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妖精と青い離別

「もう行きなさい。ウィーヴィ家の令嬢が、こんなところに長くいるものではありませんよ」

「それは無理だよ、ルイ」


 空気が固まった。

 顔を上げたクレアの瞳には強い意思がある。

 ルイは彼女を眩しげに眺めて、穏やかにその先を促した。

 ここでそんな優しさを示されて、クレアは胸をぐっと押さえた。

 クレアはすう、と息を吸い込んで。背筋を正し、前を見据えて、


「元宮廷魔術師筆頭ルイ・スティラス。お前に王都襲撃を扇動した疑いがかかっている。――国家反逆罪、殺人幇助、容疑は色々とあるが……」


 目前の『罪人』に宣告した。


「一緒に来て欲しい。この家は包囲されていて、私の合図一つで攻め入るだろう。エレノアは……悪いようにはしない。それに先の話のこともあるし、無罪とはいかないだろうが、どうにか酌量を――」

「……ははっ」


 ルイは笑った。耐え切れない、とばかりに。

 クレアは彼を訝しげに見上げる。


「ルイ……?」

「いや、……なんでしょうね、おかしくて。あの王は、君を送るだけで、どうにかなるとでも……思ったのでしょうか?」


 くすくすと、未だ止まない声を抑えることもない。

 想定していなかった反応に、クレアはしばし呆然とする。


 彼は身を翻した。さも当然、という態度で会話を打ち切られたクレアは、急いで彼の背を追った。

 一瞬のうちにスカートを捲くり、大腿のホルダーからナイフを取り出した。


 予備動作もなしに、跳躍する。


 彼の腕が外れることも厭わない勢いで引き、足を払う。テーブルに押し倒した。流れるような動作でテーブルに飛び乗り、彼の腹に膝を押し当てるようにして跨った。彼の首にナイフを当てた。


「っ……今日はやけに乱暴ですね」

「どこに行く。まだ話は済んでいないのだが」


 クレアは一段低い声で問いながら、痛みに顔を歪めるルイを眼光で強く責めた。

 身体能力であれば、ルイよりクレアの方が上だ。身軽な動きを得意とする彼女だけれど、その重圧は相当のもの。

 けれどルイは、その様子にさえも暗い瞳で応えるのみだった。


「寝室ですよ。これ以上話すことはありません」

「私の話を聞いていたのか?」

「もちろん。その上で、言ったのです。――もう話すことはない」


 ふと、ルイの手が動いた。

 するり。クレアの頬を、ルイが柔く撫でる。刃がルイの皮膚を薄く切って咎めた。


「何の真似だ」

「いえ。君の顔をこうまじまじ見るのも久しぶりですね。身長はお変わり無いけれど」

「長話は終わったのだろう? 私の仕事に付き合ってもらいたいのだが」

「残念ですが、残業は嫌いなもので」

「幼馴染み甲斐のない奴だな。おいしい食事付きだぞ?」

「缶詰ですか? 乾パンですか? 干し肉ですか? 油塗れの固形物ですか? いずれにしろ僕はあれを美味しいと言えるほどの上級者ではないのですが……」

「今は一般兵だってもっと良いものを配給されるのだがな」


 ひとしきり冗談をぶつけあった後で、沈黙が訪れた。ルイは不思議そうに、クレアの瞳をじっと見つめている。その様子をまじまじと観察していた彼女は、くっと喉を鳴らしておかしそうにした。

 クレアは、ルイの狙いを分かっていた。

 魔術師は幻覚や睡眠を誘うことがある。


「私がまだ動けることが、不思議だろうな?」

「ええ、とても。何を持っているのでしょうね。闇系統か、全魔法耐性が上がるアイテムの……ランクB、でしょうか」

「さあな。ただお前の家には結界があるから、誰か一人でも入り込んで説得に向かえるように、とのことだ」


 魔術がかからないアイテムか、魔術を防ぐ結界か。明言はしなかったクレアだけれど、衣服の中では青い魔石のペンダントが揺れていた。

 彼女に何かしらの魔法防御の力が加わっていると見抜いたルイは「アルスですか」と呟いた。ルイが幻惑や睡眠の魔術を使用することを知っていて、その対策を講じられる人物だった。


