ここでは異物なのに
――『ここはただの箱庭です。ゲームの世界を参考に作られた、小さな世界です」』
ずきりと、エレノアの頭を過る言葉がある。
此処が箱庭であるならば、箱庭を作った神様がどこかにいるのではないか。――エレノアはこんなことを無意識ながらに、しかし何より先に考えた。
ゲームでお約束なのが絡繰りだ。
建物や神殿、ダンジョン。それらが迷路状になっていたり、決まった手順を踏まなければ最奥部まで行けない。これはRPGの宿命だ。
廃都グレノールにもそれがあった。
崩れた王宮の地下に、魔王に関する資料があるという。それを取るために瓦礫を掘り起こし、扉を見つけ、中に入らなくてはいけない。
そんなものを見なくても魔王を倒したいならさっさと先に行けばいいと思ってしまうエレノアだけれど、それは転生者ゆえの余裕の現れなのだろう。魔王の正体と、この先の大部分の出来事を知っているという反則的な知識があるから、この旅も気楽にやってきた。
知識のない彼らは、未知に対する恐怖があって当然だ。だから些細な情報も逃したくはないのだろう。
エレノアは黙って勇者についていく。
この旅路の果てに、魔王に仲間諸共殺されることが決まっている彼らに混じって。
「なんでこんな面倒くさいことしてくれてんのよ、もー!」
「当代の魔王は極端に情報が少ないからねー。ねーちゃんも苦労するなあ」
「ほら、警戒を解いてはいけないよ」
軽口を叩きながら地下への石段に踏み入っていく彼らの姿が、闇に吸い込まれているように見えた。
エレノアは止まる。上から降り注ぐ太陽の光が、この小さな体を責めているように思えてしまった。
「エレノア?」
「なんでもない」
太陽に顔向けできないことをしている自覚は、あったはずなのに。
エレノアはルイの肩に乗って、勇者たちの後を追った。
ルイはいくつかのライトを飛ばして、勇者たちの前方を照らす。その光景をぼんやり見つめていたエレノアは、彼の髪をそっと掴んだ。
――あのね、アーロイスのことなんだけど。
――彼が何か?
エレノアが念話に切り替えると、夫の声が淀みなく伝わってきて安心する。
地下への階段は埃が積もっていたけれど、破片や瓦礫だらけの地上よりは綺麗だった。
――ギルレムさんたちに、育ててもらってたんだって。そんな設定ぜんぜん知らなかった。
――……なるほど。黒髪に、緑の目。やはりそうでしたか。
――な、なに……?
――きっとすぐにわかりますよ。
ルイは、くす、と嗤う。
エレノアが「またそうやってもったいぶるんだから」という意味を込めて、握っていた髪を強く引いて彼を叱った。お返しに優しく撫でられた。
地下に棲みつく魔物を払い除け、幾つかの数字を覚えて、幾つかの鍵を解き。
一行はとある簡素な部屋に着く。エレノアの記憶によれば、それは最奥部の部屋――中ボス手前のセーブポイントがある部屋だ。
しかし実際に足を踏み入れたそこには、セーブポイントなど無い。これまでもずっとそうだった。旅の記録などを書いたところで保険にはならず、全滅したらきっと終わりなのだ。
こういった細かな違いを考えてみると、やはりここはゲームの世界とは違うと再認識する。
「あれ?」
エレノアが声を上げた。ルイの肩から飛び、セーブポイントの代わりに落ちていた紙を拾った。それを勇者に持っていく。
抽象的な文章だった。
「『この国は罰を受けるべきだ。しかし鉾は子供に向かってはいけない。自分にできるのは微々たる事』『これが蝶の羽ばたきとしても、後の竜巻にはならぬように』『子供の平穏を祈る』……? 何かしら、これ」
ハスミが読んだ紙を、ルイが受け取った。文章を見て少々驚いたようだ。
「……この筆跡は……」
――アルス。
その呟きは声には出なかった。
「ルイ、それ書いた人知ってるの?」
「ああ、いえ……。人違いでしょう」
その紙を、次に騎士へ回した。皆が一通りそれを眺めたところで、収穫はなかった。
