「舐めていいですよ」
ほんのり血表現注意。
魔力の循環は感じた?
それを全身から掌にもってくるイメージで……、そう、こんな感じ。
燃え盛る火の姿を思い描き、
「はあっ!」
一気に放つ!
「………。…」
――しーん、とする。沈黙が痛い。
部屋の一角から「ぶふ、」と抑えきれない笑い声が聞こえた。壁にもたれ掛かっていたスティラス少年だった。どうにか誤魔化そうとする八歳児らしからぬ気遣いは、私をことごとく惨めにする。
違うの、こんなはずじゃなかったの……。
彼は見守る体勢を崩し、空中でうなだれる私に手を差し出した。その手が意味するところを不本意ながらに理解している私は、その手に腰を下ろした。
白い足首丈のワンピースが広がって、妖精然とした様相でいる自覚がある。
そんなことより、気にするべきは我が不能さだ。水、土、風、と色々試してきたけれど、火もだめだった。一滴くらいは水を出せるし、土を一センチくらいなら隆起させられるし、そよ風程度なら吹かせられるけれど、火に至っては煙すら立たないとはどういうこと。
「こんなの絶対おかしいよ」
「おかしいですか?」
「私って救世の妖精なんだよ? 万能はずだよ? そういう設定だったのに、なんで魔法が使えないの」
「そう言われましても。妖精って、自分達の住処では魔法を使わないんですか?」
「飛んで寝て動物とほのぼの会話するだけの生活だから……。人間が襲ってくることだってなかなかないし」
「だから僕みたいなお子様に捕まるんですよ」
掌から肩に乗せられた。
なんだか最近、本当に飼い慣らされているみたいだな。
「魔法を使いたいんですか? あのエレノアみたいに?」
「うん、あの甚大な魔力でひゃっはーってやってみたいよ。そういう願望って誰でもあるでしょ」
「解らなくはないですけど、現在チートに近い身としてはオススメしませんね」
強いから言えることってあるよね。
ぶすくれた私を一瞥した少年は、肩に私を乗せたまま書斎を出る。
そういえば、籠から出されている状態で廊下に出るのは初めてだ。
――もしかして逃げられる?
そう考えたのがバレたのか、少年は「わかっているかと思いますけど、結界があるので君はこの家から逃げられませんよ」とさらりとのたまった。
「で、どこ行くの」
「研究室です。地下の」
「なんで?」
なんでそんなに楽しそうなんですか。逆に恐ろしいのですが。
「君は僕に実験されたいのだと思いまして」
「ん?」
「は?」
「どうして私が君のモルモットになるの」
「救世の妖精っていったら、魔王に捕まって残虐で冷酷非道な実験を繰り返された末に甚大な魔力を手に入れたんですよね? だから魔王に復讐するって下心もある、とかいうよくある設定で。……妖精が女性の場合は知らないけど、基本的に同じだと思います」
「ああああそうだったうわあ最悪だ」
あのゲームでの話。妖精と魔王の因縁は、どちらかのルートに入ると詳らかにされていく。そんな関係が、一部の紳士淑女に思わぬ人気が出てしまったと噂に聞いた。薔薇方面でも百合方面でも、薄い本の餌食でしたとも。
「『原作』では、妖精が捕まるのはまだ先になるのだとは思いますけれど、もう僕と会ってる時点でズレているわけですし。やってみますか」
「あえて聞くけど……何を?」
「実験」
「却下だね」
「えーなんでですかーやりましょーよーたのしいですよーやみつきですよー?」
「子供かあなたは」
「子供です」
敷地うんぬんより、こいつから逃げ出すことが先決だ。このまま実験されては堪らない。
じりじりと飛ぶ時機を伺っていたのに、いざ羽を動かそうと立ち上がれば、それを見越したようにぐわしと掴まれる。
階段を下りてすたこら突き進むスティラス少年の勢いは誰にも止められない。
「はーなーせー!」
「いーやーでーすー」
これだから人間ってやつはどうしようもないんだ!