「さすがに、余計なところで優秀ですね」


 彼はクレアの前では怒らない。クレアがこの家に来てから一度も、真顔と笑みと疲労の色しか見せていない。それがどんなに不自然なことか、自覚していないのだろうか。妹を失い、妖精を救おうと躍起になり、瞳を翳らせ、濡れ衣を被せられてまでも、激昂とは程遠い調子で「放した方が身の為ですよ?」なんて茶化して諭すのだから。


「……なあ」

「はい?」

「私と来てくれ、ルイ」


 クレアの真摯な囁きにも、彼は一言で両断した。


「駄目ですよ」


 ――っ!

 風を切る音がした。

 クレアは咄嗟に飛び退いて、リビングの出入り口を背に立つ。


 彼女の後を追うように床や壁に突き刺さったのは、スティラス家のフォークやナイフだった。すとととととと。一定の間隔で、柔らかに木を叩く音がした。木製の床に、食器具の尖った部分がすべて埋まった。

 クレアは身を低くし、ルイから視線を外さなかった。

 身なりを整えたルイが右手の人差し指で指せば、床に刺さっていたそれらはすっと抜ける。指の動き一つで、クレアの足元を目指して飛んでいく。


「残念です。女性に刃を向けたくはないのですが……」

「じゃあ向けるな! 男の風上にも置けん奴だな!」

「正当防衛って響きが大好きです」

「おっまっえええええっ! ちょ、まっ!」

「これくらいなら避けられるだろうって信頼から成る愛情表現ですよ」

「こんな捻くれてこじらせてさらに裏返った愛情表現なんて要らんわ!」


 クレアは小さな体を駆使して、一般家庭に三本ずつはある一般的なカトラリーから逃げ惑う。

 目の前に飛んできた食事用のナイフを、手持ちの護身用ナイフで弾いた。かきん、と高い音がなった。軽く火花が散った。


 ――なんて恐ろしい家だ!


 ここまで危険なお宅に訪問するのだと知っていたら、初めから重装備で挑んでいたのに。

 クレアが指を咥えて笛音を鳴らすけれど、やはり仲間の騎士は入ってこなかった。当然だ。説得は失敗に終わったのだから、敷地の結界が解かれているわけもない。楽しげに見守ってくるルイが心底憎々々々々々々々々々々々しい。


「さっき、僕はアルスを『余計なところで優秀』と言いましたけれど、本当にその通りですね。彼は僕を本気で捕まえられるとは思っていませんよ」

「そんな馬鹿な話があるか!」

「そもそも、その魔法防御の何かを一人分しか渡されなかった、あるいは施されなかった時点でおかしいとは思わなかったのですか?」

「貴重なものだから、一つしかない、って、言われた!」

「いいえ? この結界を通り抜け、魔法を退けるくらいのものだったら、彼の実力でもう三つくらいは用意できたでしょう」

「奴が故意に手を抜いていたと!? 逃亡幇助は重罪だぞ!」

「彼に感謝した方が良いのでは?」

「帰ったら問い詰める!」

「彼を責めないでください。君一人を出せば手加減はすることを知っていたのでしょうし、ここに入ってきたのが大勢だとしても、こちらにだって手はありましたから」


 足元に出現させた転移魔法陣は、ルイの身を飲み込む。


「く……っ」


 目標を見失ったけれど、クレアはそれでも止まらなかった。攻撃を止めたナイフやフォークには目も遣らずに、彼女は二階へ駆けていく。

 彼がエレノアを置いていくなど、ありえない。ならば転移した先は知れている。

 僅かに痛んだ胸を気にしないように、彼女は階段を駆け上がった。


 慌ただしく扉を開ける。

 エレノアを毛布に包み、抱き上げるルイがいた。

 エレノアの瞳は薄く開いていて、意識はあるようだった。


「少し移動しますね。痛かったら言ってください」

「……どこ、行くの……?」

「広くて、静かで、君を傷つけない所です」


 その静かな会話を、クレアは危険だと判断する。けれど横抱きにされているエレノアがルイの盾のように見えてしまって、踏み出すことはできなかった。

 ――何より自分は本当に、彼を捕まえられるのか。よしんば捕まえられたとして、それで彼に正当な処罰が下されるのか。

 仕えるべき王を疑ってしまえば、騎士も脆いものだ。もしや自分の今の地位ですら、自分が知らぬうちに金で買ったものではないのかとも思えてしまって、クレアは雑念と迷いに苛まれる。

