妖精と砂の時計
虫も鳴かない夜更けのこと。
「母上、父上、祖母様、祖父様、――ついでに始祖様にも、心からお悔やみ申し上げておきましょうか」
スティラス家の研究室で、ルイは歌うように嘯いた。
彼の手には二つの資料が抱かれていた。一つは、乱雑に穴を開けられ麻紐を通され、冊子として纏められた紙束。そしてもう一つは先々代の日記だった。
机の上にはランタンがある。それが部屋中の壁に備え付けられた棚を曖昧に照らし、赤や青、黄色、橙、様々に透き通った薬品を照らした。
「残念でしたね。ご愁傷様です」
机の上に置かれた広い陶器の皿に、彼は一冊の紙束をばさりと置いた。その上に日記帳を重ねて置く。
日記帳は、エレノアを捕まえた時に読んでいた思い出の品だ。あの時このページを開いたまま寝てしまったことを思い出せば、今でも冷やりとする。この内容は、彼女に見せられるものではない。
「『火を』」
彼が日記帳を撫でる。触れた部分から出現した火が、日記帳も紙束も黒く焦がした。
魔術師にとって、研究の資料は生きた痕跡だ。それをわかっていながら、宮廷魔術師筆頭は一族最大の研究成果に手をかけた。この惨い所業を、狭い一室でお粗末に終わらせた。
――日記といえば。
階段を上がりながら、彼は思い出した。たしかゲームで廃墟となっている王都グレノールにて、「とある宮廷魔術師の家」で日記のようなものが見つかるのだ。これがおそらくルイのもので――とかいう、少し面倒くさいキーアイテムが存在している。エレノアがそのようなことを言っていた。
今のルイは日記などつけていない。そんなものを書く暇があったら魔術の資料を書いている。それに必ずしもゲームに倣う必要はないわけだし――と考えたけれど。
「……ここで敢えて書いてみるというのも……」
面白そうですね、と思ってしまったルイだった。
この家に手頃な日記帳かメモ帳のようなものはないかと考えながら、彼は寝室へ進む。
病床のエレノアの様子は、何度見ても見すぎるということはない。
寝室の扉に手をかけたところで、――その手を止めた。
『っひ、……く』
部屋の中で彼女が泣いていた。ひく、と喉を引きつらせた呼吸は、くぐもっていてよく聞こえない。口に手でも当てて、声が漏れないようにしている。
エレノアが独りきりで肩を震わせる場面に直面したのは初めてだ。
彼女が泣くのを見たのはつい最近で、彼女がルミーナの死を知った時だ。けれどその日はルイにも余裕はなく、一緒になって縋り合った。
悔しいことにエレノアには、あくまでもルイの育ての親という自覚があるので、ルイが弱っている時に子供扱いして慰めに走る状況が多いのである。――ルイが悪夢と現実の区別がつかなくなった時期にエレノアを涙目にさせたことはあるが、この時もルイ自身が冷静とは言い難い状態だったので除外することにして。
彼女がここまでわかりやすく弱ることがなかった。
だからつまり、今部屋の中で彼女が泣いているという現状は、不謹慎だが新鮮だ。
ここでそっとしておくのが優しさというものなのだろうけれど。
――敢えて背くのが自分だ。
レバーに手をかけた体勢で止まっていたルイは、躊躇なく扉を開けてしまう。
びくりと肩を跳ねさせて涙を拭うエレノアだけれど、それで誤魔化されない。
ベッド横にルイが仁王立ちになって、エレノアを見下した。『見下ろす』ではないあたりに、ルイの不満が表れている。
「僕は君の前で二度泣きました。君もあと一度は僕の前で泣くべきです」
「どういう理屈」
涙も引っ込みそうな物言いだ。
宮廷魔術師筆頭とかいう、いかにも頭の良さそうな肩書きを引っ提げた人物の発言とは思えない。
「だから、ここで思う存分泣けばいいんですよ。それでとりあえずは満足です」
「いじめっこか!」
「泣きなさい」
「それルイの攻撃ボイスだね。レアだね。こんなところで聞きたくなかったね」
「今なら必殺技ボイスも付いてきますけど」
「やだ怖い。そんなことしても泣かないし」
「へえ?」
エレノアはぷいっと顔を背ける。その小さな手には力が篭もり、寝具を握って皺を作る。
その様子を見守るルイは、自分も知らないうちに雰囲気を和らげていた。ふ、と細まった月光色の瞳は、意固地になっている彼女の心が解けるのを待っていた。
一度溢れさせてしまえば楽になれる。
この妖精は八歳の子供にそれを教えてくれた。
「泣かないよ」
「…………」
「……絶対、泣かない、から」
「…………」
「なか、ない、て、……言って……っ」
「はいはい、いい子いい子」
ルイは、彼女の涙が一滴落ちたのを合図に両腕を伸ばした。彼女を抱きしめ、薄い背を撫でる。
「ルミーナのことですか? 人間のことですか? 羽がないことですか? いっそ全部に泣いてしまえばいいんですよ」
エレノアが「あのね」と震える声で切り出すから、ルイは「はい」と答える。
「もう全部、やだよ。お仕事できないし。ご飯も作れない、洗濯もできない、掃除もできないどころか、迷惑かけてる。なんでここにいるのか、わかんないよ」
それは弱音だった。
「いろいろ、ありすぎてね。ルミーナちゃんのことだって、まだ……私……っ」
とつとつと語られる。細く揺れる声は、ルイにとっては可愛らしく、甘い。
