慈悲はあるつもりだよ
その不可思議な空間は、夢と現実の狭間に似ていた。
艶と柔らかさを併せ持つ銀髪が、緩くうねりながら女の背を伝い、清らかな水流のように床へ流れ広がっていた。
床といっても、その空間は壁も床もないように思う。境目が見えない白だ。冷たくも暖かくもない、絶望的な白。
『そか。こうなったんだな』
女の顔は、俯いていてわからなかった。横顔は髪に隠されて、その口元しか見えない。
静かま言葉は、女性の雰囲気に反して男性的で、少し独特だった。
女は黒い学生服を着ていた。地べたにぺたりと座り込んでいるおかげで、膝下丈ほどのスカートは乱れている。細い脚は、指先までが黒いストッキングで覆われていた。
その膝には、銀色の何かが乗っていた。
女はそれをゆるりゆるりと撫でていた。
我が子を愛でる母親のように優しく。遊女のように艶やかに。
――くすり。
笑った。そして顔を上げた。
『……可哀想だな』
妖精のように整った横顔が、髪の影から現れる。
女は、深い青色の、少し釣り上がった瞳を持っていた。
膝から持ち上げた銀色のものは、ボールだった。ボールからは銀色の長い帯がたらりと床にまで垂れていた。ボールを目線の高さで支えている女の手から、ぴちゃりぴちゃりと赤い液体が滴る。
ようく見れば、
そのボールは、
長く真っ直ぐな銀髪を持ちながら、
穏やかな顔をして目を閉じた、
女性の頭だった。
首から下は、もちろん無かった。
『次は渡してやれるかな? どうせ君がどう答えたところで、反映はされないんだろーけど。一応これでも、慈悲はあるつもりだよ』
女が呟く。
女が言う「君」とは、誰か。
女の手にあるあの頭は、誰だろうか。
『妖精の中でも、私はこいつが一番お気に入りだったりするんだ。なあ、君だって、そうだろ?』
頭から一切目を背けずに、女は言う。
白と、黒と、銀と、青と、黒と、赤の空間の中で、女はただただ、雌妖精の頭を撫でていた。
*
昨夜は、何としてでも彼女を引き止めておくべきだったかもしれない。
どうしてだかここ数年は、またおかしな夢を見る。
ルイはループタイを締めると、ローブを片手に持ちながら部屋を後にした。
素泊まりなので朝食は出ない。食品を買い出しに行ってから、皆で揃って食べようということになっている。
左隣の治癒師の部屋が集合場所だ。ルイがエミリエルに迎えられて入ると、室内にハスミの背が見えた。
「時計?」
「そっか、やっぱりわかんないよね、世界が違うと……異文化ってやつなのかな」
女性同士のそんな声が聞こえてきた。ハスミと会話しているもう一人――一匹は、ハスミの膝にいる。
ルイが「おはようございます」と微笑めば、ハスミは嬉しそうに振り返って挨拶を返してきた。
一方エレノアは、ルイの顔を見て何故か首を傾げた。けれど気を取り直して「はよ」とおざなりな一言を投げ、ハスミと話を続ける。
身内モードと比べて、あまりに素気ない。
ルイは肩を竦めて、開いている席を探して座った。
女性二人の雑談が続く。
なんだかんだいって、二人は仲が良い。エレノアがルイを裏切るとは思えないけれど、
――まさかの百合ルートとか……?
不埒な考えが頭を過る。
『ごめんね。結婚してるの。他の人からもらった砂時計、ずっと持ってるんだよ。私、勇者さまが思うほど綺麗な妖精じゃないから』
『エレノアは綺麗よ。誰よりも美しい、私の相棒だもの。でももうその関係じゃ嫌になっちゃった』
『え……?』
『ねえお願い、勇者を助けて。エレノアがいいの。本当は魔王を倒すとかどうでも良かった。二人きりがよかった。貴女がいれば、他は何も要らないから』
『勇者さま、それ以上は……っ』
いやそんなことはない。ないはず。まさか自分がNTR被害者になるなんてそんなこと。
涼しい顔の下でおかしな想像をしているルイに構わず、勇者と妖精は和気藹々だった。
「この世界ではね、一緒になるって決めた人に時計を渡すんだ。人気なのが懐中時計とかかな」
「へえ、面白い。エレノアは? 妖精も、時計を誰かに渡すの? どんなやつ?」
「私?」
そんなことを聞かれるのは予想外だったらしい。エレノアが「……えっと……」と口ごもり、ゲームの内容を思い出そうとしていた。
ルイもおかしな思考を打ち切って、真面目に考えてみる。
ゲーム知識に関して、近頃はエレノアに頼りっきりだ。元々はルイだってよく覚えていたはずなのに、いつからかその記憶に穴が空き始めていた。
さて、妖精の時計とは。
なんだったか。
――知っている。
――これは憶えている。
ゲーム内で妖精ルートのハッピーエンドに至り、さらに低確率のランダムという運任せでしか入手できないのが妖精の時計だった。
あれは確か――。
「月時計ですよね」
自然と、声に出ていた。
エレノアが「え?」と驚いてルイを見る。彼も自分の台詞に驚いていた。片手で口を覆い、呆然とする。
――ルイ、知ってたの?
