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妖精と痛い時間

 まずは、歩けなくなった。

 次に自力では起き上がれなくなった。

 生きてさえいてくれればよかった。

 掠れる声で拒絶されても、無理に血を飲ませた。

 彼女は弱々しく呼吸して、憎むように苦しむ。

 必ず身を寄せた。彼女が意識を失うまで抱いていた。


         *


 彼女の白いワンピースは妖精の一部とされているらしく、自浄作用はこの服にまで及ぶ。これで過ごせば、涙や汗で汚れても、不衛生とは無縁になれる。


 時間帯関係なく、彼女は魘されるようになった。


 ルイに背を向けて寝ていた彼女が、不自然に震えだす。呼吸が荒くなる。そして時折「ん、ん……っ」と喉を詰まらせたように呻く声が聞こえれば、ルイは飛び起きる。

 今が深夜であること、自分が寝付いたのがほんの二時間前であること。そんなことは、ルイにはどうでもよかった。


「エレノア……ッ」


 肩に手をかけて仰向けにさせれば、彼女は口に掌を押し当てながら、声を漏らすまいとしていた。両目からは涙が伝って、額には玉の汗が滲んでいた。

 覗き込んでくるルイに、一瞬傷ついたような顔をする。

 そんな彼女に覆い被さったルイは、耳元で古代語を囁いていく。彼女の耳から脳、全身に、その声が行き渡るように魔力を込めて。

 そして最後に「『×××』」と言えば、エレノアの体は楽になる。妖精に効く鎮痛の魔術だった。

 けれどそれも、苦痛だけを幾分かは取り除けるだけで、その身の内の崩壊は抑えられない。


「……ごめんね、起こしちゃったね」

「僕のことはどうでもいいです。痛みがあったらすぐに起こせと言ったのに、何故そうしてくれないのですか? 君のそれは、一人で堪えられるようなものではないでしょう!」


 数日前、エレノアは吐血した。ルイの前で。

 それから彼は気が気でない。

 朝も昼も夜も、唐突にやってくる苦痛にエレノアが呻く時。その声が恐ろしくて、彼女が弱っているのだと見せつけられて、ルイは己の無力を嘆きたくなる。痛みくらいは取り除いてやりたいと思って、それをエレノアも知っているはずなのに――彼女は従わない。あろうことか痛みに耐えかねて漏れる声ですら、手で塞いで止めようとするのだ。

 彼女の優しさがそうさせるのだと、ルイも解っている。

 エレノアを助けるために日々を費やして、休みすらしない。彼女はそんなルイを憂いて、己の身を呪いすらしているのだろう。

 けれどそれでは駄目なのだ。

 そんなことではどちらも救われない。


「……ごめんね」

「エレノア」

「ごめんね。ルイ。……ごめんね。ごめんね」


 ルイが彼女に被さったまま抱きしめても、そこに色めいた雰囲気はない。耳元で繰り返し囁かれる「ごめんね」には涙が含まれて、痛々しかった。


「やめてください。謝るくらいなら、もっと自分の身を……っ」


 弱々しい謝罪など聞きたくない。最期の言葉に聞こえてしまう。

 ルイはただ、彼女に切望する。エレノアという存在を逃がさないように、ここから消えていかないように、全身で感じていなければ呼吸もできない。


 自分以上に速い心拍を感じて「……へへ」と笑うエレノアは、もう心からの破顔などできなくなっていた。できるのは、体中の気怠さと、時々酷くなる胸痛への恐れに濁らせてしまった、苦しげな微笑みだけ。

 そしてまた、彼女の体は静かに死に向かう。


       *


 どうすればいい。どうすれば君を救える。


「っ……」


 ――これも違う!

 ルイはこぽりと沸騰しだした菫色の液体ごと、ビーカーを火から下ろした。苛立ちから、少し乱雑になってしまった。跳ねた液体が手の甲にかかって、皮膚がちりちりと痛んだ。

 その失敗作を指先一つで凍らせ、圧縮し、『消滅』の魔法陣の中に押し込める。

 彼は背凭れに寄りかかり、ぼうっと天井を見上げた。

 こうするのは何回目だろう。研究室に篭もり、持てる全ての知識を応用しても、出来上がるのは使えないものばかりだ。

 極限まで魔力を抜いた純水から羽を作る方法も試した。時には昆虫の羽さえ使ってみた。血で羽を作る際に痛みだけを消す薬品、現状維持の魔術、妖精を人間にする魔術、妖精の体組織の増殖、様々なものを研究してできたのは、気まぐれな発作の痛みを軽減するだけの魔術のみ。

