「性格悪いですね」
私はこの家に『飼われる』ことを決めた。
決定的だったのが、妹さんに会った日から、更に半月ほど後のこと。子供二人の現状を垣間見た日だった。
その日も朝から少年の血を貰って、人間サイズになっていた。近頃は家事も手伝っていたから、この大きさが快適だ。
彼がお仕事に行く気配はなかった。黒のハーフパンツに白いシャツ、襟元に巻かれた藍色の細いリボンという、良いとこのおぼっちゃんスタイルでいるから、来客の予定があるのかなと思った。
だったら私は音を立てなければいいだけ。簡単なことだった。
ルミーナちゃんのベッドサイドのチェストに、兎型の林檎の乗った皿を置いた。椅子に腰掛ければ、ルミーナちゃんは「今日はおはなしするの?」と期待して起き上がる。
彼女に懐かれたという自覚はある。適当に寝かしつけたりもして、話し相手にもなった。今まで兄しか話相手がいなかったからか、相手が人間だろうが妖精だろうが構わないみたい。
このくらいの子供なら、妖精と人間の確執がぴんとこないのかな。
「今夜は何がいいかな?」
「んーと、とまとのりぞっと、いい?」
「リゾット……んー、昨日作ったばっかりな覚えがあるんだけど」
「きのうはくりーむのだったよ」
「ルミーナちゃん、リゾット好きなんだね」
「うむ!」
「うん」と発音しにくいみたいで、どこかの殿様みたいだ。
舌っ足らずな発音は、私の胸をきゅんと締め付ける。
変色した林檎が数切れ残った皿を持って、廊下を歩く。
ルミーナちゃんの部屋に行く前に洗濯と掃除は済ませていたから、あとは暇つぶしに書斎にでも篭らせてもらおうかな。そう考えていた、矢先だった。
一階からぼそぼそと話し声が聞こえた。
私がルミーナちゃんと楽しく談笑している間に、お客さんが来たみたい。
音を立てないように階段を降りていくと、その会話が不穏を帯びていることに気づいてしまう。
『子供だけでは、ルミーナさんのお世話も大変だろう?』
『僕は今までずっと妹の世話をしてきましたし、これからも両立させる気でいます』
あ、少年はこのためにお仕事をお休みしたのか。
少年のボーイソプラノと、中年くらいの男性の声が、険を纏った応酬を繰り返している。どうにか穏やかでいようという努力は察せる。
リビングの扉は閉まっていたから、私は相手に見えていない。しばらくここに留まることにした。
『しかし君は宮廷魔法使いだ。これからもっと込み入った仕事も出てくるし、』
『だからと言って、妹を施設に預ける気はありません。長時間家を空ける時の対策も考えてあります』
『ならば妹さんも一緒に……』
『妹を僕のおまけみたいに扱う大人って、一番嫌いなんです』
『…………。』
『最初に僕だけを引き取ると言い出した時点で、僕の答えは決まってます。そんな環境で妹がやっていけるわけがない。お引取りください』
ようは、少年を養子にするとかそういうお話だ。『少年だけ』なんて直球な言い方はされなかったのだろうけれど、遠回しにそう言われたみたい。相手の男性も言葉を詰まらせたから、間違ってはいないんだろう。
いずれは宮廷魔術師筆頭となる、突出した才能を持つ少年を我が子にできればどんなに有利か。大人が考えそうなことだ。そして病弱な妹は目の上のたんこぶで、才能もなさそうだし、なんて。
――絵に描いたようなクズ。
『子供が子供を育てるなど、お笑いも良いところだよ。保護者のいない子供など信用されない。いざという時に頼る者もない。そもそもルミーナさんにだって、今の状況は良くないだろう』
『僕は……!』
子供じゃないと言いたげだった。けれど口を噤んで、大人を睨みつける。その様子が見えなくたって分かってしまう。
ルイ少年は世間からはどう見たってお子様で、妹のために頑張る姿はおままごととしか受け取ってもらえない。彼がどんなに立派に仕事をこなしても、所詮は『神童』。童子の域を出ない。