そう聞きたそうにするエレノアに、困った笑みを返すのみ。
「……うん。月時計もいいかもね。魔術師さま、いい趣味してるよ」
「月時計って?」
「満月の夜にしか正確な時間が計れない、あまり使い道のないものですよ」
エレノアの機転によってその場が動いたので、ルイも乗った。
他愛のない話の間、エレノアはちらちらとルイを気にしていた。
「どうしました? 何か気になりますか?」
聞くと、彼女はルイの膝にちょこんと降り立つ。
急に膝が寒くなったハスミは少し残念そうにしていたが、基本的には気ままに生きるのが妖精だと思い出した。しょぼんと落ち込んでいると、みんなのお兄さんエミリエルが肩をぽんと叩いてきた。
エレノアは、彼に確信を持って言う。
「さっきも思ったけど、お疲れなのかな?」
疑問形だが、どうやら確信している。彼女がルイの不調を見逃すことはない。
ルイが諦めて「ええ、少し」と認めれば、彼女は再びひょいと膝を発った。
「ちょっと待っててね。紅茶の茶葉、一人分は余ってたはずだから。お鍋と砂糖と、あとミルク……」
「ミルクなんてあったの?」
「あれ、勇者さまに言ってなかったっけ。私のアイテムボックスは、劣化知らずで保存しておけるからね。前に紅茶出したことあったでしょ?」
「じゃあ重いものとか入れらんないのー?」
ファラスの言葉に彼女が答える、
「入れらんないよ。容量にも限界があるんだから……武闘家さまも自分の得物は自分で持つように。荷物持ちになる気はないから。……っと、あっちの台借りるね。火を使うから、あんまり近寄らないでね」
そうして小さなテーブルでごそごそ怪しげに作業をし始めて、約十五分後。
エレノアが頭上に掲げてきたのは、カップに満たされた薄茶色の液体だった。
「砂糖を煮詰めて焦がしたソースと、ミルクティーを混ぜてみたよ。カラメルミルクティーっていうのかな」
「……ありがとうございます」
微笑みながら、ルイの手がエレノアの頭に触れようと動く。けれどはっとして、笑みを苦いものにしながら、その手を下ろした。
今は、触れてはいけない。
エレノアとルイは、まだそこまで親しい段階ではないはずだから。
「俺にはー?」
「あげなーい。魔術師さまは騎士さまと違って意地悪しないから、特別なんだよ」
「差別じゃん! それ差別!」
「差別と区別の違いがわかる?」
子供じみた口喧嘩を繰り広げる雌妖精と騎士。その様子を穏やかに見守るのは雌妖精を膝に乗せた魔術師で、そんな魔術師につい視線を向けてしまうのが勇者で、そんな勇者を見つめているのが治癒師と武闘家である。
この綺麗な多角関係に気付いているのは、魔術師と治癒師だけだった。
口喧嘩が止まらないエレノアとアーロイスに、ルイが「仲がよろしいのですね」と穏やかに割り込む。喧嘩腰だった妖精は大人しく居直って、ルイを見上げてきた。どの角度から見てもかわいい。
「なんかね、慣れた。騎士様は普通の人間より慣れやすい感じする」
というなんということもない返答に、ルイはイラっとする。
「それは良かったですね」
苛立ちが彼女に伝わってしまったのか、彼女は羽をびくつかせた。
防衛本能から飛び去ろうとするので、ひとまず膝に押さえつけてみた。「ひゃあっ」と聞こえた。妖精サイズの彼女は、上から手で覆うだけで動けなくなる。
手の下からぬぐぐと呻く声がしてかわいい。
逃げようとするから、逃がさない。
「エレノア大丈夫なの?」
「大丈夫、あまり力は込めていませんよ。妖精を膝の上で眠らせるのって夢だったんです」
もちろん嘘だ。
解放する気は毛頭ない。
「本当に眠くなってきた。おやすみ」
「えええ……?」
勇者の驚愕も知らぬ存ぜぬと、妖精はすやあと眠ってしまう。『飼い主』に忠実な雌妖精が落ちるのに、さして時間はかからない。
少し経って、ルイはようやく手を外した。そこで丸くなって眠っている妖精を確認して、
にこっ!