 彼女から採取した髪も血液も、無駄になってしまった。

 妖精に関する知識が足りない。

 いかに効率的に妖精を捕らえるか、負荷にどこまで耐えられるのか、そんな記述ばかりが目立った。内容はどれも眉を顰めるほど残酷か、すでに常識化している古いものだった。

 妖精のテレパシーを利用できれば他の妖精から聞き出せるかもしれないけれど、彼女は「もうやったんだけどね」と悲しげに首を振った。

 己の魔力を餌に妖精を数匹捕まえても、彼女が知る以上の情報は見込めなかった。

 これが神の意思だと思えてしまうほど、手も足も出ない完璧な挫折だった。

 

「……どうして……」


 多少傷ついた羽、切れた皮膚、そういったものはあんなにも簡単に治療できたのに。見かけも人間そのものなのに。何が違うというのだろう。


 ――ああ、きっと、僕が。


 彼女が言う魔王であったなら。


 ――こんな問題ですら、簡単に解決できたのかもしれない。


 未来の自分の姿を、こんな形で切望するとは。

 ルイは希う。

 そうだ、未来の自分からすれば、今は過去。今の自分は少し優秀なだけの魔術師に過ぎない。全魔術を修めし賢者と呼ぶにはまだ幼い、この身では。


 ――『(まおう)』も、このように苦悩したのでしょうか。


 大事な者が消失していく恐怖を背負い、世界を恨みながら、多くの魔術を生み出して。そうしてから、あのゲームは開始されるのだろう。

 ただ違うとするならば、その目標だろう。今の自分はエレノアを救うためにこうしているけれど、原作の自分は妹を生き返らせようとでもしたのだろうか?