少し間があった。気を取り直すように息を吐いた後で、少年は『やはりダメです』と零す。くぐもって、私にはよく聞こえなかったけど。
『お引取りください。僕はこの家にいます』
『だから子供がそんな、』
『ご心配、痛み入ります。けれどファナリアさん、それ以上は、僕に魔術で勝ってから言ってください。僕より弱い、血のつながりもない人間に養われるなんて御免です』
止めを刺した。
相手の男性がどう反応しているのかは、だいたい想像できる。これで怒るなという方が無理だ。もしかしてこれは、自分の生意気さを表現して相手に諦めてもらうという寸法かも。
少年が言ってるのは、やっぱり子供の我儘だ。自分の力を傘に逃げ回る困った子供。
そしてあの男性は周囲から見れば、血の繋がりもない子供に心を砕く善良家だ。もしかしたら事実かもしれない。男性は本当に良い人なのかもしれない。
だけど私は男性の正論が気に食わない。
何よりこの家でないと、私は少年の庇護下で魔力を啜ることができなくなってしまう。
私は階段を降りきって、リビングの扉に手をかけた。
「お話中、失礼致します」
突然の女声に驚いたのか、テーブルを挟んで臨戦状態だった二名が弾かれたようにこちらを見る。
男性は白髪まじりで、四十代くらいだと見受ける。濃い灰色のスーツには皺がなく、庶民ではないみたい。意地悪そうには見えないけれど、私の瞳は既に男性を敵として認識している。
少年が「きみは」と発言しかけたのを遮って、声を強くあげた。
「先ずは、お話を耳に入れてしまったこと、そしてご歓談中に割り込んだ非礼を、心からお詫び致します。……恐縮ですが、発言させていただいてもよろしいでしょうか。『ルイ様』」
「……はい」
「先ほどの件ですが、要約すればこの家の兄妹の育成環境に大人が必要であると、そういう解釈でよろしいのでしょうか」
「ああ」
「ならば、その『大人』の役目を私に任せていただきたいのです。家事も、ルミーナ様のお世話も、家のことは全て私が致します。ルイ様にはお仕事に専念していただければ、ファナリア様の『心配事』は全て晴れますでしょう?」
あれ、この人の名前はファナリアさんで合ってるよね? 一度聞いただけだから、ちょっと不安になる。
「申し遅れました。私はスティラス家家政婦、エレノアと申します」
そうして私はこの家のお世話係になった。
やはりその場しのぎの行動だし、保護者として至らない存在なのだともわかってる。だけど大人がいない件を強調していたあの場では、有効ではあった。突然の新キャラ登場で白けてしまった雰囲気もあったし、この先も言い逃れられる自信はない。
そしてもう一つ変わったのが、少年の態度だ。
家政婦と自称したその晩に、私は初めて少年の少年らしい泣き言を聞いた。
少年は、男性が帰ったすぐ後に寝室に引きこもった。夕食のトマトリゾットも食べてくれなかった。
寝室の扉の前で、声をかけようと口を開いた。ら、
『すみません、入ってこないでください』
なんて、弱々しく言われた。自分が怒られた理由を納得していない、拗ねた子供みたいな涙声だ。
『ごめんなさい』
「なんで謝るの?」
『君を巻き込みました』
このしおらしい子が未来の魔王様だなんて、誰が予想できるだろう。
『本当はわかってます。全部僕の我儘です。どんなに頑張ったって大人の真似事ですし、素直に引き取ってもらった方が良かったのでしょう』
ノックしようとして、止めた。だって入ってこないでって言われたんだ。でもじゃあ、どうしようこの空気。
迷った末に、私は許可もへったくれもないと扉を開けた。ずかずか踏み入って、ベッドで膝を抱える少年の横に仁王立ちする。
「入るなと言ったのに」
「正式にここで働くってなったわけじゃないしい、子供がなんと言ったって年上が偉いんです」
「性格悪いですね」
「今更」