騎士へ明るく微笑んだ。騎士の顔が盛大に歪んだ。
大人げない。
*
山を越え、川を渡り、そうしてまたひとつの国へ向かっている。
川沿いに歩いている一行の中、ルイだけが浮かない顔をしていた。様子を見に来てくれたエレノアに、彼はふと尋ねてみる。
「本当にやるんですか」
「ううん。ストーリーに沿うならやらないとだし、私も動きやすくなりたいから、できればお願いしたいかなって……」
エレノアのお願いに、ルイは難しい顔をする。
迷っているのは、シナリオのイベントを発生させるか否か。
ゲーム中、勇者としての自覚が足りない主人公が、ある事件を境に勇者として目覚める場面がある。市街を探索していた主人公が突然大きな炎に巻かれる。これは魔王側の仕業だ。巻き込まれて怪我をした人々を見て、主人公は魔王を倒す決意を固めるのだ。
このシナリオが起こるのはもう間もなく着く国で、ここで最も危険な立場にいるのがエレノアだ。
炎に囲まれた主人公を助けようと、妖精が人間サイズになって空を飛び、無事に主人公を運び出す。その際に軽い怪我をする。普段は本音の見えない妖精の秘められた情熱とか優しさとか、そういう内面を窺わせる『キャラ深堀り』イベント。
「……はあ」
ルイは気が進まない。
エレノアが危ない目に遭うとわかっているから、そんなシナリオに乗りたくはない。けれどエレノア本人がやる気なのだし、妖精の怪我は軽傷程度なのだと聞いているし、このイベントでエレノアのサイズも変えられるらしいし。
諦めたルイは懐を探り、羊皮紙の欠片を取り出した。
手には羽ペンを出現させ、さらさらと文字を書く。それに息を吹きかければ、白い蝶となって飛んで行った。
これが届けば、城で執務に励むビスが「え本当にやるにゃん!? にゃん!!?」と尻尾を膨らませて怒ることだろう。そしてすぐに支度をして、こちらに来てくれることだろう。そんな様子が目の前に浮かんでくるようで、ルイは僅かに目元を和らげた。
そんな経緯があってから、二日後。
勇者はエレノアの予想の通り、大通りで炎に襲われていた。
「きゃあああああああああっ!」
煉瓦の道が黒く焦げていく。
炎の渦は徐々に狭まって、中心にいる少女を追い詰めていた。
少女の仲間は水の魔法でどうにかしようとしていたけれど、どうにもならない。
ちなみにエレノアは、人の多い通りが苦手なために宿屋でお留守番ということになっている。
ルイが「……こんな強力な炎、僕の魔法では……っ」と苦渋を表現した。ここにエレノアがいたらその演技力に拍手していたことだろう。
武闘家は己の無力に呆然と立ち竦んでいた。
シナリオに狂いはない。
少女が咳込み始めると、騒然としているその場に不相応な、幼い声が割り込んでくる。
「あんたが勇者さんってやつ? 弱そうだにゃん?」
ごく近い民家の屋根に立って、炎の中を見下ろす幼子――ビスだった。
その尻尾や耳を堂々と揺らしていることで、己が魔族であると語っている。
「おまえの仕業か、魔族!」
治癒師が吠えた。
ビスは答えない。じりじりと迫る炎に怯え膝をついた少女を、蔑みの眼で見下していた。
「なんだ、本当に弱かったんだあ。このまんま燃えて死ぬとこ、あんたの姿が見えてないお仲間さんにも伝わるように実況してやってもいいけど、どうするかにゃん?」
「や、やめて……!」
炎は壁となり、凶器となる。
少女の弱々しい声しか聞こえない仲間たちは焦るばかりだ。「やめろ!」と炎に飛び込もうとする武闘家を、騎士が羽交い締めで止めた。
「つまんない。もう待ってる意味もないかなあ。……にゃんっ」
炎が勢いを増し、渦が回転を早め、細くなっていく。
その様に最悪を考えた人々と仲間たちの視界の端に、銀が横切った。
お留守番だったはずのエレノアである。
「っ……勇者さま!」
小さかった妖精は、人を抱えて飛べる大きさに。
大きな羽を広げて炎の渦に入り、少女を抱え出した。
地面に降りて、腕に抱えたままの勇者にあたふたするエレノアの姿に、仲間も人も唖然とした。
「勇者さま、どこか痛い? 怪我は?」
「怪我はない……」
勇者も驚いていた。炎に巻かれてもうダメかと思っていたけれど、いつのまにか空を飛んで外へ逃げおおせていた。なんか妖精が大きくなっているし、この数秒間に何があったのか。
ハスミがまじまじとエレノアを見つめて徐々に視線を下げ、胸部を見た。そして己の胸に手を当てた。
「負けた……!」
「何が!? 勇者さま頭とか打ったの!?」
「や、大丈夫。いろんな意味でショックだけど」
そんなコントの外で、ビスが「もう、やんなっちゃう」と腰に手を当てて憤慨を表していた。
「なんのつもりですか?」
「なんのつもりもないよ。ただの暇つぶし」
「ただの暇つぶしでこんなことすんのー? 随分と野蛮だよね~」
「黙ってよ人間。劣悪種の分際でさあ、おれに話かけないでくれる? ていうか呼吸しないでくんない?」
魔術師の問いと、武闘家の問い。そしてビスの返答。全てエレノアの記憶にある会話だ。ルイの正体を知っていれば、ビスの態度や返答に温度差があることに納得してしまう。
ビスは「ふん」と機嫌を損ねて、去ってしまった。それを追うか追わないかで言い争ったあと、結局は「今は、彼女のことが先決だろうね」とかいう治癒師の一言で終結した。
笑えるほどシナリオ通りの茶番だ。
けれど勇者が落ち着いた後にあるのは、妖精への質問大会だった。人間の大きさになれるのか、どうして今まで黙っていた、そんな面倒くさいことを聞かれるはめになる。




