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彼と彼女の事情

 気が付けば魔王城の私室に戻っていた。ルイはもういなかった。

 いつもなら寝ている時間帯だ。寂しいなんて思えずに、ほっと安堵の息を吐いてしまった。

 これで『日常』に戻れるのだと顔を上げると、――エレノアへの責め苦は、まだ続いているようだった。

 彼女は反応することすらできなかった。目の前に繰り返される記憶を眺めていることだけしかできない。

 

 見せてやろうか、


 だなんてそんな恩着せがましいことを言った誰かは、幸せな記憶を無理やりに押し付ける。これがエレノアの精神をどれだけ踏み躙ることか、声の主はきっと理解していてこんなことをするのだろう。

 どうして。誰が。何のために。

 疑問はあっても考えられないほど、エレノアは疲れていた。


 きい、きい、……きい。椅子が揺れている。

 エレノアがよく使うものだけれど、今は半透明のルイが座っていた。毛布に包まれたエレノアを膝に乗せて、暖炉の火に当たっていた。季節は冬らしい。


『君が寒いなんて言うところ、初めて見ましたよ』


 ――そう、体が寒かったんだ。自分の呼吸で喉が凍ってしまいそうだった。

 その体は氷のように冷たいだろうに、ルイは死にかけの妖精をしっかり支えていた。


『欲しいものはありませんか。なんでもいいんですよ。欲しいものじゃなくて、してほしいことでも。僕にできることなら叶えてみせます』


 ルイはエレノアにいつも聞いていた。欲しいものはありますか、と。


『……ぃ』

『っ……なんですか?』


 毛布に包まれたエレノアは、答える。

 ルイは彼女の声を聞き逃すまいと、その口元に耳を寄せた。


『いらない』

『……エリー?』

『……るい、と、いきたい』

『…………』

『こんなに、ぃ、……いた、い……、……いや』


 がさがさに乾いて、声とも呼べない音を、夢を、願いを、希望を、エレノアは発した。

 接続詞すらうまく言えずに、情けないばかりのそれを――エレノアは覚えていた。


『ぁっ……』


 未来のエレノアが冷たく見つめていることも知らずに、毛布に包まれた彼女は痛みに喘ぎ始めた。呻くこともできなくなっていて、それはひゅうひゅうと耳障りな木枯らしのごとき雑音になっていた。

 この時のルイは、元気づけることすらしなくなっていた。

 エレノアの頭を甘えさせるように肩口に寄せて、鎖骨あたりに弱い呼気を感じながら、ゆるりゆるりと頭を撫でて、眠るのを待つだけだった。

 そうして、エレノアが眠りに落ちた後で。


『わかりました』


 ルイが応えた。


『君がこれ以上苦しまないように、頑張りますからね。一緒に生きましょう』


 そう言った彼の目元には、すでに深刻な隈が出来上がっていた。

 ――この上、何を頑張ろうと言うの。

 エレノアは口を開いたけれど、声が届かないことを察した。

 ルイの独白は続く。


『君が元気になったら、そうしたら……そうしたら、家族を増やしてみませんか』


 虚しいばかりだ。

 聞くべき者が腕の中で気を失っているのに、彼は穏やかな顔をしている。ぐったりとしたエレノアの頭を撫でて頬を撫でて、潤いをなくした唇に人差し指を滑らせた。目を愛しげに細めながら、真っ暗な瞳に妻を映していた。


『あの子の代わりではありませんけれど。血の繋がった家族を作りましょう。また君の料理で育てて、僕が教えて、きっと楽しいはずですから。ビスはきっと良いお兄さんになってくれますよ』