けれど頭のどこかで、お気楽に構える自分もいたのだった。
スティラス少年は、なんだかんだ言って私に優しい。初めはやっちゃ駄目って言ってた魔法の練習も、黙って見守っていてくれてたし。
*
『まさか本当にやられると思ったんですか?』
心底殴りたくなるような真顔で言われた。もう許さないから、と態度で示した私だけど、彼の実験風景を間近で見ていたらそうも言っていられなくなった。
見覚えのある紫色の液体がシャーレに一滴落とした瞬間に、じゅわっと溶けた。シャーレの方が。『器具への強化魔法を忘れてました』なんて淡々と処理していく少年に恐怖を覚えない妖精がいるだろうか。
『ちょっと失敗です。お見苦しいところをお見せしました』
問題はそこじゃない。
『実験室に自分以外を入れないもので……緊張していたみたいですね』
えへへ、と照れ笑いされても可愛くない。
シャーレと紫の液体の混合液を、幼い指が指した。発火した。それらが燃えていく光景ばかりを注視して、私の精神も燃え尽きかけた。
次いで、
『この煙は吸わないでくださいね。肺が腐るかもしれません』
と、何でもないことのように言われたら色々と限界だ。
彼の気が私という『実験対象』に向かないように、体育座りの肩乗せ人形に徹するのが精一杯だった。これだから人間は。
実験されることなくやってきた、誘拐被害者生活の約三週間目。
寝る時以外は籠を使わなくなった。妹さんに見つからないようにだけれど、家のどこにでも飛んで行けるようになった。
そしてお腹が減った。書斎の机でぐったり転がっていると、扉が開いて少年が入ってくる。
不機嫌で、私を見る目も冷たい。
「君はもしかして、テレパシーとか使えたりするんですか」
「妖精同士ならできるけど」
いきなりどうしたんだろう。
彼は不機嫌なオーラをそのままに、何かを考えているみたい。顎に手を添えて、俯き気味に左下方を見つめるのは『ルイ・スティラス』の癖だ。
――こうしてみると、綺麗だなあ。
攻略キャラの中でも際立って美人だと思う。スティラスさんの前世のことはよく知らないけれど、精神年齢は成人しているのかな。仕草も、雰囲気も、大人のそれだ。頭の中で様々に推論していく様は、統治者のようだった。
空腹で回らない頭は、思考を素直な方向に飛ばしていく。彼が近くに来ても気づかないほど。
「まあ、テレパシーについては追々聞くとしましょう。行きますよ」
少年の顔を見つめたまま動かない私の前に、いつもみたいに掌が差し出された。それをじっと見て、また彼の目を見て、動きたくないと訴える。
「どうかしましたか?」
「おなかすいた」
「ああ、三週間になりますからね」
言わんこっちゃないと呆れられる。
少年は手を引っ込めて、机に転がる私をじっと見る。散らばった髪を指先で撫でてくれて、私はそれを眺めていた。お腹がすいて吐き気がする。
「いいですか、エレノア。僕は君を解放する気はありません。実験台にもしませんし、殺す気もありませんし、ただ此処に置いておきたいだけです」
私は何も言わずに先を促した。
「意地を張っていても仕方ないでしょう? 辛いままでいるのが嫌なら、君が食べられるものを教えなさい」
命令形だ。少年の言葉が嘘か本当かなんて、どうでもいい気がしてくる。
だって抗えない。このままでも死んじゃう、きっと。
妖精が人間嫌いなのは、苦しいことが嫌いだから――人間は妖精に苦しいことをするからだ。ここで苦しい飢餓を勝手に耐え忍ぶのは、どこか違う気がする。
「嘘ついたら逃げてやる」と前置きすると、彼は律儀に「はい、嘘吐きません」と返してきた。
「……魔力をたくさん含む、自然のものを食べる」
「木とかですか?」
「花とか、葉っぱ」
「なるほど」
こんな街中じゃ用意しにくいやつだ。山奥のものは極上だけれど、人間に侵された地の自然はほとんど干からびていて、食べたってお腹は膨れない。
「つまり妖精は魔力を食べるんですか」
「たぶん」
そう、だと思う。人間のように栄養分を必要としない代わりに、魔力を摂取する。そう考えるとしっくりきた。
「それならもしかして、『これ』でもいいかもしれませんね」
ぽつりと呟いた少年は、机の筆立てから万年筆を取った。そして筆先を人差し指の先に当ててぷつりと、――皮膚を突き刺したのだった。
「……なにしてるの」
「実験です」
横になりながら絶句する私をお構いなしに、少年は自分の指先に血が滲んで玉になっていく様子を眺めていた。
私も少年の奇行を見て、じっと見て、その血が、赤くて、鉄の匂いがしてきて、まだ柔らかそうで、新鮮で、とても、とても、とっても、――美味しそうなことに気がついた。
「そんなに見つめられると怖いのですが、そんなにほしいですか?」
欲しい。欲しいです。
ふらり、ゆらり。
私の意思は、体をよろめきながらも立ち上がらせて、彼の服を掴んでいた。
そんな浅ましい私を見る彼が嬉しそうだったことも、どうでもよかった。
芳醇な香りを漂わせる、極上の魔力。あれが欲しくてたまらないのに、「舐めていいですよ」と近づけられても正直に口を付けられないのは、私の矜持ゆえだ。
前世は人間だ。人の血を舐めるなんて、そんな非常識を……非現実を、許せるわけがない。全身が他人の血液を求めている現実に泣きたいくらいなのに、更に先をいってしまえば、もう引き返せない。
そんな私の逡巡を、彼は見抜いた。
「何を躊躇しているのですか。君はもう人間ではないのに」
――ふ、と小馬鹿にしたように鼻で笑われた。
それを聞いて、箍が外れた。私は私の中の人間を忘れることにした。
少年の指先を両手で掴んで、血の玉に口付ける。
その途端、口内に広がったのは甘やかな誘惑。もっともっとと求めてしまう。
頭がぼやけてくる。
脳がどろどろ蕩けそう。
最後まで舐めきってしまっても、鉄味の余韻が名残惜しくなって、皮膚を押してさらに溢れさせようとする。その寸前で我に返った。これが人の傷口であることを思い出した。遠慮がちに見上げる私に彼は優しく笑い、「まだいいですよ」って、言ってくれたから、もう止められない。
「……んっ、ん」
――ああ、美味しい。
私の瞳が恍惚でいやらしくなっているなんて、少年にしかわからないことだった。
変化は急激に訪れる。
体が芯から熱くなっているような感じがして、私は咄嗟に指を放した。
「もういいんですか?」
「ちがう、なんか、おかしい」
「……?」
「からだ、あつい……っ」
どうしよう、こんなことは初めてだ。
身体中の体液が逆流してしまったみたい。沸騰している。この熱はそろそろ外部に現れてもいいと思うのに、不思議と皮膚はいつもの体温そのままだった。
叫ぼうとして、その余裕もなく。
一瞬だけ意識が飛んだ。数秒後に目を開けた時には、驚いたように私を『見上げる』少年がいたのだった。