 ――まあ、いい。結局は同じことです。


 ルイは傍らの時計を見て、深く息を吐きながら席を立った。


 妖精の羽脈は全身の魔管と繋がっている。それを絶たれて、彼女の体が弱体化した。擬似的な管を作っても、彼女の体には合わずに痛みを生む。

 ――そう思っていた。

 彼女の体に痛みなく羽を生やすか、代わりとなる魔管を通らせることを優先に考えてきた。

 けれど問題は違っていた。事態は、ルイが考える以上に深刻だったのだ。


『羽は命』


 おそらく羽は、魔力回路以上に特別な役目を担っていた。


 彼女は羽を失ってからも、ルイの血で問題なく人間サイズになれた。以降もそのままだ。

 体中に魔力が行き渡っている。つまり魔管断裂はそれほど深刻ではないし、ルイの魔力を溜め込めているのだ。

 それでもその身は、刻一刻と弱まり続けている。――本物の羽が無いからだ。


「……実際、彼女はもう」


 きっと、生きる力を失っている。魔力で九割を占める人外だから、ルイの魔力でお情けのように生き延びているだけだ。それも長くは続かない。

 血羽も結局、一時しのぎだ。

 そのためだけに、死ぬような苦痛を強いている。


 ――それでも、やるしかない。



 林檎の紅茶をトレーに乗せ、ルイは階段を上がる。

 寝室に入ると、うとうとと微睡むエレノアがいた。ベッドで寝転がったまま、開いた窓を眺めているように見えた。

 窓からは、もう夕日の赤色も見えなかった。いつのまにか夜になっていた。

 一日が過ぎるのは早いなと、秋になってからしみじみ感じ入るルイだった。


 紅茶はサイドテーブルに置いて、カンテラに火を灯して、窓を閉めた。そうしてエレノアは、やっと彼に向いた。

 力なく伸ばされた手をルイが握ると、彼女は安心して微笑んだ。


「お疲れなの?」

「ええ、少し。林檎の紅茶を淹れたので、どうですか?」

「……蜂蜜入ってるやつだね。飲む」

「相変わらず嗅覚は優れているようで」

「これくらい、人間にだってわかるでしょ」


 ルイはエレノアの背を支えて起き上がらせた。それだけでは安定しないから、彼女の肩を抱いて己に寄り掛からせる。彼女の体は冷たかった。軽かった。

 昔はこうして、よく血を与えてやっていた。

 今は血の代わりにカップを取った。彼女の口元に近づけて、少しずつ飲ませていく。あまり熱いものは食べられない妖精のために、微温く冷ましたものだ。


「……ルイのお茶は美味しいね」

「そうでしょう? 家のことで、これだけは君に負けない自信がありますよ」

「自画自賛……」


 一口一口、飲むたびに彼女の頬が緩んでいく。このひと時が、ルイにとっての休息だった。

 カップの中身が半分に減った時、ルイはそれを取り上げた。先と同じくサイドテーブルに置いて、彼女の腰に腕を回す。


「……ルイ?」

「もう半分は口直しにしましょう」


 先と変わらず、柔らかな調子でいられるように努めた。彼女を怖がらせてはいけないと。

 けれどその努力はもはや、無駄なことだとも解っている。


「時間です」


 月に一度。エレノアにとって拷問にも等しい時間はいつも、ルイのこの言葉で始まる。



 顔を強ばらせたエレノアは、すぐにやってきた血の匂いを感じ取ったらしい。そして「やだ」と訴える。

 彼女はこの『治療』に疲れてしまっていた。身を引き裂かれるような痛みを何度も与えられる、そんな苦行に耐えられるほど、エレノアの精神は強くなかった。

 彼女が怖がる。

 ルイの頭の中で、何かがびしびしと、砕かれていく。


「っ……い、や」

「飲みなさい。これで君の命は長らえる」

「ながらえなくて、いいよ」

「それは僕が許しません。もうすぐ君を治す薬だって出来上がりますから、それまでの辛抱です」


 薬ができるなんて嘘だ。本当は彼女に効く薬草も、成分すら解っていない。


「や……もう……やだ……」


 深海色の瞳に涙の膜が張っていく。以前の彼女には見られなかった、弱気な顔だ。

 ルイはそれを見て、傷をつけた指を一度引っ込めた。このようなことは今までも何回かあった。力ずくで飲ませる方法もある。

 彼は己の血を口に含むと、素早くエレノアの顔を固定し、口付けようと近づいた。常ならば甘いはずの行為ですら、彼女にとっては恐怖の対象だ。


「や、やだ、やだぁあああっ!」


 ルイから逃れようと振り回した彼女の手がカップに当たって、床に割れる。林檎の紅茶は無残に散った。

 彼は床の破片などには目もくれず、暴れ狂うエレノアをベッドに押し付けた。病的に細い両手首を纏めて固定した。手馴れていて、どこまでも冷静だった。


「ん、んぅっ、……や、嫌、いや、ぁ……っ」


 暴漢に襲われる女性のようだ。

 それでも二人は夫婦だから、二人共、悲しい顔をしていたのだった。


       *


 ――思ったよりも片付いている。


 スティラス宅に足を踏み入れたクレアは、意外そうに目を丸くした。

 片付いているというより、生活感がない。鍋や調理器具、家具類も全て揃っていて、けれどどこか寒々しい。これは季節柄ということもあるだろうけれど、この肌を舐めるような寒気はなんだろうと思った。

 以前も着た、薄いピンクの服が完全に浮いていた。羽織っているコートがなければ、全裸で敵陣に殴り込んでいるような気持ちになっただろう。


 ――ここはもっと、温かい所であったはずだ。


 暖炉に近づいていく。内部の炭に触れて、その指先を見てみた。

 白い埃が薄く付着していた。一年近くは使われていない。

 どういうことだろうか? クレアは考える。

 玄関口で声をかけても反応がなく、入ってみればこの様だ。日が沈んで間もないとはいえ、灯りの一つもないのは不自然ではないか。手燭が唯一の光源だった。

 出かけている? それとも二階だろうか? 首を傾げながら身を翻した――その時だった。


『や、やだ、やだぁあああっ!』


 ――ッ!?

