どうして君が
これは彼女の気まぐれなのだろうか。
エレノアを振り返ったまま呆然として、勇者たちの存在を忘れたルイは「エレノア?」と妻の名を呼んだ。疑問と怪訝と心配が、見事に混ざった声色になった。
魔王でいながら、相変わらず自分の前では人間らしい反応をしてくれるルイに、エレノアはお願いだと言い募った。そのまま階段を下りて、赤いカーペットを踏み、戦場へ軽率に参入していく。
それに慌てたのはやはり勇者ではなく、冷酷非道と名高い魔王だ。
「いや、待て。どうして君が」
「お願いだから」
ルイの結界は彼女を弾くことなどできずに、内部へ受け入れてしまう。
とたた、と軽く走って飛び込んで来ようとする彼女を抱き止めようとして、彼は両手を構えた。エレノアも慣れたもので、その胸に躊躇なく突っ込んでいく。清潔で可憐な彼女の香りがルイの鼻をくすぐる。
「ね?」
さらに懐に顔を埋め、上目遣いでおねだり。
こんなあざといことをされたルイは堪ったものではない。
「えっと、あの……そんな……」
少しくらいなら――と、流されそうになった時。
ルイの脳裏に白黒の光景が過ぎった。
――目の前に靡いた銀色。赤いカーペットにころりと転がった『彼女』と目が合った。頬にぴちゃりと跳ねた血。勝利を認めて駆け寄ろうとした愛しい体が、床に崩折れたのが見えた。優しく抱き止めようとしていて彷徨った腕。まるで理解できないと言いたげな青の瞳。その虚無は身を凍えさせる。
……白昼夢だろうか。
途端に、ルイはわざとらしく身を押し付けてくる彼女の柔らかさが恋しくてたまらなくなる。その脆い命が失われることを考え、恐れてしまう。
「……やはり駄目です。待っていなさい」
エレノアの我侭を強く諌めるけれど、彼女はそれでも意思を曲げなかった。
「ルイ少年」
この響きは、ルイを縛る。
そう呼べば彼は逆らわないことを、彼女は知っていた。
ルイがエレノアを叱り付ける時にしばしば「エリー」と呼んで、芯まで言い含めようとするのと同じ。彼女もまた、その『保護者』を思わせる呼び名によって、彼を牽制する。
「お願いだよ」
小動物のようなヒロインらしき態度を抜き去って、そこにいるのは強い瞳をした一匹の妖精だ。
その変化に驚いたルイは、身を離したエレノアに触れようと手を伸ばした。けれどすぐに止めた。
彼女が望んでいるのは守ってくれる夫ではなく、素直な『少年』だ。彼女から発せられる重々しい覚悟の気配と戦闘の危険性と、様々な懸念を織り交ぜて、ルイはたっぷり十秒ほど熟考する。
やがて、苦虫を磨り潰して飲み込んだ顔をした。
「……少年と呼びましたね。禁句一回、十点減点ですよ。後で覚えていてください。君の気が済んだら、後は僕がやります」
ルイは彼女をそこに置いたまま玉座へ向かう。
興を大分削がれたようだ。魔王としての口調を保つのも疲れたらしい。
けれども去り際にエレノアの髪を取りそっと口付けて――という流れるような『愛情表現』兼『当てつけ』は、エレノアの心臓と勇者の精神に抜け目ないダメージを与えた。
「うん」
エレノアは、ルイの背へ綺麗に微笑んだ。
魔王からのお許しは出た。
ようやく勇者と向き合うと、黒のワンピースの端を持ちながら優雅に礼を取る。
「これより私がお相手させていただきます。魔王妃、エレノア・スティラスと申します」
「エレノア……どうして貴女が」
「貴方様が私の前を去るまで、どうぞお見知りおきを」
勇者の言葉など聞かなかった。
勇者は「なぜ」と唇を動かして、エレノアを見つめる。
「我が君は貴方がたを帰さないでしょう。けれど私は優しいので、……退場なさるなら、今すぐにお帰りください。一分ほど時間を差し上げます。それ以降も此処に残ると言うならば、命を落とされることも念頭に置いていてください。よく考えられますよう」
お願い申し上げます。
エレノアは広い空間の隅々にまで染み渡る声で、敵と見做した彼等に通告した。
彼女の独断と温情溢れる御言葉は、当然のことながらルイにも聞こえていた。彼は玉座にて「はあ」と息を吐いただけだった。――何のつもりだかわからないけれど、エレノアは『優しい』から仕方のないことだと思った。
勇者は退かない。エレノアの慈愛の片鱗を垣間見て確信したのか、水を得た魚のごとくに悠々と勢いづいて、彼女の救済を図った。
「貴女は騙されているんだ。あの時に僕を助けてくれた貴女の勇姿を、僕は忘れていない」
「あと三十秒です」
「……エレノア」
騙されている。もしや何か大切なものでも捕られているのか? それとも操られているのか?