言いながら、天使のような少年を抱き締める。その矮躯は私の腕にすっぽり包まれて、少年がまだ少年なのだという事実に感動した。
抵抗しない少年もまた、甘える気分だったみたい。私の服を縋るように握るから、彼の中身の年齢なんて気にもできなかった。少年の顔を胸に押し付ける。服がじわじわ水気を帯びていく。
少年はきっと、今まで誰にも頼れなかった。妹は守らなければいけなくて、年の近い子供にはその魔力を怖がられたに違いない。この家に巨大な結界を張っていたのは、私を逃がさないためだけじゃなかった。
「もしかしたらルミーナも、この家に一人でいるより、施設で大勢の生活の方が良かったのかもしれません。でも僕は」
「うん」
「みんな、怖かった。お金ばっかりの大人で、僕の力を怖がるし、馬鹿だし、性格悪いし、僕が非の打ち所もなく可愛いからって、」
「うん。……うん?」
「親が遺した金は子供のものでしょう? なんでそこに手をつけたがるんです? 僕が健気なショタだからって、何もできないと思って、押し倒されたりもするし、気持ち悪いし、馬鹿だし、」
「う、んん?」
「そもそも何故こんな魔力に目覚めたと思ってるんですか!」
「いやキレられても」
カッ! と目をかっ開きながら主張されましても。
彼の涙はまたぼろぼろ溢れて、再び私の懐に寄りかかってくる。「うう」と呻きながらしゃくり上げていた。大きな目を潤ませて、一心に甘えてくる姿はただのお子様だ。
少年が言うに、どこかの豚のような貴族男性に襲われて、誰も助けてくれなかったから、本当に危ういところで魔力が覚醒したとのことだ。それが三歳の時だったというから、人間って恐ろしい。
落ち着いてきたころを見計らって、少年に囁く。
「慰めるの苦手だから、率直に私の意見聞いてね」
「……はい」
「ぶっちゃけね、施設は勘弁なの」
何も言わない少年の髪をさらさらと梳いて、続けた。
「たぶんルミーナちゃんも、慣れた家の方が良いよ。静かなところ好きな感じだし。お兄ちゃん大好きっ子だし。私は前世ちょっと引きこもりっぽかったから、周りがうるさいのとか嫌いだし」
ルミーナちゃんのことを思うなら、ここに置いておくことだって悪い選択ではないように思う。
「私がいるから。ルミーナちゃんのことちゃんと看てる。もちろん少年が危ない目に遭ってたら、見える範囲で助けてあげられるから」
私も大人とは言い難いけれど。
子供だけの夢の家は、子供の理想の形でもあるのかもしれない。先生の目の届かない修学旅行の夜だとか、お泊まり会だとか、そういう気楽なわくわく感。
それに何があったって、ルイ・スティラスの魔法はチートだ。魔法を操る彼にかかれば、この家に降りかかる災厄だってどうにかできる。――そう、他力本願なところもたしかにあった。
私は彼の魔力を食べられればいいし、変わらず気楽に生きられるなら、万々歳だよね。
少年を抱きしめたまま寝転がると、ベッドが軋んだ。
巻き込まれたことに抗議する視線さえ可愛らしくてにんまり笑えば、少年も諦めの溜息を吐く。いかにも「しょうがない人ですね」と言いたげで、それでも嬉しそうな意地っ張りの顔が愛おしく思える。
そうして少年の温りを放せないまま、意識を眠気に溶かしていった。
後々、ここでの二つの間違いに頭を抱えることになる。
一つは、ルイ・スティラスをゲームキャラの性能で考えていたこと。彼がまだまだ成長途中であるという当たり前の事実が、頭からすっぽりと抜け落ちていた。
もう一つが、私の懐に顔を埋める少年の瞳に暗い光が宿った瞬間を、見逃していたこと。
「温かい」と呟いた少年の腕がたどたどしく背に回ってきたところで、無邪気な行動としか思えなかった。そこに狩人の火が灯っただなんて、少しもわからなかった。
病みキャラは病みキャラらしく、魔王は魔王らしく。
そうあるように転がっていく。
その伏線を見抜けなかった。