 クレアはすぐさま駆け出した。

 あの声はエレノアだ。恋敵とはいえ、悲鳴を無視できない。

 ワンピースが捲れ上がるのも気にせず階段を駆け上がると、突き当たりの扉に目をつけた。あの扉の下から、カンテラの灯りがゆらりと漏れている。

 走ったせいで手燭の火は消えていた。それを放り投げ、クレアはあの部屋――ルイの寝室へ突入していく。

 目に入った光景に、クレアは唖然とした。


「何をしているッ!?」


 エレノアに馬乗りになったルイを、クレアは渾身の力で押し退けた。

 よろけてベッドから離れた彼は、クレアを「……君ですか」と一瞥した。意外そうな顔をして、すぐに無表情になる。


「お前が婦女子に暴行など……っ」

「暴行? ……やはりそう見えますか」


 寝台に押し付けられて泣き喚くエレノアは、どう見たって被害者だ。

 クレアは急いで彼女に寝具を被せ、厳しい目でルイを問い詰める。ルイはエレノアに視線を向けた。


「すぐに、わかりますよ」

「何だと……?」


 クレアは、エレノアを振り返る。

 被せた寝具はずり落ちていた。その背に生える赤い羽によって。


「な、んだ……あれは……っ」


 びきびきと耳障りな音を立てながら、それは成長していく。

 長閑な部屋を彩る真紅。

 クレアは血に慣れているのに、ここで感じる血臭は異様に甘い。吐き気さえ催すような甘さ。それでいて媚薬よりおぞましい生臭さに、クレアは嘔吐いた。


「醜いでしょう?」

「っ……う、」


 あれは異形だ。

 クレアも、エレノアが人ではないことを知っていた。

 けれど想像を軽く上回る異常な光景を、固唾を飲んで見ていた。

 細い体が不気味に痙攣する。「ひ、あ、ア、ァ、ぁ、……っあぁ」耳に痛いほど高くて掠れた、歪んだ車輪を回したような音。それが女の口から漏れているのがおかしかった。

 クレアは、エレノアの穏やかな表情しか見たことがない。シーツにしがみついてあんな雑音を漏らす生物だとは、露も知らない。

 口元を押さえて後ずさるクレアに、ルイは淡々と説明してくれる。


「妖精は羽がなければ生きられません。今はこうやって、僕の魔力で無理に繋ぎ止めているんです」

「それが何故こんな……、あんなにも苦しんでいるのに」

「元々妖精は、己以外の羽に適応しません。それに一度死にかけて、今も壊れつつある彼女の身には僕の魔力が大きすぎる。それらは彼女の身に負荷がかかり、拒絶される。……けれど他の者の魔力では羽の形は成さない。こうしなければ、とうに亡くなっていたでしょう」


 ――彼女を生かすためには、苦痛を与える他になかった。

 けれどそこまでしても、本来の羽を失った妖精は徐々に衰弱していく。

 その場しのぎの延命など、彼女が苦しむだけだ。それを理解していても手放すことなど考えられない――。


 感情は一切含まない声で展開されていく、クレアの常識外の話だった。

 エレノアを愛しているのではなかったのか。そう疑ってしまいそうなほどの、無表情。

 戦場の暑苦しい狂乱とは全く逆の、静寂の狂気。

 クレアの知らない世界だ。


「宮廷を辞して、半年も……ずっとこんなことを……?」

「半年……それだけしか経っていませんでしたか」


 関心無くぼやいた彼は「どこ?」と誘う声を拾って、口を閉じた。

 喉奥から絞り出すように喘いでいたエレノアが、「ルイ、どこ?」と呼びながらベッドの外へ手を伸ばす。その指先は、求めているはずの彼でなく、真逆の方を向いていた。


「あ……っ」


 身を乗り出して体勢を崩したエレノアは、ベッドの下へ打ち付けられそうになった。

 咄嗟に動こうとしたクレアを、ルイが止めた。風を駆使してエレノアを受け止め、足早に駆け寄って、ここにいますよと宥める。汗で張り付いた彼女の前髪を退けて、自分の存在を教えた。


「ぁ、ルイ、るい、やだ、どこも、行かないで、怖い、から」

「はい。君が眠るまで、こうしていますから」


 立ち竦んで、ただ自分たちを見つめるクレアに、ルイはうっそりと微笑んでみせた。


「彼女の目はね、もう見えていないんですよ」


       *


「君には関係のないことです」

「そんなわけがあるか!」


 スティラス家の暗いリビングに、ルイとクレアの声が響く。

 片方は態度で壁を築く。それを、もう片方が突き崩そうとしていた。


「私は何も知らない、何も聞かされていない。そのままお前がいなくなって、何を納得しろと? 何も知らなければ、何も守れはしないのに!」

「知らなくても守れる物はあるのでは? むしろ君は、知らないままでいた方が良いことの方が多い気がしますけれど」


 それより二階のエレノアが起きてしまうので、できるだけお静かに。ルイはクレアを窘める。


「エレノアは、私が……、街にいた私の部下が守れなかった者だ。あの時、逃げる女を二人見た者がいる。お前の妹だって。守るべき私が守れなかった!」

「それを言うなら僕もですね」

「否定はしない。だが私はお前と違って、この件をあまりにも知らない」

「…………」

「どうせ同じと言うなら、知らないよりは知っていたい。あの日、何が起きていた?」


 宮廷魔術師筆頭を、未来の栄光を辞すほどの、何があったのか。

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