彼女の心に響く言葉を投げつけても、エレノアには届かない。
彼女は数字を歌い始めた。
――二十、十九、……十五、…………十。
タイムリミットを数える彼女は、精巧な機械人形のような顔をしていた。
数字は二桁から一桁になり、
「……はち、……なな、……ろく、……ご」
今から魔法陣へ走っても間に合わない時間に突入した。
元より、勇者たちの脳に撤退の文字はなかった。そして数は、なくなる。
「ぜろ」
エレノアは、――既に勇者の背後にいた。
「っ!」
ごきん。金属が折れた音がする。
エレノアの得物――短剣が、勇者の剣に折られた音だった。
反射的に彼女の腕を落とそうとしてしまった勇者はすぐに剣を引き、鍛え上げた己の脚をバネにして、遠く後方に降り立った。
「逃げるなんてだめだよ」
呟いた彼女の手にはまた短剣が握られていて、勇者へ向かって来ようとしていた。
鍔もない、すらりとした形状の軽そうな銀色。一見して上品なシルバーのような。その短剣は先ほど折ったはずだと目を見張った勇者が口を開くが、エレノアの背後にゆらりと忍び寄っていた仲間を見つけて、その名を叫んだ。
――駄目だ、自分は恩人であるエレノアを救いに来たというのに! ここで殺してしまっては意味がないのに!
そんな思いでいるから、まだまだ覚悟は足りていなかった。
この場で、エレノアが魔王側だと認められないのは勇者一人だ。エレノアの背後にいた赤い髪の小さな少女は、「そーれっ」と拳を突き出そうとして――肩にエレノアの刃が掠めた。
「っいい……!?」
反射的に手甲を用いて軌道をずらしていたのは、流石と言える。
しかし少女は安心できなかった。
何せエレノアは、少女を見てすらいなかった。
ひゅっと、片手を背後にやっただけ。その手に短剣が握られていた。少女にはろくに見えもしない速度で刃が放たれたのだ。投擲型かと気付いた時にはもう遅く、少女の肩は薄く切れて赤い血が滴っていた。
エレノアの銀髪がさらりと揺れた。
背後で悔しそうに顔を歪めた少女を背にしたまま、勇者だけに注目していた。そしてその手には、また新たに短剣があった。
万能のエレノアが今現在マイブームとしている武器は、投擲ナイフだ。
精確で無慈悲なる冷たい刃は尽きることなく、投げても折れても彼女の手に現れる。
彼女は誰に似たのか、戦い方は陰湿だった。何人でかかってこようがお構いなしに、嫌味なほど冷静な顔をして、相手の隙をちょこちょこと突き刺していく。
ルイはその場から動かずに勝利を得るけれど、エレノアは動いて刺す。全くダメージが入らないのと、攻撃をふらりと避けられるのとでは、相手側へかかる精神的負担に大差はない。それでもエレノアは自分を少しも残酷だとは思っていないから、彼女も結構な悪趣味だとルイは思う。
勇者一行の体力を落とし込んだ後で、エレノアは「ねえ、ルイ」と奥の玉座に声をかけた。
彼女は戦えるけれど、人間や同族相手にとどめは刺せない。だから最後は魔王に頼みたいはずだ。ルイはそう考えて、勇者一行の始末をどうするか考えながら返事をした。彼女から「最後だけお願いね」と言われれば、すぐにでも実行できるように心の準備を始めながら。
けれど彼女の要望は、予想と違う。
「ごめん、ちょっと魔力もらうね」
「え……あれですか?」
「うん」
「……どうしてもですか?」
「う、ん。ごめんね。すぐに終わるからね、あの……」
「……無理はしないでくださいね」
魔王からの許可を得たエレノアは、その羽を広げた。ぴんと張られて青銀に輝く。勇者の羽とは真逆に、力強さとは全く無縁の繊細な羽だった。
彼女は妖精だ。妖精の中でも美しい個体だ。
その神聖はやがて赤に穢される。
「ふぁ……っ」
エレノアの頬が赤らんだ。つい漏れてしまった恥ずかしい声を抑え込もうとして、口に手の甲を押し当てる。熱い吐息はどうしようもなくて、戦場だというのに、エレノアはその瞳をぎゅうと苦しげに瞑った。肌が風に撫でられるだけでも『だめ』になってしまいそうな身体を、己の腕で抱き締めた。
いやらしく可憐な彼女。
大きな快楽に耐える煽情的な雰囲気は、この場においては、異様だ。彼女も今がとても恥ずかしい状態であることは自覚しているらしい。
ルイは「……だからその顔を他所に見せるなと……」と苦々しい顔をしていた。こんな彼女の姿は自分だけが知っていれば良いと思うのだけれど、これは妖精に大きな魔力を与える上では避けられないことだった。
「は……っ、ふぅ……」
綺麗な生き物の嬌声は、収まりつつある。
彼女の羽は根元から、徐々に、徐々に、赤くなる。
青銀が、黒々とした血の色へと。禍々しい呪いのような、甘くおぞましい異臭を放っていた。
「っ……駄目です、彼女を止めてください!」
青い聖職者の声にはっとした勇者一行は、身悶える魔王妃に向かっていった。
「まさか……人間に毒されていたなんて……!」
勇者が嘆いた。妖精にとって、人間の魔力を『喰わされる』ことは耐え難い屈辱だ。その上でそのまま生かされていただなんて、妖精の尊厳を踏み躙られたようなものだ。――普通の環境で育った、妖精ならば。
けれどエレノアは先ほど、自ずから望んで魔力を受け入れた。
その光景を見ていた勇者は、まだ彼女を取り戻せると思い込めるほど平和ボケしていない。嘗ての命の恩人、エレノアは、もう戻せない。あちら側に行ってしまっていた。
勇者は剣を突き刺そうと構え、黒髪のサムライは声を上げながら疾駆する。
エレノアの羽脈は、赤で埋め尽くされようとしている。
――いけない。このままでは悪いことになる!
