迷っていた
――夢の中で頭を撫でられていた。
『言っとくけど、君とルイが一緒になるのは、運命でも必然でもない』
そんな残酷な言葉を、ぼんやりと聞いていた。
いや、聞いてはいない。
ただみみに入って素通りしていくだけの、異国語の歌のようだ。
白い、白い空間で、めも開けられず。
かみを優しくすいてくる女せいのゆびを、ここちよく感じていた。
『君たちが望んだ終わりにならない』
どこかできいたような、聞いたことのないような、ふしぎなこえ。
『何度だって間違える』
ふしぎといえば、てあしがまったくうごかないこともふしぎだった。
な んだろう。
まるで、くびからしたが きえて なくなって しまっているようだ。
『それでもルイと生きたいか?』
――そのといに、『わたし』は な んと こたえた のだろ う。
*
実はランクの高い妖精であると皆に知られたのは、やはりシナリオの通りだ。
勇者を助けるシーンのスチルは男女に共通して用意されている。妖精推しのプレイヤーが待ち望むイベントだ。主人公を抱き締める、或いは抱き締められるのに適したサイズ感になったということで、妖精が本格的に攻略対象として参入するのもこの頃からである。
宿。ファラスとアーロイスの部屋にて。
エミリエルとルイ、ハスミとエレノア各々の部屋から椅子を持ち寄り、歪な円状に並べて緊急会議が開かれた。
騎士は硬直していた。ベッドに座る人間サイズの妖精を、食い入るようにじいいいいいいいと見つめる。
「あの……、何かな?」
エレノアは居心地悪そうにしていた。
騎士の反応は想定外だった。
解像度が上がるとはこのことだ。
大きくなることで、周囲からは見えていなかった面が見えてくることがある。
エレノアが攻略対象キャラクターと張り合える美人であることや、払えば飛んでしまいそうな種族ゆえの脆弱さ――を、抜きにしても漂う儚さ。そこに、夫と幾度も夜を共にした色気が加わった。
人間の女性と変わらない等身で、手を出すことすら現実的になった。騎士はその現実をどう受け止めて良いかわからず困惑している。
この数人のパーティーの中でも、妖精と騎士の仲を応援している者はいる。勇者ハスミと武闘家ファラスだ。この二人は先程からによによと不気味ににやけているし、治癒師エミリエルは興味深く妖精の様子を伺っている。
魔術師ルイは、騎士アーロイスの肩に手を置いた。
「女性をそこまで見つめるものではありませんよ?」
ぎりぎりみしみし悲鳴をあげる肩に危機を感じた騎士は、その手を強く払った。
「っだあああ! おっまえなんだよいつもいつもいつもいつも! 俺、お前になんかしたか!?」
「思い返せばろくに会話すらしていませんね……」
「じゃあなんで突っかかってくるわけ?」
「さあ。目に付くんですよね。少し落ち着いてはどうですか?」
「……おまえやっぱり俺のこと嫌いだろ」
「返答は控えさせていただきます」
ルイは席を立ち、「おい」と咎める声を聞かないことにして、エレノアの傍に寄る。彼女の羽が少し切れていたので、「少々失礼しますね」と手をかざして治癒を施し始めた。
それに驚くのがエミリエルである。
「驚いたな……妖精の怪我を治せるなんて」
「妖精に関することなら、こちら側の領分ですから。今まで彼女の怪我はどうしていたんですか?」
「彼女は自分で治してしまっていたかな。……魔術師の中の治癒師であるわけだし、やはり好奇心はある方なんだ。今度、その技術について勉強させていただいてもよろしいかな?」
「それは構いませんが、妖精の知識は数十年前と比べて進歩しているでしょう。僕よりも書籍に習った方が良いのでは?」
魔術師同士、気が合うのだろう。
またの機会に二人で本を漁ろうという結論に至りかけた時、空気を読まないファラスが「な、魔術師さんたちに聞きたかったんだけどさー」と割り込んでくる。パーティーきっての穏やかコンビはさして気にせず、「はい」「なんでしょう」と律儀に反応した。
椅子に座りながら背もたれに抱きつく体勢で、ファラスは己の髪をくるくる弄っている。
「近頃の魔術とか、妖精についての知識ってーの? そういうやつって、今の魔王が全部考えて、世に普及させたって聞いたことあるんだけど? 本当だと思う?」
「……所詮、噂は噂だと思っているよ」
「その知識が誰を元にしたものだとしても、関係はありませんね」
ファラスの問いに真摯に返答したのはエミリエルだけだ。ルイは少しズレた回答をして、再びエレノアに意識を向ける。
「痛くありませんか?」
「……ん、大丈夫」
*
野宿の際、番は交代制だ。女性だからって特別扱いをするのは嫌だというハスミの主張が通り、体力的な面での性差は考慮しないことにしている。
旅に出て数ヶ月は経っている。
広葉樹が林立する森の中。身も心も成長したハスミは、肩にエレノアを乗せて焚き火の跡を見つめていた。
遠くで獣の鳴き声がする。木々の影で視界は狭まり、隙間から曇天が見える。月はない。
青い粒子を散らすエレノアの姿だけは鮮明だった。
ハスミは深く呼吸して、「ねえ」と囁いた。
「エレノアって、何かあると何か握ってるわよね」
そう言われて、エレノアは服の下から砂時計を取り出した。不安があれば時計を握る癖があることを、ハスミに見抜かれていたのだ。
エレノアは攻略対象から外れているし、ルイからもらったのだと知られなければいい。特に渋ることもなく、砂時計を見せる。
「これだね」
「時計ってたしか、この世界じゃ婚約指輪なのよね? 結婚指輪だっけ。婚約者とかいるの?」
「……そんなものかな」
のすんっ!
