石像と従者と魔王様
魔界とは、魔王城を中心として円形に広がる一定の領域のことを言う。
目玉焼きを一つの大陸とするならば、白身に当たるのが人間の地。そして黄身に当たるのが、魔界である。
世界で空に最も近い山脈の谷底に、どんよりと溜まる瘴気。それが時々周囲に漏れ出して、世界中の魔物を集め、魔界が生まれた。魔王城が建てられたのが先か、魔界の開闢が先か、誰も知らない。
ただ魔物にとって居心地の良いそこは、到底人間が住めるような土地ではなかった。
人が大陸の端から端へ移動するには、中央部の魔界を迂回しなければならない。
ルイ・スティラスによる魔界の治世は整っていた。
そしてそんな魔界の中央の魔王城の玉座の魔王のルイは、頬杖をついていた。眉間に皺を寄せ、大きくため息を吐いた。誰が見ても不機嫌だった。
眉間に皺を寄せ、ため息を一つ。
「……はあ」
魔王に就任した二十代前半で、肉体の成長は止まる。
若々しい美貌はそのままに、彼は悩んでいた。
彼が脚を組み替えると、玉座の両脇に着いていた竜族の護衛二人が視線を交わした。主を見て、またお互いを見た。そそそそそと玉座の裏にやって来て、額を突き合わせる。
――なんだかこの主君、今日はとても不機嫌だね。
――なんでこの主君、今日はこんなに不機嫌なの?
――僕が知るわけないだろ?
――僕も知るわけないだろ?
二人は爬虫類の目をして、頬や腕に自前の鱗をびっしりと生やした、独特の風貌をしている。無表情で冷たい顔つきの、双子である。
ルイの右側に立っていた方は槍を持ち、左側の方は腰に剣を差していた。
――主君の機嫌が悪いから、今日の夕食はシチューかな?
――主君の機嫌が悪いから、もしかしたらコロッケかもしれないね。
――ご機嫌取りも大変だね。
――僕らは絶対にできないね。
「何をしている」
「いいえなにも」
「しておりませんです」
ルイに声をかけられて、双子の背筋がぴんと伸びた。それぞれ定められた立ち位置に戻る。
この場には、本が二十冊ほど集められている。
勇者だの魔王だのという話は、実は魔王城の臣下たちも気になる話題らしい。そこで人間界から、人気の勇者譚を取り寄せた。かといって敵側が書いた本をそのまま城内に置くこともできず、審査の真っ最中だった。司書を置きたくなった。
「次」という魔王の指示に従ったビスは、一冊ひょいと手に取った。
「はいはーい。これだよ」
「読んでくれ。少し疲れた」
「いいけど。にゃん」
ビスは玉座前の、三段しかない階段にちょんと腰掛けた。本を開いて、演技がかった幼い声で文章を追う。
普通に黙読して自分で判断してくれればいいんですけどとルイは思ったけれど、せっかくなので放置する。
――そこは禍々しく息苦しい土地である。
赤々とした満月の下に浮かぶ巨大な城は、まるで影から這い出たようだ。
城主、魔王は恐ろしい。恐ろしい美貌には、全てを睥睨するような、酷薄な笑みが浮かんでいた。
私が飛龍に乗り、城の様子を伺っていた時のこと。
一等高い塔にある窓を覗けば、女性が眠っていた。とても魔の者とは思えない、美しく高貴な風貌をしていた。
しかし、嗚呼、哀れな!
彼女は凶悪な魔王に捕らわれた末に、その華奢な体を石に変えられてしまっていたのだ!