一行の全員の心に浮かんだ、その予感は外れていなかった。
「……え」
零点、れい、れい、れい……。一秒を刻んだ小数点以下の世界で、勇者が視界いっぱいに見たものは。
「 おいしい 」
恍惚としながらにこりと微笑む、エレノアだった。
最初、ルイには、なんだかわからなかった。
だって彼女の背中しか見えなかったから。
彼らの間、あの至近距離間で何が起こったのか分からなかった。そこには致命的な死角があった。
エレノアはそれを利用したのだ。
「……かは……っ」
勇者はよろけて、数歩後ずさった。エレノアからふらふらと離れながら、胸の中央部を抑えていた。
そこに刺さった銀の短剣は、流石に隠しきれなかったようだけれど。
「――勇者様ぁッ!!」
青い聖職者が叫んで、彼に走り寄ろうとしていた。
ぼたぼた、重い水音が鳴る。勇者は剣を落としそうになったけれど、握ったまま耐えていた。
勇者の手で抑えきれなかった流血を見て、ルイはそこでようやく事態を重く捉えた。常ならばもっと働く脳がどうしてこのときばかりは動かなかったのかといえば、予想外の展開だったからだ。
まさかあの、エレノア・スティラスが。
誰かを『殺そうとする』だなんて、そんなの――ありえないことだと思っていた。
けれど勇者の傷から、殺意があったことは明確だ。エレノアの短剣が深々と刺さり込んでいた。
青い聖職者が治癒魔術を唱えようと口を開いて、そして――。
「止めなさい!」
ルイが叫んだ。
エレノアに聞こえていただろうに。
慈愛溢れ優しく柔らかく愛しい彼女は、殺意の手を止めることはなかった。
次の瞬間には、青い聖職者の首に――黒いサムライ、赤い少女にまで。三人それぞれの首から、エレノアの短剣が生やされた。びくびく、と跳ねながら不気味に踊ったかと思うと、彼女たちは床に寝てしまった。黒目はどこを見ているのかもわからなくなって、口からは白い泡が溢れた。蟹のようだけれど、美味しくはなさそうだった。白い泡はだんだん、かわいい桃色になった。
エレノアは彼女たちを一切、全く、見ていなかった。
勇者と離れた分だけ、ゆったりと歩み寄っていき、くるん、くるん、と慣れた手さばきで短剣を回し遊ぶ。
――いけない!
彼女が何を考えてこの凶行に至ったのかわからないけれど、このままでは彼女が同族を殺してしまう。
ルイは咄嗟に手を伸ばして、彼女を拘束するための風を生み出した。
エレノアは、それを予想していた。
伊達に百年間夫婦をしていない。
己に向かってくる風に向かって、夫と同じように手を突き出し、内部に取り込んでいた夫の魔力を一気に放出する。
もちろんそれで魔王本人の魔力に対抗できるとは思っていない。
刃を振るだけの時間を稼げれば良かった。
くるん。
くるん。
――びしゃ。
エレノアは弄んでいた短剣を逆手に持って、あとは薙ぎ払うように無造作に、勇者の首を切った。
淀みも躊躇もなかった。
勇者は胸に刃が刺さったまま、首から真っ赤な命の液体を吹き出していた。
エレノアは踵を軸に、ルイの方に振り返った。スカートの裾がひらりとして可愛らしい。
「えへへ」とはにかんで、その頬には血がべったりと付着していた。右腕は真っ赤に濡れて、ぶらりと下げられている手に握られた刃先から、一滴一滴、妖精の体液が滴った。カーペットの色が濃くなって、黒くなった。
「ほんと、気分最悪だねえ」
「……エリー……なんということを……」
「同族を殺すのって、だめだね。ほんとに壊れてなきゃ、追い詰められてなきゃ……できないんだね」
彼女の手は、震えていた。




