魔王と別居
戦争。
耳慣れない言葉に、内腑がひやりとする。
「勇者を返り討ちにし続けた結果、人間も業を煮やしたのでしょう。僕がこの座について結構な時間が経ちましたし、……今日の催しを許可しておいてなんですが、代替わりの時期と考えてもいいんじゃないかと。残念ですが、勇者を退ければ平和になるというものでもありませんでしたね。いえ、引き延ばしの限界とでも言いましょうか」
エレノアから「そんな」と悲鳴が上がりかけるのを、ルイが抑えた。
「どんなに長く君臨した王でも、終わりは必ずあるんです。正直どんな規模になるのかは想像もできませんが、僕が討つか討たれるかの戦いになるでしょう。ビスに外の様子を見に行かせていて、人間の動きが怪しいと報告があったのが半年前です」
思っていた以上に大きな情報で、頬を叩かれた気になる。エレノアが己の内心と決着をつけている間にも、世情は日々動いていたのだ。
「そんな大事なこと、なんで教えてくれなかったの」
「君にやらせることは一つもないからです。僕の妻として存在していること以上の、何も求めていません。それならぎりぎりまで知らないままでいる方がいいと、僕が判断しました」
世界中の人間は僕が嫌いでしょうから、投降すると言っても見逃されることはまずありません。僕も彼らが嫌いなので、そのつもりはさらさらありません。
ルイは柔和な態度でありながら、頑なだった。
人間は大切なものを奪った。この先も奪われるかもしれない。
復讐は理屈じゃない、やったらやり返される、そんな基本的で人間的な感情を、彼は身を以て知っている。だから人間たちが奮起して魔界を攻めてこようと、無理からぬことと理解していた。
壮大で邪悪な『お互い様』。
「ひとたび開戦すれば、君を本当に外には出せません。不特定多数の敵に君を見せるわけにはいかないんです。その気になれば今すぐ銀の首輪をはめて銀の籠で一生飼うこともできますが……、けれど、君の意思も聞くだけ聞いてあげたいとは思っているんです」
だから、と彼は問う。
「外に出たいですか?」
「うん」
「では、こちらからの条件を十個提示します」
彼はエレノアの答えを予想していたように具体的な数字を提示して、滑らかな交渉に入る。
「一、期間は三十日間とします。
二、開戦の気配があればその前に迎えに行きます。
三、君は妖精含めて誰も殺さないこと。
四、帰ってきたら、以降は僕の好きなように束縛させてもらいます。
五、できる限り人間に見つからないこと。
六、見つかる危険性があるなら、常に結界を張ること。
七、何か問題や異変があれば、すぐに帰ってくること」
夫婦の約束事というには物騒な決め事を、ひとつひとつ言い聞かせていく。聞いていなかったと後で言い訳をさせないように。
続いて、
「八、君の生命が絶たれたと感知した時、あるいは三十日を過ぎても帰ってこなかった場合、その時の情勢にかかわらず、人類の十分の一を殺します。さらに三日経つごとに、十分の一ずつ殺します」
「……何それ」
「僕が君を信用して外に出せる、ギリギリの条件ですよ」
そんなの信用じゃない。脅しだ。本気なのと問うまでもなく、彼の瞳は本気だった。
エレノアを逃がさないためにここまでするのか。
「人質ってこと?」
「そうとっていただいても構いません」
「知らない人間を人質にしても見捨てるかもしれないよ。私だって人間は嫌いだし」
「でも、僕が罪のない人間を殺すのは嫌なのでしょう?」
「っ……!」
「だからこの場合、人質は僕自身です。僕が無用な殺戮をしないように、気を付けてお出かけしてきてくださいね」
怖い。
彼の相変わらずの微笑からは、何の感情も読み取れない。
何かないだろうか、彼の気を揺るがす何かが。エレノアは止まりかける思考を必死で回し、
「十分の一ずつ本当に殺せるなら、戦争の意味ないよ。私を十年も閉じ込めようとか、そんなの考える必要ないくらいすぐ終わっちゃうはずだよね」
「僕もまだまだ若輩ですし、戦争の意味をおいそれと口にできるほど悟ってはいませんが。……兵を狙うか、無差別か。責任を負うか、君を追って僕も死ぬか、これくらいの差があることを知っておいてくださいね」
完敗だった。
秩序ある戦争か、心中ありきの虐殺か。それにどれほどの違いがあるのか、エレノアにはわからない。
「…………。」
また一つ大事な用ができた。今の人間界がどうなっているのか、この目で確かめなければ。もう無知のままでいたくないエレノアは、ぐっと固唾を飲み込む。
「九、浮気は厳禁です」
彼はそこまで言うと、
