来なければいいのにな
深夜、忍び込んでくる人がいる。
高い塔の天辺に位置するエレノアの部屋に来られる者は限られていた。
彼女は足音から、その人物の正体を把握できた。
だから気にしないことにした。
髪や頬、喉元、あるいは唇に触れてくる彼は、不審者ではなく彼女の夫だ。
その目的が何であるかも、想像は容易い。
*
こつり。
固い靴の音は、人気のない空間によく響く。
透明度の高い硝子張りのそこは、ルイの趣味が多く反映された薬草園だった。
アイリス・ホワイト草、カルーア草、クロニア草、シッシャの木、スノウドロップ、ミント・レモン、ミント・ミルク、様々な木と草、花々が植えられている。
隣合うだけで萎れてしまう種もあるために、すべてルイが相性まで考えて指示した配置だ。
魔法薬の原料として有名ないくつかの種は、月光の中で光を帯びる。
含む魔力量によって、夜闇に薄青くぼうと浮かび上がるのだ。全体だったり、細かな花の一つ一つだったり、大きな葉のみだったりと、光る植物の種類や部位に一貫性はない。
ルイは天井を見上げた。
目線のずっと先にエレノアがいた。
彼女は硝子に両手をついて、外にある巨大な満月をじっと見ていた。全身で光を受け止めていた。一対の羽が時折はためいて、銀と青に輝く粒子を撒き散らす。
彼女が瞳を向けているのは、外の月だ。月光色の瞳を持つルイではなく。
仄かな光を発する幻想的な庭園に囚われた妖精は、絵画のようで美しい。けれど恋焦がれる眼差しを他所に向けられては、夫の心は穏やかではなかった。
ルイは無意識に声を出して、彼女を呼んでいた。
「エレノア」
「……うん?」
彼女は、人間より高性能な耳で彼の声を聞き取ってくれる。
そこでルイが手を差し出してやれば、彼女はワンピースの端を踏まないように摘まみながら、彼の手を取ってひらりと降り立った。
「羽の調子は良いみたいですね」
「うん。生えて二年くらいになるし、慣れたよ。心なしか前よりも速く飛べる気がする」
「散歩程度なら、外に出ても良かったんですよ?」
「ここにいるって約束したからね。それに今は魔法薬の勉強するんだから」
エレノアがここでルイの『仕事』が終わるのを待っていたのは、魔法薬を教えるという約束のためだった。
ルイを師匠として修練を積んだエレノアは、今では高等な魔術を使えるようになっている。「時々でいいから、魔法薬も……」というお願いを、彼は快く引き受けてくれたのだ。
今夜で『薬の日』は四回目になる。
「……あ」
エレノアは何かに気づいた。
「どうしました?」
問われた彼女は無言で、ルイの頬に手を伸ばす。
そこに着いている赤い液体を、指先で拭った。
「……気づきませんでした」
「それはいいけど……」
ルイは彼女の指をハンカチで念入りに拭き取ると、「すぐに洗いましょう」と微笑む。
彼の手に引かれながら、エレノアは
――やっぱり、昔より、よく笑う。
心の中で呟いた。
「……勇者、来なければいいのにな」
――そうしたら、魔王に殺されないで済むのに。
そんな願いは身勝手なものだと、彼女もわかっていた。今の魔物が強力になっているのはルイのせいだ。指示していなくても、魔王の魔力が強ければ強いほど、全魔物に影響を及ぼしていく。
ルイが魔王でいること自体が、人間達にとって悪でしかない。
彼を魔王の座から引きずり下ろしたい。そのために勇者を派遣する。
それを止めてほしいというのは、なんと勝手な言い分だと、エレノアは自分の言葉に落ち込んでしまった。
ルイは先ほど屠ったばかりの勇者の顔すら思い出せなかった。
人を殺すことに躊躇わなくなっているけれど、彼女が悲しむのは悲しかった。
「勇者一行が死ぬのは、やはり辛いですか?」
「辛いね。なんだかんだ言って、私は人間を殺したことはないから。それに人間だけじゃなくて、ルイもね、なんかこう……」