『大人』の彼女はもう要らない。彼女がこうして弱くいられるのはルイの傍だけだ。残酷だけれど愛しい事実だった。妹がいなくなって、それでも彼がなんとかやっていけるのは、エレノアが頼ってくれるからだ。
「ルイは強いね。私はまだだめなのに」
「強いなんてとんでもない。僕がなんとかしなければ、君に苦労をかけるでしょう?」
「っ……やっぱり、家事とか……」
「そういうことでなく」
「でも、……っ」
ルイの服が大量の水分で湿っていて、それに気づいて恥を感じたエレノアはそっと顔を背けた。
ようやく対等になれましたか、と呟いた彼の声も聞こえていないようだ。涙を止めようと目を擦り始める彼女の腕を、ルイがやんわり止めた。
「これでもね、お世話してもらったことに感謝していないわけではないんですよ。今は……家族孝行、のような期間だとでも思ってくれたらいいです。ただやはり母親というには違う気がしますので――」
己の懐を探った。
上着の裏から取り出したそれを、エレノアの手に握らせる。
「あげます」
「……これ」
「砂時計ですが、お気に召しませんでしたか?」
「いやそうじゃなく……えっ……えっ?」
女性の親指ほどの大きさで、首から下げられるように金の細い鎖をつけた砂時計だ。
エレノアはおそるおそる、目の高さに持っていく。その小さな砂時計をひっくり返してみれば、極端にくびれた硝子の筒の中で細かな砂がさらさらと流れた。
『ルイ・スティラスの砂時計』。
ストーリー上の砂時計はもう少し大きく、素朴な茶色の砂で、細工は木彫りだった。けれど今エレノアの手にあるものは、砂が綺麗な青色だ。それに飾り枠が銀色だ。銀が苦手な妖精用に、白金を使っている。ヒロインの色ではなく、エレノアの色。
「……綺麗、だね」
彼女は一分も測れないそれを、幾度かひっくり返して眺めた。
初めて玩具をもらった子供のような、幼い表情。それはルイが思っていた以上に心をくすぐるものだった。
「気に入っていただけたようで」
エレノアは消え入りそうな声で「ぁ、……あり、がと……」を言った。
面映ゆいのか、ルイの方を見ない。
「も、もうちょっと、こう、それなりに空気感って大事じゃないかなって思うの。今ゲーム内だったらものすごく重要なイベントだよ」
「たったいま新婚になったのに早くも価値観の相違ですか?」
「だって、ストーリー上、これを渡すのってたしか……雪の日のはずで……」
「今は雪降らないのでパスで」
「おい攻略キャラ」
なんでこんなに大事な時に、こんなに変な空気にならなければいけないのか!
エレノアはぶすくれてルイに訴える。それさえも面白い。
「空気とか」
「……うん?」
「シチュエーション、時間帯、場所……どれも、僕にとってはさして重要ではありません。魔術の発動に必要な場所の空気なら読みますけれど。男女間のやりとりも、場面を計算するのはそれなりに大事かとは思いますが、そうしなければ受け取っていただけないほど……伝わっていませんでしたか」
エレノアの頬に手を当てた。
「これでも真剣なんですよ?」
そのまま手を耳の後ろまで滑らせ、髪の中にまで侵入させていく。軽く爪を立てて梳くように、探るように。エレノアがこの雰囲気に弱いことをルイは知っているから、ここぞとばかりに攻める心積もりだ。
唇を寄せる。
「ん……」
離せそうとすると、なんと彼女の方から追ってきた。その細やかな迎撃に、ルイは一瞬固まった。
「珍しいですね。一度目なのに」
エレノアは顔を赤らめてルイを見ていた。恥ずかしがりの彼女は恋人のふれあいに慣れていなくて、初めは身を固くする。こういった蕩けた顔で応えてくれるのは、何度目かの深い口付けの後と決まっていたのだけれど。
「これ、久しぶりな気がするから。最近は痛いことばっかりだったから、痛くないこと、優しくされるの、気持ちいいなって」
ふにゃ、と頬を緩めてそんなことを言うエレノア。真顔で沈黙したルイに気づいて、自分の発言を「ま、待って! 今のなし!」と取り消しながらベッドに潜り込んでしまった。
「い、今すっごく泣いてたから、汚いよね、ただでさえ、綺麗な人に顔向けできないような感じだったのに、こんな、ごめんなさい」
「いや今のは危ないです……。これが攻略キャラクターの本気ですか。すごいですね。効果は抜群です」
「そんな危ないこと言ったかな? ごめん、わざとじゃなくてね」
「計算ではなくてあの破壊力……なんと恐ろしい……」
「なんだか恥ずかしいこと言われてるのはわかったよ……っ」
ルイはこんもりと膨らんだベッド上の塊をどうしてやろうかと考えたけれど、そう時間も経たないうちに彼女自ら顔を出した。
目で何かを訴えるエレノアは、まるで小動物だ。耳は赤く、涙が張っている瞳は誘っているようにも見えた。
言葉が欲しいのだろう。
それなら自分らしく、そして確固たる言葉をあげようと、ルイは努めて優しく求婚した。
「君の名をエレノア・スティラスとします。いいですね?」
遠回しだけれど直接的で、拒否権など認めない。ルイの屈折した性格を何の捻りもなく表したような本心からの言葉が、彼女には必要だったのだ。
「……はい」
彼女は目を細めた。ふにゃり。とても幸せそうに。