皮肉にも魔王妃のベッドに寝かされて、そこから一歩も離れられない。
なんという無情。なんという無慈悲。
彼女の静かな横顔は、己の生を憂いているように見えてならないのである。
だから私は決めたのだ。
この痛む胸をどうにか静めんと、魔王の居城に入り込む覚悟を――。
「――以上、巷で流行ってる勇者の冒険譚第一巻の序章。ご感想は?」
「本当に無理だ」
「不採用だねぇ。はい次ー、じゃんじゃん持ってきてー」
ビスは壁際に立っていたメイドに命じた。
緊張気味に渡された本を開いて、ビスは最初の頁のみを朗読していく。
昼食を終えた直後のこと。妖精の長の使いを名乗る者が、城にやって来た。
ルイは玄関ホールでその人物を迎えた。
堂々とした出で立ちの男は、一言で言えば『黒』だった。
黒髪と、一見すると黒に見えるほど濃い紅色の、鋭い瞳。黒い制服のようなものを着ている。彼はルイと並んでも見劣りしないほど、端整な顔をしている。
どちらかといえば中性的なルイと、男性的な美しさの男は、驚くほどに――似ていた。
何が、と問えば、わからない。
けれど二人共が、互いを見て目を見開くほどには『どこかが』同じだった。
挨拶をしようと口を開いたルイだったが、しかし口は意図した言葉を発してくれない。
「失礼ながら、妖精には見えないのですが」
この無礼な発言で迎えたことを、むしろ当然だと思ってしまった。知己の仲でもあるまいに、どうしてそんなことをしてしまったのだか、自分でもわからなかった。
そして男もさして気にした様子はなく、答えた。
「妖精ではないからな。俺も主も」
ルイは内心で首を傾げたけれど、気を取り直して男を案内していく。
ずっと欲しかった答えは、恐らくこの男が持っている。ただの勘といえばそれまでだが、時々発動する魔術師の勘は案外馬鹿にならない。
二人分の紅茶が出されて、本題が始まる――かに思えた。
メイドが退室してから一拍置いて、二人が同時に足を組み、同時にカップを持ち、同時に口を付ける。
優雅な動作から、やけに貴族然とした雰囲気まで、似通っていた。
鏡合わせのようだ。それに気づいた二人が相手を見ると、妙な静寂が漂った。
「…………。」
「…………。」
先に動いたのはルイだった。不思議な空気が笑えたらしく、いきなり吹き出した。
笑い上戸のルイと違って、男の表情筋は死んでいる。呆れたような、疲れたような息を吐いた。そして彼から話を始める。
「主は妖精の長と呼ばれているようだが、自分から妖精だと名乗ったことはない。ただその手のことに詳しく、少し長く生きているだけのことだ」
「では、どうして此処に? 妖精から依頼でもありましたか? 今現在、この城内では約五百匹の妖精を拉致監禁状態にしていますが」
「ああ。妖精は臆病なわりに、しつこい生物だ。仲間が仲間がと、周囲でうるさくされては読書もできない」
「心中お察しいたします」
「元凶は君だろう。随分と常識外れの呼び出しだったな」
「ええ、自覚はありますよ」
初対面の割には話し易い。
男は、ルイに白い封筒を差し出した。
「……要るか?」
「手紙。貴方の主から?」
「ああ。一応、常識は弁えている。訪問の際には、手紙か何かで知らせておくのが良いのだろう。それで予告の手紙を届けて来いとの命令で、今日ここにいるわけだが、……どうせ日を改めても来るのは俺だ。時間があるなら、今から用を済ますのが良い」
「おや、多忙な方なのでしょうか」
「多忙と言えばそうだな。……主はそう易易と持ち場から離れられない身だ。俺で不足と言うなら、文句は主に言え」
「いえ、妖精について教えてくださる方なら、誰でも良いのです」
「あと一つ断っておくが、名前も教えられない」
「理由を聞いても?」
「黙秘する」
「そうですか。それならそれで構いません。そういえば宿泊も可能ですが、どうしますか? 迎賓館の方になりますけれど」
「気遣い痛み入る。だが用事が済み次第、すぐに出立したい」
「それは残念です。要件が早く済むなら、それに越したことはないのですけれど……」
ルイは笑みに影を落とした。それに男は何を思ったのか、目を細めただけで何も言わなかった。
ルイが目を閉じ、「『転移』」と唱える。瞼を開けた時、目的のものは両腕にあった。
白い石像。
両手に砂時計を握らせて祈るような形にした、簡素な恰好の妖精。ただベッドに寝ていることを前提とした石像だから、衣服や髪の広がり方は不自然で、ルイの腕の中には収まりにくい。
男は石像を一目見て「契約獣ではないな」と、確信的に呟いた。
「妻です」
「ほう?」
初めて、男の瞳に興味の光が宿る。
「契約獣に情を移すものはいるがな。……詳しく話せ」
*
魔王よりも偉そうな男は、ルイの話を聞き終えると、眉根を寄せて考え込んだ。やがて結論が出たようだが、どうも苦々しい表情だ。
男は熟考の末、提案する。
「契約に関してなら俺の方が得意分野ではあるが、妖精相手では主が適任だ。数分の間、話しかけないでくれると有難い」
断る理由はない。
ルイが頷くのを確認すると、男は椅子に深く座って身を安定させた。
そして目を閉じ、意識をどこか遠くに飛ばしたようだった。
契約した主従同士は、その関係が深くなればなるほど、遠くからの意志の疎通が可能になる。
その例はあまり見る機会がなく、研究者気質のルイはついまじまじと観察してしまっていた。
そうして五分ほど経ち、男はその紅い瞳でルイを見る。
「羽は魔力の通り道、という認識で間違ってはいないらしい」
第一声がそれだ。
男の辞書には、前置きとか心の準備とかいう言葉は存在していないようだ。
「羽に流れる魔力を月光に当てることで、生命力を生み出している。質の良い魔力を、月により近い場所にて晒し――そうして妖精の美しさは増していく。羽という薄い器官は、光を透かすに最適だ。妖精はそういった知識がなくとも、本能からそれを求める。……覚えはあるようだな」
「……はい」
思えば、彼女はいつも月の明かりを求めていた。
羽をなくしても、月があれば幾らかの精力を取り戻していた気がする。
男の主が妖精に詳しいという話は虚言ではなかったらしい。
その知識をどこで手に入れたかも、是非知りたいところだ。
「その羽がない場合は?」
「妖精は人より複雑なようで単純だ。お前の魔力と生命力を与え、半契約状態にすれば羽は戻る。――とのことだ。『より直接的な』方法によって」
より、直接的な、方法?