――遠くに行っちゃう気がする。
そんな妙なことを言う彼女が、ルイには愛しく思えて仕方ない。はは、と明るく笑うと、エレノアは少々拗ねてしまった。
彼女は真剣に、自分の纏まらない思考を伝えようとする。
「主人公がルイとバッドエンドになると、その後の勇者は現れなかったってナレーションがあった気がするんだよね」
「そうですか。でも主人公に攻略されるのはどんなエンドでも嫌ですよ」
「それは私も嫌だよ。浮気は嫌だよ」
二人は雑談しながら薬草園を出た。
「……他のルートも、ルイが魔王でなくなるけど生存してて、重症なだけっていうのもあったな。でもほとんどの話ではルイ消えちゃうから……、平和的に勇者来なくする方法ないかな」
「いっそ主人公を迎えて、一度ゲームを再現してみますか? それで最後までいけば、もしかしたら人間側が、勇者以外の新しい手段を講じてくれるかもしれません。……現状は、あまり楽しいものではありませんし。僕も久々に外を出歩いてみたいですし」
それもいいねと明るく答えたエレノアに、ルイはふと訊ねた。
「そういえば、ゲームでのルイ・スティラスの最後は知ってますけれど……『エレノア』の最後はどうなるんです?」
「言ってなかったっけ? 妖精さんとのハッピーエンド以外はね、妖精は、ルイを倒せば消えちゃうんだよ」
『エレン』と『エレノア』の最後は。
勇者が魔王を倒した直後、自身も消えてしまう。
魔王の魔術の被検体として捕まった妖精は、その地獄の数百年間を、自害しようとしても生き延びてしまう程度に与えられた魔力で生きていたから。魔王の戯れのために死ねなかっただけだから。
エレノアが口にした「消える」という言葉に、ルイは深刻な不安を覚えた。
彼はいつものように笑みを作る。
「そういえば今日の授業の前に、ビスに会ってくれませんか? 授業の時間は半分ほど潰れてしまうと思うのですが」
「それはいいけど、私何かやらかしたっけ」
「たいいえ。だの試着ですよ」
「……試着?」
二人はどこからどう見ても幸せそうな若夫婦だった。
片方は年をとらない妖精で、片方は二十代前半で時が止まっている魔王というだけの。実に平和な。
その少し後、魔王の私室に備え付けの衣装部屋で、エレノアは難しい顔をしていた。
ビスからエレノアに渡された服は、ルイの服と対になるワンピースだった。
黒い軍服を模していて、詰襟と袖口に引かれた金のラインが特徴的な、シンプルなデザインだ。膝下丈で、下から僅かにチュールスカートが覗く。下腹あたりから自然に膨らみ、腰の細さを強調する。前世の感覚で言うなら少々二次元的で、『エレノア』でなければとても着られない可愛らしさだ。背中は前面のきっちり感を損なわないように開いていて、少々窮屈ではあるけれど、羽が外に伸ばせる造りになっていた。
これほどスタイルの良さが試される服も、そうそうない。
「エレノアさん、できた?」
「着てはみたよ」
ビスがぴょこんと入室する。エレノアの傍までちょこちょこ寄っていくと「うわお」と固まった。
エレノアは姿見の前で、正面や背面やらを不安げに確認する。
腰まで届く長い銀髪は、昔と変わらない艶々のストレート。それが黒い服に合うような合わないような、自分では判断しにくい有様だ。
「ビスくん、これどう思う?」と客観的意見を求めてビスを見た。ビスはただ真顔で「大丈夫だよ」と言う。
「ルイ、できたよー!」
「ま、って、ちょっと……っ」
エレノアはビスに背を押され、衣装部屋から強制退場させられた。
夜の十時だというのに元気な子供である。
魔王の私室は広い。深いワインレッドと、所々に散りばめられた金色で統一されている。白が満ちるエレノアの部屋とは重厚感が違う。
衣装部屋は寝室から繋がるため、ドアを一枚開ければすぐにキングサイズのベッドが見つけられる。