「こんな面倒くさい僕が相手でも、君は悲しんだり、愛したり、してくれるんですか?」
そんなことを聞いてきた。
エレノアは目を丸くして彼を見上げる。人類を殺すだの戦争だの軟禁だのと物騒な言葉を連発しておきながら、なんで今、そんな申し訳なさそうに自嘲なんてしているのか。不安がるポイントが深刻にずれている。
――何を当たり前のことを言っているんだこの男は。
「好きだよ」
「え」
「大好き。好きだからこんなに悩むんだよ。私の羽に触るのはルイだけがいいし、好きじゃないと体を任せたりしないし、二百年も一緒にいない。ルイは妖精研究の権威でしょ。妖精の我儘さを侮っちゃだめだよ」
無邪気で、常日頃から思考が足りない妖精族だ。好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いなのだ。一緒にいたいのに苦しいなんてジレンマに陥ってしまうのだって、それこそ彼を愛しているからだ。
エレノアは自分に失望はしても、彼への想いを疑ったことはない。
でも、
「……ありがとうございます」
明らかに「お世辞でも嬉しいです」という苦笑。エレノアの言葉を完全な嘘とは取らなくても、いざとなれば逃げだすくらいの重さ、その程度でしか伝わっていない。
「本当に好きなんだよ」
「はい」
「あ、愛してるってやつだよ」
「僕も君を愛してますよ」
滅多に言わない言葉を駆使したところで、意味がなかった。
彼の言う愛にはこれまでの様々な情念が宿っていて、痛々しくすらあった。
自分も彼を閉じ込めたいとか、首輪をつけたいとか、そういうことを言い出せばいいのだろうか。エレノアはおかしな方向に考えてしまうけれど、そんな考えもしないことを口にしたところで、彼にますます疑念を与えてしまうだけだろう。
それなら――いや、だからこそ。
個人の愛情表現に差がある以上、やっぱり、世界共通の愛情表現に頼るしかない。
『妖精の月時計』。言わずもがな『魔王様と砂時計』で登場し、妖精ルートで手に入る特殊アイテムだ。妖精が愛を捧げる証として、それを渡す。
言葉だけでは伝わらない想いを、世界の規則に則って手渡すのだ。
月時計を探して、絶対に彼の隣に帰る。
「条件は十個あるんだよね。最後の一つは?」
「君の髪を少しください」
「いいよ、必要なだけ切って」
即答だ。何に使うかなんて野暮なことは聞かなかった。
彼はエレノアの髪のひと房を慎重に切り取って、大事そうに束ねて、またどこからか取り出した小瓶に入れる。小瓶や筆記具、紙などをいつでも使えるように用意しておくのは、彼の魔術師としての習性らしい。
採取された髪が少しでも彼の役に立ってくれるなら、エレノアは嬉しい。
「君から条件などは?」
「そうだなあ……」
ルイのように即座に提示できればいいのだけど、そこまで速く回る頭であれば苦労はしない。
自分の身を彼の好きに愛でさせながら、エレノアはうんうんと一生懸命考えた。
けれどいま望むことといえば、そう多くなかった。
「ひとつ、帰ったら私にもできそうなお仕事を手伝いたい。
ふたつ、帰ったら私を閉じ込めてもいいけど、時々は一緒に空のお散歩してほしいな。
みっつ。私がいなくて寂しくても、浮気はだめ」
妖精の耳に、『魔王陛下万歳!』と景気の良い声が聞こえた。きゅいきゅいと何かの鳴き声もする。魔族は人間よりも多様性があって、パーティー一つにしても文化や種族の違いが見えてくるから面白い。
ルイは彼らに好かれている。この喜びの裏で、人間界がどうなっているのかを考えると複雑だけれど――。
確かめよう。
エレノアの知らない世界。
今まで知ろうとしなかった、きっとろくでもない世界。
自分ばかりがあのゲームに取り残されていた。けれど世界は時間の流れに乗って、知らない場所に向かっている。今なお見えない未来へ進んでいる。その一つの形として『人間との戦争』が、すぐそこに見えている。
「今から別居開始ね」
「仕方がないですね……。あ、念のために今日あげたイヤリングを着けていってくれますか?」
「うん」
「以前にあげた髪飾りも着けていますね、えらいですよ」
「これごひゃのろだから長時間外しておけないんだよ。売値が五百万クランで呪われてるアイテム」
「ごひゃのろってそういう……。今やっと一つの謎が解けました」
嫌に清々しい雰囲気だ。今生の別れでもあるまいに、けれど微かな不安はあって。
彼が作ってくれた籠に飛び込んでしまえば、もしかしたら幸せになれるのかもしれないけれど。――でも。
エレノアは、すう、と息を吸って、
「ひとまず実家に帰らせていただきます」
注:ハッピーエンドです。