焚き火を挟んだ向こう側で、アーロイスが不自然に寝返りをうった。
エレノアは気にしなかった。
「哀れアーロイス……それとごめん……」
「騎士さまがどうしたの?」
「なんでもないわ。それくれたのってもしかして、その髪飾りをくれた人?」
「そう、だよ」
「その人の、どんなところが好き?」
「えっ……」
エレノアは初めて動揺する。
「どうしても話すの? 明日じゃだめ?」
「だーめ。エレノアは自分のこと話してくれないもの、気になっちゃうわよ。どうせ寝てるし、男どものことは気にしないでさ、ねっ」
恋バナだ。女性同士では不可避の話題だ。ついにきたかと頬を引きつらせたエレノアは、「んー……」と考えて、考えて、考えたけれど、答えは一言。
「顔かな」
がたん!
ごすっ!
もふ……!
かさっ。
不自然な音が男の人数分、連続した。すぐにしーん……と収まって、静寂が帰ってくる。
二人はしばらく音がした方を眺めて、気にしないことにした。
「それだけ? もっとないの? 性格とか」
「いや、いざとなるとなかなか浮かばないものだね」
さすがに見た目だけではないようだ。好奇心に輝くハスミに引きつつ、エレノアは不鮮明な気持ちを言葉にしようとしていた。
――ルイのどこが好きかなどと、考えたことはない。
気がついたら好きになっていて、気がついたら夫婦だったのだ。常に状況に引っ張られて生きてきた。
――やはり、外見からだったかもしれない。
「最初はね、天使かと思ったんだ」
この世界には天使とか本当にいるの? と尋ねるハスミに、否と返す。
ここがいくらファンタジー世界でも、天使という種族は見たことがない。
ただやはり今思い出してみても、あの兄妹は純粋で大切で、エレノアにとって天上の幼子達だった。
――『僕は今までずっと妹の世話をしてきましたし、これからも両立させる気でいます』
――『エレノアさんは、ようせいさん?』
セピア色の情景を追憶しながら、エレノアは言葉にしていった。
「妹思いでね、家事もきちんとできるし。私はその子の母親代わりになったんだけど、あの子にとってはそうじゃなかったんだって。十年もすれば身長も越されちゃって、子供じゃなくなっちゃって、押し負けたっていうのかな」
エレノアは時計を握った。体の大きさに合わせて大きくも小さくもなる不思議な砂時計は、彼女のお気に入りだ。
膝を抱えて、時計をころころと弄ぶ。
「……ごめん、自分でもわかんないや。ただあの子は優しいし、私が危なかった時は助けてくれたいい子だよ。育て方は間違わなかった。ただ運はすごく悪かっただけで」
寂しげに笑ったエレノアに、ハスミは眉を寄せた。
触れてはいけなかったことかしら? そう考えてしまえば、素直な彼女は謝ろうと口を開く。
が、エレノアは「っ!」と何かに気付いて、突然に肩から飛び去ってしまった。
「……え」
魔物を見つけたのであれば、遠慮なく伝えてくれるはず。けれどエレノアは何も言わずに、森の奥へ猛スピードで消えてしまった。それに、一瞬見えた頬が赤かった。
妖精の背を呆然と見送るハスミの耳に、くすくすと楽しげな笑声が届いた。ルイが身を起こしていた。毛布代わりに被っていたローブをいそいそと羽織り直している。
「起こした? ごめんね」
「いえ、なかなか寝付けなかったのでお気になさらず。ちょっとエレノアを捜してきますね」
「私が行くわ」
「いえ、勇者様にお願いするわけにもいきませんし、僕なら彼女の場所はすぐにわかります」
「あ……」
ルイを引き止めようと動いたハスミの手は空を掻き、力なく垂れる。