そして問題は、部屋奥の大きな扉に移っていく。
いかにも鈍重そうな鉄扉には古代語が彫ってあり、それを読めるのは古代語に通じる魔術師しかいない。ルイかエミリエルのどちらかだ。
では私が。とエミリエルが進み出た。翻訳し、その場の者に聞こえるように読み上げた。
「『我は王家の血を食す』」
――こんな仕掛け知らない。
皆が文章の奇怪さに眉を顰める中、エレノアは自身の記憶との齟齬に戸惑っていた。
ここで必要となるのは、この部屋の隠し扉で見つかる金の鍵のはずだ。けれど目の前の扉に鍵穴らしきものはない。
――これじゃ、お助けできないな。
記憶を用いてそれとなく助言してきた妖精は、じんわりと焦った。
これまでシナリオに微々たる違いはあっても、それは原作とは違うルイとエレノアが及ぼす影響に限ると考えていた。ギルレムと騎士の関係が、そうだ。
けれど仕掛けが違うのは初めてのことだった。
「王家の血って何かしら……」
「文字の通りじゃないかな? でもそれなら、この先に進むのは難しいよ」
エレノアと勇者が仲良く首を傾げている傍で、ルイが微笑んで言った。
「問題はないでしょう。この扉にあるのは単純な魔術です。言葉の通り、ここグレノール王家の血筋の者を捕まえて、その血液を扉に擦り付ければいいんです」
「でも滅んでいるのよ、人っこ一人いないわ。ここにいた王族? の誰かがたまたま無事で、他の地域にいたとしても、探すのにすごく時間がかかるわ。そんな余裕はないし……」
「ここに居ますよ。ねえ、アーロイス」
名を呼ばれた騎士が、「はへ?」と呆けた。
そして徐々に顔色を悪くしていく。
「君は王族の血を汲む者ですね」
「なんで……」
騎士は薄く笑うルイから逃げるように、後ずさった。
「髪の色と緑の目、これはグレノールに暮らしていた王族に伝わる色合いです。それに僕は少々占いにも通じていまして、以前から君は『そういった』家系の者だと疑っていました」
「ちょっと待ってね。そんなことってありえるの? たしかに、髪も目も一致はしているかもしれないけど、偶然ってこともあるかもしれないじゃない?」
「いいえ。彼の血はおそらく、とても濃い。探索時に見つけた、最後の王の肖像ととてもよく似ていると思いませんか? ……ああ、皆さんは見ませんでしたね。失礼」
「濃い、なんて断定できるの? 王家が滅びたのは百年以上も前のことよ」
議論は続く。
「これは思いつきなのですが、ア―ロイスは、僕たちが思っているほど若くはないのでは? それこそ、百年以上も前に存在した王家の直系だと、言えるほどには」
「それってどういう……?」
「だって、正確な年齢は知らないでしょう。僕も君達も、己の年齢を教え合ったりはしていない。精々、酒が飲める年齢か否か、ということくらいしか分かりません。外見と年齢が一致しない例はハスミの頭にも乗っているじゃないですか」
「あ」
勇者は、いつのまにか頭上を陣取っていた妖精に驚いた。
妖精は自然な体重と体温でもって肩や頭にいつのまにか乗っているものだから、慣れ親しみすぎて違和を感じられなくなってきている。勇者が呆れ混じりに「エレノア」と苦言を呈そうとしたけれど、返ってきたのは「なあに?」と悪気のない声だけだ。
これでは文句を言う気も失せる。
話を戻すことにした。
「……ということは、アーロイスって」
「騎士のにーちゃんが妖精だって?」
「どちらかといえば人間に近いのでしょうね。王と妖精が番ったという記録を見ましたので、王子が混血であると考えた方が自然でしょう」
これは嘘で、そんな記録はどこにも残されていない。
けれどルイの正体を知っているエレノアですら「そうなんだ、初知りだ」という顔で感心している状況で、誰も彼の発言を疑わなかった。
「妖精の血が混じれば、通常の人間と同じ成長はしないと考えられます。見た目よりも長く生きているのではないかと」
どうですか?