 ――考えてみれば、戦果をあげて持て囃されても、重要な決め事で自分の頭を使ったことがあっただろうか。『隣にいる誰か』の言葉を待っていなかったか――?

 何を信じるべきかがわからない。

 ルイの幼馴染と見込まれて与えられた任務は、失敗に終わってしまう。


「ま、待て、冷静になれ、お前らしくもない」

「冷静になろうとして、そうさせてくれなかったのは此処の方々ですから。ごめんなさい。もう疲れてしまいました」

「だから法廷に出ればいいだろう! 罪人は裁かれる。お前以上に人を傷つけた者がいるというなら、それを証言すればいいだけだ!」


 ルイは答えない。関係のない話をする、


「ただの人間は、魔術に対抗する術など幾つも持ちません」

「ルイ!」

「人間は簡単に魔法にかかってしまう。それはこの国の王も同じです」

「おまえはそうやっていつも、私の話を聞かないっ……こんな時くらいふざけるな……っ」

「魔王も魔術も、とても危険なものです。それなのにどうして、強者たる魔術師達が牙を向かず、ただの人の王に傅くのか――」


 この国は軍人が少ない。それは戦の少なさにも起因するけれど、有事の際には優秀な魔術師が割合多く投入されるからだ。魔術は他国に恐れられ、宣戦布告などしようものなら次の瞬間に指揮者の首が飛んでいると信じる者もいる。

 その魔術師が王に膝を着く理由は、ひとえに平穏のためだろうとルイは考える。

 自分の生計や、恋人や家族のために、人間が住みやすい国で働く。本来なら、人と関わらずに秘境の地で己のテリトリーを築くのが性に合っている。

 彼は前者だった。けれど、それも終わりだ。


「僕が王の下にいたのは、お金のため。家族を養うためです。……それを奪っておいて良い子でいろだなんて、酷い話ですよね」


 ルイの足元が青く光る。三重の円が現れた。


 クレアが己の心と戦い、どうにか動こうと足掻いている様を、ルイは穏やかに観察していた。ナイフを握る細腕に筋が浮く。震える。けれど動かない。悔しそうにルイを睨めつける眼光は、人を一人突き殺せるほど鋭かった。

 その間にも、ルイの魔法陣は一本一本と線を足していく。絡み合い、文字列を成した。

 それは彼がこの国で多用していた移動用の魔法陣に似ているけれど、より複雑なものだった。

 青い光がより強くなった。

 ルイの瞳が勝気に細められる。


「そうそう。この家の結界のことなんですが」


 ルイの周囲にまとわりつくのは、青い粒子を含んだ風。

 彼の髪をふわりと押し上げて遊びながら、その勢いを徐々に増していく。


「僕の許可なしに入ってこられるのは、ルミーナと、エレノアと、君だけなんです。入るだけならいつでもできたのに。お疲れ様ですね」

「っ……!」

「では、くれぐれもこれ以上荒らさないように、」

「ルイ!」

「家はそのままにしておいてくださいね」

「待て! 待てッ!!」

「お元気で」

「ルイッ!」


 ――ひゅ。


 情けない音だった。それだけで、ルイは消えた。

 クレアは、置いていくなだとか、留まれだとか、一緒にだとか、罰を受けろとか、好きだとか、きっと言うべきではないから言わなかった。


 この日、少年は自分の心が黒く染まり尽くしたことを自覚した。

 少年が壊れるその様は、幼馴染の少女だけが見ていた。

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