 ははは、と。


『だから、とりあえずは君の身体を治して、その後は――』


 ルイはわらう。


『君を怖がらせるものを、どうにかしなければいけませんね』


 静かな狂気を聞き届けたエレノアの瞳から、ぼろりと大粒の涙がこぼれた。

 この部屋で、その日、その瞬間。或いはそれ以前から、少年の心には凶器が光っていたのだろう。

 ――違うよ。

 エレノアが欲しかったのは、エレノアが行きたかった場所は、エレノアが生きたかった鳥籠は、ルイが悪者になる世界ではない。

 あの温かい家で、ルミーナがいる時のように穏やかに、苦痛なく暮らしたかっただけだ。

『戻りたい』と言えなかったのは、ルミーナがもういないからだ。

 だからあの家でなくても、体が痛くなければ、隣にルイがいるなら、それで良かった。


『約束ですよ。君が安全に生きられる世界を――』


 それなのに彼は、彼のやり方で、この『約束』を実行してしまったのだ。




「……ルイ……」


 幻影が消えた室内で、エレノアは彼の名を呟いた。

 彼は変わってしまった。か弱く神聖な重荷を支えようと、身を窶した。

 ――私のために。


『だからルイ少年ってなんで魔王様になるのかなーって』

『魔王になる気はありませんって』


 いつだったか、こんな会話をした。

 いざルイが魔王になって、当然だとさえ思っていた。『ゲーム上』で決められたことだったから。

 目を覚ました時にはすでに手遅れだったし、そんなものだと思考を止めた。

 妹だって失って、人間を極度に嫌っているだろうから、自然なことだと思った。


 しかしまさか、引き金が妖精(じぶん)だとは。

 彼の選択を左右したのが、この出来損ないの妻だとは。


 そんなことを考えずに――考えないようにしていたのに。

 流されるままに生きていたエレノアは、()()()()()()()。――結果として彼を追い詰めた。

 痛い痛いと彼に縋って、時には「生き存えなくてもいい」とさえ発言して、その浅慮が、妹を失ったばかりの彼に「孤独の未来」を押し付けていた。

 生きるための処置を拒絶して、彼を過剰に責めながら、彼に甘やかされた。その結果がこの無様。


『いっそ主人公を迎えて、一度ゲームを再現してみますか?』


 パーティー全員の殺害を視野に入れていた彼の発言に、エレノアは「それもいいね」と明るく答えた。


『勇者一行が死ぬのは、やはり辛いですか?』

『辛い、ね。なんだかんだ言って、私は人間を殺したことはないから。それに、人間だけじゃなくて、ルイもね、なんかこう……遠くに行っちゃう気がする』


 誰のためかも知らないで、エレノアは呑気に不安がっていた。


『私は私のためにこの場所にいる。君が考える必要はない』

『ここはただの箱庭です。ゲームの世界を参考に作られた、小さな世界です』


 理解する機会はいくつもあった。


『お前は悪くない! お前は誰も傷つけていない! 妖精のお前は、私たち人間に振り回されていただけなのだろうな!』


 ――違う。私は一年かけて、彼を崖から突き落とした。


『ただ、ルイの行いが誰のためか、自覚しろッ!』


 ――うん。わかったよ。今やっと、わかったんだよ。


 ごめんなさい。私はこんなになるまで、気づけなかった。

 背に泥と血を浴びる彼の腕の中で、無邪気に笑う白い妖精。

 なんて醜悪で、薄汚くて、穢らわしくて、低劣で、陰湿なのだろう。



 背後でくすくすと、誰かが笑う。

 知らないはずなのに知っている声。女性の声。クレアのような透徹としたものでもなく、ルミーナのようにかわいくもないそれは、どこか自分の声にも似ている。

 貴女は誰。

 そこにいた『誰か』の腕が、エレノアを抱きしめる。


 ――お前のせいだよ。


 耳元で囁かれた瞬間に、その腕は消え去った。

 エレノアの両目から、ぼろりと涙が落ちた。


「……助けて……」


 助けて。助けて。苦しいよ。

 助けて。助けて。後悔なんてしてないはずなのに、胸が苦しくてたまらない。


 ――何を厭うの? ルイが魔王になることなんて、最初から決まっていたことなのに。

 ――わからない。ただ、こんな自分のために彼が人を殺すことが、酷く悲しい。


 人間はたしかに嫌いだけれど。勝手に戦争でもしてくれとさえ思うけれど。

 彼にナイフを持たせたのが、自分(わたし)だとしたら。