首を傾げるルイを、アーロイスは唇を噛み締めて睨んだ。いつもより深刻な険が宿る眼差しを、ルイは肩をすくめて受け取る。
ハスミが追い打ちをかける、
「本当なのね?」
「……訊くなよ、そんなこと」
騎士の瞳は、自然と妖精に向いた。妖精は愉快なことに、口を「え」の形に開いて驚いた表情のまま固まっていたのだった。
*
そうして、旅の開始から一年と半年が経とうとしているこの日。
今日まで魔界には何度も行き来した。斥候のように進んでは蜻蛉返りを繰り返して偵察し、魔界の空気に身を馴染ませた。
魔王城の場所もわかっている。旅の途中でもらった飛龍もいる。
明日は魔王城へ飛び、短期決戦で挑むつもりだ。
決戦前夜。という言葉が似合う夜を、エレノアは今初めて体験している。
魔界に一番近い宿屋にて、勇者一行は最後の一夜を思い思いに過ごしていた。
アーロイスがまさか、王家の者だとは今でも信じられない。
――そういえばルイ、王家って言った時、なんだか怖かったな。
エレノアはグレノールの事情などほとんど知らなかった。ルイが彼女に話していないからだ。
何かあるのだろうなと察知してはいるものの、詳しく訊くことは憚られた。どうも、聞いてはいけないような気がする。
――だけど騎士に関わるのも、明日で終わりだ。
エレノアは宿屋の隣に立つ木の枝に座って、星空を眺めていた。
魔界にほど近い辺境だ。ここまで来たなら、妖精が一匹見つかったところで大したことではない。
人間の世界に関わっていることすら、今日で終わりだ。
きっと全てがうまくいく。
勇者はルイを気に入っていて、結局誰のルートにも入らなかったから、笑ってしまうような『愛の力』が目覚めることはない。
そしてルイとエレノアが生き残って、また暫くの間は――もしかしたら一生、勇者という犠牲者は現れない。そして自分と愛する夫と、心を許したものだけが住まう広い城で心穏やかに暮らせるのだ――。
「……へへ」
なんて魅力的な未来なのだろうか。
人間大になると脚より丈が長くなってしまうワンピースが、風にゆらりと揺れる。
大自然に囲まれて、希望溢れる未来を描く。これほど充実した時間は久しぶりだ。
「エレノア」
「うん?」
呼ばれて、下を見た。勇者ハスミがいた。
魔物一匹に斬りかかればいちいち罪悪感と恐怖で怯えていた少女が、今やレベル六十五だ。勇者が英雄になることを、世界中の人間が期待している。
己の手で髪を切り、こめかみには傷跡を作り、腰に下げる剣は傷だらけ。
平和な日本の女子高生という殻を破り、ここまでのし上がった。
――そんな彼女が、自分になんの用だろう? 他に会わなきゃいけない人がいそうだけど。
エレノアが「なあに?」と目で訴えると、彼女はにっこりと笑った。
ハスミは、手にあるそれをぽーん、ぽーん、と上に投げては受け、最終的にはエレノアの方に投げた。
「あげる」
エレノアが受け取ったのは林檎だった。艶のある赤色は、夜空の下でも鮮やかに見える。
「どうしたの、これ」
「最後に寄った街で買ったのよ」
「重かったでしょ?」
「そんなに重くはないわ。一個だけだから」
ハスミの性格上、皆の分まで買い揃えるのが普通だけれど。
――まさか。
エレノアの頭に、また一つのシナリオが思い出される。
「……私に渡してよかったの?」
「エレノアに渡したかったんだもの」
それは決戦前夜唯一の選択肢だ。
主人公が、仲間の誰か一人にひとつだけ選んで買える贈り物だ。
勇者はルイがお気に入りだったから、今日は彼に会ってクリーム入りのパンを送るものだと思っていたけれど。
「ルイのことね、好きだったわ」
唐突な告白だ。
勇者は「知ってたと思うけど」と苦笑する。
木の枝にいるエレノアは、そんな勇者に言葉を詰まらせた。
「でもいいの。私はここに恋をしに呼ばれたんじゃないし。帰らなきゃいけないのに、そんなことに気をやってる場合じゃなかったわ。何よりルイはエレノアが好きだから」
「……魔術師さまが私を好きっていったって、それはお友達としてじゃないかな」
「本気でそう思ってる?」
「だって私は妖精だよ。人間は妖精をなんとも思ってないはずだから」
「でも私はルイに恋したわ。ここでは私こそが異物なのに。そんな私と比べれば、同じ世界の生き物の男女がそういうことになったって何もおかしいことはないと思うわよ。それに、エレノアに砂時計をあげたのも人間なんでしょ?」
エレノアはむむ、と黙り込む。
「貴重な女性だし。私をここに誘ったのも、ここの常識とか色々と教えてくれたのも、全部エレノアだったなって考えると、今更寂しくなっちゃったわ」
「……ずるいよ。私、なんにもあげられない」
「お礼なんだから、お返しされたらそれこそ困るわよ」
それじゃあキリがなくなっちゃうもの。と、ハスミは言う。
エレノアを見上げていた顔を下げて、今度はもっと遠くを――魔王城がある方角を、じっと見つめた。
その瞳は静かで穏やかだ。鋭利な鋒を包む白い鞘のように、美しく厳かな剣。それが当代勇者ハスミだ。
「最初は魔物を斬るのも怖かったし、魔法の存在だって信じられなかったわ」
勇者を育てあげたエレノアに、ハスミは屈託なく笑った。
そして全てを振り切ったように清々しい顔をして、頭を下げる。
「こんな私に付いてきてくれて、ありがとう」
――明日は最後なのに。
エレノアはハスミに何も返せなかった。