ルイは息を詰まらせる。
男は淡々と、話すべきことを述べていく。
「魔力とは、性の象徴的な部位や体液、あるいは生命を司る部分に宿るのが常識だな。人も妖精も同じ。第一に血液と心臓。女の魔力は髪と胎、そしてあまり知られてはいないが、涙も含まれる。男の魔力は喉仏と――」
「待ってください」
男の言葉を強く遮って、ルイは愛しい石像に目線を落とす。
男が言うには、魔力を溜め込む受け皿に直接、それに合った形で魔力を受け入れさせろということらしい。
ルイは、滑らかで固い肌を意識した。彼女の匂いも声も肌の感触も忘れてしまっていた。
今、腕にいる彼女は死体のようなものだ。その身の処遇が、目前で交わされる生々しい話で決められてしまうのに、声の一つすら上げられない。聞こえてすらいないのだと思うと、彼女が哀れに思えてならなかった。
「……言いたいことはわかりました」
「簡単な話だろう。男女ならば、これだけ都合の良いこともない。最古からの正統な契約法であり、確実な魔力譲渡方法だ、最も安全だと言える。相手の意識がなければ完全な契約とはならないが、魔力を奪われるだけの餌にならなれる」
「動くのが自分の魔力だけだから、ですね」
「そうだな。……精々、相手の体力に気を配ることだ」
「意識のない彼女を、抱けと?」
「ああ」
――この彼女を再び生かすために、無体を働けと。本人の意思もなく。拒否させることもできず。いくら夫だとて、許されることなのだろうか。
「……血でも駄目ですか」
「相当上手くやればできなくはない。ただそれは今でこそ主流にはなっているが、古い方法を略しただけの簡易な方法だ。その死にかけた妖精にかかる負担は計り知れない。相手の同意が欲しいのもわかるが、やはり主の案が現実的な方法だな。君が考え至らなかった筈はないだろう」
男の言うとおりだった。
血を与えるより確実なこの方法を、考えたことがないわけではない。
契約方法としても、魔力譲渡としても、象徴的なものだ。
宗教的、魔術的な意味合いも強く、血を飲む以外で唯一、個々が『繋がり』を持てる儀式。時と場合によっては、一般人からも『契り』と称される行為。
ルイの葛藤は、男には奇異のものと映ったらしい。今まで何を迷っていたのかと、眉根を寄せていた。責めているようでもあった。
「何故、躊躇っていた。その女を助けたいのだろう」
「僕の力が拒絶されない確信がなくて。拒絶に関しては、僕も彼女もトラウマがあるんです。……でも貴方の主が大丈夫と言うなら、そうなのでしょうね。お話を聞けて良かった」
ルイは石像の頬を一つ撫でて、自嘲した。
「主の見立てでは、その妖精は石化を解いた後一ヶ月ももたない」
「はい」
「正式な譲渡の手順は知っているな」
「……ええ」
この情報料として、拉致監禁している妖精を全て放すこと。今後は妖精を害さないこと。その約束を取り付けて、ルイはふと時計を見た。
半日は話し込んでいたつもりだったけれど、実際には一時間も経っていなかった。
話し終えた男は休憩する間もなく、帰宅の支度を始めてしまう。
玄関ホールまで見送りに出たルイは、背を向けた男を引き止めた。
「訊いていいですか?」
「なんだ」
「貴方と、貴方の主は、その知識をどこで? いえ、……何者、ですか?」
男の主の知識量は、普通の人生では手に入れられないものだ。
引く気を見せないルイに、男はついと目を逸らした。
「……君なら、もう勘付いているだろう」
「……やはり、そうですか」
――ふふ。やけに柔らかく微笑するルイは、男の正体に心当たりがあった。
そのまま男に問う。
「性格が悪いとは、本当ですか?」
周囲の護衛やメイドには理解不能なそれは、ほんの戯れだ。
意図的に主語をなくしても、男にはあっさり通じてしまう。
「ああ。……殺意が芽生えるほど、悪い」
「お互い、女性には苦労しているようですね。貴方との共通点はそこでしたか」
――では、時の精霊によろしく。
ルイがひらりと手を振ると、男は何も言わずに消えた。
性格が悪い、時の精霊。以前ちょろっと話だけ出たので分かる人はわかるかな。