 自覚した重圧は今まで感じた何よりも重くて、押しつぶされそうになった。否、押し潰されてしまった。今まで彼だけに任せてきたものの一端を知っただけで、こんなにも辛い。

 ――誰か助けて。

 ルイ以外の誰かを望んだ。けれど駆けつけてくれるのは、やっぱり彼なのだ。


「エレノア!」


 緊急事態だと判断したらしく、ルイはエレノアの私室内に直接転移してきた。寝間着の上に簡素な上着を羽織っただけの姿で、その慌て具合が窺える。


「どこか痛いですか? 誰かに何かされたんですか?」


 エレノアの両肩に手を置いて、彼は優しく聞いてくる。彼女の瞳からぼろぼろ溢れる涙は、床のカーペットの色を濃くした。ルイはそれに気づくと、彼女を抱き寄せた。

 何があったのか、誰に何をされたのか、そいつを殺してほしいか、怪我をしたのか。心配そうに囁いて、エレノアをなんとか宥めようと体温を分けてくれる。

 いつものことだ。

 ()()()()()()()

 彼女が泣いているからどうにかしなくてはいけない。――彼女が安らかに眠っていなければ自分も眠れない。嘗ての心的外傷として心身に刻み込まれた傷跡は、もはや強迫観念にも近い重責を瘡蓋として、ようやく塞がっていた。


 彼の責任感と優しさはエレノア一人に注がれて、表されたのは盲目的な溺愛。それは暴力にも近く、腐りきった甘さを伴った。

 これが夫婦だと言うのだろうか。

 妻の敵を殺して、妻を守って、生きて。世界を敵に回して押し通した(こんなもの)は、物語で想像するほど美しくはない。


「大丈夫、大丈夫ですよ」


 エレノアの安心を誘う声で「大丈夫」を繰り返す。何の根拠もないくせに、そう確信を持って言えるだけの実力を持ってしまった魔王。唯一の妻、エレノアだけを愛する彼。


「守りますから」


 びくん。

 その言葉だけで頬を打たれたように、エレノアの涙が止まった。


「何を犠牲にしても、君だけは守ってあげられます。それだけの力は付けたつもりですので、安心してください。何も気にせず隣に居てくれたらいいんですから」


 こんな台詞に、エレノアは吐き気を覚えた。

 ――違う。そんなことを言ってほしいんじゃないの。

 一昔前の少女漫画のような、乙女ゲームよろしくの恥ずかしい言葉なんて要らない。

 エレノアにとってどんなに残酷な台詞かなど理解できずに、ただそうあることが当然のように囁かれたそれが、エレノアの心の黒い染みを濃くした。そして穴を開けてしまう。胸の奥の柔らかいところを、深く、暗く、抉る。


「絶対に、守ってみせますよ」


 ――違うよ。

 ――だって本当に守ってほしいのは、私じゃなくて……――。


「ごめんね、ルイ」


 それは意味のない謝罪だった。

 エレノアは彼の肩越しに、自分に用意された鳥籠の家具たちを見上げた。瞳からは光が消え失せて、闇側の妃に相応しく虚ろな無表情でいた。

 そんな彼女にも気づかずに、ルイは彼女を抱きしめる。


「何を謝っているんですか? 君に謝ってもらうことなんて――」

「…………。」

「……わかりません。君の心が聞こえない。閉じているでしょう? 君が何故、僕に謝っているのかわからないんです」


 エレノアは、自分から望んだ『繋がり』を遮断していた。

 彼の首筋に頬を寄せて体温を感じながら、エレノアはそうっと腕を伸ばした。百年前の少年を守らなければいけなかった細腕で、非情な魔王を包み込む。

 妻の様子に困惑して狼狽える彼は、「あの……」と声をかけながらも、エレノアの気が済むまでそこにいてくれようとしている。


「ごめん、なさい」


 ――もう嫌だ――壊れそうだ――壊れてしまった。

 一気に崩れたものが戻ってくれない。

 いつから間違っていたのかわからないけれど、いつからか間違ってしまっていた。

 けれど今更、手のひらを返して『間違い』と訴えたところで、遅いのだ。犠牲になった様々なものは時間に置き去りにされていて、取りには戻れない。


 他でもないエレノアが糾弾してしまえば、ルイは今度こそ壊れてしまう。



       *


 そして、今。

 私は玉座に着いている。

 正確には、玉座に座する魔王様のお膝に。

「エレノア」と優しく揺り起こされて、そうっと瞼を開けた。

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