、魔力があったのですね。別人の魔力が入るのはつらいでしょう。本当に申し訳ないです」
相手に魔力が少しでもあることは最初から知っていた。
魔力を持つ人間に別人の魔力が注ぎ込まれるのは、耐えがたい苦痛を伴う。
人間と妖精の違いはあれど、同じような理屈でエレノアも苦しんだ時期があった。無理やり作り上げた血羽が適合しなかった。彼女の悲鳴は聞くたびに心が鑢で削られていくようだった。班長の男が声を出さないように歯をぎりぎりと噛み締める不快な音は、別の意味で聞きたくなかった。
そう、本来なら気絶してもおかしくない苦痛なのだ。
けれど班長は鉄の意志で耐えている。噛み締めすぎた歯が欠けて、噛み締めた唇が切れて血が流れても、血走った瞳でルイを突き刺すように睨むばかり。
立派な上司なのだろう。
けれど現状のルイは、待ったなしの自我崩壊カウントダウン真っ最中だ。今も刻一刻と時間がなくなっているのだ。エレノアの無事が確認できない時間が辛くて、耐えがたくて、トラウマを刺激されすぎてギリギリだ。
相手の自我がどうなったって知ったこっちゃなかった。
――たーん、
愉快な仲間たちの一人から銀の弾丸が飛んできた。先の一瞬の攻防で、敢えて一人だけ撃たずに弾を温存し、隙を狙っていたようだ。
班長の体を少し動かして、盾になってもらった。班長は弾丸が当たっていることなんて気付かず、あるいは部下の失態を気遣ったのか、少しも声を漏らさない。班長の体がどこまで耐えられるか見守る会だった。
そんな最悪の空気はいつまでも続かずに、
「妖精は生きてるッ!」
後方の男のうち、一人がようやく口を開いた。
最もわかりやすく動揺していた男だった。
ルイは班長に送り込んでいた魔力を止めて、一応話は聞いてやると視線で示した。
男は一瞬怯んだけれど再び口を開いて、
「腹にも当たってない! 子も無事で……!」
何を言っているんだこいつは。
ルイが面食らって「は?」と眉を顰めると、逆に男の方が不思議そうな顔をした。子供がどうという話はしていなかったはずなのに。
「腹を、庇っているように見えた、から。妊娠しているのかと……」
「銀髪で青い目の雌妖精だが」
「……あ、ああ」
「…………。」
妖精違いというわけでもないらしい。
子供を作る行為をしていたのだから妊娠も不思議ではなく、今までに兆候が見られなかっただけだ。そうはいっても動揺はすさまじいもので、実感がない。
そうか、子供。
泣きたいほど嬉しいけれど、同じくらいに恐ろしい想像をする。彼女の中にルイの子供がいたなら。――だってこいつらは、銀の弾丸を彼女に。
「……彼女は飛んでいたか。どこに向かっていた」
「魔界の、方に。それでここら辺に落ちたから、捜してて……っ」
空は妖精の得意とする領域だ。それに彼女の実力であれば、敵意ある銃弾を躱すことすらできるはず。そもそも開発されたばかりの銃器の短い射程圏内で、エレノアがその気配に気付かないはずはない。結界を張っていたから油断した、あるいは他のことに気を取られていたのだ。
それが、子供?
ルイは遠慮容赦なく、班長の記憶を盗み見た。
「ッ――!」
がっ、と不必要な声と共に、それが見えた。ほんの少しの映像。
――妖精が飛んでいた。青い空の下、無防備な速度で。けれど彼女の周囲には虹色にたわんだ光沢が見えて、結界を張っていたと確認できた。
――そこらの妖精と同じく呑気なものだった。
――そして、ふわ、と微笑む。腹に手を当てて、そこに大事な宝物をしまい込んでいるような、密やかな笑み。そして聖母のように清らかな横顔だった。
――新しい命を宿した幸福に喜んで、彼女は帰ろうとしていたのだ。
――多幸感あふれる視界の中に、黒い銃口が割入った。
――手慣れたように弾丸を込めた。
――岩場に伏せっているこちらと違って、彼女はふわふわと通り過ぎて、その後姿に、
たーん、
――彼女がふらついた。驚いたように、その場で止まる。彼女がこちらを向く前に、すかさず次々と、男たちが銃弾を撃ち込んでいった。『なあ、本当に――』と気が進まなそうな声は、先の質問に返答してくれた男のものだとわかった。
――彼女が落ちる。
――腹を庇いながら。
そこまで見届けて、ルイはようやく、意識が朦朧としている班長を放した。
――エレノアは逃げずに、魔界に戻ろうとしてくれていた。
帰った先でルイを見つけて、ぱあっと顔を綻ばせて、帰宅の挨拶もままならずに「あのね、実はね」と纏まらない言葉で報告をしてくれるはずだったのだろうに。
それを、この人間たちは。
――人間たちは。
――原因はそれだけか?
『六、見つかる危険性があるなら、常に結界を張ること。
七、何か問題や異変があれば、すぐに帰ってくること』
「あ」
帰ろうとしなければよかったのではないか。
彼女には実家があるのだから、そこにいれば安全だったのではないか。
約束がなくたって、彼女のことだから無邪気な喜びのまま飛び込んできそうだけれど。でもやはり、ルイがそれを強制した事実は否めない。
「…………――あれ?」
頭にどす黒い泥が流れ込むのを感じていた。
なんだか妙に、
「頭が痛いな」
ふふふと不気味に笑った魔王は、男たちをさっさと解放した。妻を害した人間を前に突然興味を失くして、
「さがさなきゃ」
呟いて、またどこかに行ってしまった。
丁寧に氷の杭まで消し去った。虐殺されることを覚悟していた男たちは、一体何なんだ魔王はおかしくなったのかそりゃおかしくなきゃ魔王はできないだろと仲間内で語り合いながら、妖精探索を諦めた。
同時刻。
彼らの故郷ミルジア帝国の上空に、巨大な魔法陣が出現していた。勇者ハスミとの決戦でも一時展開された、魔王ルイらしい、美しく精緻な魔法陣。表されるのは『死』そのもの。
そんなことはつゆも知らない市民たちは、徐々に強まる暴風から逃げて飛び込んだ屋内の窓から、上空をぼけっと見ていた。その中には、男たちの妻や子や恋人や両親や、大切な人たちがいた。
なんだろう。
見える空を端から端まで覆ってなお余りある、あれは魔法陣だ。
この帝国全てを覆うような規模の魔法陣なんて、生まれてこの方見たことがない。
国の魔術師様が暴風を防ぐ魔術を張ってくれたのか。
それにしては風が強くなるばかりだけれど。
やがて帝国で最も実力のある王宮魔術師が、曇り空を背景に青く光る魔法陣を見て、
「……へ、ぇ」
と絶望的な声を漏らして、一瞬にして老け込んだ。
空恐ろしいほど完璧な魔法陣。そこに死の気配を察知してしまって。
この驚異の前に、人間は無力だった。