三人の声を聞いていたアーロイスは寝袋を被り直して、ぎゅっと目を閉じた。
とある木の下で、ルイはその足を止めた。
「天使とは、初めて聞きましたね」
からかえば、上でかさりと何かが反応した。葉が落ちる。
銀と青の小さな妖精は赤い顔を膝に隠して、木の枝に座り込んでいた。
そんな彼女に、ルイは手を伸ばす。
「来なさい」
彼女はふよふよと空を漂うようにして下りようかどうしようかと迷いながら、結局は掌に下り立った。
「……盗み聞きする子に育てた覚えはありません……」と拗ねながら、ルイを睨む。そんな彼女を宥めるのもお手の物だ。ルイは「はいはい」と気にも留めない様子で、幹に背を預けて腰掛けた。
空は相変わらずの曇天だ。
肩に乗せた妖精が可愛かった。
先の彼女の思い出話は、ルイも知らない。初対面は案外悪くない印象だったらしいと思えば、単純に嬉しくなる。その衝動のまま思いきり触れたいけれど、大きくなってくださいと今の彼女に頼んだところで従ってくれなさそうだ。
「……初めて会った時のことですけれど」
ここでルイは『本題』を持ち出してみる。
エレノアを追ったのは、いちゃつくためではなかった。
「思い出したんです。僕の言葉は、少しおかしくはありませんでしたか?」
「……うん?」
妖精はどうやら、ぴんとこないらしい。
けれどルイは覚えている。
彼女の話を聞いていた時に思い出した。じりじりと、嫌な予感を覚えた時のような不快感を伴って。あれは不自然なのだと、自分の中の記憶が呼びかける。
あの時も。
――『……君は、本当にエレノアですか? 外見は同じように見えるが、どうも違和感があります』
あの時も。
――『……すまない?』
ルイの丁寧語としては、どこかズレた言葉を選んでいた。あるいは一部だけが違っていたように思う。
すぐにいつもの丁寧語に戻ったのは、彼女には『これがいい』と無意識に判断したからだ。そもそも口調の迷いすらも、無意識下のものだ。
「だってあの時、僕は……」
ぶっきらぼうに大人びたものと、丁寧語が混じったおかしな口調。ルイが覚えている限り、あの瞬間だけ『そう』なってしまっていた。
「君に使うべき口調を、迷っていた」
あの時に疑問に思わなかったのがおかしなほどに、あれは歪な言葉遣いだ。
「何故でしょう。記憶を思い出したばかりとはいえ、魔王ではなかったし、なるつもりもなかったのに。どうしてかあの時は君への態度がわからなくなっていて……、そう、家族としていいのか、配下としていいのか、迷ったのです」
「……え? あの時点じゃ、まだそんな関係じゃなかったよね?」
「そのはずなんですけれど……どうして、でしょう?」
どうして?
どうして自分は、こんなことで迷ったのか。
「っ……!」
唐突に、ルイの脳は痛みを訴える。
思考を放棄しても、その痛みは止まらなかった。脈と同時にずきずきと深まる疼痛に、ルイは汗を滲ませる。
頭蓋が割れてしまうと思った。万力で締めつけられているようだ。
「ルイ!?」
頭を抱えたルイの肩から、妖精が強制的に下ろされた。
彼女は驚いて体を人間大にすると、ルイの様子をみてすぐに飛び去ろうとした。自分ではルイを抱えていけない。治癒師を呼ぼうという賢明な判断である。
「なっ、……ちょっと、いい加減に……っ」
けれどルイに捕まってしまう。
こんな時にいちゃついてる場合じゃないでしょ! と叱りつけながら彼の腕から抜け出そうと試みても、彼の力は強かった。ルイの息遣いは荒く、けれど必死にエレノアを捕らえる。
「ごめんなさい」と謝りながら。
まるでそれは、逃げていく妖精を止めようと足掻いた過去のルイだった。