寝室の安楽椅子は、背もたれと肘掛に肉厚のクッションがあしらわれた、ベルベッド生地の仕立てだ。その椅子に深く腰掛けていたルイは、エレノアを見て固まった。そのまま本を閉じた。
「……ビス、よくやった」
「にゃん」
「エレノア、こちらへ来なさい」
「うん」
気分次第だが、部下の前ではエレノアにも高圧的な口調を心がけているらしい。
エレノアも慣れたもので、ルイの元に駆け寄った。
ビスは空気を読んで「じゃあねー」と飛び跳ねながら退室してしまう。
エレノアはルイに招かれるまま彼の前に立った。そわそわと落ち着きがない。
「おかしくない?」
「よく似合っていますよ」
間髪入れずの返答に、エレノアは「へへ」と気恥ずかしげにした。
「まさかね、『エレノア』が黒いの着るなんて思わなかったよ。ダークサイドはこんな特典があったんだね」
「羽は痛くないですか?」
「大丈夫」
ルイは自分の服を見てふと何かを考えると、金飾緒の中の金糸を数本摘まんだ。しっかり編まれているそれは解し難い。
彼が何かを呟く。
糸はするりと束から抜けて、彼の掌で新しく形を成していく。――金の、細い髪紐になった。
彼は椅子から立ち上がると、彼女を連れてベッドに腰掛けた。
エレノアも追って隣に座り込み、「おお」と感嘆する。大きなベッドと、羽毛入り寝具の感触が妖精のお気に召したようだ。彼女が使っているベッドも上等なものだが、こことはまた違った手触りである。
「じっとしていてくださいね」
ベッドに気を取られていたエレノアは、素直に従った。
銀髪を少し手に取られて、何か細工をされていく。ルイの指が触れていると、落ち着くけれど恥ずかしくて、エレノアは俯いた。
彼女は昔から、こうした時によくルイと目が合わなくなったけれど、長期間の石像状態から目を覚ましてからはその頻度が上がった。あからさまに赤い顔をして目線が下がる。
成長のおかげだろうと、彼本人も気付いていた。自分の容姿は自覚している。男として見られているなら嬉しい。それを彼女に伝えるなんて野暮なことはしないけれど。
エレノアが居た堪れなくなって五分後、彼の手は止まる。
「できました」
「なに?」
出来栄えは、ルイも納得がいくものだったらしい。
エレノアの髪は左側のひと房が緩い三つ編みにされ、金の髪紐で結われていた。飾りに、青く透明な石も付いている。
「器用だね」
「ありがとうございます。君の髪にはお世話になっていますし、これくらいはさせていただこうかと」
「気にしなくていいのに。この青い石、何?」
「魔石です。おまけに付けてみました。邪魔にならない程度の大きさにしたつもりです」
エレノアが「ふうん」と石を触ってみると、枠が出現した。石はアイテムの一つらしい。
『魔王の魔石B
魔王が作った魔石。そこらの宝石より透明だよ。触っていると寒気がする以外は、なんの問題もないかもね。
効果:全属性の魔術、及び物理攻撃のダメージを60%軽減する。
売値:5,000,000クラン
備考:このアイテムは呪われています。120分以上外しておくことはできません』
「ご、ごひゃっ……のろ……っ!?」
「ごひゃのろ?」
「これ、ルイが作ったね?」
「ええ、人の作品よりは信用していますし、お手軽なので……、それよりごひゃのろって」
ルイはどうやら、自分が呪いのアイテムを作ったという自覚がないらしい。
呪いのアイテムというのは身に付けた本人にしか分からない仕様なので、作った本人も知らずに――というのも、ありえなくはないのだろう。そもそも呪い効果など、絶対に取り外せないようにだとか、何があっても常に近くにだとか、そんな嫌がらせじみた意識を持っていなければ付けられないものである筈だが。
――つまり彼は、生粋の魔王気質だ!
エレノアの背がぞくりと冷える。




